往生要集中巻 (七祖)

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往生要集 巻中

   往生要集 巻中 [尽第六別時念仏門

                         天台首楞厳院沙門源信撰

~第四 正修念仏

観察門

【42】 第四に観察門とは、初心の観行は深奥に堪へず。 『十住毘婆沙』(意)にいふがごとし。 「新発意の菩薩は先づ仏の色相を念ず」と。 また諸経のなかに、初心の人のためには、多く相好の功徳を説けり。 このゆゑにいままさに色相の観を修すべし。 これを分ちて三となす。 一には別相観、二には総相観、三には雑略観なり。 意楽に随ひてこれを用ゐるべし。

別相観

【43】 初めに別相観とは、また二あり。先づ華座を観ず。

『観経』にのたまはく、「かの仏を観ぜんと欲はば、まさに想念を起すべし。 七宝の地の上において蓮華の想をなし、その蓮華の一々の葉をして百宝色〔ありとの想〕をなさしめよ。 〔その葉に〕八万四千の脈ありて、なほ天の画のごとし。 脈に八万四千の光あり。 了々分明にして、みな見ることを得しめよ。 華葉の小さきものは、縦広二百五十由旬なり。 かくのごとき華に八万四千の葉あり。 一々の葉のあひだに百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾となせり。 一々の摩尼珠は、千の光明を放つ。 その光〔天〕蓋のごとくして、七宝合成して、あまねく地の上に布けり。 釈迦毘楞伽宝、もつてその台となせり。

この蓮華台は、八万の金剛・甄叔迦宝梵摩尼宝・妙真珠網、もつて交飾となせり。 その台上において、自然にして四柱の宝幢あり。 一々の宝幢は、百千万億の須弥山のごとし。 幢の上の宝縵は、夜摩天宮のごとし。 五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾となせり。 一一の宝珠に八万四千の光あり。 一々の光、八万四千の異種の金色をなす。 一々の金光、その宝土にあまねくして、処々に変化して、おのおの異相をなす。 あるいは金剛台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。 十方の面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。 これを華座の想となす。

かくのごとき妙華は、これ本法蔵比丘の願力の所成なり。 もしかの仏を念ぜんと欲ふものは、まさに先づこの華座の想をなすべし。 この想をなす時には雑観することを得ざれ。 みな一々にこれを観ずべし。 一々の葉、一々の珠、一々の光、一々の台、一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにみづから面像を見るがごとくせよ。 この観をなすを、名づけて正観となす。 もし他観するを、名づけて邪観となす」と。 [以上、この座の相を観ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除して、必定してまさに極楽世界に生るべし。]

 次にまさしく相好を観ず。 いはく、阿弥陀仏は華台の上に坐して、相好炳然として、その身を荘厳したまへり。

 一には、頂の上の肉髻はよく見るものなし。 高顕周円なること、なほ天蓋のごとし。 あるいは広く観ずることを楽ふものは、次に観ずべし。 かの頂の上に大光明あり。 千の色を具足せり。 一々の色は、八万四千の支となり、一々の支のなかに八万四千の化仏まします。 化仏の頂の上より、またこの光を放ちたまふ。 この光あひ次いで、すなはち上方の無量の世界に至る。 上方界においても、化の菩薩ありて、雲のごとくして下りて諸仏を囲繞したてまつれり。

[『大集経』にのたまはく、「父母・師僧・和上を恭敬して、肉髻の相を得たり」と云々。 もしこの相において随喜を生ずるものは、千億劫の極重の悪業を除却して、三途に堕せず。]

 二には、頂の上に八万四千の髪毛あり。 みな上に向かひて靡き、右に旋りて生ひたり。 永く褫落することなく、また雑乱せず。 紺青稠密にして、香潔細軟なり。 もし広く観ずることを楽ふものは、観ずべし。 一々の毛孔より旋りて五の光をなせり。 もしこれを申ぶる時には、修長にして量りがたし。 [釈尊の髪のごときは、長さ楼陀精舎より父王の宮に至りて、城を繞ること七匝せり。]無量の光あまねく照らして、紺琉璃の色をなし、色のなかに化仏あり、称数すべからず。 この相を現じをはりて、還りて仏の頂に住して、右に旋りて宛転して、すなはち蠡文となる。 [『大集経』にのたまはく、「悪事をもつて衆生に加へざるがゆゑに、髪毛金精の相を得たり」と。]

 三には、その髪の際に五千の光あり。 間錯分明なり。 みな上に向かひて靡きて、もろもろの髪を囲繞せり。 頂を繞ること五匝せり。 天の画師の所作の画法のごとし。 団円正等にして、細きこと一糸のごとし。 その糸のあひだにもろもろの化仏を生じ、化の菩薩ありて、もつて眷属たり。 一切の色像またなかにおいて見ゆ。 [広く観ずることを楽ふものは、この観を用ゐるべし。]

 四には、耳厚く、広く長くして、輪埵成就せり。 あるいは広く観ずべし。 七の毛を旋り生じて、五の光を流出す。 その光に千の色あり。 色ごとに千の化仏まします。 仏ごとに千の光を放ちて、あまねく十方の無量の世界を照らしたまふ。 [この随好業因は勘ふべし。 『観仏三昧経』(意)にのたまはく、「この好を観ずるものは、八十劫の生死の罪を滅し、後世にはつねに陀羅尼の人と眷属たり」と云々。 下去もろもろの利益、みなまた『観仏三昧経』によりて注す。]

 五には、額広く平正にして、形相殊妙なり。 [この業因ならびに利益は勘ふべし。]

 六には、面輪円満にして、光沢熙怡なり。 端正皎潔なること、なほ秋の月のごとし。 双べる眉の皎浄なること、天帝の弓に似たり。 その色比なくして、紺琉璃の光あり。 [来り求むるものを見て歓喜を生ずるがゆゑに、面輪円満なり。 この相を観ずるものは億劫の生死の罪を除却して、後身の生処に、まのあたり諸仏を見たてまつる。]

 七には、眉間の白毫、右に旋りて宛転せり。 柔軟なること覩羅綿のごとく、鮮白なること珂雪に逾えたり。 あるいは次に広く観ずべし。 これを舒ぶれば、直くして長大なること白琉璃の筒のごとく、放ちをはれば、右に旋りて頗梨珠のごとし。 [丈六の仏の白毫は五丈なり。 右に旋ること経一寸、周囲三寸。]十方の面において、無量の光を現ずること、万億の日のごとくして、つぶさに見るべからず。

ただ光のなかに、もろもろの蓮華を現ず。 上は無量塵数の世界を過ぐるまで、華々あひ次いで、団円正等なり。 一々の華の上に、一の化仏坐したまへり。 相好荘厳し、眷属囲繞せり。 一々の化仏また無量の光を出し、一々の光のなかにまた無量の化仏まします。 このもろもろの世尊は、行ずるもの無数、住するもの無数、坐するもの無数、臥するもの無数にして、あるいは大慈大悲を説き、あるいは三十七品、あるいは六波羅蜜、あるいはもろもろの不共の法を説く。 もし広く説かば、一切衆生より十地の菩薩に至るまで、またこれを知ることあたはじ。

[『大集経』(意)にのたまはく、「他の徳を隠さず、その徳を称揚して、この相を得たり」と。 『観仏経』(意)にのたまはく、「無量劫より昼夜に精進して身心懈ることなきこと、頭燃を救ふがごとくして、六度・三十七品・十力・無畏・大慈大悲のもろもろの妙功徳を勤修して、この白毫を得たり。 この相を観ずるものは、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却す」と。]

 八には、如来の眼睫はなほ牛王のごとし。 紺青にして斉しく整ほりて、あひ雑乱せず。 あるいは次に広く観ずべし。 上下におのおの生じて、五百の毛あり。 優曇華の鬚のごとくして、柔軟にして愛楽すべし。 一々の毛端より一の光を流出す。 頗梨の色のごとくして、頭を繞ること一匝し、もつぱらに微妙のもろもろの青蓮華を生ず。 一々の華台梵天王ありて、青色のを執れり。 [『大集経』にのたまはく、「心を至して無上菩提を求めしがゆゑに、牛王の睫の相を得たり」と。 『大経』(大般涅槃経)にのたまはく、「怨憎を見て善心をなすがゆゑに」と。]

 九には、仏眼は青白にして上下ともに眴く。 白きものは白宝に過ぎたり。 青きものは青蓮華に勝れたり。 あるいは次に広く観ずべし。 眼より光明を出したまふに、分れて四支となりて、あまねく十方の無量の世界を照らす。 青き光のなかには青き色の化仏ましまし、白き光のなかには白き色の化仏まします。 この青白の化仏、またもろもろの神通を現じたまふ。 [『大集経』(意)にのたまはく、「慈心を修集し、衆生を愛視して、紺色の目の相を得たり」と云々。 小時のあひだにおいても、この相を観ずるものは、未来の生処に、眼つねに明浄にして、眼根に病なく、七劫の生死の罪を除却す。]

 十には、鼻修く、高く直くして、その孔現ぜず。 鋳たる金鋌のごとく、鸚鵡の嘴のごとし。 表裏清浄にしてもろもろの塵翳なし。 二の光明を出してあまねく十方を照らし、変じて種々の無量の仏事をなす。 [この随好を観ずるものは千劫の罪を滅し、未来の生処にて上妙の香を聞ぎ、つねに戒香をもつて身の瓔珞となす。]

