「仰信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | これに対し、古くから浄土真宗では<kana>仰信(ごうしん)</kana> | + | これに対し、古くから浄土真宗では<kana>仰信(ごうしん)</kana>ということがいわれてきた。浄土真宗の信は、私が信ずるのではなく、「阿弥陀仏の信」を仰いで受動的に聞信するからである。<br /> |
− | + | 信仰という語は「仰いで信ずる」「信じて仰ぐ」と訓ずるように、信じるも仰ぐも、私を主体とする動作をあらわす動詞である。この信仰に対して、仰信とは「信を仰ぐ」として、信を動詞ではなく阿弥陀仏の他力の信を仰ぐから仰信というのである。<br /> | |
− | これを、先人は「信は<kana>仏辺(ぶっぺん)</kana> | + | これを、先人は「信は<kana>仏辺(ぶっぺん)</kana>に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれていた。信心は自分の心の中にさがすのではない。「必ず救う」とおおせの[[本願招喚の勅命]]を聞きいれて、阿弥陀仏の信心のたしかさを仰ぐのである。そして阿弥陀仏の慈悲は、わが身の煩悩罪障の中に味わうというのである。他力の本願は、こおようなあさましい私のためであったかと、 |
:「 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」([[歎異抄#P--837|歎異抄 P.837]]) | :「 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」([[歎異抄#P--837|歎異抄 P.837]]) | ||
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これを逆にして信を自分の心中に探し、慈悲を阿弥陀仏の側にみようとするから浄土真宗の他力の信がわからなくあるのであろう。 | これを逆にして信を自分の心中に探し、慈悲を阿弥陀仏の側にみようとするから浄土真宗の他力の信がわからなくあるのであろう。 | ||
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2017年10月21日 (土) 14:36時点における版
ごうしん
一般に、神や仏などを信じることを
信仰という語は「仰いで信ずる」「信じて仰ぐ」と訓ずるように、信じるも仰ぐも、私を主体とする動作をあらわす動詞である。この信仰に対して、仰信とは「信を仰ぐ」として、信を動詞ではなく阿弥陀仏の他力の信を仰ぐから仰信というのである。
これを、先人は「信は
- 「 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」(歎異抄 P.837)
と味わうのであった。 これを逆にして信を自分の心中に探し、慈悲を阿弥陀仏の側にみようとするから浄土真宗の他力の信がわからなくあるのであろう。