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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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覚信
 
覚信
  
 (1224-1283)[[親鸞聖人]]の末娘。王御前(おうごぜん)ともよばれる。日野広綱(ひのひろつな)に嫁し、覚恵法師など二子を生む。広綱の死後、小野宮禅念(おのでらぜんねん)と再婚して、唯善(ゆいぜん)を生む。禅念の私有地に親鸞聖人の廟堂を創設し、さらに禅念から土地を譲り受けて、これを聖人の廟地とし、関東の門弟に寄進して、みずからは留守として廟堂の守護に任じた。
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 (1224-1283)[[親鸞聖人]]の末娘。<kana>王御前(おうごぜん)</kana>ともよばれる。<kana>日野広綱(ひの-ひろつな)</kana>に嫁し、[[覚恵]]法師など二子を生む。広綱の死後、<kana>小野宮禅念(おのでら-ぜんねん)</kana>と再婚して、<kana>唯善(ゆいぜん)</kana>を生む。禅念の私有地に親鸞聖人の[[廟堂]]を創設し、さらに禅念から土地を譲り受けて、これを聖人の廟地とし、関東の門弟に寄進して、みずからは留守として[[廟堂]]の守護に任じた。
 
覚信尼。
 
覚信尼。
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覚信 かくしん
 
 
 『[[交名牒]](きょうみょうちょう)』によると、下野国(しもつけのくに)高田(たかだ)(現在の栃木県芳賀郡)の住。[[慶信]]の父。『口伝鈔』に註して「太郎入道」とある。『御消息』の蓮位添状によると、病をおして上洛し親鸞聖人のもとで往生したという。([[消息上#P--750|消息 P.750]],[[消息上#P--766|消息 P.766]])
 
  
 
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かくしんに 覚信尼
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 (1224-1283) 親鸞の末娘。[[わうごぜん|王御前]]とも呼ばれる。関東で生まれ、親鸞とともに帰洛して、日野広綱と結婚し、[[覚恵]]と光玉をもうけた。 光玉は 『恵信尼消息』第7通に「宰相殿」(註 822)、第8通に「さいさう殿」(註 827)の名で出る人物と考えられている。広綱の死後、小野宮禅念と再婚して、[[唯善]]を生む、禅念の私有地に親鸞廟堂([[大谷廟堂]])を創設し、さらに禅念から土地を譲り受けて、これを親鸞の廟地とし、関東の門弟に寄進して、自らは留守として廟堂の守護に任じた。(浄土真宗辞典)
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:→[[廟堂]]
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2023年4月8日 (土) 12:17時点における最新版

覚信

 (1224-1283)親鸞聖人の末娘。王御前(おうごぜん)ともよばれる。日野広綱(ひの-ひろつな)に嫁し、覚恵法師など二子を生む。広綱の死後、小野宮禅念(おのでら-ぜんねん)と再婚して、唯善(ゆいぜん)を生む。禅念の私有地に親鸞聖人の廟堂を創設し、さらに禅念から土地を譲り受けて、これを聖人の廟地とし、関東の門弟に寄進して、みずからは留守として廟堂の守護に任じた。 覚信尼。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

かくしんに 覚信尼

 (1224-1283) 親鸞の末娘。王御前とも呼ばれる。関東で生まれ、親鸞とともに帰洛して、日野広綱と結婚し、覚恵と光玉をもうけた。 光玉は 『恵信尼消息』第7通に「宰相殿」(註 822)、第8通に「さいさう殿」(註 827)の名で出る人物と考えられている。広綱の死後、小野宮禅念と再婚して、唯善を生む、禅念の私有地に親鸞廟堂(大谷廟堂)を創設し、さらに禅念から土地を譲り受けて、これを親鸞の廟地とし、関東の門弟に寄進して、自らは留守として廟堂の守護に任じた。(浄土真宗辞典)

廟堂
留守識
大谷本願寺
覚恵