 十一には、唇の色、赤好なること頻婆菓のごとし。 上下あひ称へること、量りのごとくにして厳麗なり。 あるいは次に広く観ずべし。 団円の光明、仏の口より出でて、なほ百千の赤き真珠の貫くがごとくして、鼻と白毫と髪とのあひだに入出す。 かくのごとく展転して、円光のなかに入る。 [この唇の随好の業等は勘ふべし。]

 十二には、四十の歯は、斉しく、浄く密にして根深く、白きこと珂雪に逾えたり。 つねに光明あり。 その光紅白にして、人の目を映耀す。 [『大経』(大般涅槃経)にのたまはく、「両舌・悪口・恚心を遠離して、四十の歯、鮮白斉密なる相を得たり」と云々。]

 十三には、四の牙、鮮白光潔にして鋒利なること、月のはじめて生づるがごとし。 [『大集』にのたまはく、「身口意浄きがゆゑに、四牙、白の相を得たり」と云々。 この唇・口・歯の相を観ずるものは、二千劫の罪を滅す。]

 十四には、世尊の舌相は、薄く浄くして、広く長し。 よく面輪を覆ひて、耳髪の際より、乃至梵天に至る。 その色、赤銅のごとし。 あるいは次に広く観ずべし。 舌の上に五の画あり、なほ印文のごとし。 笑みたまふ時、舌を動かすに五の色光を出し、仏を繞ること七匝して、還りて頂より入る。 あらゆる神変は無量無辺なり。

[『大集』にのたまはく、「口の四の過を護りて、広長の舌相を得たり」と云々。 この相を観ずるものは、百億八万四千劫の罪を除きて、他世に八十億の仏に値ふ。]

 十五には、舌の下の両辺に二の宝珠あり。 甘露を流注して、舌根の上に滴づ。 諸天・世人・十地の菩薩もこの舌根なく、またこの味はひなし。 [『大般若』に異説あり。勘ふべし。 『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「飲食を施与するがゆゑに、上味の相を得たり」と。]

 十六には、如来の咽喉は瑠璃の筒のごとし。 状は蓮華を累ねたるがごとし。 出したまふところの音声は詞韻和雅にして、等しく聞えずといふことなし。 その声洪きに震ひて、なほ天の鼓のごとく、発したまふところの言は、として伽陵頻の音のごとし。 任運によく大千世界に遍す。 もし作意したまふ時には無量無辺なり。 しかも衆生を利せんがために、類に随ひて増減せず。 [『大経』(同・意)にのたまはく、「かの短を訟はず、正法を謗ぜずして、梵音声の相を得たり」と。 『大集』にのたまはく、「もろもろの衆生において、つねに柔軟に語りしがゆゑに」と云々。]

 十七には、頸より円光を出したまふ。 咽喉の上に点相ありて分明なり。 一々の点のなかに一々の光を出す。 その一々の光、前の円光を繞りて七匝を満足して、衆画分明なり。 一々の画のあひだに妙蓮華あり。 華の上に七仏まします。 一々の化仏におのおの七菩薩ありて、もつて侍者となせり。 一々の菩薩、如意珠を執れり。 その珠に金光あり。

青・黄・赤・白および摩尼の色、みなことごとく具足して、諸光を囲繞せり。 上下・左右、おのおの一尋にして、仏の頸を囲繞して、了々なること画のごとし。 [『無上依経』(意)にのたまはく、「衣服・飲食・車乗・臥具、もろもろの荘厳の物を歓喜して施与し、身金色にして、円光一丈なる相を得たり」と。]

 十八には、頸より二の光を出す。 その光万色ありて、あまねく十方の一切の世界を照らす。 この光に遇ふものは辟支仏となる。 この光、もろもろの辟支仏の頸を照らす。 この相現ずる時、行者、あまねく十方一切のもろもろの辟支仏の、鉢を虚空に擲げて十八変をなし、一々の足の下にみな文字ありて、その字、十二因縁を宣説するを見る。

 十九には、欠瓫骨満の相あり。 光十方を照らすに、虎魄の色をなす。 この光に遇ふものは声聞の意を発す。 このもろもろの声聞、この光明を見るに、分れて十支となる。 一支に千の色、十千の光明あり。 光ごとに化仏まします。 一々の化仏に四の比丘ありて、もつて侍者となり、一々の比丘はみな、苦・空・無常・無我を説く。 [以上三種は、広く観ずることを楽ふもの、これを用ゐるべし。]

 二十には、世尊の肩・項は円満殊妙なり。 [『法華の文句』(意)にいはく、「つねに施をして増長せしめたるがゆゑに、この相を得たり」と。]

 二十一には、如来の腋の下はことごとくみな充実なり。 紅紫の光を放ちて、もろもろの仏事をなし、衆生を利益す。 [『無上依経』(意)にのたまはく、「衆生のなかにおいて利益の事をなし、四正勤を修して、心に畏るるところなくして、両の肩平整にして、腋の下満てる相を得たり」と。]

 二十二には、仏の双臂肘、明直にして[[円]]なること象王の鼻のごとく、平立せるに膝を摩づ。 あるいは次に広く観ずべし。 手掌に千輻の理あり。 おのおの百千の光を放ちてあまねく十方を照らすに、化して金水となる。 金水のなかに一の妙水あり、水精の色のごとし。 餓鬼は見て熱を除き、畜生は宿命を識り、狂象の見るは獅子王となり、獅子は金翅鳥と見、諸竜もまた金翅鳥王と見る。 このもろもろの畜生、おのおの尊ぶところと見て、心に恐怖を生じて、合掌し恭敬す。 恭敬するをもつてのゆゑに、命終して天に生る。 [『大集』にのたまはく、「怖畏あるを救護して、臂肘、なることを得、他の事業を見て佐助せしがゆゑに、手摩膝の相を得たり」と。]

 二十三には、もろもろの指円満し、充密繊長にして、はなはだ愛楽すべし。 一々の端に、おのおの万字を生ぜり。 その爪光潔なること、華赤銅のごとし。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「もろもろの尊長において、恭敬し、礼拝し、合掌し、起立せしがゆゑに、指繊長なる相を得たり」と。]

 二十四には、一々の指のあひだは、なほ雁王のごとく、ことごとく[[網]]あり。 金色交絡して、文、綺画に同じ閻浮金に勝れたること百千万億なり。 その色明達にして、眼界に過ぎたり。 張れる時にはすなはち見ゆれども、指を斂むれば見えず。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「四摂の法を修して、衆生を摂取せしがゆゑに、この相を得たり」と。]

 二十五には、その手柔軟なること覩羅綿のごとくして、一切に勝過して、内外にともに握る。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「父母・師長の、もし病苦するに、みづから手をもつて洗ひ拭ひ、捉持し、安摩せしがゆゑに、手軟の相を得たり」と。]

 二十六には、世尊の頷・臆、ならびに身の上半の、威容広大なること獅子王のごとし。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「もろもろの有情の、如法の所作においてよく上首たれども、しかも助伴となりて我慢を離れ、もろもろの獷捩なかりしがゆゑに、この相を得たり」と。]

 二十七には、胸に万字あり。 実相の印と名づけ、大光明を放つ。 あるいは次に広く観ずべし。 光のなかに無量百千のもろもろの華ありて、一々の華の上に無量の化仏まします。 このもろもろの化仏、おのおの千の光ありて、衆生を利益す。 乃至、あまねく十方の仏の頂に入る。 時に、もろもろの仏の胸より百千の光を出し、一々の光、六波羅蜜を説く。 一々の化仏、一の化人の、端正微妙にして状弥勒のごときを遣はして、行者を安慰せしむ。 [この相の光を見るものは、十二億劫の生死の罪を除く。]

 二十八には、如来の心相は、紅蓮華のごとし。 妙なる紫金の光、もつて間錯をなして、瑠璃の筒のごとくして、懸りて仏の胸にあり。 合せず、開せず、団円なること、心のごとし。 万億の化仏、仏の心のあひだに遊ぶ。 また無量塵数の化仏、仏の心のなかにましまして、金剛台に坐して、無量の光を放ちたまふ。 一々の光のなかに、また無量塵数の化仏ましまして、広長の舌を出し、万億の光を放ちてもろもろの仏事をなしたまふ。 [仏の心を念ふものは、十二億劫の生死の罪を除き、生々に無量の菩薩に値ふことを得と云々。 広く観ずることを楽ふものは、この観をなすべし。]

 二十九には、世尊の身の皮は、みな真金の色なり。 光潔晃耀すること、妙金台のごとし。 衆宝をもつて荘厳し、衆の見んと楽ふところなり。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「衣服・臥具を施して、この相を得たり」と。]

 三十には、身光、任運三千界を照らす。 もし作意したまふ時には無量無辺なり。 しかももろもろの有情を憐愍せんがためのゆゑに、光を摂してつねに照らしたまふこと、面ごとにおのおの一尋なり。 [『大経』(同・意)にのたまはく、「香・華・灯明等をもつて人に施して、この相を得たり」と云々。 大光を観ずるものは、ただ心に見ることを発すに、衆罪を除却すと。]

 三十一には、世尊の身相は、修く広くして端厳なり。 [『大論』(大智度論)にいはく、「尊長を恭敬し、迎送し、侍繞して、身の直くして広き相を得たり」と云々。]

 三十二には、世尊の体相は、縦広の量等しくして周匝円満せること、[[尼陀樹]]のごとし。 [『大集』(意)にのたまはく、「つねに衆生を勧めて、三昧を修せしめて、この相を得たり」と。 『報恩経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、四大不調なるを、よく療治することをなせしがゆゑに、身の方円なる相を得たり」と。]

 三十三には、世尊の容儀は洪満にして端直なり。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「疾病のものにおいて、卑屈して瞻侍し、良薬を給施せしがゆゑに、身、僂曲せざる相を得たり」と。]

