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観経疏 散善義 (七祖)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

散善義   観経正宗分散善義 巻第四

沙門善導集記 

散善義

文前料簡

総説

【1】
 これより以下は、次に三輩散善一門の義を解す。 この義のなかにつきてすなはちその二あり。
一には三福を明かしてもつて正因となす。
二には九品を明かしてもつて正行となす。

三福

いま三福といふは、

世福

第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。

戒善

第二の福はこれを戒善と名づく。 この戒のなかにつきてすなはち人・天・声聞・菩薩等の戒あり。 そのなかにあるいは具受・不具受あり、あるいは具持・不具持あり。 ただよく回向すればことごとく往生を得。

行善

第三の福を名づけて行善となす。 これはこれ大乗心を発せる凡夫、みづからよく行を行じ、兼ねて有縁を勧めて悪を捨て心を持たしめて、回して浄土に生ず。
またこの三福のなかにつきて、あるいは一人ひとへに世福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは一人ひとへに戒福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは一人ひとへに行福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは一人上の二福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは一人下の二福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは一人つぶさに三福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。 あるいは人等ありて、三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。
九品といふは、文に至りてまさに弁ずべし、知るべし。 いま略して三福差別の義意を料簡しをはりぬ。

上輩観

十一門科

【2】
 十四に上輩観の行善の文前につきて、総じて料簡してすなはち十一門となす。
一には総じて告命を明かす。
二にはその位を弁定す。
三には総じて有縁の類を挙ぐ。
四には三心を弁定してもつて正因となす。
五にはまさしく機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。
六にはまさしく受法の不同を明かす。
七にはまさしく修業の時節に延促異なることあることを明かす。
八には所修の行を回して、弥陀仏国に生ぜんと願ずることを明かす。
九には命終の時に臨みて聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。
十にはかしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。
十一には華開以後の得益に異なることあることを明かす。

いまこの十一門の義は、九品の文に約対するに、一々の品のなかにつきてみなこの十一あり。 すなはち一百番の義となす。

またこの十一門の義は、上輩の文前につきて、総じて料簡するもまた得たり。 あるいは中・下輩の文前につきて、おのおの料簡するもまた得たり。
またこの義もし文をもつて来し勘ふれば、すなはち具・不具あり。 隠顕ありといへども、もしその道理によらばことごとくみなあるべし。 この因縁のためのゆゑに、すべからく広開して顕出すべし。 依行するものをして解りやすく識りやすからしめんと欲す。
上来十一門の不同ありといへども、広く上輩三品の義意を料簡しをはりぬ。

上品上生釈

【3】
 次下に先づ上品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十二あり。

に「仏告阿難」より以下はすなはちならべて二の意を標す。 一には告命を明かす。
にはその位を弁定することを明かす。 これすなはち大乗を修学する上善の凡夫人なり。

に「若有衆生」より下「即便往生」に至るこのかたは、まさしく総じて有生の類を挙ぐることを明かす。 すなはちその四あり。 一には能信の人を明かす。 二には往生を求願することを明かす。 三には発心の多少を明かす。 四には得生の益を明かす。

に「何等為三」より下「必生彼国」に至るこのかたは、まさしく三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。 すなはちその二あり。
一には世尊、機に随ひて益を顕したまふこと意密にして知りがたし、仏のみづから問ひみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきことを明かす。
二には如来(釈尊)還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。

至誠心釈

【4】
 『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。


また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。 自利真実といふは、また二種あり。

一には真実心のうちに、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨したまふに同じく、われもまたかくのごとくならんと想ふなり。

二には真実心のうちに、自他凡聖等の善を勤修す。 真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃歎す。 また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す。 また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。 もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。 また真実心のうちの身業に、合掌し礼敬して、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。 また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。 また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ずるがごとくす。 また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨す。

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべしまたもし善の業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。

深心釈

二種深信

【5】
 「二には深心」と。 「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。

第三深信

【6】
 また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

第四深信

また決定して深く、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切の凡夫決定して生ずることを得と証勧したまふと信ず。

第五深信 唯信仏語(真仏弟子)

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。

第六深信

また一切の行者ただよくこの『経』(観経)によりて深く信じて行ずるものは、かならず衆生を誤たず。 なにをもつてのゆゑに。 仏はこれ大悲を満足したまへる人なるがゆゑなり、実語したまふがゆゑなり。 仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。 その学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによりて、果願いまだ円かならず。 これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。 平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請じて定となすべし。 もし仏意に称へばすなはち印可して、「如是如是」とのたまふ。 もし仏意に可はざれば、すなはち「なんぢらが所説この義不如是」とのたまふ。 印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同ず。 仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。 もし仏のあらゆる言説なれば、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。 もしは多、もしは少、すべて菩薩・人・天等に問ひて、その是非を定めざれ。 もし仏の所説なれば、すなはちこれ了教なり。 菩薩等の説はことごとく不了教と名づく、知るべし。 このゆゑにいまの時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。 ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。 菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑を抱きてみづから迷ひ、往生の大益を廃失すべからず。

第七深信

【7】
 また深心は「深き信なり」といふは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行異学・異見異執のために、退失し傾動せられざるなり。

就人立信

 問ひていはく、凡夫は智浅く、惑障処すること深し。

四重破人
第一破 解行不同人

もし解行不同の人多く経論を引きて来りてあひ妨難し、証して「一切の罪障の凡夫往生を得ず」といふに逢はば、いかんがかの難を対治して、信心を成就して、決定してただちに進みて、怯退を生ぜざらんや。

答へていはく、もし人ありて多く経論を引きて証して「生ぜず」といはば、行者すなはち報へていへ。 「なんぢ経論をもつて来し証して〈生ぜず〉といふといへども、わが意のごときは決定してなんぢが破を受けず。 なにをもつてのゆゑに。 しかるにわれまた、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。 ことごとくみな仰信す。 しかるに仏かの経を説きたまふ時は、処別・時別・対機別・利益別なり。 またかの経を説きたまふ時は、すなはち『観経』・『弥陀経』等を説きたまふ時にあらず。
しかるに仏の説教は機に備ふ、時また不同なり。 かれすなはち通じて人・天・菩薩の解行を説く。 いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、ただ韋提および仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、証して〈生ずることを得〉とのたまふ。 この因縁のために、われいま一心にこの仏教によりて決定して奉行す。 たとひなんぢら百千万億ありて〈生ぜず〉といふとも、ただわが往生の信心を増長し成就せん」と。

