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「一念までの」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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:無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよろこびまゐらせて、{{DotUL|一念するに往生定まりて}}、誓願不思議とこころえ候ひなんには、
 
:無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよろこびまゐらせて、{{DotUL|一念するに往生定まりて}}、誓願不思議とこころえ候ひなんには、
 
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:ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思議とこころえ候ふ」と仰せ候ふをぞ、よきやうには候へども、{{DotUL|一念にとどまるところあしく候ふとて}}、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふよしを入れさせおはしまして候ふ。
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:ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思議とこころえ候ふ」と仰せ候ふ をぞ、よきやうには候へども、{{DotUL|一念にとどまるところあしく候ふとて}}、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふよしを入れさせおはしまして候ふ。
 
:[[蓮位]]にかく入れよと仰せをかぶりて候へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、をりふし[[御咳病]]にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふなり。
 
:[[蓮位]]にかく入れよと仰せをかぶりて候へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、をりふし[[御咳病]]にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふなり。
 
と、「一念までの往生定まりて」と訂正された。<br />
 
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:まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度{{DotUL|[[一念聞名にいたるまで]]}}、
 
:まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度{{DotUL|[[一念聞名にいたるまで]]}}、
と、訂正されたおられた。[[一念]]の語に固執することなく『大経』に「[[乃至]]」と説かれている[[一念]]の意味を示そうとされたのであろう。<br />
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と、訂正されておられた。[[一念]]の語に固執することなく『大経』に「[[乃至]]」と説かれている[[十念]]の[[一多包容の言|一多包容]]の意味を示そうとされたのであろう。<br />
これによって御開山は、いわゆる一念義ではないことが判る。なお、ここで慶信が記している「[[一念]]」とは一声の称名である。それは、御開山の示される一念とは、「念劫融即」における一念であり、それを「多念にあらず一念にあらず(非多念 非一念)」([[信巻本#P--246|信巻 P.246]]) とされておられた。いわゆる一念覚知に拘泥する輩に対する教戒であった。
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これによって御開山は、いわゆる一念義ではないことが判る。なお、ここで慶信が記している「[[一念]]」とは一声の称念(称名)である。それは、御開山の示される一念とは、「<kana>念劫融即(ねんこう-ゆうそく)</kana>」<ref>念劫融即(ねんこう-ゆうそく)。華厳思想用語。念とは一瞬という非常に短い時間、劫とは過去・現在・未来に渡る極めて長い時間の意で、華厳経ではそれが融けあい相即しているといふ。現代では永遠の今とでもいうか。</ref> における一念であり、それを「多念にあらず一念にあらず(非多念 非一念)」([[信巻本#P--246|信巻 P.246]]) とされておられた。いわゆる一念覚知に拘泥する輩に対する教戒であった。
  
 
:→[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#.E4.B8.83.E3.80.80.E4.BF.A1.E3.81.AE.E4.B8.80.E5.BF.B5 一念多念証文での信の一念]
 
:→[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#.E4.B8.83.E3.80.80.E4.BF.A1.E3.81.AE.E4.B8.80.E5.BF.B5 一念多念証文での信の一念]
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2020年11月8日 (日) 12:12時点における最新版

いちねんまでの

 慶信が「一念するに」と書いていたのを、親鸞聖人が訂正された。一念義的な誤解をさけるためである。(消息 P.761)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

慶信が、

無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよろこびまゐらせて、一念するに往生定まりて、誓願不思議とこころえ候ひなんには、

と記述していたのを、

ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思議とこころえ候ふ」と仰せ候ふ をぞ、よきやうには候へども、一念にとどまるところあしく候ふとて、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふよしを入れさせおはしまして候ふ。
蓮位にかく入れよと仰せをかぶりて候へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、をりふし御咳病にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふなり。

と、「一念までの往生定まりて」と訂正された。
また、同じく次下に、

まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度一念にとげ候ひぬるに

と記述していた文を、

まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度一念聞名にいたるまで

と、訂正されておられた。一念の語に固執することなく『大経』に「乃至」と説かれている十念一多包容の意味を示そうとされたのであろう。
これによって御開山は、いわゆる一念義ではないことが判る。なお、ここで慶信が記している「一念」とは一声の称念(称名)である。それは、御開山の示される一念とは、「念劫融即(ねんこう-ゆうそく)[1] における一念であり、それを「多念にあらず一念にあらず(非多念 非一念)」(信巻 P.246) とされておられた。いわゆる一念覚知に拘泥する輩に対する教戒であった。

一念多念証文での信の一念
一念
乃至
行の一念
信の一念
行信不離
トーク:行信不離

参照WEB版浄土宗大辞典の「一念義」の項目


  1. 念劫融即(ねんこう-ゆうそく)。華厳思想用語。念とは一瞬という非常に短い時間、劫とは過去・現在・未来に渡る極めて長い時間の意で、華厳経ではそれが融けあい相即しているといふ。現代では永遠の今とでもいうか。