 三十四には、如来の陰蔵は平らかなること満月のごとし。 金色の光ありて、なほ日輪のごとく、金剛の器のごとく、中外ともに浄し。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「裸なるを見て衣服を施せしがゆゑに、陰蔵の相を得たり」と。 『大集』にのたまはく、「他の過を覆蔵せしがゆゑに」と。 『大論』(大智度論)にいはく、「多く慚愧を修し、および邪婬を断ぜしがゆゑに」と云々。 導禅師(善導)のいはく(観念法門)、「仏ののたまはく、〈もし欲色に貪ずること多きものは、すなはち如来の陰蔵の相を想へば、欲心すなはち息み、罪障除滅して、無量の功徳を得たり〉」と。]

 三十五には、世尊の両足、二手の掌中、項および双べる肩の七処は充満せり。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「施を行ぜし時に、所珍の物をよく捨てて吝せず、福田および非福田を観ざりしかば、七処満の相を得たり」と。]

 三十六には、世尊の双腨は漸次に繊円なること、翳泥耶仙鹿王の腨のごとし。 膊の鉤璅の骨の、盤結せるあひだよりもろもろの金光を出す。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「みづから正法において、実のごとく摂受し、広く他人のために説き、およびまさしく他のためによく給使をなして、翳泥耶の膊の相を得たり」と。]

 三十七には、世尊の足跟は広く長く円満して、とあひ称ひて、もろもろの有情に勝れたり。


 三十八には、足趺は修く高くして、なほ亀の背のごとし。 柔軟妙好にして、跟とあひ称へり。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「足下平満と、千輻輪と、繊長指との三の相を感ずる業、総じてよく跟・趺の二の相を感得す。 これ前の三相の依止するところなるがゆゑに」と。]

 三十九には、如来の身の前後左右および頂の上に、おのおの八万四千の毛ありて生ひたり。 柔潤・紺青にして、右に旋りて宛転せり。 あるいは次に広く観ずべし。 一々の毛端に百千万塵数の蓮華あり。 一々の蓮華に無量の化仏を生じ、一々の化仏はもろもろの偈頌を現じて、声々あひ次げること、なほ雨の渧るがごとし。 [『無上依経』(意)にのたまはく、「もろもろの勝善の法を修して、中・下品なく、つねに増上せしめて、身毛上に靡き、右に旋りて宛転せる相を得たり」と。 『優婆塞戒経』にのたまはく、「智者に親近して、楽ひて聞き、楽ひて論じ、聞きをはりて楽ひて修し、楽ひて道路を治し、棘刺を除去せるがゆゑに」と。]

 四十には、世尊の足の下に千輻輪の文あり。 網轂衆相、円満せざることなし。 [『瑜伽』(瑜伽論)にいはく、「その父母において種々に供養し、もろもろの有情のもろもろの苦悩の事において、種々に救護して、往来等の動転の業によるがゆゑに、この相を得たり」と云々。 千輻輪の相を見るは、千劫の極重悪業を却く。]

 四十一には、世尊の足の下には平満の相あり。 妙善安住せること、なほ奩底のごとし。 地は高下なりといへども、足の蹈むところに随ひて、みなことごとく然として、等しく触れずといふことなし。 [『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「持戒して動ぜず、施心移らず、実語に安住せるがゆゑに、この相を得たり」と云々。 その足柔軟なり。 もろもろの指繊長なり。 [[網]]具足し、内外に握る等の相、および業因は、前の手相に同じ。]

 四十二には、広きを楽ふものは観ずべし。 足下および跟に、おのおの一の華を生じ、もろもろの光を囲繞して十匝を満足す。 華々あひ次いで、一々の華の上に五の化仏まします。 一々の化仏、五十五の菩薩をもつて侍者となして、一一の菩薩の頂に摩尼珠の光を生ず。 この相現ずる時に、仏のもろもろの毛孔より八万四千の微細の少光明を生じて、身光を厳飾して、きはめて可愛ならしむ。 この光一尋にして、その相衆多なり。 乃至、他方のもろもろの大菩薩、これを観ずる時に、この光随ひて大なり。 {以上}

 このもろもろの相好の行相・利益・廃立等の事、諸文不同なり。 しかるにいま三十二の略相は、多く『大般若』による。 広相と随好とおよびもろもろの利益とは、『観仏経』による。 また相好の業に、その総別あり。 総因といふは、『瑜伽』(瑜伽論)の四十九にいはく、「め、清浄勝意楽地より、一切所有の菩提の資糧は、差別することあることなくして、よく一切の相および随好を感ず」と。 {云々}別因といふは、かの『論』(同)に三種あり。

一には六十二の因つぶさには『論』(瑜伽論)の文のごとし。

二には浄戒。もしもろもろの菩薩、浄戒を毀犯するは、なほ下賤の人身をすら得ることあたはず。 いかにいはんや、よく大丈夫の相を感ぜんや。

三には四種の善修。 一は善修事業、二は善巧方便、三は饒益有情、四は無倒回向なり。 {以上}別因のなかにまた多くの差別あり。 いまはしばらく因果のあひ順ぜるものを取る。 前後の次第は、諸文また不同なり。 いまはよろしきに随ひて、取りて次第となすなり。 相・好間雑してもつて観法をなすこと、またこれ『観仏経』の例なり。 順観の次第は、大途かくのごとし。

逆観は、これに反して、足より頂に至る。 『観仏三昧経』にのたまはく、「眼を閉ぢて見ることを得んには、心想の力をもつてせよ。 了々にして分明なること、仏の在世のごとくせよ。 この相を観ずといへども、衆多にすることを得ざれ。 一事より起してまた一事を想ひ、一事を想ひをはればまた一事を想へ。 逆順反覆すること、十六反を経よ。

かくのごとくして、心想きはめて明利ならしめ、しかして後に、心を住めて念を一処に繋けよ。 かくのごとくして、漸々に舌を挙げて齶に向かへ、舌をしてまさしく住せしめよ。 二七日を経て、しかして後に、身心安穏なることを得べし」と。 導和尚(善導)のいはく(観念法門・意)、「十六遍の後には、心を住めて白毫相を観ぜよ。 雑乱することを得ざれ」と。

総相観

【44】 二に総相観とは、先づ〔前のごとく〕衆宝荘厳の広大の蓮華を観じ、次に阿弥陀仏の、華台の上に坐したまへるを観ぜよ。 身の色は、百千万億の閻浮檀金のごとし。 身の高さは、六十万億那由他恒河沙由旬なり。 眉間の白毫は、右に旋りて婉転せること五須弥山のごとし。 眼は四大海水のごとくして、清白分明なり。 身のもろもろの毛孔より光明を演出すること、須弥山のごとし。 円光は、百億の大千界のごとし。

光のなかに無量恒河沙の化仏ましまし、一々の化仏は、無数の菩薩をもつて侍者となせり。 かくのごとくして八万四千の相あり。 一々の相におのおの八万四千の随好あり。 一々の好にまた八万四千の光明あり。 一々の光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。 まさに知るべし。

一々の相のなかに、おのおの七百五倶胝六百万の光明を具して、熾然赫奕として神徳巍々たること、金山王の大海のなかにあるがごとし。 無量の化仏・菩薩、光のなかに充満して、おのおの神通を現じて、弥陀仏を囲繞したてまつれり。 かの仏、かくのごとく無量の功徳・相好を具足して、菩薩衆会のなかにましまして、正法を演説したまふ。

行者、この時にすべて余の色相なく、須弥・鉄囲、大小のもろもろの山もことごとく現ぜず、大海・江河・土地・樹林もことごとく現ぜず。 目に溢てるものは、ただこれ弥陀仏の相好、世界に周遍せるものは、またこれ閻浮檀金の光明なり。 たとへば、劫水の、世界に弥満せるに、そのなかの万物は沈没して現ぜず、滉瀁浩汗として、ただ大きなる水のみを見るがごとし。

かの仏の光明もまたかくのごとし。 高く一切世界の上に出でて、相好・光明、照曜せずといふことなし。 行者は心眼をもつておのが身を見るに、またかの光明の所照のなかにあり。 [以上、『観経』・『双巻経』(大経)・『般舟経』・『大論』(大智度論)等の意による。 この観、成じて後に楽に随ひて次の観をなせ。]

 あるいは観ずべし。 かの仏はこれ三身一体の身なり。 かの一身において、見るところ不同なり。 あるいは丈六、あるいは八尺、あるいは広大の身なり。 所現の身はみな金色にして、利益したまふところはおのおの無量なり。 一切の諸仏と、その事同一なり。 [応化身なり。]また一々の相好は、凡聖その辺を得ず、梵天もその頂を見ず、目連もその声を窮めず、無形第一の体なり。 荘厳にあらずして荘厳せり。

十力・四無畏・三念住・大悲、八万四千の三昧門、八万四千の波羅蜜門、恒沙塵数の法門、究竟円満したまふ。 一切の諸仏と、その意同一なり。

[報身。]微妙の浄法身に、もろもろの相好を具足せり。 一々の相好は、すなはちこれ実相なり。 実相は、法界具足して減ずることなし。 生ぜず滅せず、去・来なし。一にあらず異にあらず、断・常にあらず。 有為・無為のもろもろの功徳は、この法身によりてつねに清浄なり。 一切の諸仏と、その体同一なり。