第二破 地前菩薩

また行者さらに向かひて説きていへ。
「なんぢよく聴け、われいまなんぢがためにさらに決定の信相を説かん。 たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉といふとも、われまたいまだ一念の疑心を起さず。 ただわが清浄の信心を増長し成就せん。 なにをもつてのゆゑに。
仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑなり」と。

第三破 地上菩薩

また行者よく聴け。
たとひ初地以上十地以来、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、異口同音にみないはく、「釈迦仏、弥陀を指讃し、三界・六道を毀呰し、衆生を勧励し、〈専心に念仏し、および余善を修すれば、この一身を畢へて後必定してかの国に生ず〉といふは、これかならず虚妄なり、依信すべからず」と。 われこれらの所説を聞くといへども、また一念の疑心を生ぜず。 ただわが決定上上の信心を増長し成就せん。
なにをもつてのゆゑに。
すなはち仏語は真実決了の義なるによるがゆゑなり。 仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、これ疑惑心中の語にあらざるがゆゑなり。 また一切の菩薩の異見・異解のために破壊せられず。 もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違せじ。

第四破 化仏報仏

またこの事を置く、行者まさに知るべし。 たとひ化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐きてあまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたまはく、「釈迦の所説に、あひ讃めて一切の凡夫を勧発して、〈専心に念仏し、および余善を修して、回願すればかの浄土に生ずることを得〉といふは、これはこれ虚妄なり、さだめてこの事なし」と。
われこれらの諸仏の所説を聞くといへども、畢竟じて、一念疑退の心を起してかの仏国に生ずることを得ざることを畏れず。 なにをもつてのゆゑに。

一仏は一切仏なり、あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲、等同にして少しき差別もなし。 このゆゑに一仏の制したまふところは、すなはち一切仏同じく制したまふ。 前仏、殺生・十悪等の罪を制断したまひ、畢竟じて犯さず行ぜざるをば、すなはち十善・十行にして六度の義に随順すと名づけたまふがごとき、もし後仏、出世したまふことあらんに、あに前の十善を改めて十悪を行ぜしめたまふべけんや。

この道理をもつて推験するに、あきらかに知りぬ、諸仏の言行はあひ違失せざることを。

たとひ釈迦一切の凡夫を指勧して、「この一身を尽すまで専念専修すれば、捨命以後さだめてかの国に生ず」とのたまはば、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまはん。 なにをもつてのゆゑに。 同体の大悲なるがゆゑなり。 一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。 一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。

すなはち『弥陀経』のなかに説きたまふ。 釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得」(意)と勧めたまひ、次下の文に(同・意)、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時、悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指讃して、〈衆生称念すればかならず往生を得〉と勧励したまふを讃じたまふ」とのたまふは、すなはちその証なり。

また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。 「なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。 一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし」と。 このゆゑに一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふ。

これをに就きて信を立つと名づく。

就行立信
正雑ニ行

【8】
 次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。

五正行

正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。

またこの正のなかにつきてまた二種あり。

称名正定業

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。

雑行

この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。

もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、

すべて疎雑の行と名づく。
ゆゑに深心と名づく。

回向発願心釈

【9】
 「三には回向発願心」と。

「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。

また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。

【10】
 問ひていはく、もし解行不同の邪雑人等ありて、来りてあひ惑乱し、あるいは種々の疑難を説きて、「往生を得ず」といひ、あるいはいはく、「なんぢら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切凡聖の身の上においてつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界の悪道に繋属す。
いかんぞ一生の修福の念仏をもつてすなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや」と。

答へていはく、諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。 たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。 かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。 すなはち目に見るべし、千差万別なり。 いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。 随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。 随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。 これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。 なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。
しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。 すなはちなんぢが所求にあらず。 なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。 またわが所求にあらず。 このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。 行者まさに知るべし。 もしを学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。 もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。 少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

二河白道譬喩

【11】
 また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。

たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。

まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。

「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。 二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。

すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。

なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。
これはこれ喩へなり。

合譬/合法

 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。 「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。
「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。
「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。
すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。
善心なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
た「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。

また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。
「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。 すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。
「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。


【12】
 また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。

また「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

三心決釈

【13】
 三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。 願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。 またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし。

三種功徳

【14】
に「復有三種衆生」より以下は、まさしく機のよく法を奉け、教によりて修行するに堪へたるを簡ぶことを明かす。

に「何等為三」より下「六念」に至るこのかたは、まさしく受法の不同を明かす。 すなはちその三あり。
一には慈心不殺を明かす。 しかるに殺業に多種あり。 あるいは口殺あり、あるいは身殺あり、あるいは心殺あり。 「口殺」といふは、処分許可するを名づけて口殺となす。 「身殺」といふは、身手等を動かし指授するを名づけて身殺となす。 「心殺」といふは、方便を思念して計校する等を名づけて心殺となす。 もし殺業を論ぜば四生を簡ばず、みなよく罪を招きて浄土に生ずることを障ふ。 ただ一切の生命において慈心を起すは、すなはちこれ一切衆生に寿命安楽を施す。 またこれ最上勝妙の戒なり。 これすなはち上の初福(世福)の第三の句に「慈心不殺」といへるに合す。

すなはち止・行の二善あり。 みづから殺せざるがゆゑに止善と名づく。 他を教へて殺せざらしむるがゆゑに行善と名づく。 自他はじめて断ずるを止善と名づけ、畢竟じて永く除くを行善と名づく。 止・の二善ありといへども、総じて慈下の行を結成す。 「具諸戒行」といふは、もし人・天・二乗の器に約すればすなはち小戒と名づけ、もし大心大行の人に約すれば、すなはち菩薩戒と名づく。 この戒もし位をもつて約すれば、これ上輩三位のものに当れり、すなはち菩薩戒と名づく。 まさしく人位定まれるによるがゆゑに自然に転成す。 すなはち上の第二福(戒福)の戒分の善根に合す。

