「聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。<br /> | とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。<br /> | ||
− | 「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の発こす菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願) | + | 「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の発こす菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願)であり、阿弥陀如来の智慧と慈悲の仏心であるされたのである。これが私においては回向された[[願作仏心]]であり、「還相の利益は利他の正意を顕すなり」([[証巻#P--335|証巻 P.335]])の還相の[[度衆生心]] であるとされた。浄土真宗の[[横超]]の[[菩提心]]とは、私が発起するのではなく阿弥陀如来の菩提心に包摂されていることをいうのである。この包摂されている意味において「もろもろの如来と等し」とされたのである。本願を受容した念仏の信心の行者は、諸仏と等しいとされるのであり、これが現生[[正定聚]]説の根拠の一でもあった。<br /> |
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:大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 ([[信巻本#P--237|信巻 P.237]])で引文 | :大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 ([[信巻本#P--237|信巻 P.237]])で引文 | ||
からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。<br /> | からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。<br /> | ||
− | + | 前掲の和讃や「行巻」「信巻」「化巻」で『涅槃経』『華厳経』を続けて引文(連引)されておられる意を窺うと、釈尊の最初の説法とされる『華厳経』と最後の説法であるとされる『涅槃経』を挙げることによって、釈尊の説かれた全仏教を、[[誓願一仏乗]]([[行巻#no84|行巻p195]])に総摂するという意図もあったのであろう。「御消息」第一通で「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」([[消息上#P--737|消息P.737]])として「大乗のなかの至極なり」とされた所以である。<br /> | |
+ | なお、「信巻」と「真仏土巻」で長々と『涅槃経』を引文されておられる意も、もう少し考察されて然るべきだと思ふていたりする。 | ||
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2017年5月4日 (木) 21:33時点における版
もんしほうかんぎ しんじんむぎしゃ そくじょうむじょうどう よしょにょらいとう
「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻訓) (消息 P.777)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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菩提心を説く華厳経』「入法界品」(晋訳)にある文。『教行証文類』(信巻 P.237)で引文されておられる。
通常は、
聞此法歡喜 信心無疑者 - この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、
速成無上道 與諸如來等 - すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。
と読むのだが、御開山は、
- 聞此法歡喜 信心無疑者
- この法を聞きて信心を歓喜して、疑なき者は、
- 速成無上道 與諸如來等
- すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。
と訓まれ、如来から回向された信心を歓喜する「信心歓喜」の意に転じられた。これは本願成就文に、
諸有衆生 、聞其名号 、信心歓喜 、乃至一念 。至心廻向 。- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。 (大経 P.41)
とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。
「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の発こす菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願)であり、阿弥陀如来の智慧と慈悲の仏心であるされたのである。これが私においては回向された願作仏心であり、「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335)の還相の度衆生心 であるとされた。浄土真宗の横超の菩提心とは、私が発起するのではなく阿弥陀如来の菩提心に包摂されていることをいうのである。この包摂されている意味において「もろもろの如来と等し」とされたのである。本願を受容した念仏の信心の行者は、諸仏と等しいとされるのであり、これが現生正定聚説の根拠の一でもあった。
この意を「諸経和讃」の以下の和讃の前半で、
- (94)
- 信心よろこぶそのひとを
- 如来とひとしとときたまふ
- 大信心は仏性なり
- 仏性すなはち如来なり (*)
と、「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ」と和讃されたのであった。 なお、句の後半は『涅槃経』の、
- 大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 (信巻 P.237)で引文
からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。
前掲の和讃や「行巻」「信巻」「化巻」で『涅槃経』『華厳経』を続けて引文(連引)されておられる意を窺うと、釈尊の最初の説法とされる『華厳経』と最後の説法であるとされる『涅槃経』を挙げることによって、釈尊の説かれた全仏教を、誓願一仏乗(行巻p195)に総摂するという意図もあったのであろう。「御消息」第一通で「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息P.737)として「大乗のなかの至極なり」とされた所以である。
なお、「信巻」と「真仏土巻」で長々と『涅槃経』を引文されておられる意も、もう少し考察されて然るべきだと思ふていたりする。