操作

トーク

「称名報恩」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「『尊号真像銘文』の法然聖人の讃に、 {{Inyou|  『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往...」)
 
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
 
『尊号真像銘文』の法然聖人の讃に、
 
『尊号真像銘文』の法然聖人の讃に、
 
{{Inyou|
 
{{Inyou|
 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の'''正因'''は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成る'''たね'''と申すなり。([[尊号真像銘文#no15|尊号 P.665]])
+
 『[[選択本願念仏集]]』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「[[南無阿弥陀仏]] [[往生之業念仏為本]]」といふは、安養浄土の往生の'''正因'''は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成る'''たね'''と申すなり。([[尊号真像銘文#no15|尊号 P.665]])
 
}}
 
}}
「往生の'''正因'''は念仏を本とす」とし「正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成る'''たね'''と申すなり」とされておられた。これを[[念仏往生]]といふ。
+
「往生の'''正因'''は念仏を本とす」とし「正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成る'''たね'''と申すなり」とされておられた。これを「[[念仏往生]]」といふ。<br />
 +
 
 +
----
 +
『柴門玄話』
 +
{{Inyou|
 +
三信釈に「至心則是至徳尊号為其体(至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とす)」(p.231)と云がごとし。かれ初(はじめの)心を釈して後の二心を彰す。三心則一なれば至心の体尊号なるときは信楽欲生もその体別なく、たヽ一尊号なり。<br />
 +
いはふる至心為体信楽為体(至心の体となし信楽の体となす)はこのこヽろなり。その尊号とは大行なり。大行露現の名願力をもて信心の体を顕わす。<br />
 +
第二巻(行文類)に「念仏則是 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏即是正念(念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり)」(p.146)とあるはこのこヽろなり。思てみつべし。<br />
 +
それ信心といふは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行雑修自力。その雑行雑修自力の心を捨離して「以斯義故必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」(p169 で引文の善導大師の六字約の文)とある名号の信知せられたるを快く受けたりとす。<br />
 +
されば信心といふは たヽこれ名号を内心に獲得したるなり。<br />
 +
中興(蓮如)上人ちかく宝章(御文章)にのたまはく
 +
 
 +
:信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(3-2)
 +
又云く
 +
:南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なり (4-6)
 +
 
 +
又云
 +
:当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(4-8)
 +
又云
 +
:一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。(4-4)
 +
又云
 +
:当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり (5-9)
 +
とも又
 +
:他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。(5-10)
 +
 +
:されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。(5-13)
 +
 +
:されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(5-22)
 +
ともいへり。}}

2020年1月26日 (日) 10:01時点における最新版

『尊号真像銘文』の法然聖人の讃に、

 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号 P.665)

「往生の正因は念仏を本とす」とし「正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」とされておられた。これを「念仏往生」といふ。


『柴門玄話』

三信釈に「至心則是至徳尊号為其体(至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とす)」(p.231)と云がごとし。かれ初(はじめの)心を釈して後の二心を彰す。三心則一なれば至心の体尊号なるときは信楽欲生もその体別なく、たヽ一尊号なり。
いはふる至心為体信楽為体(至心の体となし信楽の体となす)はこのこヽろなり。その尊号とは大行なり。大行露現の名願力をもて信心の体を顕わす。
第二巻(行文類)に「念仏則是 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏即是正念(念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり)」(p.146)とあるはこのこヽろなり。思てみつべし。
それ信心といふは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行雑修自力。その雑行雑修自力の心を捨離して「以斯義故必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」(p169 で引文の善導大師の六字約の文)とある名号の信知せられたるを快く受けたりとす。
されば信心といふは たヽこれ名号を内心に獲得したるなり。
中興(蓮如)上人ちかく宝章(御文章)にのたまはく

信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(3-2)

又云く

南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なり (4-6)

又云

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(4-8)

又云

一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。(4-4)

又云

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり (5-9)

とも又

他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。(5-10)

されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。(5-13)

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(5-22)
ともいへり。