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〔概説〕
 
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本抄は、源空(法然)聖人の法語、伝記、消息、行状などを集成したものである。題号は『選択集』後述の「静以、善導『観経疏』者是西方指南行者目足也(静かにおもんみれば、善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり)」において、善導大師の『観経疏』を指して「西方指南抄」とされたことに依るといわれている。<br />
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本抄は、源空(法然)聖人の法語、伝記、消息、行状などを集成したものである。題号は『選択集』後述の「静以、善導『観経疏』者是西方指南行者目足也{{SHD|no3|(静かにおもんみれば、善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり)}}」において、善導大師の『観経疏』を指して「西方指南抄」とされたことに依るといわれている。<br />
 
 本抄の構成は、 上・中・下の各巻をそれぞれ本・末に分冊した三巻六冊で、その内容は
 
 本抄の構成は、 上・中・下の各巻をそれぞれ本・末に分冊した三巻六冊で、その内容は
 
:(一) 法然聖人御説法事、
 
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:(二七) 要義十三問答、
 
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:(二八) 武蔵津戸三郎への御返事、
 
:(二八) 武蔵津戸三郎への御返事、
の二十八編からなる。とくに(五)(一〇)(十一) (十三) (二一)(二二) の六編は本秒のみにしか伝わらず、源空聖人に関する原資料として重要である。 そのうち(二一)などは、解説とみられる内容が宗祖の御消息にあり、宗祖自 身の聞書であった可能性も指摘されている。さらには、醍醐本『法然上人 伝記』や『黒谷上人語灯録』などと共通する内容が多く、その関係性も注目される(本巻末の付録『西方指南抄』・『黒谷上人語灯録』・醍醐本『法然上人伝記』対照表」参照)。
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の二十八編からなる。とくに(五)(一〇)(十一)(十三)(二一)(二二)の六編は本抄のみにしか伝わらず、源空聖人に関する原資料として重要である。 そのうち(二一)などは、解説とみられる内容が宗祖の御消息にあり<ref>ご消息(10)で「浄土宗大意」の言葉の意味を解説しておられる。→([[消息上#no10|消息 P.757]])</ref>、宗祖自身の聞書であった可能性も指摘されている。さらには、醍醐本『法然上人 伝記』や『黒谷上人語灯録』などと共通する内容が多く、その関係性も注目される(本巻末の付録『西方指南抄』・『黒谷上人語灯録』・醍醐本『法然上人伝記』対照表」参照)。
  
 本抄の成立については、大別して宗祖自らが編集した説と先行するものを転写したとの説の二説がある。 編集説は、本抄では、源空空人の敬称が「上人」ではなく「聖人」であり、また、本文に大幅な取捨選択や加筆訂正の跡が見られ、調巻が操作されている、など独自の筆格がうかがわれる点から主張される。 転写説は、宗祖真筆本上本の内題である「西方指南抄上」「本」の「上」は、「日」とあったのを抹消して上書訂正している点に注目する。 この訂正前の文字について なる見解もあるが、直弟子本でも「日」の訂正とみられ、「西方指南抄 日」 とあったのなら内題というよりも引用書名を示したものと考えられ、真筆に先行する『西方指南』の存在が主張される。また他にも宗祖の指示により本抄制作の元になる原資料を蒐集させ、仮に「西方指南抄」と名付けられた書があって、それに調巻の操作や加筆訂正 がなされたのではないかという両説の折衷な見解などがある。しかし、いずれの説とも定めがたく、今後の研究が待たれる。
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 本抄の成立については、大別して宗祖自らが編集した説と先行するものを転写したとの説の二説がある。 編集説は、本抄では、源空聖人の敬称が「上人」ではなく「聖人」であり、また、本文に大幅な取捨選択や加筆訂正の跡が見られ、調巻が操作されている、など独自の筆格がうかがわれる点から主張される。 転写説は、宗祖真筆本上本の内題である「西方指南抄上」「本」の「上」は、「曰」とあったのを抹消して上書訂正している点に注目する。 この訂正前の文字について異なる見解もあるが、直弟子本でも「曰」の訂正とみられ、「西方指南抄 曰」 とあったのなら内題というよりも引用書名を示したものと考えられ、真筆に先行する『西方指南抄』の存在が主張される。また他にも宗祖の指示により本抄制作の元になる原資料を蒐集させ、仮に「西方指南抄」と名付けられた書があって、それに調巻の操作や加筆訂正がなされたのではないかという両説の折衷な見解などがある。しかし、いずれの説とも定めがたく、今後の研究が待たれる。
  
