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「能説の…知るを」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 ([[真巻#P--371|真巻 P.371]])
 
 原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 ([[真巻#P--371|真巻 P.371]])
 
 
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:無有能説可説。雖念亦無能念可念。
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:無有能説可説 亦無能念可念
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➡[[『大乗起信論』#衆生心の真如の門]]
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『大乗起信論』で、[[真如]]を、
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:以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極因言遣言。
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::一切の言説は[[仮名]]にして実なく、<kana>但(た)</kana>だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも<kana>亦(ま)</kana>た相あることなし。<kana>謂(い)</kana>わく、言説の極みは言に因つて言を遣るなり。
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:此真如体、無有可遣。以一切法悉皆真故。亦無可立、以一切法皆同如故。当知、一切法不可説不可念故、名為真如。
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::此の真如の体は、<kana>遣(や)</kana>るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。また立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。<kana>当(まさ)</kana>に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。<ref>【現代語】言語表現はすべてかりに名づけたものであって、そういう実体があるわけではない。誤った心の動きに随うだけであり、実体は知覚されることはないのである。したがって、ここで真実のありかた〔真如〕といっていることも、この語に対応するようなものが実在するというわけではないのである。言葉は所詮、言葉を使って誤った考えを正すだけである。〔因言遣言〕<br />
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しかし、この真実のあり方〔真如〕という、言葉で表されているそのものは、決して否定することのできないものである。すべての存在はみな真実であるからである。また、新たに説かなければならないようなものはない。すべての存在はみなそのようにしてある〔如〕からである。だから、すべての存在は、言葉で表現することも、心に思い浮かべることもできないものなのであるが、そういうあり方をかりに真実のありかた〔真如〕と呼ぶわけである。〔名為真如〕。(『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著)より。以下「起信論」の現代語は同じく同書から。〔〕内は林遊が付記した。</ref>
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と説くのに対し、それでは真如に随順し真如に入ることを得る道(方法)はないのではないかと、
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:問曰、若如是義者、諸衆生等云何随順、而能得入。
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::問うて曰く、もし是の如きの義ならば、諸の衆生等は云何んが随順し、しかも能く入るを得るや。<ref>【現代語】問う。そういう意味なら、人々はどうやって真実のあり方に随い〔隋順〕、それをさとること(得入)ができるのであろうか。</ref>
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と、問い、答えの、<br />
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:答曰、若知一切法雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、是名随順、若離於念名為得入。
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::答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れれば、名づけて入ることを得たりとなす。<ref>【現代語】答う。すべての教えは説かれていても、説く人と説かれた教え〔能説と可説〕があるのではないと知り、心に思い浮かべても、思い浮かべる人と思い浮かべられた対象〔能念と可念〕があるのではないと知ることが、真実のあり方に随うことであり、また、そういう思いからも離れることが、真実のあり方をさとることである。</ref>
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の文を『[[念仏三昧宝王論]]』から引く。
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'''念仏三昧宝王論の文'''<br>
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故起信論云。若知雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、名爲隨順。
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:ゆえに起信論に云わく。〈もし説くといへども、能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを名づけて随順とす。
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若離於念、名爲得入。
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:もし念を離るるを名づけて得入とす。〉<ref>〈もし説くといへども…名づけて得入とす〉の〈〉内の文が『起信論』の文で以下は『念仏三昧宝王論』の文。</ref>
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得入者眞如三昧也。況乎無念之位在於妙覺、蓋以了心初生之相也。
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:得入は真如三昧なり。いはんや無念の位は妙覚にあり、けだし心の初生の相を了するをもってなり。
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而言知初相者、所謂、無念非菩薩十地所知。
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:しかして初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。
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而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。從説入於無説、從念入於無念。
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:しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち[[馬鳴|馬鳴大士]]によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入るなり。 →[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1967_.47.0142b02.html 大正蔵47-142]
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'''御開山の引文'''<br>
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起信論曰。若知雖説無有能説可説、亦無能念可念、名為随順。
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:起信論にいはく、もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。
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若離於念、名為得入。
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:もし念を離るるを、名づけて得入とす、と。
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得入者、真如三昧也。況乎、無念之位在於妙覚、蓋以了心、初生之相也。
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:得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて[[了心]]は初生の相なり<ref>『起信論』では、一心真如の上に忽然として念が起り(業相) これを無明と名づける。この無明から主観(転相)と客観(現相)の両境界を作り出すという。これを三細(無明業相・能見相・境界相)といい、この三細から六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相) が現われる。これを流転門という。『起信論』では、この無明業相の心の初生の相を了することが仏のさとりだとする。無明の根源を知ることは、そのまま無明を破することであるからである。これを「了心は初生の相なり」といふ。</ref>。
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而言知初相者、所謂無念、非菩薩十地所知。
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:しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は、菩薩十地の知るところにあらず。
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而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。従説入無説、従念入於無念。
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:しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、と。([[真巻#P--371|真巻 P.371]])、([[現代語_真巻#A--38|現代語]])
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『大乗起信論』では、<br>
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以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極 '''因言遣言'''。
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:一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極は'''言に因つて言を遣るなり'''。<ref>「言説の極(きわみ)は言に因つて言(言葉)を遣(や)るなり。」 言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものであるということ。</ref>
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と、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するという形(因言遣言)での説き方を<kana>離言真如(りごんしんにょ)</kana>という。そして、言葉を仮設することでその相を表すのを<kana>依言真如(えごんしんにょ)</kana>という。
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ここでは、いろもなく、かたちもない、仏だけが知りうる真仏土の真如の界(さかい)を、釈尊の説かれた『無量寿経』の言葉により、言葉を超えた世界からとどく言葉と、なんまんだぶと阿弥陀仏を念ずる(第十八願)ことにより、すべての言葉(説)と念を超えた世界に入ることを示されている。<br />
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御開山は、この意を[[飛錫]]の『念仏三昧宝王論』に『起信論』の作者であるとされる[[馬鳴|馬鳴菩薩]]を出されている文を引くことで「今の人、なほいまだ[[十信]]に階(かな)はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」と、真仏土は、説より無説に入り、念より無念に入る浄土である[[果分不可説]]という意を示されたのであろう。<br />
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なお御開山は「化巻」([[化巻末#no104|化巻 P.455]])で『起信論』を引文されておられるから『起信論』を読まれておられたのであるが、ここでは、あえて『念仏三昧宝王論』を引文することによって「従説入無説、従念入於無念(説より無説に入り、念より無念に入る)」という本願力による凡夫往生の真仏土の意を顕そうとされたのであった。なんまんだぶ なんまんだぶ
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:→[[果分不可説]]
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:→[[依詮談旨]]
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:→[[無分別智]]
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:→[[十信]]
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:→[[トーク:仮名]]
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:→[[hwiki:大乗起信論#s-jyoujyu|信成就発心]]
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<references />
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念仏三昧宝王論の文<br>
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外部リンク<br />
故起信論云。若知雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念。名爲隨順。若離於念。名爲得入。得入者眞如三昧也。況乎無念之位。在於妙覺。蓋以了心初生之相也。而言知初相者。所謂無念。非菩薩十地所知。而今之人。尚未階十信。即不依馬鳴大士。從説入於無説。從念入於無念。
+
→[[hwiki:意識の形而上学|意識の形而上学]]
  
