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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

おん

 恩恵。 (法事讃 P.572)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

おん 恩

めぐみ。
① すべてのものが因縁によってなりたっているから、互いにめぐみあっており、その恩を感謝しなければならないとする。恩に世間一般のものと、さとりに導くものとがある。心地観経巻二には、父母・衆生・国王・三法(仏法僧)の四恩を説き、父母に孝養することは仏を供養する功徳に等しいとする。また正法念処経巻六一には、母・父・如来・説法法師の四恩を説き、父母を正しい教えに導き入れること、如来の教えを信じること、教えを伝えるものを供養することが報恩の道であるとする。→四恩
恩愛(おん-ない)というときは、衆生は父母や妻子などと互いに恩を感じあい愛に溺れて、そのためにこの世に束縛されて迷いを離れにくいのであるが、この衆生を束縛する感情をいう。→恩愛 (仏教学辞典)

インクルード ノート
  • 現代では「恩」という意味が非常に判りにくくなっている。浄土真宗でいう称名報恩の「恩」という思想も人の間での相対取引(give and take)のように思われている面もある。先の敗戦は文化の敗北でもあった。文化の敗北とはそれまでの文化を捨て去ることでもある。そして「たらいの水と一緒に赤子を流す」ごとく残すべき思想も捨てさられたのであった。仏教の恩という文化も弊履のごとく捨てさられたのであったといえるだろう。この意を稲城選恵和上の著述から仏教の恩について少しく窺ってみる。(リンクや脚注は利便性を考え林遊が付した。)
六、他力の生活  稲城選恵和上著「平生業成」より。

 他力の生活という場合は信心の益をあらわす現生十種の益と「化身土巻」真門釈との比較をすることによって明瞭に知られる。他力の法に遇う生活を一言にしてつくせば御恩報謝の生活といわれる。蓮師の「御文章」にも「信心決定」の上からは「そのうへの称名は」とか「そののちの称名」は「御恩報謝とこころうべきなり」とある。称名の報恩は救われた生活の内容を示すものといわれる。

 元来、現生十種の益や「浄土和讃」の「現世利益和讃」等の御利益は存覚師の「持名妙」(持名鈔 P.1013)に引用する「蘇婆呼童子請問経」(藁幹喩経)─蜜教部─にある如く、米と藁の関係にある。御利益は米に対する藁の如く、自ら求めなくても自然に得られるのである。この米と藁の解釈は仏教一般に一貫する御利益のうけとり方でもある。
しかもこの米の内容といわれるのが浄土真宗では念仏や信心となる。それ故、「信巻」の現生十種の益の上では「金剛の真心を獲得するものは」(信巻 P.251)という他力の信心獲得の米が出されている。また「現世利益和讃」(浄土 P.573)でも「南無阿弥陀仏をとなふれば」という念仏の米が前句にあり、更に「現世利益和讃」の前には浄土三部経の和讃が三十六首出されている。それ故、浄土真宗でいう御利益は多くの宗教にみられるように、自ら請求しない限り与えられない利益とは質的に異なる「求めずして自然に得る」(*)という「蘇婆呼童子請問経」にある如く、他力の法に遇うことによって展開される益である。この現生十種の益の中に第八は知恩報徳の益が出ている。しかるに真門釈の結嘆の文には

 まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(往生礼讃 P.660)といへり。(元漢文)(化巻 P.412で引文)

とあり、仏恩報ずる心がないといわれる。それ故、「誡疑讃」にも

「仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし」 (正像 P.610)

とあり、「浄土和讃」の冠頭讃二首にも第一首の十八願の内容を表わす和讃には「仏恩報ずるおもひあり」(浄土 P.555)とあるに反し、二十願意をあらわす次の和讃には「むなしくすぐとそときたまふ」とある。 また、「真仏土巻」の対弁真仮の文によると、

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(元漢文) (真巻 P.373) 

とあり、他力の法にあうことはそのまま仏恩報ずる報恩の生活の展開となる。逆に自力の世界には通じないことに注意すべきである。この報恩の生活は宗祖聖人だけのものでなく、仏教一般の上に一貫する生活道徳ともいわれるのである。既に「心地観経」報恩品の四恩をはじめ、「大論」等、多くの経論に存し、三国の高僧の上でも屡々いわれているのである。日蓮上人も「報恩抄」を選述されている。それ故、恩の生活は単なる浄土真宗のみならず、仏教一般に通ずるのである。
しかるにわが国では戦後民主々義をおしつけられ、上下秩序の竪の道義から横の道義に転換したのである。男女平等といわれる如く、すべてを横の上にみることは一面甚だ重要な仏教の本義にも通ずるのであるが、従来の竪の道義に密着した恩の思想は全く封建的な服従の道義の如く思われ、過去の遣物として葬られているのである。ここに仏教における恩の本義を明らかにする必要が存する。

