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「若不生者のちかひ」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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にゃくふしょうじゃのちかひ
 
にゃくふしょうじゃのちかひ
  
 左訓】「わがちかひを信ずるもの、もし生れずは仏に成らじとなり」(異本)第十八願を指す。【([[浄土和讃#P--561|浄土 P.561]])
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 【左訓】「わがちかひを信ずるもの、もし生れずは仏に成らじとなり」(異本)[[第十八願]]を指す。([[浄土和讃#P--561|浄土 P.561]])
  
 
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現益
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一部の団体で、この文を信心を生じさせる意味にとる取る団体があるそうだが、この文は[[第十八願]]の別名の意。対応する『讃阿弥陀仏偈』を見れば判る。→[[讃阿弥陀仏偈と浄土和讃#18gwan]]
一部の団体で、この文を現益に取る団体があるそうだが、
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【1】 『大無量寿経』言「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(上)[文]
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;尊号真像銘文
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:「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、<u>わが浄土にもし生れずは仏に成らじ</u>と誓ひたまへる御のりなり。([[尊号真像銘文#P--644|尊号 P.644]])
  
 「大無量寿経言」といふは、如来の四十八願を説きたまへる経なり。「設我得仏」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
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;唯信鈔文意
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:「[[乃至十念…|乃至十念 若不生者 不取正覚]]」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。([[唯文#no8|唯文 P.715]])
  
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
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(26)
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:若不生者のちかひゆゑ
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: 信楽まことにときいたり
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: 一念慶喜するひとは
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: 往生かならずさだまりぬ
  
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
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:→[[誓願]]
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:→[[トーク:若不生者のちかひ]]
  
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
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[[Category:追記]]

2024年7月24日 (水) 20:31時点における最新版

にゃくふしょうじゃのちかひ

 【左訓】「わがちかひを信ずるもの、もし生れずは仏に成らじとなり」(異本)第十八願を指す。(浄土 P.561)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

一部の団体で、この文を信心を生じさせる意味にとる取る団体があるそうだが、この文は第十八願の別名の意。対応する『讃阿弥陀仏偈』を見れば判る。→讃阿弥陀仏偈と浄土和讃#18gwan

尊号真像銘文
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号 P.644)
唯信鈔文意
乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。(唯文 P.715)

(26)

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ
誓願
トーク:若不生者のちかひ