御開山の引文<br>
+
[[Category:追記]]
起信論曰。若知雖説無有能説可説 亦無能念可念 名為随順。若離於念 名為得入。得入者 真如三昧也。況乎。無念之位 在於妙覚 蓋以了心 初生之相也。而言知初相者 所謂無念 非菩薩十地所知。而今之人 尚未階十信 即不依馬鳴大士。従説入無説 従念入於無念。
+

2022年9月3日 (土) 11:06時点における最新版

のうせつの…しるを

 原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 (真巻 P.371)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

無有能説可説。雖念亦無能念可念。
無有能説可説 亦無能念可念

『大乗起信論』#衆生心の真如の門

『大乗起信論』で、真如を、

以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極因言遣言。
一切の言説は仮名にして実なく、()だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも()た相あることなし。()わく、言説の極みは言に因つて言を遣るなり。
此真如体、無有可遣。以一切法悉皆真故。亦無可立、以一切法皆同如故。当知、一切法不可説不可念故、名為真如。
此の真如の体は、()るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。また立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。(まさ)に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。[1]

と説くのに対し、それでは真如に随順し真如に入ることを得る道(方法)はないのではないかと、

問曰、若如是義者、諸衆生等云何随順、而能得入。
問うて曰く、もし是の如きの義ならば、諸の衆生等は云何んが随順し、しかも能く入るを得るや。[2]

と、問い、答えの、

答曰、若知一切法雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、是名随順、若離於念名為得入。
答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れれば、名づけて入ることを得たりとなす。[3]

の文を『念仏三昧宝王論』から引く。

念仏三昧宝王論の文

故起信論云。若知雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、名爲隨順。

ゆえに起信論に云わく。〈もし説くといへども、能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを名づけて随順とす。

若離於念、名爲得入。

もし念を離るるを名づけて得入とす。〉[4]

