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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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しょうみょう 称名
 
しょうみょう 称名
  
Ⅰ 仏・菩薩の名号を口に称えること。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えることをいう。善導は、第十八願文に「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(註 18) とあるのを、「わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(七祖 711) と示し、称名往生を誓ったものとみて、称名を浄土に往生するための正定業であるとした。法然は、阿弥陀仏がその本願において、難劣な余行を選捨し、最勝にして至易である称名を選取して、往生の正定業と選定したといい、他の一切の行を廃して、称名一行の専修を勧めた。また、称える名号にあらゆる功徳が摂まっていることを『選択集』に「名号はこれ万徳の帰するところなり」(七祖 1207) と述べ、衆生が往生できるのは称えた功によるのではなく、称えられる名号の功徳によるとした。親鸞は、真実行を明かす「行巻」において、称名とは本願のはたらきが衆生の口に現われ出てきたものであることを明らかにした。「行巻」標挙には「諸仏称名の願」として第十七願文を挙げ、冒頭には「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(註 141) とある。また、大行を「無礙光如来の名を称する」というのは、『論註』讃嘆門釈によったもので、これによって、称名が光明・名号の徳義にかなう如実讃嘆であることと、称えられている名号に破闇満願のはたらきがあることとが明らかにされる。なお、信後の称名は正因決定後の行いであるから、往生に役立たせようとするものではなく、報恩の行であるとされる。→[[大行]][[称名破満]][[称名報恩]]
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Ⅰ 仏・菩薩の名号を口に称えること。[[浄土教]]では、とくに[[阿弥陀仏]][[名号]]([[南無阿弥陀仏]])を称えることをいう。[[善導]]は、
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:[[第十八願]]文に「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(註 18)
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:「わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(七祖 711)
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と示し、称名往生を誓ったものとみて、称名を浄土に往生するための正定業であるとした。<br />
  
Ⅱ 広く名号の意義をほめたたえること。→[[諸仏称名の願]]
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 法然は、阿弥陀仏がその本願において、難劣な余行を選捨し、最勝にして至易である称名を選取して、往生の正定業と選定したといい、他の一切の行を廃して、称名一行の専修を勧めた。また、称える名号にあらゆる功徳が摂まっていることを『選択集』に
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:「名号はこれ万徳の帰するところなり」(七祖 1207)
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と述べ、衆生が往生できるのは称えた功によるのではなく、称えられる名号の功徳によるとした。<br />
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 親鸞は、真実行を明かす「行巻」において、称名とは本願のはたらきが衆生の口に現われ出てきたものであることを明らかにした。「行巻」標挙には「諸仏称名の願」として第十七願文を挙げ、冒頭には
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:「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(註 141)
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とある。また、大行を「無礙光如来の名を称する」というのは、『論註』讃嘆門釈によったもので、これによって、称名が光明・名号の徳義にかなう如実讃嘆であることと、称えられている名号に破闇満願のはたらきがあることとが明らかにされる。なお、信後の称名は正因決定後の行いであるから、往生に役立たせようとするものではなく、報恩の行であるとされる。→[[大行]]、[[称名破満]]、[[称名報恩]]。
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Ⅱ 広く名号の意義をほめたたえること。→[[諸仏称名の願]]。(浄土真宗辞典)
 
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2024年2月13日 (火) 12:53時点における最新版

しょうみょう 称名

Ⅰ 仏・菩薩の名号を口に称えること。浄土教では、とくに阿弥陀仏名号南無阿弥陀仏)を称えることをいう。善導は、

第十八願文に「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(註 18)

とあるのを、

「わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(七祖 711)

と示し、称名往生を誓ったものとみて、称名を浄土に往生するための正定業であるとした。

 法然は、阿弥陀仏がその本願において、難劣な余行を選捨し、最勝にして至易である称名を選取して、往生の正定業と選定したといい、他の一切の行を廃して、称名一行の専修を勧めた。また、称える名号にあらゆる功徳が摂まっていることを『選択集』に

「名号はこれ万徳の帰するところなり」(七祖 1207)

と述べ、衆生が往生できるのは称えた功によるのではなく、称えられる名号の功徳によるとした。

 親鸞は、真実行を明かす「行巻」において、称名とは本願のはたらきが衆生の口に現われ出てきたものであることを明らかにした。「行巻」標挙には「諸仏称名の願」として第十七願文を挙げ、冒頭には

「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(註 141)

とある。また、大行を「無礙光如来の名を称する」というのは、『論註』讃嘆門釈によったもので、これによって、称名が光明・名号の徳義にかなう如実讃嘆であることと、称えられている名号に破闇満願のはたらきがあることとが明らかにされる。なお、信後の称名は正因決定後の行いであるから、往生に役立たせようとするものではなく、報恩の行であるとされる。→大行称名破満称名報恩

Ⅱ 広く名号の意義をほめたたえること。→諸仏称名の願。(浄土真宗辞典)