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「若我成仏…」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:<kana>若我成仏(にゃくが-じょうぶつ)</kana> <kana>十方衆生(じっぽう-しゅじょう)</kana> <kana>称我名号(しょうが-みょうごう)</kana> <kana>下至十声(げし-じっしょう)</kana> <kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana> <kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana> <kana>彼仏今現在成仏(ひぶつ-こんげんざい-じょうぶつ)</kana> <kana>当知本誓重願不虚(とうち-ほんぜい-じゅうがんふこ)</kana> <kana>衆生称念必得往生(しゅじょう-しょうねん-ひっとく-おうじょう)</kana>
  
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::もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に'''世に'''ましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。
 
::もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に'''世に'''ましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。
  
と、なっており「世」の字がある。ところで、御開山は「行巻」[[行巻#no28|(p.167)]]の引文で、直接『往生礼讃』を引用せず、智昇法師の『集諸経礼懺儀』から引文されている。たぶん御開山の所覧本の『集諸経礼懺儀』には世の字が無かったからであろう。(現在の蔵経の『集諸經禮懺儀』には世の字がある。) そこで所覧本により意図的に「世」の字の無い『集諸経礼懺儀』からと示して引文されたのであろうと思われる(原典版校異p.108)。この意図は不明なのだが「世」の字に、この世と連続した世の意を感じられて、この世(此土)とあの世(輪廻)を超えた、横超の一如の浄土を示すにはふさわしくないと思われたのかもしれないと思ふ。いわゆる思議を絶した難思義往生の阿弥陀仏の浄土をあらわすにはふさわしくないと思われたのであろう。(最古層といわれる仏典のスッタニパータ(1)には、「この世とかの世とをともに捨て去る」とあり、さとりとは生死を超えているのであった。)<br />
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と、なっており「世」の字がある。ところで、御開山は「行巻」[[行巻#no28|(p.167)]]の引文で、直接『往生礼讃』を引用せず、智昇法師の『集諸経礼懺儀』から引文されている。たぶん御開山が法然聖人から『選択本願念仏集』の伝授をうけた際に真筆をもつて書いて頂いた文に「世」の字を脱していたからであろう。([[化巻末#no118|化巻 P.472]])<br />
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御開山はその意から世の字が無い『[[集諸経礼懺儀]]』を依用されたのであろう。(現在の蔵経の『集諸經禮懺儀』には世の字がある。) そこで意図的に「世」の字の無い所覧本の『集諸経礼懺儀』からと示して引文されたのであろうと思われる(原典版校異p.108)。この意図は不明なのだが「世」の字に、この世と連続した世の意を感じられて、この世(此土)とあの世(輪廻)を超えた、横超の一如の浄土を示すにはふさわしくないと思われたのかもしれない。(→[[同居の土]]との違いをあらわそうとされたか)いわゆる思議を絶した[[難思議往生]]の阿弥陀仏の浄土をあらわすにはふさわしくないと思われたのであろう。(最古層といわれる仏典のスッタニパータ(1)には、「この世とかの世とをともに捨て去る」とあり、さとりとは[[生死]]を超えているのであった。)<br />
 
なお、この「世」の字の問題に関し、覚如上人は『口伝鈔』[[口伝鈔#no10|(p.890)]]で「十八の願につきたる御釈の事」として「世」の字を省いた御開山の意を考察されている。<br />
 