 従来恩といえば儒教道徳と混同されたものを一般には考えられている。儒教道徳の特色は竪の道徳である。忠孝ということによっても明らかである。忠は君から臣に向った場合、臣の側から一方的にいう場合であり、君の側から臣に向って忠ということはあり得ない。同様に孝も親から子に向う場合、子から親に向う一方通行の道徳である。ここに竪の道徳なることが明らかに知られる。更に主従、師弟の関係も等しく竪の上下秩序の上に成立する道義である。恩はこのような上下秩序の竪の道義に直接しているのである。

 君の恩、親の恩、主人の恩、師恩等と用いられ、逆に子の恩、臣の恩ということは用いられない。全く一方通行の竪の道義である。このように儒教道徳は竪の道義が中心の如く思われる。それ故、仁と慈悲は「観経」には「行世仁慈」(*)という言葉も存するが本質的に異なるようである。仁は朱子学においては人と人との間における愛情、道義といわれるが、上位のものが下位のものに対して示すものといわれる。─但し陽明学はこれを否定しているといわれる─。このような竪の解釈となれば、仏教の平等の思想と通じないものが考えられる。従来用いられている恩は正しくこの竪の道義に直接するものである。それ故、上位から下位に向い、一方的におしつける道義なる故に、岩波書店発行の戦後の「倫理学辞典」では服従の道徳といっている。わが国では徳川二百六十年から今次の敗戦まで、約三百年以上この道義によったものである。明治天皇の教育勅語もこの儒教道徳をバッグボーンとしたものである。特に終戦までの小学校の教科書はすべて主従の竪の立場にたつ忠臣蔵を謳歌する思想に徹底しているように思われる。忠臣蔵の道義を是認することは仏教では許されない。それは仇討ちという人殺しを認めるからである。この逆は法然上人の出家動機によって明らかにその相違が知られる。[1]
それ故、仏教でいう恩と儒教でいわれるものとは通ずる面と、通じないものが存する。「心地観経」の四恩といわれるものの中にも、父母の恩、国王の恩は通じても、三宝や衆生の恩は儒教にはないようである。この三宝や衆生の恩は竪横を包摂するものである。それは現代の民主々義の道義に矛盾するものではない。

 元来、恩という原語はkrta[2]といわれ、恩愛の恩のtrsnaとは異なる。恩愛の恩は煩悩である。krtaはなされというkriの週去分詞といわれるが、恰も五逆罪のはじめの二罪を恩田に反する(信巻 P.304)といわれる如く、自らは両親によって作られた存在を意味する。ここに自らの上に自らの成立根拠の存しない、自己否定をあらわす意味といわれる。若し日本語の適訳を求めると俗にいわれる「おかげさま」ということであろう。それ故、称名が報恩ということは信海流出の称名の称は宗祖はハカリと訓まれ (一多 P.694)、ハカリはかけた重量のそのままがあらわれている、衆生の上に出た称名はそのまま名号法の全現であり、「つれていくぞの弥陀の呼び声」が「われとなえ、われきくなれど」という我の口頭から全現している相である。
ここに称名は称えるもののまま遇う世界といわれる。この称名の前には自らの無限否定を場とする。それは真実に背を向けている自己の発見ともいわれる。宗祖の生涯の恥という世界もこのような自己の無限否定を場とするからである。この自己否定を場とすることは汝の人格を認める場の展開となる。そこに真実の人格の形成といわれる世界の誕生となる。

{以下略}


  1. 『法然上人行状絵図』には夜討にあって死に瀕している父の時国が幼い法然聖人に、
     時国ふかき疵をかうぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児にむかひていはく、汝さらに会稽の耻をおもひ、敵人をうらむる事なかれ、これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばば、そのあだ世世につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれいゑを出で我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求にはといひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。
    と示されたとある。→『法然上人行状絵図』
    ブッダの真理のことば(ダンマパダ)には、
    3、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
    4、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
    5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。 怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
    とあるのも同意であろう。
  2. 梵語 クルタ(krta)。他者から自分になされた恵みの意。


外部リンク
コトバンクでの恩 仏教での恩と日本の封建社会の主従関係を支えた服従の道徳としての恩との違いについて参考になる。