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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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あんのん 安穏
 
あんのん 安穏
  
:Ⅰ 安らかで平穏であること。『御消息』第25通には「世の中安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」(註 784)とある。
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Ⅰ 安らかで平穏であること。『御消息』第25通には
:Ⅱ 涅槃の異名。『大経』には「すでにわが国に到らば、快楽安穏ならん」等と説かれ、『論註』には「諸仏の安穏道より来るがごとく」(七註 102)とある。
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:「世の中[[安穏]]なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」([[消息下#P--784|註 784]])
:Ⅲ 東北方にある三乗行仏の仏土のこと。「易行品」に「東北方ここを去ること無量無辺恒河沙等の仏土にして世界あり、安穏と名づく。仏を三乗行と号す」(七註 9)とある。(浄土真宗辞典)
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Ⅱ 涅槃の異名。『大経』には
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:「すでにわが国に到らば、快楽[[安穏]]ならん」([[大経上#P--13|註 13]])
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:「諸仏の[[安穏]]道より来るがごとく」([[浄土論註 (七祖)#P--102|七註 102]])
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Ⅲ 東北方にある三乗行仏の仏土のこと。「易行品」に
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:「東北方ここを去ること無量無辺恒河沙等の仏土にして世界あり、[[安穏]]と名づく。仏を三乗行と号す」([[十住毘婆沙論 (七祖)#P--9|七註 9]])
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その意味では社会参画型仏教を目指す本願寺派が「世のなか安穏なれ」といふスローガンを使用することは、ひたすら本願力回向の[[正定業]]として なんまんだぶを称えるご法義には違和感がありすぎである。
  
 
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2023年6月6日 (火) 19:02時点における最新版

あんのん 安穏

Ⅰ 安らかで平穏であること。『御消息』第25通には

「世の中安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」(註 784)

とある。

Ⅱ 涅槃の異名。『大経』には

「すでにわが国に到らば、快楽安穏ならん」(註 13)

等と説かれ、『論註』には

「諸仏の安穏道より来るがごとく」(七註 102)

とある。
Ⅲ 東北方にある三乗行仏の仏土のこと。「易行品」に

「東北方ここを去ること無量無辺恒河沙等の仏土にして世界あり、安穏と名づく。仏を三乗行と号す」(七註 9)

とある。(浄土真宗辞典)

出拠の御消息

 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身のはおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。 なほなほ、疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。(註 784)

御開山の言葉は、その背景を考察する必要がある。たとえば「朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ」や「世のなか安穏なれ」といふ、旧態然の鎮護国家思想を思わせる表現は御開山にはありえない表現である。これは関東の念仏弾圧といふ過酷な状況の中で幕府との交渉に尽力した性信坊陳状の内容を肯(うけが)い鼓舞するために、あえて特別な表現をなされのであろう。
ともあれ「朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ」や「世のなか安穏なれ」といふといふ念仏は、自らの称える念仏はあらゆる人に功徳を融通するといふ良忍の「融通念仏」と誤解される恐れもあるので留意すべきであろう。

その意味では社会参画型仏教を目指す本願寺派が「世のなか安穏なれ」といふスローガンを使用することは、ひたすら本願力回向の正定業として なんまんだぶを称えるご法義には違和感がありすぎである。