[法身。]このゆゑに三世十方の諸仏の三身、普門塵数の無量の法門、仏衆法海の円融の万徳、おほよそ無尽の法界は、つぶさに弥陀の一身にあり。 縦ならず横ならず、また一・異にあらず。 実にもあらず虚にもあらず、また有・無にもあらず。 本性清浄にして、心言の路絶えたり。 たとへば、如意珠のなかに、宝あるにもあらず、宝なきにもあらざるがごとし。 仏身の万徳もまたかくのごとし。 また陰入界に即して、名づけて如来となすにあらず。

かのもろもろの衆生は、みなことごとくこれあるがゆゑに、陰入界を離れて、名づけて如来となすにもあらず。 これを離れては、すなはちこれ無因縁の法なるがゆゑに、即にもあらず、また離にもあらず。 寂静にしてただ名のみあり。 このゆゑにまさに知るべし。 所観の衆相は、すなはちこれ三身即一の相好・光明なり、諸仏同体の相好・光明なり、万徳円融の相好・光明なり。

色すなはちこれ空なるがゆゑに、これを真如実相といふ。 空すなはちこれ色なるがゆゑに、これを相好・光明といふ。 一色・一香、中道にあらずといふことなし。 受・想・行・識もまたかくのごとし。 わが所有の三道と弥陀仏の万徳と、本来空寂にして一体無礙なり。 願はくはわれ仏を得て、聖法の王と斉しからん。 [以上、『観経』・『心地観経』・『金光明経』・『念仏三昧経』・『般若経』・『止観』等の意による。]

雑略観

【45】 三に雑略観とは、かの仏の眉間に一の白毫あり。 右に旋りて宛転せること、五須弥のごとし。 なかにおいて、また八万四千の好あり。 一々の好に八万四千の光あり。 その光微妙にして、衆宝の色を具せり。 総じてこれをいへば、七百五倶胝六百万の光明なり。 十方の面に赫奕たること、億千の日月のごとし。

その光のなかに一切の仏身を現じ、無数の菩薩、衆会して囲繞せり。 また微妙の音を出して、もろもろの法海を宣暢す。

またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。

あるいは自心を起して極楽国に生じて、蓮華のなかに結跏趺坐し、蓮華の合する想をなすべし。

尋いで、蓮華開くる時に、尊顔を瞻仰したてまつり、白毫の相を観ず。 時に五百色の光ありて、来りてわが身を照らすに、すなはち無量の化仏・菩薩の、虚空のなかに満てるを見たてまつる。 水・鳥・樹林および諸仏の出したまふところの音声は、みな妙法を演ぶと。 かくのごとく思想して、心をして欣悦せしめよ。 願はくは、もろもろの衆生とともに安楽国に往生せん。 [以上、『観経』・『華厳経』等の意による。 つぶさには別巻にあり。]もし極略を楽ふものは、念ふべし。 かの仏の眉間の白毫の相は、旋転せること、なほ頗梨珠のごとし。 光明あまねく照らしてわれらを摂めたまふ。 願はくは、衆生とともにかの国に生れんと。
もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。 [以上、意楽不同なり。ゆゑに種々の観を明かす。]
行住坐臥、語黙作々に、つねにこの念をもつて胸のなかに在くこと、飢して食を念ふがごとくし、渇して水を追ふがごとくせよ。 あるいは頭を低れ手を挙げ、あるいは声を挙げて名を称せよ。 外儀は異なりといへども、心念はつねに存ぜよ。 念々に相続して、寤寐に忘るることなかれ。

 問ふ。 かの仏の真身は、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。 ただ像を観ずべし。 なんぞ大身を観ぜん。

答ふ。 『観経』にのたまはく、「無量寿仏は身量無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。 しかもかの如来の宿願力のゆゑに、憶想することあるものは、かならず成就することを得。 ただ仏像を想ふすら、無量の福を得。 いはんやまた仏の具足せる身相を観ぜんをや」と。 {以上}あきらかに知りぬ、初心もまた楽欲に随ひて真身を観ずることを得るなり。

 問ふ。 いふところの弥陀の一身は、すなはち一切仏の身なりとは、なんの証拠かある。

答ふ。 天台大師(智顗)のいはく(十疑論)、「阿弥陀仏を念ずるは、すなはち一切の仏を念ずるなり。 ゆゑに『華厳経』にのたまはく、

〈一切の諸仏の身は、すなはちこれ一仏の身なり。
一心なり、一智慧なり。

力・無畏もまたしかなり〉」と。 {以上}また『観仏三昧経』にのたまはく、「もし一仏を思惟すれば、すなはち一切の仏を見たてまつる」と。 {云々}

 問ふ。 もし諸仏の体性の無二なるがごとく、念者の功徳もまた別なきや。 答ふ。 等しくして差別なし。 ゆゑに『文殊般若経』の下巻にのたまはく、「一仏を念ずるは、功徳無量無辺なり。 また無量の諸仏の功徳と無二なり。 不思議の仏法は等しくして分別なし。 みな一如に乗じて最正覚を成じ、ことごとく無量の功徳、無量の弁才を具したまへり。 かくのごとくして一行三昧に入るものは、ことごとく恒沙の諸仏の法界の、無差別の相を知る」と。 {以上}

 問ふ。 諸相の功徳は、肉髻梵音と、これを最勝なりとなす。 いま多く白毫を勧むること、なんの証拠かある。

答ふ。 その証はなはだ多し。 略して一両を出さん。 『観経』にのたまはく、「無量寿仏を観ずるものは、一の相好より入れ。 ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。 眉間の白毫を見るものは、八万四千の相好、自然にまさに見つべし」と。 また『観仏経』にのたまはく、「如来に無量の相好まします。 一々の相のなかに、八万四千のもろもろの小相好あり。 かくのごとき相好は、白毫の少分の功徳に及ばず。 このゆゑに今日、来世のもろもろの悪の衆生のために、白毫相の大慧光明の、消悪の観法を説く。 もし邪見の極重の悪人ありて、この観法は相貌を具足すと聞きて、瞋恨の心をなさば、この処あることなからん。 たとひ瞋りをなすとも、白毫相の光、また覆護せん。 しばらくこの語を聞かば、三劫の罪を除き、後身の生処は、諸仏の前に生ぜん。 かくのごとく、種々の百千億種のもろもろの、光明を観る微妙の境界は、ことごとく説くべからず。 白毫を念ふ時、自然にまさに生ずべし」と。

またのたまはく(観仏経)、「粗心にして像を観ずるに、なほかくのごとき無量の功徳を得。 いはんやまた念を繋けて、仏の眉間の白毫相の光を観ぜんをや」と。 またのたまはく(同)、「釈迦文仏、行者の前に現じて、告げてのたまはく、〈なんぢ、観仏三昧力を修す。 ゆゑに、われ涅槃相の力をもつて、なんぢに色身を示して、なんぢをしてあきらかに観ぜしめん。 なんぢ、いま坐禅して多く観ずることを得ざれ。 なんぢ、後の世の人、多くもろもろの悪を作れり。 ただ眉間の白毫の相の光を観ぜよ。 この観をなす時に見るところの境界は、上の所説のごとし〉」と。 [以上、これを略抄す。]「上の所説」とは、仏の種々の境界を見るなり。 もろもろの余の利益は、下の別時の行および利益門に至りて知りぬべし


 問ふ。 白毫の一相を観ずるをもまた三昧と名づくるや。

答ふ。 しかなり。 ゆゑに『観仏経』の第九にのたまはく、「もしよく心を繋けて一の毛孔を観ずる、この人は名づけて念仏定を行ずとなす。 仏を念ずるをもつてのゆゑに、十方の諸仏、つねにその前に立ちて、ために正法を説きたまふ。 この人、すなはちよく三世のもろもろの如来を生ずる種となす。 いかにいはんや、具足して仏の色身を念ぜんをや」と。

 問ふ。 なんがゆゑぞ浄土の荘厳を観ぜざるや。

答ふ。 いま広行に堪へざるもののために、ただ略観を勧む。 もし観ぜんと欲ふものは、『観経』を読むべし。 いかにいはんや前に十種の事明かしつ。 すなはちこれ浄土の荘厳なり。

 問ふ。 なんがゆゑぞ観音・勢至を観ぜざるや。

答ふ。 略せるがゆゑに述せず。 仏を念じをはりて後は、二菩薩を観ずべし。 あるいは名号を称せよ。 多少は意に随へ。

回向門

【46】 第五に回向門を明かすとは、五の義具足せるもの、これ真の回向なり。 一には、三世の一切の善根を聚集すること、[『華厳経』の意。]二には、薩婆若の心と相応すること、三には、この善根をもつて一切衆生とともにすること、四には、無上菩提に回向すること、五には、能施・所施・施物はみな不可得なりと観じて、よく諸法の実相と和合せしむることなり。 [『大論』(大智度論)の意。]これらの義によりて、心に念ひ、口にいへ。 修するところの功徳と、および三際の一切善根とを、[その一。]自他法界の一切衆生に回向して、平等に利益し、[その二。]罪を滅し、善を生じて、ともに極楽に生じて、普賢の行願を速疾に円満し、自他同じく無上菩提を証して、未来際を尽すまで衆生を利益し、[その三。]法界に回施して、[その四。]大菩提に回向するなり。 [その五。]

 問ふ。 未来の善いまだあらず。 なにをもつてか回向する。

答ふ。 『華厳経』に、第三の回向菩薩の行相を説きてのたまはく、「三世の善根をもつて、所着なく、相なく相を離れて、ことごとくもつて回向す」(意)と。 『刊定記』に二の釈あり。 一には、未来の善根はいまだあらずといへども、いまもし願を発しつれば、願薫じて種となり、摂持する力のゆゑに、未来の所修任運に衆生と菩提とに注向して、さらに回向することを待たず。 二には、この教のなかによれば、菩薩は、乃至、一念の善を修するに、法性を摂するがゆゑに九世に遍す。 ゆゑにかの善根をもつて回向すと。 {云々}

