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「信満成仏」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「しんまん-じょうぶつ  『華厳経』では「<kana>初発心時(しょ-ほっしんじ)</kana>、<kana>便成正覚(べんじょう-しょうがく)</kana>」...」)
 
 
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 『華厳経』では「<kana>初発心時(しょ-ほっしんじ)</kana>、<kana>便成正覚(べんじょう-しょうがく)</kana>」と説く。初めて発心(菩提心を発す)した時、すなわち正覚を成するといふ。<br />
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 『華厳経』では「<kana>初発心時(しょ-ほっしんじ)</kana>、<kana>便成正覚(べんじょう-しょうがく)</kana>」と説く。初めて[[発心]](菩提心を発す)した時、すなわち正覚を成するといふ。<br />
 
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:① 占察経巻下には、菩薩の修行階位の各段階のままが仏であるとして、[[十信]]の満位の境地を[[信満成仏]](華厳宗でこれを説く)、十住の満位の境地を解満成仏、十地の満位で菩薩の修行が完成した境地を行満成仏、完全に仏果に達した境地を証満成仏とし、この四を四満成仏という。(仏教学辞典から抜粋)
 
:① 占察経巻下には、菩薩の修行階位の各段階のままが仏であるとして、[[十信]]の満位の境地を[[信満成仏]](華厳宗でこれを説く)、十住の満位の境地を解満成仏、十地の満位で菩薩の修行が完成した境地を行満成仏、完全に仏果に達した境地を証満成仏とし、この四を四満成仏という。(仏教学辞典から抜粋)
 
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とある。「衆生無辺誓願度」の、一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓願する真正の「[[菩提心]]」が発るならば、それはもはや仏と等しいのであろう。<br />
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とある。「衆生無辺誓願度」の、一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓願する真正の「[[菩提心]]」が発るならば、それはもはや仏と等しいのであろう。(等しいのであり仏と同じではない)<br />
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「信巻」には、『華厳経』「入法界品」の菩提心の結論の[[偈]]、
:この法〔菩提心〕を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。
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:「この法〔菩提心〕を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。([[信巻本#no34|信巻 P.237]]) 〔…〕内は林遊の付記。
 
と、阿弥陀仏の[[度衆生心]]を「信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」とある。
 
と、阿弥陀仏の[[度衆生心]]を「信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」とある。
  

2024年5月28日 (火) 19:22時点における最新版

しんまん-じょうぶつ

 『華厳経』では「初発心時(しょ-ほっしんじ)便成正覚(べんじょう-しょうがく)」と説く。初めて発心(菩提心を発す)した時、すなわち正覚を成するといふ。
『仏教学辞典』には、

① 占察経巻下には、菩薩の修行階位の各段階のままが仏であるとして、十信の満位の境地を信満成仏(華厳宗でこれを説く)、十住の満位の境地を解満成仏、十地の満位で菩薩の修行が完成した境地を行満成仏、完全に仏果に達した境地を証満成仏とし、この四を四満成仏という。(仏教学辞典から抜粋)

とある。「衆生無辺誓願度」の、一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓願する真正の「菩提心」が発るならば、それはもはや仏と等しいのであろう。(等しいのであり仏と同じではない)
「信巻」には、『華厳経』「入法界品」の菩提心の結論の

「この法〔菩提心〕を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(信巻 P.237) 〔…〕内は林遊の付記。

と、阿弥陀仏の度衆生心を「信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」とある。

四弘誓願
菩提心