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浄土

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

じょうど

 穢土(えど)に対する語。菩薩の智慧、清浄(しょうじょう)の行業によって建立された清浄な国土。 煩悩(ぼんのう)のけがれを離れたきよらかな世界。浄刹、浄界、浄国などともいう。阿弥陀仏の浄土は、安楽世界極楽世界安養(あんにょう)浄土ともいわれた。娑婆世界の西方十万億の国土を過ぎたところにあるという。親鸞聖人は、浄土について真実の浄土(真実報土)と方便の浄土(化土)とを区別されている。→真実報土化土補註2(往生・真実証・浄土)

 ここでは往生浄土の教えの意。 (安楽集 P.207)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

三種の荘厳
涅槃
大般涅槃
畢竟涅槃にあらざる
無住処涅槃
かくのごときの涅槃…有にあらず
親鸞聖人の仏身論

「証巻」には、

 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来はより来生して報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

「現代語」

 さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりに至る。必ずさとりに至るということは、常楽我浄という徳をそなえることである。この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、すなわち畢竟寂滅に住することである。この寂滅はこの上ないさとり、すなわち無上涅槃である。この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、すなわち無為法身である。この無為法身はすべてのものの真実のすがた、すなわち実相である。この実相はすべてのものの変ることのない本性、すなわち法性である。この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、すなわち真如である。この真如は相を超えた絶対の一、すなわち一如である。そして阿弥陀仏は、この一如よりかたちを現して、報身・応身・化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。

とあり、浄土は究極的なさとりの世界であるとされ、弥陀同体のさとりをしめされている。

またいはく、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身してを利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。また讃じていはく、帰去来魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。{以上}

とある。

参照WEB版浄土宗大辞典の「浄土」の項目

浄土(一般的な浄土の説明)

仏の住む場所はさとりによって形作られていてきよらかであるから、浄土、浄刹、浄界、浄国などといい、衆生が住む場所は煩悩でけがれているから穢土、穢国などという。 大乗仏教では涅槃に積極的なはたらきを認めて、涅槃を得た無数の仏がそれぞれに無数の衆生を教え導くとするので、その仏の住む国としての浄土を説く。 維摩経巻上仏国品には、心がきよければ住む世界もきよまる(心浄土浄)といい(*)、さとりを開けばこの娑婆世界が浄土となる(娑婆即寂光)とする。 法華経の霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、大乗密厳経の密厳浄土などはこの説に類する。
また無量寿経などには、娑婆世界以外に現に存在し、あるいは未来に建設される浄土があるとし、これらは菩薩が本願によって構想し、永い修行を経て仏になるとき完成する国土で、そこに生まれたいと願う者を生まれさせるとする。 他方にある浄土には、阿弥陀仏の西方極楽世界、阿閦仏(あしゅくぶつ)の東方妙喜世界、釈迦仏の西方無勝世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界などがあり、これら諸仏の浄土は娑婆世界から、それぞれの方角にあたっているので十方浄土という。

浄土教では特に阿弥陀仏の西方浄土を重んじ、ここに生まれることを説く。 極楽世界とは須摩提(梵)スカーヴァティーSukhāvatīの訳で、妙楽、安楽、安養、楽邦などともいう。 この浄土が菩薩の修めた因行の報(むくい)としてできた報土か、あるいは仏が衆生を救うてだてとして仮に現じた応化土か、また西にあたって十万億土を越えた彼方に実在するのか、それとも衆生の心の中にあるのかなどについては諸説がある。 浄土教では報土で西方に実在するとし、それに生まれる者の受ける楽として往生要集巻上本(p.855)には

聖衆来迎楽(命終に臨んで阿弥陀仏や観音・勢至の二菩薩などが来て迎え浄土に導く)、
蓮華初開楽(蓮華に託して浄土に往生(化生)してから、その蓮華が初めて開いて浄土の荘厳をを見る)、
身相神通楽(三十二相の身と天眼などの五種の神通(五通)を得る)
五妙境界楽(色声香味触の五境が勝妙である)、
快楽無退楽(楽を受けることが窮まりない)、
引接結縁楽(先に縁を結んだ恩人などを浄土へ迎えとる)、
聖衆倶会楽(多くの菩薩たちと一か所に会する)、
見仏聞法楽(仏を見、教えを聞くことが容易である)、
随心供仏楽(心のままに自由に十方の諸仏を供養する)、
増進仏道楽(修行がすすんでついに仏果をさとる)

の十楽を説く。 また極楽には辺地疑城胎宮懈慢界(極楽に至る途中にある国とも、また阿弥陀浄土の化土ともする)などがあり、仏智を疑うものの生まれるところとする。
また仏土ではないが、弥勒菩薩の兜率天や観音菩薩の補陀落山なども浄土ということができる。 (仏教学辞典)