二には読誦大乗を明かす。 これ衆生の性習不同にして、法を執ることおのおの異なることを明かす。 前の第一の人は、ただ慈を修し、戒を持つをもつて能となす。 次に第二の人は、ただ読誦大乗をもつて是となす。 しかるに戒はすなはちよく五乗・三仏の機を持ち、法はすなはち三賢・十地万行の智慧を薫成す。 もし徳用をもつて来し比校せば、おのおの一の能あり。 すなはち上の第三福(行福)の第三の句に「読誦大乗」といへるに合す。

三には修行六念を明かす。 いはゆる仏・法・僧を念じ、戒・捨・天等を念ず。 これまた通じて上の第三福の大乗の意義に合す。

「念仏」といふは、すなはちもつぱら阿弥陀仏の口業の功徳、身業の功徳、意業の功徳を念ず。 一切の諸仏もまたかくのごとし。

また一心にもつぱら諸仏所証の法ならびにもろもろの眷属の菩薩僧を念じ、また諸仏の戒を念じ、および過去の諸仏、現在の菩薩等の、なしがたきをよくなし、捨てがたきをよく捨て、内に捨て外に捨て、内外に捨つるを念ず。 これらの菩薩ただ法を念ぜんと欲して身財を惜しまず。 行者等すでにこの事を念知せば、すなはちすべからくつねに仰ぎて前賢・後聖を学し、身命を捨つる意をなすべし。
また「念天」とはすなはちこれ最後身十地の菩薩なり。 これらは難行の行すでに過ぎ、三祇の劫すでに超え、万徳の行すでに成じ、灌頂の位すでに証せり。 行者等すでに念知しをはりなば、すなはちみづから思念すべし。 わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。 たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

に「回向発願」より以下は、まさしくおのおの前の所修の業を回して、所求の処に向かふことを明かす。

に「具此功徳」より以下は、まさしく修行の時節の延促を明かす。 上一形を尽し、下一日・一時・一念等に至る。 あるいは一念・十念より一時・一日・一形に至る。 大意は、一たび発心して以後、誓ひてこの生を畢るまで退転あることなし。 ただ浄土をもつて期となす。 また「具此功徳」といふは、あるいは一人にして上の二を具し、あるいは一人にして下の二を具し、あるいは一人にして三種ことごとく具す。 あるいは人ありて三種分なきを、名づけて人の皮を着たる畜生となす、人と名づくるにあらず。 また具三・不具三を問はず、回すればことごとく往生を得、知るべし。

に「生彼国時」より下「往生彼国」に至るこのかたは、まさしく命終の時に臨みて聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその十一あり。 一には所帰の国を標定することを明かす。 二にはかさねてその行を顕して、決定精勤のものを指し出すことを明かす。 またこれ功徳の強弱を校量す。 三には弥陀化主の身みづから来赴したまふことを明かす。 四には「観音」より以下は、さらに無数の大衆等みな弥陀に従ひて行者を来迎することを顕すことを明かす。 五には宝宮、衆に随ふことを明かす。 六にはかさねて観音・勢至ともに金台を執りて、行者の前に至ることを明かす。 七には弥陀光を放ちて行者の身を照らしたまふことを明かす。 八には仏すでに光を舒べて照らし、およびすなはち化仏等と同時に手を接したまふことを明かす。 九にはすでに接して台に昇らしめて、観音等同声に行者の心を讃勧したまふことを明かす。 十にはみづから見れば台に乗じ、仏に従ふことを明かす。 十一にはまさしく去時の遅疾を明かす。

に「生彼国」より以下は、まさしく金台かしこに到りて、さらに華合の障なきことを明かす。

十一に「見仏色身」より下「陀羅尼門」に至るこのかたは、まさしく金台到りて後の得益の不同を明かす。 すなはちその三あり。 一にははじめて妙法を聞きてすなはち無生を悟る。 二には須臾に歴事して次第に授記せらる。 三には本国・他方にしてさらに聞持の二益を証す。

十二に「是名」より以下は、総じて結す。
上来十二句の不同ありといへども、広く上品上生の義を解しをはりぬ。

上品中生釈

【15】
 次に上品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその八あり。

に「上品中生者」より以下は、総じて位の名を挙ぐ。 すなはちこれ大乗次善の凡夫人なり。

に「不必受持」より下「生彼国」に至るこのかたは、まさしく第六・第七・第八門のなかの、所修の業を回して、西方を定め指すことを明かす。 すなはちその四あり。 一には受法不定にして、あるいは読誦を得、読誦を得ざることを明かす。 二にはよく大乗の空の義を解することを明かす。 あるいは諸法は一切みな空にして生死・無為もまた空なり。 凡聖・明闇もまた空なり。 世間の六道、出世間の三賢・十聖等、もしその体性に望むれば畢竟じて不二なりと聴聞す。 この説を聞くといへども、その心坦然として疑滞を生ぜず。 三には深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。 もし疑謗を生ずれば、すなはち福行を成ぜず。 世間の果報すらなほ得べからず、いかにいはんや浄土に生ずることを得んや。

これすなはち第三福(行福)の第二・第三の句に合す。 四には前の所業を回して所帰を標指することを明かす。

に「行此行者」より下「迎接汝」に至るこのかたは、まさしく弥陀、もろもろの聖衆と台を持して来応したまふことを明かす。 すなはちその五あり。 一には行者の命延久しからざることを明かす。 二には弥陀、衆とみづから来りたまふことを明かす。 三には侍者台を持して行者の前に至ることを明かす。 四には仏、聖衆と同声に讃歎して、〔行者の〕本所修の業を述べたまふことを明かす。 五には仏、行者の疑を懐くことを恐れたまふがゆゑに、「われ来りてなんぢを迎ふ」とのたまふことを明かす。

に「与千化仏」より下「七宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、衆聖の授手と、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその五あり。 一には弥陀、千の化仏と同時に授手したまふことを明かす。 二には行者すでに授手を蒙りてすなはちみづから身を見れば、すでに身紫金の台に坐することを明かす。 三にはすでにみづから台に坐することを見て、合掌して仰ぎて弥陀等の衆を讃ずることを明かす。 四にはまさしく去時の遅疾を明かす。 五にはかしこに到りて宝池のうちに止住することを明かす。