 問ふ。 第二に、いかなるをや薩婆若相応の心と名づくる。

答ふ。 『論』(大智度論)にいはく、「阿耨菩提の意、すなはちこれ薩婆若に応ずる心なりと。 〈応〉といふは、心を繋けて、われまさに仏に作るべしと願ずるなり」と。

 問ふ。 第三・第四は、なんがゆゑぞかならず一切衆生とともにし、および無上菩提に回向する。

答ふ。 『六波羅蜜経』にのたまはく、「いかんぞ少施の功徳多なるや。 方便の力をもつて、少分の布施をもつて回向し発願すらく、〈一切衆生と同じく無上正等菩提を証せん〉と。 これをもつて功徳の無量無辺なること、なほ小雲の、やうやく法界に遍するがごとし」と。 [乃至、一華・一菓をもつて施するもまたしかり。 『大論』(大智度論)の意またこれに同じ。]また『宝積経』の四十六にのたまはく、「菩薩摩訶薩は、所有の已生のもろもろの妙善根を、一切、無上菩提に回向して、この善根をして畢竟じて無尽ならしむ。 たとへば、小水を大海に投げつれば、乃至、劫焼のなかにも尽くることあることなからんがごとし」と。 また『大荘厳論』の偈にいはく、

「施を行じて妙色・財を求めず、また天・人趣を感ずることを願ぜざれ、
もつぱら無上勝菩提を求むれば、施は微なれどもすなはち無量の福を感
ず」と。

{以上}ゆゑにもろもろの善根をもつてことごとく仏道に回向するなり。 また『大論』(大智度論)にいはく、「たとへば、慳貪の人の、因縁なくしては、乃至一銭をも施せず、貪慳積聚してただ増長することを望むがごとく、菩薩もまたかくのごとし。 福徳の、もしは多もしは少、余事には向かへず、ただ愛惜積集して薩婆若に向かふ」と。 {以上}

 問ふ。 もししからば、ただ菩提に回向すべし。 なんがゆゑぞ、さらに往生極楽とはいふ。

答ふ。 菩提はこれ果報なり。 極楽はこれ華報なり。 果を求むる人、いかんぞ華を期せざらんや。 このゆゑに九品の業にみないはく、「回向して極楽国に生ぜんと願求す」と。

 問ふ。 発願と回向とは、なんの差別かある。

答ふ。 誓ひて求むるところを期する、これを名づけて願となす。 所作の業を回してかしこに趣向する、これを回向といふ。

 問ふ。 薩婆若と無上菩提と、二は差別なし。 なんぞ分ちて二とはなす。

答ふ。 『論』(同)に回向を明かすに、これを分ちて二となせり。 ゆゑにいまこれに順ず。 さらに『論』(同)の文を撿へよ。

 問ふ。 次に、なんがゆゑぞ、あらゆる事を観じて、ことごとく空ならしむるや。

答ふ。 『論』(大智度論)にいはく、「着心取相の菩薩の修する福徳は、草より生ずる火の、滅することを得べきこと易きがごとし。 もし実相を体得せる菩薩の、大悲心をもつて行ずる衆行は、破することを得べきこと難きこと、水のなかの火の、よく滅するものなきがごとし」と。 {云々}

 問ふ。 もししからば、唱へて「空無所得」といふべし。 なんがゆゑぞいま「回施法界」とはいふ。

答ふ。 理、実にはしかるべし。 しかれども、いまは国土の風俗に順ずるがゆゑに「法界」といふに、理また違することなし。 しかる所以は、法界はすなはちこれ円融無作の第一義空なり。 所修の善をもつて回趣し、かの第一義空に相応するを回施法界と名づく。


 問ふ。 最後に、なんの意ぞ唱へて「回向大菩提」といふや。

答ふ。 これはこれ、薩婆若と相応せしむるなり。 これまた土風に順じて、これを末後に置く。 「薩婆若」といふは、すなはちこれ菩提なり。 前の『論』(同)の文のごとし。

 問ふ。 有相の回向には利益なきや。

答ふ。 上にしばしば論ずるがごとし。 勝劣はありといへども、なほ巨益あり。 『大論』(同)の第七にいふがごとし。 「小因の大果、小縁の大報あり。

仏道を求めて一偈を讃じ、一たび〈南無仏〉と称し、一捻の香を焼きて、かならず仏に作ることを得るがごときなり。 いかにいはんや、聞知せんをや。 〈諸法の実相は不生不滅にして、不生にもあらず、不滅にもあらざれども、しかも因縁の業を行ずれば、また失せざるなり〉」と。 {以上}この文深妙なり。 髻のなかの明珠なり。 すなはち知りぬ、われらも仏になること疑なしと。

龍樹尊に帰命したてまつる。わが心願を証明したまへ。

第五 助念方法

【47】 大文第五に、助念方法といふは、一目の羅は鳥を得ることあたはず、万術をもつて観念を助けて、往生の大事を成ず。 いま七事をもつて、略して方法を示さん。 一には方処供具、二には修行相貌、三には対治懈怠、四には止悪修善、五には懺悔衆罪、六には対治魔事、七には総結要行なり。

方処供具

【48】 第一に方処供具とは、内外ともに浄くして一の閑処を卜めて、力に随ひて香華供具を弁ぜよ。 もし華香等の事を闕少せることあらば、ただもつぱら仏の功徳威神を念ぜよ。 もし親しく仏像に対はば、すべからく灯明を弁ずべし。 もしはるかに西方を観ぜば、あるいは闇室を須ゐよ。 [感禅師(懐感)は闇室を許す。]もし華香を供する時には、すべからく『観仏三昧経』の供養の文の意によるべし。

その得るところの福、無量無辺なり。 煩悩おのづから減少し、六度おのづから円満す。 [その文、通途の所用に異ならず。 ゆゑにさらに抄せず。]もし念珠を用ゐん時には、浄土を求めんと欲はば、木槵子を用ゐ、多功徳を欲はば、菩提子、乃至、あるいは水精・蓮子等を用ゐよ。 [『念珠功徳経』に見えたり。]

修行相貌

【49】 第二に修行相貌とは、『摂論』等によりて四修の相を用ゐよ。 一には長時修。

『要決』(西方要決)にいはく、「初発心よりすなはち菩提に至るまで、つねに浄因をなして、つひに退転なかれ」と。 善導禅師のいはく(礼讃)、「命を畢ふるを期となして、誓ひて中止せざれ」と。

二には慇重修。 いはく、極楽の仏法僧宝において、心につねに憶念して、もつぱら尊重をなせ。 『要決』(同)にいはく、「行住坐臥に、西方を背かざれ。 啼・唾・便痢は、西方に向かはざれ」と。

導師(善導)のいはく(礼讃)、「面を西方に向かふるものは最勝なり。 樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。 かならず事の礙ありて西に向かふこと及ばずは、ただ西に向かふ想をなすにまた得たり」と。

三には無間修。 『要決』(同)にいはく、「いはく、つねに仏を念じて往生の心をなせ。 一切の時において、心につねに想ひ巧め。 たとへば、人ありて、他に抄掠せられ、身、下賤となりてつぶさに艱辛を受けん。 たちまちに父母を思ひ、走りて国に帰らんと欲するに、行装いまだ弁ぜずして、なほ他の郷にありて日夜に思惟し、苦堪忍せず。 時としてしばらくも捨てて耶嬢を念はざることなし。 計をなすことすでに成じて、すなはち帰りて達することを得て、父母に親近し、ほしいままに歓娯せんがごとし。 行者もまたしかなり。

往、煩悩によりて善心を壊乱し、福智の珍財、ならびにみな散失せり。 久しく生死に沈みて制すること自由ならず。 つねに魔王のためにしかも僕使となりて、六道に駆馳せられ、身心を苦切す。 いま善縁に遇ひて、たちまちに弥陀の慈父の、弘願に違はずして群生済抜したまふことを聞き、日夜に驚忙し、心を発して往くことを願ふ。

ゆゑに精勤すること倦まずして、まさに仏恩を念じて、報の尽くるを期となして、心につねに計念すべし」と。 {云々}導師(善導)のいはく(礼讃)、「心々相続して余業をもつて間へざれ。 また貪瞋等をもつて間へざれ。 随ひて犯せば、随ひて懺せよ。 念を隔て時を隔て日を隔てしめずして、つねに清浄ならしめよ」と。 {云々}

わたくしにいはく、日夜六時、あるいは三時・二時に、かならず方法を具して、精勤修習せよ。 その余の時処には威儀を求めず、方法を論ぜず、心口に廃することなくして、つねに仏を念ずべし。

四には無余修。 『要決』(西方要決)にいはく、「もつぱら極楽を求めて弥陀を礼念せよ。 ただし諸余の業行は雑起せしめざれ。 所作の業は、日別に、すべからく念仏・読経を修して、余課を留めざるべし」と。 導師(善導)のいはく(礼讃)、「かの仏の名をもつぱら称し、かの仏および一切の聖衆等をもつぱら念じ、もつぱら想ひ、もつぱら礼し、もつぱら讃じて、余業を雑へざれ」と。 {以上}

 問ふ。 その余の事業は、なんの過失かある。

答ふ。 『宝積経』の九十二にのたまはく、「もし菩薩ありて、楽ひて世業をなし、衆務を営まんを、応ぜざるところなりとなす。 われ説かく、〈この人は生死に住す〉」と。 また同偈にのたまはく、

