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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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Ⅰ <kana>広弘(こうぐ)</kana>の<kana>誓願(せいがん)</kana>の意。十方[[衆生]]を救済しようと誓った第十八願を指す。→[[要門]] [[真門]] ([[安楽集 (七祖)#P--269|安楽集 P.269]]、[[法事讃 (七祖)#P--510|法事讃 P.510]])
  
 四弘誓願のこと。 ([[往生要集上巻 (七祖)#P--910|要集 P.910]]) →[[四弘誓願]]
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 広弘の誓願の意。一般には[[四弘誓願]]のこととされ、『往生要集』には「 一には縁事の四弘願なり」([[往生要集上巻 (七祖)#P--903|要集 P.903]])とある。浄土教では、もとは『安楽集』に「つぶさに[[弘願]]を発してもろもろの浄土を取りたまふ」([[安楽集 (七祖)#P--269|安楽集 P.269]])とあるように、阿弥陀仏の四十八願を表す語であったが、善導は「玄義分」に「安楽の能人は別意の[[弘願]]を顕彰す」([[化巻本#念観両宗|化巻引文 P.383]])と述べ、四十八願のうち、特に[[第十八願]]を指す語とした。親鸞も第十八願の意とし、第十九・二十願の教えである[[要門]]・[[真門]]に対して他力念仏の法門を顕す語として用いた。<br />
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「化身土巻」には「彰といふは、如来の[[弘願]]を彰し、利他通入の一心を演暢す」([[化巻本#P--382|化巻 P.382]])、『浄土和讃』には「[[一代諸教]]の信よりも [[弘願]]の信楽なほかたし 難中之難とときたまひ [[無過此難]]とのべたまふ」([[浄土和讃#no70|浄土 P.568]])等とある。(浄土真宗辞典)
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2018年12月23日 (日) 21:07時点における最新版

ぐがん

Ⅰ 広弘(こうぐ)誓願(せいがん)の意。十方衆生を救済しようと誓った第十八願を指す。→要門 真門 (安楽集 P.269法事讃 P.510)

Ⅱ 四弘誓願のこと。 (要集 P.910) →四弘誓願

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ぐがん 弘願

 広弘の誓願の意。一般には四弘誓願のこととされ、『往生要集』には「 一には縁事の四弘願なり」(要集 P.903)とある。浄土教では、もとは『安楽集』に「つぶさに弘願を発してもろもろの浄土を取りたまふ」(安楽集 P.269)とあるように、阿弥陀仏の四十八願を表す語であったが、善導は「玄義分」に「安楽の能人は別意の弘願を顕彰す」(化巻引文 P.383)と述べ、四十八願のうち、特に第十八願を指す語とした。親鸞も第十八願の意とし、第十九・二十願の教えである要門真門に対して他力念仏の法門を顕す語として用いた。
「化身土巻」には「彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す」(化巻 P.382)、『浄土和讃』には「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」(浄土 P.568)等とある。(浄土真宗辞典)

六三法門
四十八願
要門
真門