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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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げんしん
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げんしん (942-1017)
  
 (942-1017)比叡山<kana>横川(よかわ)</kana>の<kana>恵心院(えしんいん)</kana>に住したので<kana>恵心僧都(えしんそうず)</kana>ともいう。<kana>大和(やまと)</kana>国(現在の奈良県)<kana>当麻(たいま)</kana>の生れ。父は<kana>卜部(うらべ)</kana>正親、母は清原氏。比叡山に登り<kana>良源(りょうげん)</kana>に師事し、天台教学を究めたが、名声を嫌い横川に<kana>隠棲(いんせい)</kana>された。
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 比叡山<kana>横川(よかわ)</kana>の<kana>恵心院(えしんいん)</kana>に住したので<kana>恵心僧都(えしんそうず)</kana>ともいう。<kana>大和(やまと)</kana>国(現在の奈良県)<kana>当麻(たいま)</kana>の生れ。父は<kana>卜部(うらべ)</kana>正親、母は清原氏。比叡山に登り<kana>良源(りょうげん)</kana>に師事し、天台教学を究めたが、名声を嫌い横川に<kana>隠棲(いんせい)</kana>された。
  
 
 寛和元年(985)四十四歳の時に『[[往生要集]]』三巻を著し、末代の<kana>凡夫(ぼんぶ)</kana>のために<kana>[[穢土]](えど)</kana>を<kana>厭離(えんり)</kana>して[[阿弥陀仏]]の[[浄土]]を<kana>欣求(ごんぐ)</kana>すべきことを勧められた。著書は七十余部百五十巻といわれるが、浄土教関係では『往生要集』のほかに『<kana>勧心略要集(かんじんりゃくようしゅう)</kana>』『阿弥陀経略記』『横川法語』(伝)等がある。七高僧の第六祖。
 
 寛和元年(985)四十四歳の時に『[[往生要集]]』三巻を著し、末代の<kana>凡夫(ぼんぶ)</kana>のために<kana>[[穢土]](えど)</kana>を<kana>厭離(えんり)</kana>して[[阿弥陀仏]]の[[浄土]]を<kana>欣求(ごんぐ)</kana>すべきことを勧められた。著書は七十余部百五十巻といわれるが、浄土教関係では『往生要集』のほかに『<kana>勧心略要集(かんじんりゃくようしゅう)</kana>』『阿弥陀経略記』『横川法語』(伝)等がある。七高僧の第六祖。

2024年5月18日 (土) 18:17時点における最新版

げんしん (942-1017)

 比叡山横川(よかわ)恵心院(えしんいん)に住したので恵心僧都(えしんそうず)ともいう。大和(やまと)国(現在の奈良県)当麻(たいま)の生れ。父は卜部(うらべ)正親、母は清原氏。比叡山に登り良源(りょうげん)に師事し、天台教学を究めたが、名声を嫌い横川に隠棲(いんせい)された。

 寛和元年(985)四十四歳の時に『往生要集』三巻を著し、末代の凡夫(ぼんぶ)のために穢土(えど)厭離(えんり)して阿弥陀仏浄土欣求(ごんぐ)すべきことを勧められた。著書は七十余部百五十巻といわれるが、浄土教関係では『往生要集』のほかに『勧心略要集(かんじんりゃくようしゅう)』『阿弥陀経略記』『横川法語』(伝)等がある。七高僧の第六祖。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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