戯論・諍論の処は、多くもろもろの煩悩を起す。
智者は遠離すべきこと、まさに百由旬を去るべし」と。

{云々}自余の方法は、つぶさに『止観』のごとし。


 問ふ。 もししからば、在家の人は念仏の行に堪へがたし。

答ふ。 もし世俗の人は、縁務を棄てがたくは、ただつねに念を西方に繋けて、誠心にしてかの仏を念ずべし。 『木槵経』の瑠璃王の行のごとくせよ。 また迦才の『浄土論』にいはく、「たとへば、竜の行くに、雲すなはちこれに随ふがごとく、心もし西に逝けば、業またこれに随ふ」と。

 問ふ。 すでに知りぬ、修行に総じて四の相ありと。 その修行の時の用心いかんぞ。

答ふ。 『観経』にのたまはく、「もし衆生ありて、かの国に生れんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。 一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり」と。 善導禅師のいはく(礼讃)、「一に至誠心といふは、いはく、礼拝・讃嘆・念観の三業はかならず真実を須ゐるがゆゑなり。

二に深心といふは、いはく、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり。 善根薄少にして三界に流転して、いまだ火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、乃至一念も疑心あることなきなり。 三に回向発願心といふは、いはく、所作の一切の善根をことごとくみな回向して、往生せんと願ずるがゆゑなり。 この三心を具すれば、かならず往生することを得。 もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず」と。 [略してこれを抄す。

経文は上品上生にありといへども、禅師(善導)の釈のごとくは、理九品に通ず。 余師の釈つぶさにすることあたはず。]『鼓音声王経』にのたまはく、「もしよく深く信じて狐疑なきものは、かならず阿弥陀の国に往生することを得」と。

『涅槃経』にのたまはく、「阿耨菩提は信心を因となす。 この菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説きつればすなはちすでに摂尽しつ」と。 {以上}あきらかに知りぬ、道を修するには信をもつて首めとなす。 また善導和尚のいはく(礼讃・意)、「もしは入観および睡りの時には、この願を発すべし。 もしは坐し、もしは立ちて、一心に合掌して、まさしく面を西に向かへて、十声、〈阿弥陀仏・観音・勢至・もろもろの菩薩・清浄大海衆〉と称しをはりて、仏・菩薩および極楽界の相を見たてまつらんといふ願を発せ。 すなはち意に随ひて入観し、および睡りても見ることを得。 心をば至さざるを除く」と。


 問ふ。 行者、常途に往生を計念すること、その相、なににか似たる。

答ふ。 前に引くところの『要決』(西方要決)に、本国に帰らんと欲ふ譬へ、これその相なり。 また綽和尚(道綽)の『安楽集』(上)にいはく、「たとへば、人ありて空曠のはるかなる処にして、怨賊の、剣を抜き勇を奮ひて、ただちに来りて殺さんと欲せんに値遇ひなん。 この人ただちに走るに、一の河を渡らんと観る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。 〈われ河の岸に至りては、衣を脱ぎてや渡るとやせん、衣を着てや浮ぐとやせん。 もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なきことを。 もし衣を着て浮がば、またおそらくは首領を全くすること難し〉と。

その時に、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなからんがごとし。 行者またしかり。 阿弥陀仏を念ずる時には、またかの人の渡ることを念ふがごとくして、念々にあひ次いで、余の心想間雑することなし。 あるいは仏の法身を念ひ、あるいは仏の神力を念ひ、あるいは仏の智慧を念ひ、あるいは仏の毫相を念ひ、あるいは仏の相好を念ひ、あるいは仏の本願を念へ。 名を称することもまたしかなり。 ただよくもつぱら至して、相続して断ぜざるは、さだめて仏前に生る」と。 {以上}元暁師これに同じ。

 問ふ。 念仏三昧は、ただ心に念ずとやせん、また口に唱ふとやせん。

答ふ。 『止観』の第二(意)にいふがごとし。 「あるいは〔唱・念〕ともに運び、あるいは先づ念じ後に唱へ、あるいは先づ唱へ後に念じて、唱・念あひ継ぎて休息する時なし。 声々・念々ただ阿弥陀にあり」と。 また感禅師(懐感)のいはく(群疑論)、「『観経』にのたまはく、〈この人、苦に逼められて念仏に遑あらず。 善友、教令すらく、《阿弥陀仏を称すべし》と。 かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしむ〉と。

あに苦悩に逼められて念想成じがたきには、声をして絶えざらしむるに、至心にすなはち得るにあらずや。 いまこの声を出して、念仏定を学することもまたかくのごとし。 声をして絶えざらしむれば、つひに三昧を得て、仏・聖衆の皎然として目の前にましますを見る。 ゆゑに『大集』の〈日蔵分〉にのたまはく、〈大念は大仏を見る、小念は小仏を見る〉と。 〈大念〉とは大声に仏を称するなり。 〈小念〉とは小声に仏を称するなり。 これすなはち聖教なり。 なんの惑ひかあらん。

現に見るにすなはちいまのもろもろの修学者、ただすべからく声を励まして仏を念ずべし。 三昧成じやすし。 小声に仏を称するに、つひに馳散多し。 これすなはち学者の知るところにして、外人の暁るにあらず」と。 [以上、かの『経』(大集経)にのたまはく、「ただ多を欲するは多を見、小を欲するは小を見る」等と。 しかるに感師(懐感)、すでに三昧を得たり。 かの釈するところ、仰ぎて信ずべし。 さらに諸本を勘へよ。 「小念は小を見、大念は大を見る」の文、『日蔵経』の第九に出でたり。]

対治懈怠

【50】 第三に対治懈怠とは、行人恒時に勇進することあたはず。 あるいは心蒙昧となり、あるいは心退屈す。 その時に種々の勝れたる事に寄せて自心を勧励すべし。 あるいは三途の苦果をもつて浄土の功徳に比べて、この念をなすべし。 「われすでに悪道にして多劫を経き。 無利の勤苦すら、なほよく超えたり。

小行を修行して菩提を得んは大利なり。 退屈をなすべからず」と。 [悪趣の苦、浄土の相、一々にのごとし。]あるいは往生浄土の衆生を縁じて、この念をなすべし。 「十方世界のもろもろの有情、念々に安楽国に往生す。 かれすでに丈夫なり。 われもまたしかなり。 みづから軽みて退屈をなすべからず」と。 [往生の人は下の利益門・料簡門のごとし。]あるいは仏の奇妙の功徳を縁ずべし。


 問ふ。 なんらの功徳ぞ。

答ふ。 その事、無量なり。 略してその要を挙げん。

一には四十八の本願を思念すべし。 また『無量清浄覚経』にのたまはく、「阿弥陀仏、観世音・大勢至と、大願の船に乗りて生死の海に汎びて、この娑婆世界につきて、衆生を呼喚して大願の船に上せて、西方に送り着けしめたまふ。 もし衆生の、あへて大願の船に上らば、ならびにみな去ることを得。 これはこれ往きやすきなり」と。 『心地観経』の偈にのたまはく、

「衆生は生死海に没在して、五趣に輪廻して出づる期なし。
善逝つねに妙法の船となり、よく愛流を截りて彼岸に超えしめたまふ」と。

念ふべし、「われ、いづれの時にか悲願の船に乗りて去らん」と。

 二には名号の功徳なり。 『維摩経』にのたまふがごとし。 「諸仏の色身の威相・種性、戒・定・智慧・解脱・知見力・無所畏・不共の法、大慈大悲、威儀所行、およびその寿命、説法教化し、衆生を成就し、仏の国土を浄め、もろもろの仏法を具したまへること、ことごとくみな同等なり。 このゆゑに名づけて三藐三仏陀となし、名づけて多陀阿伽度となし、名づけて仏陀となす。 阿難、もしわれ広くこの三句の義を説かば、なんぢ劫寿をもつてすとも、尽して受くることあたはじ。 たとひ三千大千世界のなかに満てらん衆生をして、みな阿難のごとく多聞第一にして念総持を得しむとも、このもろもろの人等も、劫の寿をもつてすともまた受くることあたはじ」と。 {以上}『要決』(西方要決)にいはく、「『維摩』にのたまはく、〈仏の初めの三号をば、仏もし広く説きたまはば、阿難、劫を経とも領受することあたはじ〉と。

『成実論』に、仏の号を釈するに、前の九号はみな別義に従ひ、前の九号の名義の功徳を総じて、仏世尊となす。 初めの三号を説かんに、劫を歴とも周めがたし。 阿難領悟するに、よくつぶさに悉することなし。 さらに六号を加へて、もつて仏号を製せりといふ。 勝徳すでに円かなれば、それを念ずるは大善なり」と。 [以上『要決』(西方要決)。]『華厳』の偈にのたまはく、

「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざらんに、
一たびも仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん」と

この念をなすべし、「われ、いますでに仏の尊号を聞くことを得たり。 願はくは、われまさに仏に作りて十方の諸仏のごとくあるべし」と。

 三には相好の功徳なり。 『六波羅蜜経』(意)にのたまはく、「もろもろの世間において、あるところの三世の一切の衆生、学・無学の人、および辟支仏、かくのごとき有情の無量無辺の所有の功徳を、如来の一毛の功徳に比ぶるに、百千万分がなかにその一にも及ばず。

