「一心の華文」の版間の差分
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一心に一行としての、帰命・尽十方無礙光如来の〔南無・阿弥陀仏=なんまんだぶ〕である「世尊我一心」の、一心の華文であった。 | 一心に一行としての、帰命・尽十方無礙光如来の〔南無・阿弥陀仏=なんまんだぶ〕である「世尊我一心」の、一心の華文であった。 | ||
2024年11月24日 (日) 13:52時点における最新版
いっしんの-かもん
一心の信心を説いた名文。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
いっしんのかもん 一心の華文
一心の信心を説いた名文という意。天親の『浄土論』のこと。 「信巻」 別序には
- 「広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く」(信巻 P.209)
とある。(浄土真宗辞典)
『浄土論』の「願生偈」に説かれる一心。
- 世尊我一心 帰命尽十方
- 無礙光如来 願生安楽国
- 世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に
- 帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。 →(願生偈から論註へのリンク)
御開山は、この『浄土論』の「一心」を華のような一心をあらわす文であるとみられた。
- 広蒙三経光沢 特開一心華文。
- 広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。(信巻 P.209)
「信巻」の枢要である信楽釈では、
とされ、至心、信楽、欲生の三心を結釈して、
- まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建(はじ)めに「我一心」(浄土論)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)とのたまへり。 (信巻 P.245)
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて
の華のような一心の文について論じておられた。一心に一行としての、帰命・尽十方無礙光如来の〔南無・阿弥陀仏=なんまんだぶ〕である「世尊我一心」の、一心の華文であった。