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雪山の大士

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

せっさんのだいじ

 『涅槃経(ねはんぎょう)』 に説かれる釈尊の前生。 雪山童子ともいう。 帝釈天(たいしゃくてん)がこの童子を試そうとして羅刹(らせつ)に身を変え、「無常偈」 (雪山偈) の前二句を唱えたところ、童子は後半の二句を聞くために自らの身を投げて羅刹に与えたという。 (要集 P.849要集 P.1167)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。

「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。

なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。

しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われている。(諸行無常偈