 
 本書の成立年代については、先述のように宗祖の編集・転写の両説があることから厳密には確定できないが、最古の記録は真筆本の奥書であり、少なくとも康元元 (一二五六)年から康元二 (一二五七)年までの間に成立していたことは明らかである。真筆各巻奥書は次の通りである。
 
 本書の成立年代については、先述のように宗祖の編集・転写の両説があることから厳密には確定できないが、最古の記録は真筆本の奥書であり、少なくとも康元元 (一二五六)年から康元二 (一二五七)年までの間に成立していたことは明らかである。真筆各巻奥書は次の通りである。
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:下末「康元元丙辰十一月八日/愚禿親鸞{八十四歳}書之」
 
:下末「康元元丙辰十一月八日/愚禿親鸞{八十四歳}書之」
  
 なお、上本および中本の奥書にある「康元元年」は二年の誤りとみられている。このように上・中・下、本・木の順を前後して書写されており、本抄の分冊と書写の事情については、おおよそ以下のように 考えられている。すなわち、宗祖は当初、三冊の予定で、上巻と中巻は康元元年十月十三日と十月十四日の一日の差で書写し終え、この時点では本末に分けられていなかった。しかし、下巻は最初から本末に分冊して書写された。 その後、上巻校了の翌日に、中巻の校正を始めて中本・中末に分冊し、それとともに上巻を上本上末の二冊に 分けたために、上本・中本は同日の奥書が生じたのではないか、との見解である。また、このような見解は内題が、上末・中末になく、下本ではすべて一筆であるのに上本・中本では「本」の字は追筆とみら れることとも一致する。 また、『和語灯録』の成立が文永十二 (一二七五年)であり、それより十八年も先行して成立した本抄は、現存最古の源空聖人に関する言行録という点において重要な位置付けにある。
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 なお、上本および中本の奥書にある「康元元年」は二年の誤りとみられている。このように上・中・下、本・末の順を前後して書写されており、本抄の分冊と書写の事情については、おおよそ以下のように 考えられている。すなわち、宗祖は当初、三冊の予定で、上巻と中巻は康元元年十月十三日と十月十四日の一日の差で書写し終え、この時点では本末に分けられていなかった。しかし、下巻は最初から本末に分冊して書写された。 その後、上巻校了の翌日に、中巻の校正を始めて中本・中末に分冊し、それとともに上巻を上本上末の二冊に 分けたために、上本・中本は同日の奥書が生じたのではないか、との見解である。また、このような見解は内題が、上末・中末になく、下本ではすべて一筆であるのに上本・中本では「本」の字は追筆とみら れることとも一致する。 また、『和語灯録』の成立が文永十二 (一二七五年)であり、それより十八年も先行して成立した本抄は、現存最古の源空聖人に関する言行録という点において重要な位置付けにある。
  
 
(底本・対校本)
 
(底本・対校本)
  
 本抄は、高田派専修寺蔵康元元、二年親鸞聖人真筆を底本とし、真田派専修寺蔵真仏上人・顕智上人書写本を対本とした。 真筆本は、宗祖の代表的な筆とされる書写本であり、上末と下末には、本文と同じ料紙に宗祖が外題を記した旧表示がある。とくに上末の左下には「釋眞佛」との袖書があり真仏上人に与えられたもの 考えられている。また、室町時代のものとみられるが後補表紙が上本を除いた五冊にある。書写年時は先に述べた通りで、本文には、朱筆の筆を用いて右左訓・返点・声点(圏発点)・区切り点・註記等が全体にわたり精微に施されている。また、近年、修復の際に、現在の布表紙裏面に点糊止めされた宗祖真真の「西方指南抄/釋正證」との断簡をはじめとした四点が発見されている。
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 本抄は、高田派専修寺蔵康元元、二年親鸞聖人真筆を底本とし、真田派専修寺蔵真仏上人・顕智上人書写本を対本とした。 真筆本は、宗祖の代表的な筆とされる書写本であり、上末と下末には、本文と同じ料紙に宗祖が外題を記した旧表示がある。とくに上末の左下には「釋眞佛」との袖書があり真仏上人に与えられたもの 考えられている。また、室町時代のものとみられるが後補表紙が上本を除いた五冊にある。書写年時は先に述べた通りで、本文には、朱筆の筆を用いて右左訓・返点・声点(圏発点)・区切り点・註記等が全体にわたり精微に施されている。また、近年、修復の際に、現在の布表紙裏面に点糊止めされた宗祖真筆の「西方指南抄/釋正證」との断簡をはじめとした四点が発見されている。
  