に「此紫金台」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。 行強きによるがゆゑに、上上はすなはち金剛台を得。 行劣なるによるがゆゑに、上中はすなはち紫金台を得。 〔浄土に〕生じて宝池にありて宿を経て開くるがごとし。

に「仏及菩薩倶時放光」より下「得不退転」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。
すなはちその五あり。 一には仏光、身を照らすことを明かす。 二には行者すでに体を照らすことを蒙りて、目すなはち開明なることを明かす。 三には人中にして習へるところ、かしこに到りて衆声の彰すところとなり、またその法を聞くことを明かす。 四にはすでに眼開けて法を聞くことを得て、すなはち金台より下り、親しく仏辺に到りて、歌揚して徳を讃ずることを明かす。 五には時を経ること七日にして、すなはち無生を得ることを明かす。 「七日」といふは、おそらくはこの間の七日なり、かの国の七日を指すにあらず。 この間に七日を経るは、かの処にはすなはちこれ一念須臾のあひだなり、知るべし。

に「応時即能飛至十方」より下「現前授記」に至るこのかたは、まさしく他方の得益を明かす。 すなはちその五あり。 一には身十方に至ることを明かす。 二には一々に諸仏を歴供することを明かす。 三には多くの三昧を修することを明かす。 四には延時の得忍を明かす。 五には一々の仏辺にして現に授記を蒙ることを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来八句の不同ありといへども、広く上品中生を解しをはりぬ。

上品下生釈

【16】
 次に上品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその八あり。

に「上品下生者」より以下は、総じて位の名を挙ぐ。 すなはちこれ大乗下善の凡夫人なり。

に「亦信因果」より下「無上道心」に至るこのかたは、まさしく第六門のなかの、受法の不同を明かす。 すなはちその三あり。 一には所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。 もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。 もし深く浄土無為の楽を信ずるものは、善心一たび発りて永く退失することなし。 二には信間断すといへども、一切の大乗において疑謗することを得ざることを明かす。 もし疑謗を起さば、たとひ千仏身を繞りたまふとも、救ふべきに由なし。 三には以上の諸善また功なきに似たることを明かす。 ただ一念を発して苦を厭ひ、諸仏の境界に生じ、すみやかに菩薩の大悲の願行を満てて、生死に還り入りて、あまねく衆生を度せんと楽ふ。 ゆゑに発菩提心と名づく。 この義第三福(行福)のなかにすでに明かしをはりぬ。

に「以此功徳」より以下は、まさしく第八門のなかの、前の正行を回して、所求の処に向かふことを明かす。

に「行者命欲終時」より下「七宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、臨終に聖来りて迎接したまふと、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその九あり。 一には命延久しからざることを明かす。 二には弥陀、もろもろの聖衆と金華を持して来応したまふことを明かす。 三には化仏同時に授手したまふことを明かす。 四には聖衆同声に等しく讃ずることを明かす。 五には行者の罪滅するがゆゑに「清浄」といひ、〔行者の〕本所修を述ぶるがゆゑに「発無上道心」といふことを明かす。 六には行者霊儀を覩るといへども、疑心ありて往生を得ざることを恐る。 このゆゑに聖衆同声に告げて、「われ来りてなんぢを迎ふ」といふことを明かす。 七にはすでに告げを蒙り、およびすなはち自身を見るに、すでに金華の上に坐して、籠々として合することを明かす。 八には仏身の後に随ひて、一念にすなはち生ずることを明かす。 九にはかしこに到りて宝池のなかにあることを明かす。

に「一日一夜」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。

に「七日之中」より下「皆演妙法」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。

に「遊歴十方」より下「住歓喜地」に至るこのかたは、まさしく他方の得益を明かす、また後益と名づく。

に「是名」より以下は、総じて結す。 上来八句の不同ありといへども、広く上品下生を解しをはりぬ。

上輩総讃

【17】
 『讃』にいはく(礼讃)、

「上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず。
行の差別につきて三品を分つ。五門相続して三因を助く。
一日七日もつぱら精進して、畢命に台に乗じて六塵を出づ
慶ばしきかな、逢ひがたくしていま遇ふことを得たり。
永く無為法性の身を証せん」と。

上来三位の不同ありといへども、総じて上輩一門の義を解しをはりぬ。

中輩観

文前料簡

【18】
 十五に中輩観の行善の文前につきて、総じて料簡してすなはち十一門となす。
には総じて告命を明かす。
にはまさしくその位を弁定することを明かす。
にはまさしく総じて有縁の類を挙ぐることを明かす。
にはまさしく三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。
にはまさしく機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。
にはまさしく受法の不同を明かす。
にはまさしく修業の時節に延促異なることあることを明かす。
にはまさしく所修の行を回して、弥陀仏国に生ぜんと願ずることを明かす。
にはまさしく命終の時に臨みて聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。
にはまさしくかしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。
十一にはまさしく華開以後の得益に異なることあることを明かす。
上来十一門の不同ありといへども、広く中輩三品を料簡しをはりぬ。

中品上生釈

【19】
 次に中品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその八あり。
に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。

に「中品上生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。すなはちこれ小乗根性の上善の凡夫人なり。

に「若有衆生」より下「無衆過患」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、受法の不同を明かす。 すなはちその四あり。 一には機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。 二には小乗の斎戒等を受持することを明かす。 三には小戒の力微にして五逆の罪を消さざることを明かす。 四には小戒等を持ちて犯すことあることを得ずといへども、もしあらば、つねにすべからく改悔してかならず清浄ならしむべきことを明かす。 これすなはち上の第二の戒善の福に合す。 しかるに修戒の時は、あるいはこれ終身、あるいは一年・一月・一日・一夜・一時等なり。 この時また不定なり。 大意はみな畢命を期となして毀犯することを得ず。