得入者眞如三昧也。況乎無念之位在於妙覺、蓋以了心初生之相也。

得入は真如三昧なり。いはんや無念の位は妙覚にあり、けだし心の初生の相を了するをもってなり。

而言知初相者、所謂、無念非菩薩十地所知。

しかして初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。

而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。從説入於無説、從念入於無念。

しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入るなり。 →大正蔵47-142

御開山の引文

起信論曰。若知雖説無有能説可説、亦無能念可念、名為随順。

起信論にいはく、もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。

若離於念、名為得入。

もし念を離るるを、名づけて得入とす、と。

得入者、真如三昧也。況乎、無念之位在於妙覚、蓋以了心、初生之相也。

得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり[5]

而言知初相者、所謂無念、非菩薩十地所知。

しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は、菩薩十地の知るところにあらず。

而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。従説入無説、従念入於無念。

しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、と。(真巻 P.371)、(現代語)

『大乗起信論』では、
以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極 因言遣言

一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極は言に因つて言を遣るなり[6]

と、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するという形(因言遣言)での説き方を離言真如(りごんしんにょ)という。そして、言葉を仮設することでその相を表すのを依言真如(えごんしんにょ)という。 ここでは、いろもなく、かたちもない、仏だけが知りうる真仏土の真如の界(さかい)を、釈尊の説かれた『無量寿経』の言葉により、言葉を超えた世界からとどく言葉と、なんまんだぶと阿弥陀仏を念ずる(第十八願)ことにより、すべての言葉(説)と念を超えた世界に入ることを示されている。
御開山は、この意を飛錫の『念仏三昧宝王論』に『起信論』の作者であるとされる馬鳴菩薩を出されている文を引くことで「今の人、なほいまだ十信に階(かな)はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」と、真仏土は、説より無説に入り、念より無念に入る浄土である果分不可説という意を示されたのであろう。
なお御開山は「化巻」(化巻 P.455)で『起信論』を引文されておられるから『起信論』を読まれておられたのであるが、ここでは、あえて『念仏三昧宝王論』を引文することによって「従説入無説、従念入於無念(説より無説に入り、念より無念に入る)」という本願力による凡夫往生の真仏土の意を顕そうとされたのであった。なんまんだぶ なんまんだぶ

果分不可説
依詮談旨
無分別智
十信
トーク:仮名
信成就発心

  1. 【現代語】言語表現はすべてかりに名づけたものであって、そういう実体があるわけではない。誤った心の動きに随うだけであり、実体は知覚されることはないのである。したがって、ここで真実のありかた〔真如〕といっていることも、この語に対応するようなものが実在するというわけではないのである。言葉は所詮、言葉を使って誤った考えを正すだけである。〔因言遣言〕
    しかし、この真実のあり方〔真如〕という、言葉で表されているそのものは、決して否定することのできないものである。すべての存在はみな真実であるからである。また、新たに説かなければならないようなものはない。すべての存在はみなそのようにしてある〔如〕からである。だから、すべての存在は、言葉で表現することも、心に思い浮かべることもできないものなのであるが、そういうあり方をかりに真実のありかた〔真如〕と呼ぶわけである。〔名為真如〕。(『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著)より。以下「起信論」の現代語は同じく同書から。〔〕内は林遊が付記した。
  2. 【現代語】問う。そういう意味なら、人々はどうやって真実のあり方に随い〔隋順〕、それをさとること(得入)ができるのであろうか。
  3. 【現代語】答う。すべての教えは説かれていても、説く人と説かれた教え〔能説と可説〕があるのではないと知り、心に思い浮かべても、思い浮かべる人と思い浮かべられた対象〔能念と可念〕があるのではないと知ることが、真実のあり方に随うことであり、また、そういう思いからも離れることが、真実のあり方をさとることである。
  4. 〈もし説くといへども…名づけて得入とす〉の〈〉内の文が『起信論』の文で以下は『念仏三昧宝王論』の文。
  5. 『起信論』では、一心真如の上に忽然として念が起り(業相) これを無明と名づける。この無明から主観(転相)と客観(現相)の両境界を作り出すという。これを三細(無明業相・能見相・境界相)といい、この三細から六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相) が現われる。これを流転門という。『起信論』では、この無明業相の心の初生の相を了することが仏のさとりだとする。無明の根源を知ることは、そのまま無明を破することであるからである。これを「了心は初生の相なり」といふ。
  6. 「言説の極(きわみ)は言に因つて言(言葉)を遣(や)るなり。」 言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものであるということ。


外部リンク
意識の形而上学