操作

「三恒河沙の諸仏」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

5行目: 5行目:
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
元来、法を聞けるのは三恒河沙の諸仏の元でお育てを受けた為であるというのが『安楽集』の意である。それを逆転してそのようなお育てにあいながら何故に今まで煩悩具足の凡夫でいるのかと自力の菩提心を否定されているところ。
 
  
T0374_.12.0398b29:
 
  
迦葉菩薩白佛言。世尊。如來滅後四十年中是大乘典大涅槃經於閻浮提廣行流布。過是已後沒於地者。却後久近復當還出
+
法を聞解できるのは、三恒河沙の諸仏の元でお育てを受けた為であるというのが『安楽集』の意である。『唯信鈔文意』では、
  
佛言。善男子。若我正法餘八十年前四十年。是經復當於閻浮提雨大法雨
+
:「おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。」
 +
と、お育てを感佩しておられる。しかしまた、それほどの時間がかかったということは、自力に囚われて本願念仏の教えを聞かず、雑行を修し自力の菩提心に固執していたからであるとされる。
 +
ご和讃では、『唯信鈔文意』と違い、そのような長い間、煩悩具足の凡夫として流転したのは自力であったからだとし、すみやかに本願である阿弥陀如来の菩提心に依るべきだとされている。
  
迦葉菩薩復白佛言。世尊。如是經典正法滅時正戒毀時。非法増長時無如法衆生時。誰能聽受奉持讀誦。令其通利供養恭敬書寫 解説唯願如來。憐愍衆生分別廣説令諸菩薩聞已受持。持已即得不退阿耨多羅三藐三菩提心
+
:三恒河沙の諸仏の
 +
: 出世のみもとにありしとき
 +
: 大菩提心おこせども
 +
: 自力かなはで流転せり
  
爾時佛讃迦葉。善哉善哉。善男子。汝今善能
+
『涅槃経』の三恒河沙の部分の私訳。ノートに漢文あり。<br />
問如是義。善男子。若有衆生於熈連河沙等 諸佛所發菩提心。乃能於是惡世受持如是經典不生誹謗。
+
  
善男子。若有能於一恒河沙等諸佛世尊發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法愛樂是典。不能爲人分別廣説。
+
若有衆生於三恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷雖爲他説未解深義。
 
+
善男子。若有衆生於二恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。正解信樂受持讀誦亦不能爲他人廣説。
+
 
+
;若有衆生於三恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷雖爲他説未解深義。
+
 
:もし衆生、三恒河沙等の佛の所において、菩提心を發すこと有れば、しかして後にすなわちよく惡世中において、この法を謗ぜず、經卷を受持し讀誦し書寫して、他のために説くといへども、いまだ深義を解らず。
 
:もし衆生、三恒河沙等の佛の所において、菩提心を發すこと有れば、しかして後にすなわちよく惡世中において、この法を謗ぜず、經卷を受持し讀誦し書寫して、他のために説くといへども、いまだ深義を解らず。
若有衆生於四恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷爲他廣説十六分中一分之義。雖復演説亦不具足。
+
三恒河沙等の数の仏の所(みまえ)で菩提心を発して修行してきても、なお仏法の奥深い義理は解からないということ。
 
+
若有衆生於五恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷廣爲人説十六分中八分之義。
+
 
+
若有衆生於六恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷爲他廣説十六分中十二分義。
+
 
+
若有衆生於七恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷爲他廣説十六分中十四分義。
+
 
+
若有衆生於八恒河沙等佛所發菩提心。然後乃於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷亦勸他人令得書寫。自能聽受復勸他人令得聽受讀誦通利。擁護堅持憐愍世間諸衆生故供養是經。
+
 
+
亦勸他人令其供養恭敬尊重讀誦禮拜亦復如是。具足能解盡其義味。所謂如來常住不變畢竟安樂。廣説衆生悉有佛性。善知如來所有法藏。供養如是諸佛等已。建立如是無上正法受持擁護。若有始發阿耨多羅三藐三菩提心。當知是人未來之世必能建立如是正法受持擁護。是故汝今不應不知未來世中護法之人。何以故。是發心者於未來世必能護持無上正法。
+
 
+
善男子。有惡比丘聞我涅槃不生憂愁。今日如來入般涅槃何期快哉。如來在世遮我等利 今入般涅槃誰復當有遮奪我者。若無遮奪我則還得如來利養。如來在世禁戒嚴峻今入涅槃悉當放捨。所受袈裟本爲法式今當廢壞如木頭幡。如是等人誹謗拒逆是大乘經。
+

2012年5月10日 (木) 10:07時点における版

さんごうがしゃのしょぶつ

 恒河沙を三倍したほどの数の諸仏。『安楽集』(上)所引の『涅槃経』の文(註釈版聖典七祖篇187頁11行以下)によっていう。(正像 P.603, 唯文 P.713)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


法を聞解できるのは、三恒河沙の諸仏の元でお育てを受けた為であるというのが『安楽集』の意である。『唯信鈔文意』では、

「おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。」

と、お育てを感佩しておられる。しかしまた、それほどの時間がかかったということは、自力に囚われて本願念仏の教えを聞かず、雑行を修し自力の菩提心に固執していたからであるとされる。 ご和讃では、『唯信鈔文意』と違い、そのような長い間、煩悩具足の凡夫として流転したのは自力であったからだとし、すみやかに本願である阿弥陀如来の菩提心に依るべきだとされている。

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり

『涅槃経』の三恒河沙の部分の私訳。ノートに漢文あり。

若有衆生於三恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷雖爲他説未解深義。

もし衆生、三恒河沙等の佛の所において、菩提心を發すこと有れば、しかして後にすなわちよく惡世中において、この法を謗ぜず、經卷を受持し讀誦し書寫して、他のために説くといへども、いまだ深義を解らず。

三恒河沙等の数の仏の所(みまえ)で菩提心を発して修行してきても、なお仏法の奥深い義理は解からないということ。