「御裁断御書」の版間の差分
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− | 【1】 祖師聖人(親鸞)[[御相伝一流]]の肝要は、ただ他力の信心をもつて[[本]]とすすめたまふ。その信心といふは、『経』(大経・下)には「[[聞其名号…|聞其名号]] 信心歓喜 乃至一念」と説き、『論』(浄土論)には「一心帰命」と[[判ず]] | + | 【1】 祖師聖人(親鸞)[[御相伝一流]]の肝要は、ただ他力の信心をもつて[[本]]とすすめたまふ。その信心といふは、『経』(大経・下)には「[[聞其名号…|聞其名号]] 信心歓喜 乃至一念」と説き、『論』(浄土論)には「一心帰命」と[[判ず]]。ゆゑに聖人は論主(天親)の「一心」を釈して、「一心といふは、教主世尊のみことを、ふたごころなく疑なしとなり。これすなはち真実の信心なり」([[尊号真像銘文#P--651|銘文・本]])とのたまへり。 |
されば祖師よりこのかた代々相承し、別して信証院(蓮如)の五帖一部の消息(御文章)に、[[この一途をねんごろに]]教へたまふ。 | されば祖師よりこのかた代々相承し、別して信証院(蓮如)の五帖一部の消息(御文章)に、[[この一途をねんごろに]]教へたまふ。 | ||
− | + | その信心のすがたといふは、なにのやうもなく、もろもろの[[雑行]][[雑修]][[自力]]のこころをふりすてて、[[一心一向]]に阿弥陀如来、今度のわれらが[[一大事の後生]]、[[おんたすけ候へとたのみ]]たてまつる一念の信まことなれば、弥陀はかならず[[遍照]]の光明を放ちてその人を[[摂取]]したまふべし。 | |
これすなはち[[当流]]に立つるところの[[一念発起平生業成]]の<span id="P--1414"></span>義、これなり。この信決定のうへには、昼夜朝暮にとなふるところの称名は、仏恩報謝の念仏とこころうべし。かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる[[正義]]とはいふべきものなれ。 | これすなはち[[当流]]に立つるところの[[一念発起平生業成]]の<span id="P--1414"></span>義、これなり。この信決定のうへには、昼夜朝暮にとなふるところの称名は、仏恩報謝の念仏とこころうべし。かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる[[正義]]とはいふべきものなれ。 | ||
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【2】 しかるに近頃は、当流に沙汰せざる[[三業の規則を穿鑿し]]、またはこの三業につきて[[自然の名をたて]]、[[年月日時の覚不覚を論じ|年月日時の覚・不覚を論じ]]、あるいは[[帰命の一念に妄心を運び]]、または[[三業をいめるまま…|三業をいめるまま、たのむのことばをきらひ、この余にもまどへるものこれあるよし]]、まことにもつてなげかしき次第なり。 | 【2】 しかるに近頃は、当流に沙汰せざる[[三業の規則を穿鑿し]]、またはこの三業につきて[[自然の名をたて]]、[[年月日時の覚不覚を論じ|年月日時の覚・不覚を論じ]]、あるいは[[帰命の一念に妄心を運び]]、または[[三業をいめるまま…|三業をいめるまま、たのむのことばをきらひ、この余にもまどへるものこれあるよし]]、まことにもつてなげかしき次第なり。 | ||
− | + | ことに聖人(親鸞)のみことにも、「身口意のみだれごころをつくろひて、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり」([[消息上#P--746|御消息・六]])と誡めたまへり。所詮以前はいかやうの心中なりとも、いまよりのちは、わがわろき迷心をひるがへして、本願真実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にもあひかなふべし。さてそのうへには[[王法]]・国法を大切にまもり、世間の[[仁義]]をもつて先とし、[[うつくしく]]法義相続あるべきものなり。 | |
[右の通り裁断せしめ候ふ条、永く本意を取り失ふべからざるものなり。] | [右の通り裁断せしめ候ふ条、永く本意を取り失ふべからざるものなり。] |
2023年5月22日 (月) 13:55時点における最新版
内容は、3段に分かれ、第1段においては、経論所説の他力の信心を、親鸞聖人は、「ふたごころなくうたがひなし」と無疑の信楽をもって示し、その信心の相を蓮如上人は、『御文章』のなかで、「後生御たすけ候へとたのみたてまつる」と教えられたとして、信楽帰命説が正義であると決択されている。
第2段において、三業帰命説を異義とし、信決定の年月の覚不覚を論ずることの誤りであることを指摘される。
第3段においては、迷心をひるがえして本願真実の他力信心にもとづくよう教化して全体を結ばれる。
御裁断御書
【1】 祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただ他力の信心をもつて本とすすめたまふ。その信心といふは、『経』(大経・下)には「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」と説き、『論』(浄土論)には「一心帰命」と判ず。ゆゑに聖人は論主(天親)の「一心」を釈して、「一心といふは、教主世尊のみことを、ふたごころなく疑なしとなり。これすなはち真実の信心なり」(銘文・本)とのたまへり。 されば祖師よりこのかた代々相承し、別して信証院(蓮如)の五帖一部の消息(御文章)に、この一途をねんごろに教へたまふ。
その信心のすがたといふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心一向に阿弥陀如来、今度のわれらが一大事の後生、おんたすけ候へとたのみたてまつる一念の信まことなれば、弥陀はかならず遍照の光明を放ちてその人を摂取したまふべし。
これすなはち当流に立つるところの一念発起平生業成の義、これなり。この信決定のうへには、昼夜朝暮にとなふるところの称名は、仏恩報謝の念仏とこころうべし。かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなれ。
【2】 しかるに近頃は、当流に沙汰せざる三業の規則を穿鑿し、またはこの三業につきて自然の名をたて、年月日時の覚・不覚を論じ、あるいは帰命の一念に妄心を運び、または三業をいめるまま、たのむのことばをきらひ、この余にもまどへるものこれあるよし、まことにもつてなげかしき次第なり。
ことに聖人(親鸞)のみことにも、「身口意のみだれごころをつくろひて、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり」(御消息・六)と誡めたまへり。所詮以前はいかやうの心中なりとも、いまよりのちは、わがわろき迷心をひるがへして、本願真実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にもあひかなふべし。さてそのうへには王法・国法を大切にまもり、世間の仁義をもつて先とし、うつくしく法義相続あるべきものなり。
[右の通り裁断せしめ候ふ条、永く本意を取り失ふべからざるものなり。]
[文化三丙寅年十一月六日]
[釈本如](花押)