「善によりてすでに成じたまへる」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 信因称報説の教説のみを金科玉条として〔なんまんだぶ〕を称えるという正定業を軽視することは、 | ||
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2018年10月3日 (水) 11:51時点における最新版
通常は「因の善すでに成ずれば」と読む。ここでは如来の徳をあらわすために読み改められた。(行巻 P.176)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
当分読み
- 作善願生 因善既成。不自獲果。故云自然。
- 善をなして生を願ぜよ、因の善すでに成ずれば、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。
御開山の訓
- 作善願生 因善既成。不自獲果。故云自然。
- 善をなして生を願ぜよ、〔如来の修された〕善によりてすでに成じたまへる、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。
御開山は名号(なんまんだぶ)を「善本」とされておられるから、「善をなして生を願ぜよ(作善願生)」の善とは「称名(なんまんだぶ)」である。なんまんだぶのご法義における「念仏成仏」の「善」とは名号以外には無いのであった。
信因称報説の教説のみを金科玉条として〔なんまんだぶ〕を称えるという正定業を軽視することは、
- 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄 P.832)
という意に反するのではと思ふ。