かならず…懐いて

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かならず…いだいて

 通常は「かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読む。(信巻 P.216)

 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


かならず…得ざれを参照。

この訓点の付け方は法然聖人のご教授である。→三心料簡および御法語を参照

善導大師の訓点:

善導大師の自得では、至誠心とは自らの真実心を顕すことであった。強烈な懴悔行を修された善導大師はまさに真実の人であった。

欲明 一切衆生身口意業所修解行 必須真実心中作。
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。
不得外現賢善精進之相 内懐虚仮。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
貪瞋邪偽奸詐百端 悪性難侵 事同蛇蝎 雖起三業 名為雑毒之善 亦名虚仮之行。
貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。
不名真実業也。
真実の業と名づけず。
若作如此 安心起行者 縦使苦励身心 日夜十二時 急走急作 如炙頭燃者 衆名雑毒之善。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
欲回此雑毒之行 求生彼仏浄土者 此必不可也。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
何以故 正由彼阿弥陀仏 因中行菩薩行時 乃至一念一刹那 三業所修 皆是真実心中作 凡所施為趣求 亦皆真実。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり[1]。(散善義 P.455)
御開山の訓点:

自らに真実は無いことを真実とされた御開山にとっての真実とは、因位の阿弥陀如来の至誠心こそが真実であった。何故なら自らに真実が無いことが仏陀のさとりへの根本的な障害であるが故に『浄土論』のあらゆる衆生を済度するという他力の「本願力回向」の教説によって、善導大師の釈文を読み切って読み替えられたのであろう。

欲明 一切衆生身口意業所修解行 必須真実心中作。
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。
不得外現賢善精進之相 内懐虚仮 貪瞋邪偽奸詐百端 悪性難侵 事同蛇蝎。
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。
雖起三業 名為雑毒之善 亦名虚仮之行 不名真実業也。
三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
若作如此安心起行者 縦使苦励身心 日夜十二時 急走急作如炙頭燃者 衆名雑毒之善。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。
欲回此雑毒之行 求生彼仏浄土者 此必不可也。
この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
何以故 正由彼阿弥陀仏 因中行菩薩行時 乃至一念一刹那 三業所修 皆是真実心中作。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由つてなり。
凡所施為趣求 亦皆真実。
おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。(信巻 P.217)
  1. 真実の人であった善導大師にとっての至誠心とは、阿弥陀仏が因中に菩薩の行を行じた法蔵菩薩と同じ至誠心でなければならないとされた。 さすが天才の法然聖人も『観経疏』を読まれ「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり」(『醍醐本法然上人伝記』善導教学との出あい) といわれるほど善導大師の至誠心釈は難解であった。
    この意を深信釈の第一釈の、罪悪生死の凡夫に回施する至誠心であると示唆されたのは法然聖人であり(『法然教学の研究』)、この意を承け本願力回向の二種回向として展開されたのが御開山であった。