に「以此善根回向」より以下は、まさしく第八門のなかの、所修の業を回して所求の処に向かふことを明かす。

に「臨命終時」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、終時に聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその六あり。 一には命延久しからざることを明かす。 二には弥陀、比丘衆と来りて、菩薩あることなきことを明かす。 これ小乗の根性なるによりて、また小根の衆を感ぜり。 三には仏、金光を放ちて行者の身を照らしたまふことを明かす。 四には仏、ために法を説き、また出家は多衆の苦、種々の俗縁・家業・王官・長征・遠防等を離るることを讃ずることを明かす。 「なんぢいま出家して四輩に仰がれ、万事憂へず。 迥然として自在にして、去住障なし。 これがために道業を修することを得」と。 このゆゑに讃じて「衆苦を離る」とのたまふ。 五には行者すでに見聞しをはりて欣喜に勝へず。
すなはちみづから身を見ればすでに華台に坐し、頭を低れて仏を礼することを明かす。 六には行者頭を低るることここにありて、頭を挙げをはればかの国にあることを明かす。

に「蓮華尋開」よりは、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。

に「当華敷時」より下「八解脱」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。 すなはちその三あり。 一には宝華たちまち発くることを明かす。 これ戒行精強なるによるがゆゑなり。 二には法音同じく四諦の徳を讃ずることを明かす。 三にはかしこに到りて四諦を説くを聞きて、すなはち羅漢の果を獲ることを明かす。 「羅漢」といふは、ここには無生といひ、また無着といふ。 因亡ずるがゆゑに無生なり。 果喪するがゆゑに無着なり。 「三明」といふは、宿命明・天眼明・漏尽明なり。 「八解脱」といふは、内有色外観色は一の解脱なり。 内無色外観色は二の解脱なり。 不浄相は三の解脱なり。 四空とおよび滅尽と総じて八を成ず。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来八句の不同ありといへども、広く中品上生を解しをはりぬ。

中品中生釈

【20】
 次に中品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその七あり。
に「中品中生者」よりは、総じて行の名を挙げてその位を弁定す。 すなはちこれ小乗下善の凡夫人なり。

に「若有衆生」より下「威儀無欠」に至るこのかたは、まさしく第五・六・七門のなかの、簡機・時分・受法等の不同を明かす。 すなはちその三あり。 一には八戒斎を受持することを明かす。 二には沙弥戒を受持することを明かす。 三には具足戒を受持することを明かす。 この三品の戒はみな同じく一日一夜なり。 清浄にして犯すことなく、すなはち軽罪に至るまでも、極重の過を犯すがごとくし、三業の威儀に失あらしめず。 これすなはち上の第二の福(戒福)に合す、知るべし。

に「以此功徳」より以下は、まさしく所修の業を回して、所求の処に向かふことを明かす。

に「戒香熏修」より下「七宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、行者の終時に聖来りて迎接したまふと、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその八あり。 一には命延久しからざることを明かす。 二には弥陀、もろもろの比丘衆と来りたまふことを明かす。 三には仏、金光を放ちて行者の身を照らしたまふことを明かす。 四には比丘、華を持して来現することを明かす。 五には行者みづから空声等の讃を見聞することを明かす。 六には仏讃じて、「なんぢ深く仏語を信じ、随順して疑ふことなし。 ゆゑに来りてなんぢを迎ふ」とのたまふことを明かす。 七にはすでに仏讃を蒙りてすなはち見るに、みづから華座に坐す。 坐しをはれば、華合することを明かす。 八には華すでに合しをはりて、すなはち西方宝池のうちに入ることを明かす。

に「経於七日」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。

に「華既敷已」より下「成羅漢」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。 すなはちその四あり。 一には華開けて仏を見たてまつることを明かす。 二には合掌して仏を讃ずることを明かす。 三には法を聞きて初果を得ることを明かす。 四には半劫を経をはりてまさに羅漢となることを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来七句の不同ありといへども、広く中品中生を解しをはりぬ。

中品下生釈

【21】
 次に中品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すなはちその七あり。

に「中品下生」より以下は、まさしく総じて行の名を挙げて、その位を弁定することを明かす。 すなはちこれ世善上福の凡夫人なり。

に「若有善男子」より下「行世仁慈」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機・受法の不同を明かす。 すなはちその四あり。 一には簡機を明かす。 二には父母に孝養し、六親に奉順することを明かす。 すなはち上の初福(世福)の第一・第二の句に合す。 三にはこの人、性調ほり柔善にして自他を簡ばず、の苦に遭へるを見て慈敬を起すことを明かす。 四にはまさしくこの品の人かつて仏法を見聞せず、また悕求することを解らず、ただみづから孝養を行ずることを明かす、知るべし。

に「此人命欲終時」より下「四十八願」に至るこのかたは、まさしく第八門のなかの、臨終に仏法に遇逢ふ時節の分斉を明かす。

に「聞此事已」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、得生の益去時の遅疾とを明かす。

に「生経七日」よりは、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華の開と不開とを異となすことを明かす。

に「遇観世音」より下「成羅漢」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。 すなはちその三あり。 一には時を経て以後、観音・大勢に遇ひたてまつることを得ることを明かす。 二にはすでに二聖(観音・勢至)に逢ひたてまつりて、妙法を聞くことを得ることを明かす。 三には一小劫を経て以後、はじめて羅漢を悟ることを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来七句の不同ありといへども、広く中品下生を解しをはりぬ。

中輩総讃

【22】
 『讃』にいはく(礼讃)、

「中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。
父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。
仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。
百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す」と。

上来三位の不同ありといへども、総じて中輩一門の義を解しをはりぬ。

下輩観

文前料簡

【23】
 十六に下輩観の善悪二行の文前につきて、料簡してすなはち十一門となす。
には総じて告命を明かす。
にはその位を弁定す。
には総じて有縁の生類を挙ぐ。
には三心を弁定してもつて正因となす。
には機の堪と不堪とを簡ぶ
には苦楽の二法を受くる不同を明かす。
には修業の時節に延促なることあることを明かす。
には所修の行を回して、所求の処に向かふことを明かす。
には臨終の時聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。
にはかしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。
十一には華開以後の得益に異なることあることを明かす。
上来十一門の不同ありといへども、総じて下輩の三位を料簡しをはりぬ。

