「またもし善の…名づく」の版間の差分
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− | 親鸞聖人は 「またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐて、内外明暗を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (信文類訓) と読まれた。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1233|選択集 P.1233]]) | + | 親鸞聖人は 「またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐて、内外明暗を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (信文類訓) と読まれた。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1233|選択集 P.1233]]、[[観経疏 散善義 (七祖)#P--456|散善義 P.456]]) |
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+ | ;又若起善三業者 必須真実心中作。不簡内外明闇 皆須真実 故名至誠心。<br /> | ||
+ | :当面読み またもし善の三業を起さば、かならず須(すべから)く真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みな須(すべから)く真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。 | ||
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+ | :宗祖読み またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須(もち)ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく。 | ||
+ | 真実の主体は行者ではなく、法蔵菩薩の願行が真実であるとして、須を「もちいる」と訓ぜられた。 |
2012年6月25日 (月) 08:25時点における最新版
またもしぜんの…なづく
親鸞聖人は 「またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐて、内外明暗を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (信文類訓) と読まれた。 (選択集 P.1233、散善義 P.456)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 又若起善三業者 必須真実心中作。不簡内外明闇 皆須真実 故名至誠心。
- 当面読み またもし善の三業を起さば、かならず須(すべから)く真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みな須(すべから)く真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
- 宗祖読み またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須(もち)ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
真実の主体は行者ではなく、法蔵菩薩の願行が真実であるとして、須を「もちいる」と訓ぜられた。