 
 真仏上人・顕智上人書写本は、前五冊を真仏上人、後一冊を顕智上人が真筆本をもとに書写したことで知られ、直弟本とも称される。各冊旧表紙中央には「西方指南抄」「木]」、左下には「釋覺信」などとあり、従来は「覚信本」と称されてきた。近年その筆跡は真仏上人であることが明らかにされており、真筆本の奥書を有し、続けて書写奥書が記される。ただし、 真筆本の奥書とは下本のみが一致せず また 書写奥書は上末・下本にはない。真仏上人の書写年時は、康元二年の 二月から三月の間であるが、 真筆本と同様に書写の順は上本からでは ない。 なお、後一冊の下末は顕智上人示寂の二年前である「徳治三歳{戌申} 二月中旬 第五」の書写奥書を有す。 上末・中末・下末の内題は、通常の位置である本文の第一紙冒頭にはなく、その直前の表紙見返左端に記されている。 また、上本の内題に同じ訂正が見られるように、直弟子本と真筆本とは極めて近い関係にあると考えられている。
 
 真仏上人・顕智上人書写本は、前五冊を真仏上人、後一冊を顕智上人が真筆本をもとに書写したことで知られ、直弟本とも称される。各冊旧表紙中央には「西方指南抄」「木]」、左下には「釋覺信」などとあり、従来は「覚信本」と称されてきた。近年その筆跡は真仏上人であることが明らかにされており、真筆本の奥書を有し、続けて書写奥書が記される。ただし、 真筆本の奥書とは下本のみが一致せず また 書写奥書は上末・下本にはない。真仏上人の書写年時は、康元二年の 二月から三月の間であるが、 真筆本と同様に書写の順は上本からでは ない。 なお、後一冊の下末は顕智上人示寂の二年前である「徳治三歳{戌申} 二月中旬 第五」の書写奥書を有す。 上末・中末・下末の内題は、通常の位置である本文の第一紙冒頭にはなく、その直前の表紙見返左端に記されている。 また、上本の内題に同じ訂正が見られるように、直弟子本と真筆本とは極めて近い関係にあると考えられている。

2022年8月15日 (月) 11:36時点における最新版

『浄土真宗聖典全書』三 の「西方指南抄」の解説

〔概説〕

本抄は、源空(法然)聖人の法語、伝記、消息、行状などを集成したものである。題号は『選択集』後述の「静以、善導『観経疏』者是西方指南行者目足也「隠/顕」
(静かにおもんみれば、善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり)
」において、善導大師の『観経疏』を指して「西方指南抄」とされたことに依るといわれている。

 本抄の構成は、 上・中・下の各巻をそれぞれ本・末に分冊した三巻六冊で、その内容は

(一) 法然聖人御説法事、
(二) 建保四年公胤夢告、
(三) 三昧発得記、
(四) 法然聖人御夢想記、
(五) 十八条御法語、
(六) 法然聖人臨終行儀、
(七) 聖人御事諸人夢記、
(八) 七箇条起請文、
(九) 起請没後二条事、
(一〇) 源空聖人私日記、
(十一) 決定往生 三機行相。
(十二) 鎌倉二品比丘への御返事、
(十三) 本願体用事(四箇条問答)、
(十四) 上野大胡太郎実秀の妻への御返事、
(一五) 上野大胡太郎実秀への御返事、
(一六) 正如房へ御消息、
(一七) 又故聖人の御坊の御消息(光明坊宛)、
(一八) 基親取信信本願之様、
(一九) 基親上書・法然聖人御返事、
(二〇) 或人念仏之不審聖人奉問次第、
(二一) 浄土宗大意、
(二二) 四種往生事、
(二三) 法語( 黒田聖への書)、
(二四) 法語(念仏大意)、
(二五) 九条殿北政所への御返事、
(二六) 熊谷入道への御返事、
(二七) 要義十三問答、
(二八) 武蔵津戸三郎への御返事、