下品上生釈

【24】
 次に下品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその九あり。

に「仏告阿難」より以下は、まさしく告命を明かす。

に「下品上生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。 すなはちこれ十悪を造る軽罪の凡夫人なり。

に「或有衆生」より下「無有慚愧」に至るこのかたは、まさしく第五門のなかの、簡機に、一生以来の造悪の軽重の相を挙出することを明かす。 すなはちその五あり。 一には総じて造悪の機を挙ぐることを明かす。 二には衆悪を造作することを明かす。 三には衆罪を作るといへども、もろもろの大乗において誹謗を生ぜざることを明かす。 四にはかさねて造悪の人をして、智者の類にあらざることを明かす。 五にはこれらの愚人衆罪を造るといへども、総じて愧心を生ぜざることを明かす。

「命欲終時」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく造悪の人等臨終に善に遇ひて法を聞くことを明かす。 すなはちその六あり。 一には命延久しからざることを明かす。 二にはたちまちに往生の善知識に遇ふことを明かす。 三には善人、ために衆経を讃ずることを明かす。 四にはすでに経を聞く功力、罪を除くこと千劫なることを明かす。 五には智者教を転じて、弥陀の号を称念せしむることを明かす。 六には弥陀の名を称するをもつてのゆゑに、罪を除くこと五百万劫なることを明かす。

【25】
 問ひていはく、なんがゆゑぞ、経を聞くこと十二部なるには、ただ罪を除くこと千劫、仏を称すること一声するには、すなはち罪を除くこと五百万劫なるは、なんの意ぞや。

答へていはく、造罪の人障重くして、加ふるに死苦の来り逼むるをもつてす。 善人多経を説くといへども、餐受の心浮散す。 心散ずるによるがゆゑに、罪を除くことやや軽し。 また仏名はこれ一なれば、すなはちよく散を摂してもつて心を住む。 また教へて正念に名を称せしむ。 心重きによるがゆゑに、すなはちよく罪を除くこと多劫なり。

【26】
に「爾時彼仏」より下「生宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、終時化衆の来迎と、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその六あり。 一には行者まさしく名を称する時、かの弥陀すなはち化衆を遣はして声に応じて来現せしめたまふことを明かす。 二には化衆すでに身現じてすなはち同じく行人を讃じたまふことを明かす。 三には所聞の化讃、ただ称仏の功を述べて、「われ来りてなんぢを迎ふ」とのたまひて聞経の事を論ぜざることを明かす。

しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。

この『経』(観経)および諸部のなかのごとき、処々に広く歎じて、勧めて名を称せしむ。 まさに要益となすなり、知るべし。 四にはすでに化衆の告げを蒙り、およびすなはち光明の室に遍するを見ることを明かす。 五にはすでに光照を蒙りて、報命すなはち終ることを明かす。 六には華に乗じ、仏に従ひて宝池のなかに生ずることを明かす。

に「経七日」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。

に「当華敷時」より下「得入初地」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益に異なることあることを明かす。 すなはちその五あり。 一には観音等先づ神光を放つことを明かす。 二には〔観音等の〕身、行者の宝華の側に赴くことを明かす。 三にはために前生所聞の教を説くことを明かす。 四には行者聞きをはりて領解し発心することを明かす。 五には遠く多劫を経て、百法の位に証臨することを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。

に「得聞仏名」より以下は、かさねて行者の益を挙ぐ。 ただ念仏のみ独り往生を得るにあらず。 法・僧通念するもまた去くことを得。 上来九句の不同ありといへども、広く下品上生を解しをはりぬ。

下品中生釈

【27】
 次に下品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその七あり。

に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。

に「下品中生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。 すなはちこれ破戒次罪の凡夫人なり。

に「或有衆生」より下「応堕地獄」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機と造業とを明かす。 すなはちその七あり。 一には総じて造悪の機を挙ぐることを明かす。 二には多く諸戒を犯すことを明かす。 三には僧物偸盗することを明かす。 四には邪命説法を明かす。 五には総じて愧心なきことを明かす。 六には衆罪を兼ね造り、内には心に悪を発し、外にはすなはち身口に悪をなすことを明かす。 すでに自身不善なれば、また見るものみな憎む。 ゆゑに「もろもろの悪心をもつてみづから荘厳す」といふ。 七にはこの罪状を験むるに、さだめて地獄に入るべきことを明かす。

に「命欲終時」より下「即得往生」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、終時善悪来迎することを明かす。

すなはちその九あり。 一には罪人の命延久しからざることを明かす。 二には獄火来現することを明かす。 三にはまさしく火現ずる時、善知識に遇ふことを明かす。 四には善人、ために弥陀の功徳を説くことを明かす。 五には罪人すでに弥陀の名号を聞きて、すなはち罪を除くこと多劫なることを明かす。 六にはすでに罪滅を蒙りて、火変じて風となることを明かす。 七には天華風に随ひて来応して、目の前に羅列することを明かす。 八には化衆来迎することを明かす。 九には去時の遅疾を明かす。

に「七宝池中」より下「六劫」に至るこのかたは、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。

に「蓮華乃敷」より下「発無上道心」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益に異なることあることを明かす。 すなはちその三あり。 一には華すでに開けをはりて、観音等梵声をもつて安慰することを明かす。 二にはために甚深の妙典を説くことを明かす。 三には行者領解し、発心することを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来七句の不同ありといへども、広く下品中生を解しをはりぬ。

下品下生釈

【28】
 次に下品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその七あり。

に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。
に「下品下生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。 すなはちこれつぶさに五逆等を造れる重罪の凡夫人なり。
に「或有衆生」より下「受苦無窮」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機と造悪の軽重の相とを明かす。

すなはちその七あり。
一には造悪の機を明かす。
二には総じて不善の名を挙ぐることを明かす。
三には罪の軽重を簡ぶことを明かす。
四には総じて衆悪を結して、智人の業にあらずといふことを明かす。
五には悪を造ることすでに多ければ、罪また軽きにあらざることを明かす。
六には業としてその報を受けざるはあらず、因としてその果を受けざるはあらず。 因業すでにこれ楽にあらず、果報いづくんぞよく苦ならざらんといふことを明かす。
七には造悪の因すでに具して、酬報の劫いまだ窮まらざることを明かす。

