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せっちょうのほうき
 
せっちょうのほうき
  
 教えを説くものと聞くものとの心得。([[信巻末#P--258|信巻 P.258]])
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 教えを説くものと聞くものとの心得。([[信巻末#P--258|信巻 P.258]]、[[安楽集 (七祖)#P--181|安楽集 P.181]]、[[安楽集 (七祖)#P--185|安楽集 P.185]])
  
 
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せっちょうのほうき  説聴の方軌
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 方軌とは規定・法則の意で、教えを説く者と聴く者の姿勢のこと。『安楽集』([[P:258|信巻引文・註 258]]) <br />
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に説かれている。(浄土真宗辞典)
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:説教する者と聴法する者の正しい作法、規定。[[道綽]]は、大集経・智度論・大経・平等覚経などを引き説聴方軌を明かして、説聴の心得をあげ、舎利弗・目連の因縁を示し、また[[宿善]]宿悪の義で信不信の別があるとし、[[驕慢]]と[[弊]]と[[懈怠]]の者は信じ難いと戒める〔安楽〕。親鸞は、説法者は医王の想、抜苦の想をなし、説かれる法に[[甘露]]・[[醍醐]]の想をなし、聴法者は[[増長勝解の想]]、<kana>愈病(ゆびょう)</kana><ref  name="ex">愈病(ゆびょう)。病気が癒(い)えること。</ref>の想をなすべきであるとの文を引く (安楽-信)。(真宗大辞典)
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『安楽集』の引文
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:[[現代語 信巻#A--92|【92】]] 『安楽集』([[安楽集_(七祖)#P--185|上 一八五]])にいはく、「[[諸部の大乗]]によりて[[説聴の方軌]]を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、[[醍醐]]の想をなせ。それ聴法のひとは、[[増長勝解の想]]をなせ、<kana>愈病(ゆびょう)</kana><ref  name="ex"></ref> の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を[[gooj:紹隆|紹隆]]するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。{乃至}([[信巻末#P--258|信巻 P.258]])
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:→[[自信教人信]]
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2023年11月25日 (土) 12:11時点における最新版

せっちょうのほうき

 教えを説くものと聞くものとの心得。(信巻 P.258安楽集 P.181安楽集 P.185)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

せっちょうのほうき  説聴の方軌

 方軌とは規定・法則の意で、教えを説く者と聴く者の姿勢のこと。『安楽集』(信巻引文・註 258)
に説かれている。(浄土真宗辞典)

せっちょうのほうき 説聴方軌

説教する者と聴法する者の正しい作法、規定。道綽は、大集経・智度論・大経・平等覚経などを引き説聴方軌を明かして、説聴の心得をあげ、舎利弗・目連の因縁を示し、また宿善宿悪の義で信不信の別があるとし、驕慢懈怠の者は信じ難いと戒める〔安楽〕。親鸞は、説法者は医王の想、抜苦の想をなし、説かれる法に甘露醍醐の想をなし、聴法者は増長勝解の想愈病(ゆびょう)[1]の想をなすべきであるとの文を引く (安楽-信)。(真宗大辞典)

『安楽集』の引文

【92】 『安楽集』(上 一八五)にいはく、「諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病(ゆびょう)[1] の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。{乃至}(信巻 P.258)
自信教人信

  1. 1.0 1.1 愈病(ゆびょう)。病気が癒(い)えること。