なお、この「世」の字の問題に関し、覚如上人は『口伝鈔』[[口伝鈔#no10|(p.890)]]で「十八の願につきたる御釈の事」として「世」の字を省いた御開山の意を考察されている。<br />
 智昇師の『集諸経礼懺儀』については、『往生礼讃』の深信釈の「名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで」を、『集諸経礼懺儀』には「名号を称すること下至十声'''聞'''等に及ぶまで」と「聞」の語があるので直接『往生礼讃』を引文せず「智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく」として、「行巻」[[行巻#no76|(p.188)]]で引文されておられる。どうしても〔なんまんだぶ〕を聞く「聞」という語が必要であったのであろう。『一念多念証文』[[一念多念証文|(p.694)]] で「名号を称すること、十声・一声'''きく'''ひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」とされた所以である。浄土真宗は、なんまんだぶと称える、可聞可称の称えて聞く「念仏往生の願」のご法義であったのである。
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 また智昇師の『集諸経礼懺儀』については、『往生礼讃』の深信釈の「名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで」を、『集諸経礼懺儀』には「名号を称すること下至十声'''聞'''等に及ぶまで」と「聞」の語があるので直接『往生礼讃』を引文せず「智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく」として、「行巻」[[行巻#no76|(p.188)]]で引文されておられる。どうしても〔なんまんだぶ〕を聞く「聞」という語が必要であったのであろうと思われる。『一念多念証文』[[一念多念証文|(p.694)]] で「名号を称すること、十声・一声'''きく'''ひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」とされた所以である。浄土真宗は、なんまんだぶと称える、[[可聞可称]]の称えて聞く「[[念仏往生の願]]」のご法義であったのである。
  
 
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2018年4月13日 (金) 15:36時点における版

にゃくがじょうぶつ…

Ⅰ 「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得」 (化巻 P.472御伝鈔 P.1047,二種 P.722)
  「行巻」167頁8行以下参照。

Ⅱ 「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ」 (唯信鈔 P.1350,唯文 P.717,真要鈔P.984,安心決定 P.1383)


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『往生礼讃』の文。
若我成仏(にゃくが-じょうぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 称我名号(しょうが-みょうごう) 下至十声(げし-じっしょう) 若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく) 彼仏今現在成仏(ひぶつ-こんげんざい-じょうぶつ) 当知本誓重願不虚(とうち-ほんぜい-じゅうがんふこ) 衆生称念必得往生(しゅじょう-しょうねん-ひっとく-おうじょう)


この文は「第十八願取意の文」といわれる文である。

原漢文:

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじと。
かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(往生礼讃 P.711)

この文は「教行証文類」の後序で、法然聖人の真影を写させていただき、その銘として法然聖人が書いて下さった文として、御開山は感慨をこめて記述されておられる。(*)
なお、この文の『往生礼讃』の原文は、

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚
彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。

と、なっており「世」の字がある。ところで、御開山は「行巻」(p.167)の引文で、直接『往生礼讃』を引用せず、智昇法師の『集諸経礼懺儀』から引文されている。たぶん御開山が法然聖人から『選択本願念仏集』の伝授をうけた際に真筆をもつて書いて頂いた文に「世」の字を脱していたからであろう。(化巻 P.472)

御開山はその意から世の字が無い『集諸経礼懺儀』を依用されたのであろう。(現在の蔵経の『集諸經禮懺儀』には世の字がある。) そこで意図的に「世」の字の無い所覧本の『集諸経礼懺儀』からと示して引文されたのであろうと思われる(原典版校異p.108)。この意図は不明なのだが「世」の字に、この世と連続した世の意を感じられて、この世(此土)とあの世(輪廻)を超えた、横超の一如の浄土を示すにはふさわしくないと思われたのかもしれない。(→同居の土との違いをあらわそうとされたか)いわゆる思議を絶した難思議往生の阿弥陀仏の浄土をあらわすにはふさわしくないと思われたのであろう。(最古層といわれる仏典のスッタニパータ(1)には、「この世とかの世とをともに捨て去る」とあり、さとりとは生死を超えているのであった。)
なお、この「世」の字の問題に関し、覚如上人は『口伝鈔』(p.890)で「十八の願につきたる御釈の事」として「世」の字を省いた御開山の意を考察されている。
 また智昇師の『集諸経礼懺儀』については、『往生礼讃』の深信釈の「名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで」を、『集諸経礼懺儀』には「名号を称すること下至十声等に及ぶまで」と「聞」の語があるので直接『往生礼讃』を引文せず「智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく」として、「行巻」(p.188)で引文されておられる。どうしても〔なんまんだぶ〕を聞く「聞」という語が必要であったのであろうと思われる。『一念多念証文』(p.694) で「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」とされた所以である。浄土真宗は、なんまんだぶと称える、可聞可称の称えて聞く「念仏往生の願」のご法義であったのである。

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