の二十八編からなる。とくに(五)(一〇)(十一)(十三)(二一)(二二)の六編は本抄のみにしか伝わらず、源空聖人に関する原資料として重要である。 そのうち(二一)などは、解説とみられる内容が宗祖の御消息にあり[1]、宗祖自身の聞書であった可能性も指摘されている。さらには、醍醐本『法然上人 伝記』や『黒谷上人語灯録』などと共通する内容が多く、その関係性も注目される(本巻末の付録『西方指南抄』・『黒谷上人語灯録』・醍醐本『法然上人伝記』対照表」参照)。

 本抄の成立については、大別して宗祖自らが編集した説と先行するものを転写したとの説の二説がある。 編集説は、本抄では、源空聖人の敬称が「上人」ではなく「聖人」であり、また、本文に大幅な取捨選択や加筆訂正の跡が見られ、調巻が操作されている、など独自の筆格がうかがわれる点から主張される。 転写説は、宗祖真筆本上本の内題である「西方指南抄上」「本」の「上」は、「曰」とあったのを抹消して上書訂正している点に注目する。 この訂正前の文字について異なる見解もあるが、直弟子本でも「曰」の訂正とみられ、「西方指南抄 曰」 とあったのなら内題というよりも引用書名を示したものと考えられ、真筆に先行する『西方指南抄』の存在が主張される。また他にも宗祖の指示により本抄制作の元になる原資料を蒐集させ、仮に「西方指南抄」と名付けられた書があって、それに調巻の操作や加筆訂正がなされたのではないかという両説の折衷な見解などがある。しかし、いずれの説とも定めがたく、今後の研究が待たれる。

 本書の成立年代については、先述のように宗祖の編集・転写の両説があることから厳密には確定できないが、最古の記録は真筆本の奥書であり、少なくとも康元元 (一二五六)年から康元二 (一二五七)年までの間に成立していたことは明らかである。真筆各巻奥書は次の通りである。

上本「康元元丁巳正月二日書之/愚禿親鸞{八十五歳}」
上末「康元元年{丙辰}十月十三日/愚禿親鸞{八十四歳}書之」
   康元二歳正月一日校之
中本「康元元丁巳正月二日/愚禿親鸞{八十五歳}校了」
中末「康元元年{丙辰}十月十四日/愚禿親鸞{八十四歳}書写之」
下本「康元元丙辰十月卅日書之/愚禿親鸞{八十四歳}」
下末「康元元丙辰十一月八日/愚禿親鸞{八十四歳}書之」

 なお、上本および中本の奥書にある「康元元年」は二年の誤りとみられている。このように上・中・下、本・末の順を前後して書写されており、本抄の分冊と書写の事情については、おおよそ以下のように 考えられている。すなわち、宗祖は当初、三冊の予定で、上巻と中巻は康元元年十月十三日と十月十四日の一日の差で書写し終え、この時点では本末に分けられていなかった。しかし、下巻は最初から本末に分冊して書写された。 その後、上巻校了の翌日に、中巻の校正を始めて中本・中末に分冊し、それとともに上巻を上本上末の二冊に 分けたために、上本・中本は同日の奥書が生じたのではないか、との見解である。また、このような見解は内題が、上末・中末になく、下本ではすべて一筆であるのに上本・中本では「本」の字は追筆とみら れることとも一致する。 また、『和語灯録』の成立が文永十二 (一二七五年)であり、それより十八年も先行して成立した本抄は、現存最古の源空聖人に関する言行録という点において重要な位置付けにある。

(底本・対校本)

 本抄は、高田派専修寺蔵康元元、二年親鸞聖人真筆を底本とし、真田派専修寺蔵真仏上人・顕智上人書写本を対本とした。 真筆本は、宗祖の代表的な筆とされる書写本であり、上末と下末には、本文と同じ料紙に宗祖が外題を記した旧表示がある。とくに上末の左下には「釋眞佛」との袖書があり真仏上人に与えられたもの 考えられている。また、室町時代のものとみられるが後補表紙が上本を除いた五冊にある。書写年時は先に述べた通りで、本文には、朱筆の筆を用いて右左訓・返点・声点(圏発点)・区切り点・註記等が全体にわたり精微に施されている。また、近年、修復の際に、現在の布表紙裏面に点糊止めされた宗祖真筆の「西方指南抄/釋正證」との断簡をはじめとした四点が発見されている。