かくのごとき一々の毛端は、みな如来の無量の功徳より出生せるところなり。 一切の毛端のあらゆる功徳をもつて、ともに一の髪の功徳を成ず。 かくのごとくして仏の髪は八万四千なり。 一々の髪のなかに、おのおの上のごとき功徳を具せり。 かくのごとく合集して、ともに一の随好の功徳を成ず。 一切の好の功徳をともにして、一のの功徳を成ず。 一切の相の功徳を合集して百千倍に至りて、眉間の毫相の功徳を成ず。 その相円満にして、宛転して右に旋れること、頗胝迦宝のごとし。 明浄鮮白にして、夜闇のなかに、なほあきらかなる星のごとくなり。 毫相これを舒ぶれば、上は色界の阿迦膩天までに至る。 これを巻けば、旧のごとくしてまた毫相となりて、眉間に住す。 毫相の功徳、百千倍に至りて肉髻の相を成ず。

かくのごとき肉髻の千倍の功徳は、梵音声の相の功徳に及ばじ」と。 また『宝積経』に無数の校量あり。 学者、勘ふべし。 また『大集の念仏三昧経』の第五にのたまはく、「かくのごとき世界、および十方の無量無辺のもろもろの世界のなかのあらゆる衆生、たとひことごとくみな一時に仏となりて、かのもろもろの世尊、無量劫を経て、みな還りて仏の一毛の功徳を嘆めたまふとも、つひにまた尽さじ」と。 {云々}『華厳』の偈にのたまはく、

「清浄の慈門刹塵数にして、ともに如来の一の妙相を生ず。
一々の諸相、しからずといふことなし。このゆゑに見るもの、厭足するこ
となし」と。

この念をなすべし、「願はくは、われまさに仏の無辺功徳の相を見たてまつるべし」と。


 四には光明の威神なり。 いはく、『平等覚経』(一)にのたまはく、「無量清浄仏[無量清浄仏は、これ阿弥陀仏なり。]の光明は、最尊第一にして比びなし。 諸仏の光明、みな及ばざるところなり。 ある仏の頂の光明は七尺を照らす。 ある仏は一里を照らす。 ある仏は五里、ある仏は二十里・四十里・八十里、乃至百万の仏国、二百万の仏国なり。 八方上下、無央数の諸仏の頂の光の照らしたまふところ、みなかくのごとし。 無量清浄仏の頂のなかの光明は、千万の仏国を炎照す」と。 [以上取意。

わたくしにいはく、『観経』にのたまはく、「かの仏の円光は百億の大千界のごとし」と。 この『経』(平等覚経・一)にはのたまはく、「頂のなかの光、千万仏の国を照らす」と。 二経の意、同じきのみ。]『双巻経』(大経)の意、これに同じ。 『経』(同・上)にのたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最勝第一にして、諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。 あるいは仏の光の、百仏世界あるいは千仏世界を照らすあり。 要を取りてこれをいはば、すなはち東方の恒河沙の仏刹を照らす。 南西北方・四維・上下もまたかくのごとし。 このゆゑに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏[玄一師のいはく(無量寿経記)、〈ともに等しきものなきがゆゑに〉と。]炎王光仏[玄一師のいはく(同)、〈最勝自在なるがゆゑに〉と。]清浄光仏[一(玄一)のいはく(同)、〈三垢を滅するがゆゑに〉と。

憬興師のいはく(述文賛)、〈無貪の善根の所生なるがゆゑに〉と。]歓喜光仏[一のいはく(無量寿経記)、〈遇ふもの悦意するがゆゑに〉と。 興(憬興)のいはく(述文賛)、〈無瞋所生なるがゆゑに〉と。]智慧光仏[一のいはく(無量寿経記)、〈智慧の所発なるがゆゑに〉と。 興いはく(述文賛)、〈無痴の所生なるがゆゑに〉と。]不断光仏[一のいはく(無量寿経記)、〈恒相続のゆゑに〉と。]難思光仏・無称光仏[一のいはく(同)、〈称嘆して、その所有を尽すべからざるがゆゑに〉と。 自余の名義は知りぬべし。 煩はしく記せず。]超日月光仏と号す。 もし三途勤苦の処にありて、この光明を見るに、また苦悩なく、寿終りて後にはみな解脱を蒙る。 ただわれのみ、いまその光明を称するにあらず。 一切の諸仏またかくのごとし。

もし衆生ありて、その光明の威神の功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得ん。 われ、無量寿仏光明の威神巍々として殊妙なることを説かんに、昼夜にして一劫すとも、なほ尽すことあたはじ」と。 [以上取意。 『平等経』には、別して、「頂の光」とのたまひ、『観経』には、総じて「光明」とのたまふ。]『譬喩経』の第三に、釈迦文仏の光相を明かしてのたまはく、「仏(釈尊)滅したまひて百年に阿育王あり。 国のうちの民庶、仏の遺典を歌しき。 王の、意に信ぜずして念言すらく、〈仏にいかなる徳の、人に過ぎ踰えたるものありて、しかもともに信をもつぱらにしてその文を誦習すらん〉と。

すなはち大臣に問はく、〈国のうちに、もし仏を見たるものありや〉と。 答へてまうさく、〈聞くならく、波斯匿王の妹、出家して比丘尼となれり。 年西垂にありて、いひて仏を見たりといふ〉と。 王すなはちみづから出でて往詣して、問ひていはく、〈道人、仏を見たりやいなや〉と。 答へてまうさく、〈実にしかり〉と。 問ひていはく、〈なんの殊異なることかある〉と。 道人のいはく、〈仏の功徳は巍々として量りがたし。 わが愚浅の、よくこれを陳ぶるところにあらず。 ほぼ一事を説かば、殊特なることを知りぬべし。 われ時に八歳、世尊来りて王宮に入りたまひき。 すなはち前みて足を礼せしに、頭の上の金の釵、堕落して地にあり。

これを求むるに得ずして、その所以を怪しみき。 如来の過ぎ去りたまひし足の跡に、千輻輪ありて、光明を現じて晃き、七日ありてすなはち滅しにき。 登時には、金の釵地と同色なりき。 ここをもつて見えざりき。 光滅して後に、釵を得き。 すなはち知りき、殊特なることを〉と。 王聞きて歓喜して、心あきらかに開悟しき」と。 {略抄}『華厳』の偈にのたまはく、

「一々の毛孔に光雲を現じて、あまねく虚空に遍して、大音を発す。
もろもろの幽冥の所、照らさざるなし。地獄の衆苦ことごとく減ぜしむ」
と。

この念をなすべし、「願はくは、仏の光明、われを照らして、生死の業苦を滅したまへ」と。


 五にはよく害するものなし。 『宝積経』の三十七(意)にのたまはく、「風劫起る時には、世に大風あり。 僧伽多と名づく。 かの風、この三千世界の須弥・鉄囲、および四大洲、八万の小洲、大山・大海を挙ぐること、高さ百踰繕那、乃至、無量百千踰繕那にして、すでに砕末して塵となす。 また撃ちて、閻魔天宮を壊滅す。 乃至、遍浄天のあらゆる宮殿またみな散滅す。 すなはちこの風をもつて如来の衣を吹かんに、一の毛端の際をも、なほ動かすことあたはず。 いかにいはんや衣の角および全き衣をや」と。

『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「諸仏の不可思議なることをば、仮喩をもつて知りぬべし。 たとひ一切十方世界の衆生みな勢力あり、たとひ一の魔ありてそこばくの勢力あらん。 また十方の一々の衆生の力をして悪魔のごとくあらしめたらんに、ともに仏を害せんと欲はんに、なほ仏の一毛をすら動かすことあたはじ。 いはんや害するものあらんや」と。 偈(同)にいはく、

「もしもろもろの世間のなかに、仏を害することあらんと欲はば、
この事みな成ぜじ。

不殺の法を成じたまへるをもつてなり」と。 この念をなすべし、「願はくは、われまさに仏の金剛不壊の身を得べし」と。


 六には飛行自在なり。 同論にいはく、「仏は虚空において、足を挙げ、足を下ろし、行住坐臥したまふこと、みな自在を得たまへり。 大声聞のごときは、神通自在にして、一日に五十三億二百九十六万六千の三千大千世界を過ぐ。 かくのごとき声聞の百歳に過ぎたるところをば、仏は一念に過ぎたまふ。 乃至、恒河のなかの沙の、一の沙を一の河となして、このもろもろの恒河沙の、大劫に過ぎたるところの国土を、仏は一念のうちに過ぎたまふ。 もし宝の蓮華を蹈みて去らんと欲せば、すなはちよく成弁す。 かくのごとく飛行すること一切無礙なり」と。

『観仏経』にのたまはく、「虚空において、足を挙げて行く時に、千輻輪の相よりみな八万四千の蓮華を雨らす。 かくのごときもろもろの華に塵数の仏ましまして、また虚空を歩む」と。 {以上略抄}また「空を蹈みて行きたまへども、しかも千輻輪は地際に現ず。 悦意の妙香鉢特摩華、自然に踊出して如来の足を承く。

もし畜生趣の一切の有情、如来の足のために触れらるるものは、七夜を極め満つるまで、もろもろの快楽を受け、命終の後には、善趣の楽世界のなかに往生す」と。 [『宝積経』。]もし四十里の盤石をもつて色究竟天より下すに、一万八千三百八十三年を経て、この地に到るべし。 ただちに下るすらなほしかり。 これを推して知りぬべし、声聞の飛行、如来の飛行は、展転して不可思議なることを。 『華厳経』の恵林菩薩の讃仏の偈にのたまはく、

