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+ | :われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。([[往生要集中巻 (七祖)#P--956|要集 P.956]]) | ||
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+ | :極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 | ||
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+ | :煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 | ||
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2023年8月17日 (木) 05:15時点における最新版
たのほうべん
【左訓】「余の善、余の仏・菩薩の方便にては生死出でがたしとなり」(異本)(高僧 P.595)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『行巻』(行巻 P.184) では『往生要集』「念仏証拠」を引いて、
- 『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉。(要集 P.1098)
とあり、第十八願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を称える以外に浄土に往生する方法は無いとされた。この文と『往生要集』の「雑略観」の、
- われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。(要集 P.956)
の文から、御開山は「正信念仏偈」で、源信僧都の釈功として、
- 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
- 極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、
- 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
- 煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
とされておられる。