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賢善精進

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

けんぜんしょうじん

 かしこく、善く、つとめはげむこと。正しい行いの義。親鸞聖人は「賢善精進の相」を、「賢者や善人らしくつとめ励むすがた」の意とされ、内心が虚仮(こけ)であるにもかかわらず、外面に賢善精進の相を現して自己をかざることを誡められている。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

けんぜんしょうじん 賢善精進 

かしこく善いふるまいにつとめはげむこと。正しい行いの意。「信巻」に引用される「散善義」の文には

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を(いだ)いて」(註 217)

とあり、親鸞は 「賢善精進の相」 を「賢者や善人らしくつとめ励むすがた」 の意とし、内心が虚仮であるにもかかわらず、外面に賢善精進の相を現わして自己をかざることを誡めている。なお、『愚禿鈔』に

「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(註 501)

とあるのは、「散善義」とその文を解釈した『選択集』の

「外は内に対する(ことば)なり。いはく外相と内心と不調の意なり。すなはちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対する言なり」(七祖 1248)

の文によったものである。 →至誠心。(浄土真宗辞典)

御開山が最も嫌われたのは偽善であった。それは自らの内に真実は無いにもかかわらず往生浄土の為に本願に選択された念仏(なんまんだぶ)以外の行(行為)を行じようとする偽善を自力として廃捨するのであった。

かならず…懐いて
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引