逆謗摂不

【29】

 問ひていはく、四十八願のなかの〔第十八願の〕ごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。 いまこの『観経』の下品下生のなかには、謗法を簡びて五逆を摂せるは、なんの意かあるや。

抑止門釈

答へていはく、この義仰ぎて抑止門のなかにつきて解せん。 四十八願のなかの〔第十八願の〕ごとき、謗法と五逆とを除くことは、しかるにこの二業その障極重なり。 衆生もし造ればただちに阿鼻に入り、歴劫周慞して出づべきに由なし。 ただ如来それこの二の過を造ることを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」とのたまへり。 またこれ摂せざるにはあらず。

また下品下生のなかに、五逆を取りて謗法を除くは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。 還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。 しかるに謗法の罪はいまだ為らず。 また止めて「もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得ず」とのたまふ。

これは未造業につきて解す。 もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。 かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経。 これらの罪人華のうちにある時、三種の障あり。
一には仏およびもろもろの聖衆を見ることを得ず。
二には正法を聴聞することを得ず。
三には歴事供養することを得ず。
これを除きて以外はさらにもろもろの苦なし。 経にのたまはく、「なほ比丘の三禅に入れる楽のごとし」と、知るべし。 華のなかにありて多劫開けずといへども、阿鼻地獄のなかにして、長時永劫にもろもろの苦痛を受くるに勝れざるべけんや。

この義抑止門につきて解しをはりぬ。

転教口称

【30】
に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。

すなはちその十あり。
一にはかさねて造悪の人をすることを明かす。
二には命延久しからざることを明かす。
三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。
四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。
五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。
六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。
七には念数の多少、声々間なきことを明かす。
八には罪を除くこと多劫なることを明かす。
九には臨終正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。
十には去時の遅疾、ただちに所帰の国に到ることを明かす。

に「於蓮華中満十二劫」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。

に「観音大勢」より下「発菩提心」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益に異なることあることを明かす。
すなはちその三あり。
一には二聖(観音・勢至)、ために甚深の妙法を宣べたまふことを明かす。
二には罪を除きて歓喜することを明かす。
三には後に勝心を発すことを明かす。

に「是名」より以下は、総じて結す。
上来七句の不同ありといへども、広く下品下生を解しをはりぬ。

下輩総讃

【31】
 『讃』にいはく(礼讃)、

「下輩は下行下根の人なり。十悪・五逆等の貪瞋と、
四重と偸僧謗正法と、いまだかつて慚愧して前のを悔いず。
終時に苦相、雲のごとくに集まり、地獄の猛火罪人の前にあり。
たちまちに往生の善知識の、急に勧めてもつぱらかの仏の名を称せしむるに遇ふ。
化仏・菩薩声を尋ねて到りたまふ。一念心を傾くれば宝蓮に入る。
三華障重くして多劫に開く。時にはじめて菩提の因を発す」と。

上来三位の不同ありといへども、総じて下輩一門の義を解しをはりぬ。

【32】
 前には十三観を明かしてもつて「定善」となす。 すなはちこれ韋提の致請にして、如来(釈尊)すでに答へたまふ。 後には三福・九品を明かして、名づけて「散善」となす。 これ仏(釈尊)の自説なり。

定散両門ありて異なることありといへども、総じて正宗分を解しをはりぬ。

得益分

【33】
 三に得益分のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁ず。 すなはちその七あり。

初めに「説是語」といふは、まさしく総じて前の文をして後の得益の相を生ずることを明かす。

二に「韋提」より以下は、まさしくよく法を聞く人を明かす。

三に「応時即見極楽」より以下は、まさしく夫人等上の光台のなかにおいて極楽の相を見ることを明かす。

四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。

五に「侍女」より以下は、まさしくこの勝相を覩て、おのおの無上の心を発して浄土に生ぜんと求むることを明かす。

六に「世尊悉記」より以下は、まさしく侍女尊記を蒙ることを得て、みなかの国に生じてすなはち現前三昧を獲ることを明かす。

七に「無量諸天」より以下は、まさしく前の厭苦の縁のなかに、釈・梵・護世の諸天等、仏(釈尊)に従ひて王宮にして空に臨みて法を聴くことを明かす。 あるいは釈迦毫光の転変を見、あるいは弥陀金色の霊儀を見、あるいは九品往生の殊異を聞き、あるいは定散両門ともに摂することを聞き、あるいは善悪の行斉しく帰することを聞き、あるいは西方浄土、目に対して遠きにあらざることを聞き、あるいは一生専精に志を決すれば永く生死と流を分つことを聞く。 これらの諸天すでに如来(釈尊)の広く希奇の益を説きたまふを聞きて、おのおの無上の心を発す。 これすなはち仏はこれ聖中の極なり。 語を発したまへば経となり、凡惑の類餐を蒙る。 よくこれを聞くものをして益を獲しむ。

上来七句の不同ありといへども、広く得益分を解しをはりぬ。

流通分

【34】
 四に次に流通分を明かす。 なかに二あり。
一には王宮の流通を明かす。
二には耆闍の流通を明かす。
いま先づ王宮の流通分のなかにつきてすなはちその七あり。

に「爾時阿難」より以下は、まさしく請発の由を明かす。
に「仏告阿難」より以下は、まさしく如来依正を双べ標し、もつて経の名を立て、またよく経によりて行を起せば、三障の雲おのづから巻くことを明かして、前の初めの問の「云何名此経」の一句に答ふ。
に「汝当受持」より以下は、前の後の問の「云何受持」の一句に答ふ。
に「行此三昧者」より下「何況憶念」に至るこのかたは、まさしく比校顕勝して、人を勧めて奉行せしむることを明かす。 すなはちその四あり。
一には総じて定善を標してもつて三昧の名を立つることを明かす。 二には観によりて修行して、すなはち三身を見る益を明かす。 三にはかさねてよく教を行ずる機を拳ぐることを明かす。 四にはまさしく比校顕勝して、ただ三身の号を聞くすらなほ多劫の罪を滅す、いかにいはんや正念に帰依して証を獲ざらんやといふことを明かす。

