可聞可称
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
かもん-かしょう
南無阿弥陀仏は、聞くことができて称えることができるという意。聞とは「信」であり称とは「行」である。→聞即信
御開山は、『大経』
- 「
其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転 」- 「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。
- 「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。
- 「自致不退転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからひにあらず、しからしめて不退の位にいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふはいたるといふ、むねとすといふ、如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへとなり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。これすなはち正定聚の位にいたるをむねとすべしと説きたまへる御のりなり。(尊号 P.645)
とされておられた。また「行巻」(行巻 P.142) でも同文を引文されておられた。
法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞こえる可聞可称の名号法を「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が「六字釈」で「しかれば南無の言は帰命なり」とされ「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻 P.170) と「浄土へ来たれと
この、なんまんだぶと称え聞こえることを、本願招喚の勅命とされた根源は以下の法然聖人の示唆であった。
ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)
※「隠/顕」