 真仏上人・顕智上人書写本は、前五冊を真仏上人、後一冊を顕智上人が真筆本をもとに書写したことで知られ、直弟本とも称される。各冊旧表紙中央には「西方指南抄」「木]」、左下には「釋覺信」などとあり、従来は「覚信本」と称されてきた。近年その筆跡は真仏上人であることが明らかにされており、真筆本の奥書を有し、続けて書写奥書が記される。ただし、 真筆本の奥書とは下本のみが一致せず また 書写奥書は上末・下本にはない。真仏上人の書写年時は、康元二年の 二月から三月の間であるが、 真筆本と同様に書写の順は上本からでは ない。 なお、後一冊の下末は顕智上人示寂の二年前である「徳治三歳{戌申} 二月中旬 第五」の書写奥書を有す。 上末・中末・下末の内題は、通常の位置である本文の第一紙冒頭にはなく、その直前の表紙見返左端に記されている。 また、上本の内題に同じ訂正が見られるように、直弟子本と真筆本とは極めて近い関係にあると考えられている。

なお、本抄の刊本は、万治四 (一六六一)年の開版本、元禄七(一六九四)年の刊記をもつ再治本が知られているが、その底本は真宗高田派第十二世堯慧上人による直弟本の転写本と考えられている。



さいほう-しなんしょう

 真宗高田派で伝時されてきた、御開山聖人筆(国宝)の法語集。上・中・下の三巻に分かれ、各巻をそれぞれ本と末にわけてあるので全六巻ともいえる。御開山の師である法然聖人の法語・消息・問答・行状記などを、収集した書物である。奥書に依って康元元(1256)年~康元二(1257)年(御開山84~85歳)頃、蒐集されお手元にあった法然聖人に関する文献を編集し書写されたものである。高田派の真仏上人宛とされる御消息(38)に、「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ」とあるのは『西方指南抄』書写のお礼であると言われる。(鎌倉時代には米1石(10斗、100升)は銭1貫文であったと云われる。但し現代の米価との比較は無理であり、霊山勝海師は『念仏と流罪』中で人件費換算(月給30万)で二十貫文は四千万円弱であろうとされていた。)
 御開山帰洛の一因として法然聖人に関する語録の蒐集という意もあったといわれる。当時の関東では大蔵経などに接することは出来たのだが、法然聖人に関する文献の蒐集は困難であったから、その為に、なお六十の齢を越えて関東の門弟と別れて帰洛されたのであろうとされる。
蓮如上人の信心の教化を主とする本願寺派・大谷派では、念仏を強調する浄土宗(主として鎮西浄土宗)との違いを強調する為に、法然聖人の言行録としての性格が強い『西方指南抄』を軽視する傾向がある。また浄土宗側では親鸞聖人の著であるとのことで取り上げられることは少なかった。
 梯實圓和上は、その著『法然教学の研究』のはしがきで、「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」とされておられた。例えば御開山の特長として語られる『歎異抄』の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機の法語も醍醐本『三心料簡事』には「善人尚以往生況悪人乎事 (善人なお以て往生す、いわんや悪人をやのこと)」とあり法然聖人のご法語であった。また御開山の晩年の御消息を拝見しても法然聖人を語られることが多く、『歎異抄』では、関東から訪ねてきた門弟の問いに答えて「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と断言されておられる。たしかに御開山の思想は難解ではあるが、その思想の基底を『西方指南抄』等の法然聖人のご法語を窺うことにより、いささかでも御開山の思想が領解できるのではと思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


  • あまり関心を持たれなかった『西方指南抄』だが、近年、親鸞『西方指南抄』現代語訳 単行本 – 2016/7/21 新井 俊一 (著)が発刊されている。
西方指南抄
→『法然聖人伝記
→『三部経大意
三心料簡および御法語の訓読

参照WEB版浄土宗大辞典の「西方指南抄」の項目

  1. ご消息(10)で「浄土宗大意」の言葉の意味を解説しておられる。→(消息 P.757)