に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。 すなはちその五あり。

一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。

二には能念の人を指讃することを明かす。

三にはもしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。 ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。

五種嘉誉

「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。
もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
四にはもつぱら弥陀の名を念ずるものは、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。
五には今生にすでにこの益を蒙りて、捨命してすなはち諸仏の家に入ることを明かす。 すなはち浄土これなり。 かしこに到りて、長時に法を聞き、歴事供養して、因円かに果満ず。 道場の座、あにはるかならんや。

名号付属

に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

に「仏説此語時」より以下は、まさしく能請・能伝等の、いまだ聞かざるところを聞き、いまだ見ざるところを見、たまたま甘露を餐して、喜躍してもつてみづから勝ふることなきことを明かす。 上来七句の不同ありといへども、広く王宮の流通分を解しをはりぬ。

耆闍会

付属釈

【35】
 五に耆闍会のなかにつきて、またその三あり。
一に「爾時世尊」より以下は、耆闍の序分を明かす。
二に「爾時阿難」より以下は、耆闍の正宗分明かす。
三に「無量諸天」より以下は、耆闍の流通分を明かす。
上来三義の不同ありといへども、総じて耆闍分を明かしをはりぬ。

【36】
 初めに「如是我聞」より下「云何見極楽世界」に至るこのかたは、序分を明かす。
二に日観より下下品下生に至るこのかたは、正宗分を明かす。
三に「説是語時」より下「諸天発心」に至るこのかたは、得益分を明かす。
四に「爾時阿難」より下「韋提等歓喜」に至るこのかたは、王宮の流通分を明かす。
五に「爾時世尊」より下「作礼而退」に至るこのかたは、総じて耆闍分を明かす。
上来五分の不同ありといへども、総じて『観経』一部の文義を解しをはりぬ。

総結

結嘆

【37】
 ひそかにおもんみれば、真宗遇ひがたく、浄土の要逢ひがたし。 〔釈尊は〕五趣をして斉しく生ぜしめんと欲す。 ここをもつて勧めて後代に聞かしむ。 ただ如来の神力転変無方なり。 隠顕機に随ひて王宮にひそかに化す。 ここにおいて耆闍の聖衆、小智疑を懐く。 仏(釈尊)、後に山(耆闍崛山)に還りたまふに、委況を闚はず。 時に阿難、ために王宮の化、定散両門を宣ぶ。 異衆これによりて同じく聞きて、奉行して頂戴せざるはなし。

後跋

【38】
 敬ひて一切有縁の知識等にまうす。 余はすでにこれ生死の凡夫なり。 智慧浅短なり。

しかるに仏教幽微なれば、あへてたやすく異解を生ぜず。 つひにすなはち心を標し願を結して、霊験を請求す。 まさに心を造すべし。

尽虚空遍法界の一切の三宝、釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・観音・勢至、かの土のもろもろの菩薩大海衆および一切の荘厳相等に南無し帰命したてまつる。

某、いまこの『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。 もし三世の諸仏・釈迦仏・阿弥陀仏等の大悲の願意に称はば、願はくは夢のうちにおいて、上の所願のごとき一切の境界の諸相を見ることを得しめたまへ。 仏像の前において願を結しをはりて、日別に『阿弥陀経』を誦すること三遍、阿弥陀仏を念ずること三万遍、心を至して発願す。

すなはち当夜において西方の空中に、上のごとき諸相の境界ことごとくみな顕現するを見る。 雑色の宝山百重千重なり。 種々の光明、下、地を照らすに、地、金色のごとし。 なかに諸仏・菩薩ましまして、あるいは坐し、あるいは立し、あるいは語し、あるいは黙す。 あるいは身手を動じ、あるいは住して動ぜざるものあり。 すでにこの相を見て、合掌して立ちて観ず。 やや久しくしてすなはち覚めぬ。 覚めをはりて欣喜に勝へず。

すなはち〔この観経の〕義門を条録す。 これより以後、毎夜の夢のうちにつねに一の僧ありて、来りて玄義の科文を指授す。 すでに了りて、さらにまた見えず。

後の時に脱本しをはりて、またさらに心を至して七日を要期して、日別に『阿弥陀経』を誦すること十遍、阿弥陀仏を念ずること三万遍、初夜・後夜にかの仏の国土の荘厳等の相を観想して、誠心に帰命することもつぱら上の法のごとくす。 当夜にすなはち見らく、三具の磑輪、道の辺に独り転ず。 たちまちに一人ありて、白き駱駝に乗りて前に来りて見えて勧む。 「師まさにつとめて決定して往生すべし、退転をなすことなかれ。 この界は穢悪にして苦多し。 労しく貪楽せざれ」と。

答へていはく、「大きに賢者の好心の視誨を蒙れり。 某、畢命を期となして、あへて懈慢の心を生ぜず」と。 {云々}第二夜に見らく、阿弥陀仏の身は真金色にして、七宝樹の下、金蓮華の上にましまして坐したまへり。 十僧囲繞して、またおのおの一の宝樹の下に坐せり。 仏樹の上にすなはち天衣ありて、挂り繞れり。 面を正しくし西に向かへて、合掌して坐して観ず。 第三夜に見らく、両の幢杆きはめて大きに高く顕れて、幡懸りて五色なり。 道路縦横にして、人観ること礙なし。

すでにこの相を得をはりて、すなはち休止して七日に至らず。 上来のあらゆる霊相は、本心、のためにして己身のためにせず。 すでにこの相を蒙れり。

あへて隠蔵せず、つつしみてもつて義の後に申べ呈して、聞くことを末代に被らしむ。 願はくは含霊のこれを聞くものをして信を生ぜしめ、有識の覩るものをして西に帰せしめん。 この功徳をもつて衆生に回施す。 ことごとく菩提心を発して、慈心をもつてあひ向かひ、仏眼をもつてあひ看、菩提まで眷属として真の善知識となりて、同じく浄国に帰し、ともに仏道を成ぜん。 この義すでに証を請ひて定めをはりぬ。 一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。


観経正宗分散善義


巻第四