「自在神通力は、無量にして難思議なり。
来もなくまた去もなくして、法を説きて衆生を度したまふ」と。

この念をなすべし、「願はくは、われ神通を得て、諸仏の土に遊戯せん」と。

 七には神力無礙なり。 『十住論』(十住毘婆沙論・意)にいはく、「仏はよく恒河沙等の世界を末して、微塵のごとくならしめて、またよく還りて合したまふ。 あるいはまたよく無量無辺阿僧祇の世界を変じて、みな金銀等となさしめたまふ。 またよく恒河沙等の世界の大海水を変じて、みな乳蘇等とならしめたまふ」と。 {以上}『浄名経』(維摩経・意)に、菩薩の不思議解脱を説きてのたまはく、「三千大千世界を断ち取りて、陶家の輪のごとくして、右の掌のなかに着けて、擲ぐるに恒河沙の世界のほかに過ぐしたまはん。 そのなかの衆生は、おのが所住を覚せず、知せじ。 また還りて本処に置くに、すべて人をして往来の想あらしめじ。 しかもこの世界の本の相は、故のごとし。 また下方過恒河沙等の諸仏世界において一仏土を取りて、上方過恒河沙無数の世界に挙げ着くること、針鋒を持ちて一棗葉を挙ぐるがごとくするも、嬈はすことなし。 須弥山をもつて芥子のなかに納め、四大海をもつて一毛孔に入るることまたかくのごとし。 そのなかの衆生は、覚せず、知せじ。 ただ度すべきものすなはちこれを知見す」と。 {以上}菩薩なほしかり、いかにいはんや仏力をや。 ゆゑに『度諸仏境界経』にのたまはく、「よく十方世界をして一毛孔に入れしめ、{乃至}一微塵においてよく無量無数不可説の世界を現ずるに、一切衆生また迫迮なし。 無量無数不可説劫の威儀果報の事を、よく一念のうちにおいて現じ、一念の威儀果報の事を、無量無数不可説劫のうちにおいて現ず。 かくのごとき所作は、心に功用なく、思惟をなさず」と。 『華厳経』の真実幢菩薩の偈にのたまはく、

「一切のもろもろの如来は、神通力自在なり。
ことごとく三世のなかにおいて、これを求むるに不可得なり」と。

この念をなすべし、「われいままた知らず、仏の神力のために転ぜられて、いづれの仏土にかあり、たれの毛孔にかあるといふことを。 われいづれの時にか、これを覚知することを得ん」と。


 八には随類化現なり。 『十住論』(十住毘婆沙論・意)にいふがごとし。 「仏は一念のうちに、十方の無量無辺、恒河沙等の世界において、無量の仏身を変化したまふ。 一々の化仏またよく種々の仏事を施す」と。 [以上の四事神境通なり。]『度諸仏境界経』にのたまはく、「如来の所現は異の功用なく、異の思惟なし。 衆生の性に随ひて、おのづから見ること不同なり。 十五日の夜、閻浮提の人は、おのおの月の現じて、その上にありと見るが、月は作意して、われその上に現ぜんとせざるがごとし」と。 『華厳』の偈にのたまはく、

「如来の広大の身は、法界を究竟したまへり。
この座を離れずして、一切の処に遍したまふ」と。またのたまはく(同)、
「智慧甚深の功徳海、あまねく十方の無量の国に現じたまふ。
もろもろの衆生の見るべきところに随ひて、光明あまねく照らして法輪を転じたまふ」と。

この念をなすべし、「願はくは、われまさに遍法界の身を見たてまつるべし」と。


 九には天眼明徹なり。 『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「大力の声聞は天眼をもつて小千国土を見、またなかの衆生の生時・死時を見る。 小力の辟支仏は十の小千国土を見、なかの衆生の生時・死時を見る。 中力の辟支仏は百の小千国土を見、なかの衆生の生時・死時を見る。 大力の辟支仏は三千大千国土を見、なかの衆生の生死の所趣を見る。 諸仏世尊は無量無辺の不可思議の世間を見そなはし、またこのなかの衆生の生時・死時を見そなはす」と。 {以上}『華厳経』の偈にのたまはく、

「仏眼は広大にして辺際なし。あまねく十方のもろもろの国土を見たまふ。
そのなかの衆生は不可量なり。大神通を現じてことごとく調伏したまふ」と。

この念をなすべし、「いま弥陀如来は、はるかにわが身業を見そなはすらん」と。


 十には聞声自在なり。 『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「たとひ、恒河沙等の三千大千世界の衆生、一時に発言し、また一時に百千種の伎楽を作らん。

もしは遠きも、もしは近きも、意に随ひてよく聞きたまふ。 もしなかにおいて、一の音声を聞かんと欲せば、意に随ひて聞くことを得、余をば聞かず。 また無辺世界を過ぎたるに、最細の声をも、みなまた聞くことを得たまふ。 もし衆生をして聞かしめんと欲せば、よく聞くことを得しめたまふ」と。 {略抄}『華厳経』の文殊の偈にのたまはく、

「一切世間のなかのあらゆるもろもろの音声を、
仏智はみな随ひて了りたまふも、また分別あることなし」と。

この念をなすべし、「いま弥陀如来は、さだめてわが所有の語業を聞きたまふらん」と。


 十一には知他心智なり。 『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「仏は、よく無量無辺の世界の現在の衆生の心、およびもろもろの染浄の所縁等を知りたまひ、またよく無色の衆生のもろもろの心を知りたまふ」と。 {略抄}『華厳経』の文殊の偈にのたまはく、

「一切衆生の心、あまねく三世にあるを、
如来は一念において、一切ことごとくあきらかに達したまふ」と。

この念をなすべし、「いま弥陀如来は、かならずわが意業を知りたまふらん」と。


 十二には宿住随念智なり。 『十住論』(同)にいはく、「仏もし自身および一切衆生の無量無辺の宿命の一切の事を念ぜんと欲せば、みなことごとく知りて、過恒河沙等の劫の事に知らずといふことあることなし。 この人はいづれの処に生ぜりき、姓名・貴賤・飲食・資生・苦楽、所作の事業、所受の果報、心にはなんの所行ある、本はいづこより来るといふこと、かくのごとき等の事をすなはちよく知見したまふ」と。 偈(十住毘婆沙論)にいはく、

宿命智は無量なり。天眼の見、無辺なり。
一切の人天のなかには、よくその限りを知ることなし」と。

念ずべし、「願はくは仏、わが宿業をして清浄ならしめたまへ」と。


 十三には智慧無礙なり。 『宝積経』の三十七にのたまはく、「たとひ人ありて、恒河沙等の世界のあらゆる一切の草木を取り、ことごとく焼きて墨となし、擲げて他方の恒河沙等の世界の大海に置き、百千歳にして、つきてもつてこれを磨りてことごとく墨の汁となしてん。 仏、大海のなかより一々の墨の滴りを取りて、分別し了知したまふ。 これはその世界のかくのごとき草木の、その根、その茎、その枝、その条、華・菓・葉等となりと。 またもし人ありて、一毛端を持ちて水一滴を霑して、仏の所に来至して、この言をなさく、〈あへて滴水をもつて、もつてあひ寄す。 後にもし須ゐば、まさにわれに還し賜ふべし〉と。 その時に、如来その滴水を取りて、恒河の河のなかに置きたまはんに、かの河の流浪回澓のために旋転せられて、和合し引注して大海に至りなん。 この人、百年を満てをはりて、仏にまうしてまうさく、〈先に寄せたてまつりし滴水を、いま請ふ、われに還したまへ〉と。 その時に、仏、一分の毛端をもつて、大海のうちに就けて、本の水滴を霑して、もつてこの人に還したまはん」と。 {略抄}また『六波羅蜜経』にのたまはく、「無量恒河沙の十方界の草木を、ことごとく焚きて墨灰となして、億載海に歴ん。 十力智深妙にして滴りを取りて、含生に示して、実のごとく分別して、これ、それの界の樹等なりと知らしめたまへり」と。{云々}

またのたまはく(同・意)、「かくのごとき四洲およびもろもろの山王をもつて紙素となし、八の大海の水、もつてその墨となし、一切の草木をもつてその筆となして、一切の人天一劫に書写せらんを、舎利弗の所得の智慧に比ぶれば、十六分がなかにその一にも及ばず。 またこの三千大千世界において、そのなかの衆生の所有の智慧をして、舎利弗のごとく、等しくして異なることあることなからしめんに、菩薩の布施波羅蜜多を了達せる所有の智慧は、かれに過ぎたること百倍なり。 またこの三千大千世界のあらゆる衆生をして、みな布施波羅蜜多の智慧を具せしめんに、一の菩薩の所得の浄戒波羅蜜多の智慧に及ばず。 乃至、般若もまたかくのごとし。

またこの三千大千世界のあらゆる衆生をして、みな六波羅蜜の智慧を具せしめんに、一の初地の菩薩の智慧には及ばず。 乃至、十地まで展転して、かくのごとし。 またこの十地の菩薩の智慧は、なんぢ慈氏(弥勒)、一生補処の菩薩の智慧に比ぶるに、百千分がなかにその一にも及ばず。

この三千大千世界の一切衆生の所有の智慧をして、みな慈氏のごとく、等しくして異なることあることなからしめんに、かくのごとき菩薩、道場に坐して魔怨降伏して、まさに正覚を成ぜんとする所有の智慧は、仏の智慧の百千万分においてその一にも及ばず」と。 『宝積経』にのたまはく、「たとひ、十方の無量無辺の一切世界のあらゆる衆生をして、みなことごとく繋属一生の菩薩の智慧を成就せしめんに、如来の十力の一の処非所智に比せんと欲はんに、百千万分のその一にも及ばず。 {乃至}烏波尼沙陀分のその一にも及ばず。 乃至、算数・譬喩も及ぶことあたはざるところなり」と。 『華厳経』の偈にのたまはく、

「如来の甚深の智は、あまねく法界に入りたまふ。
よく三世に随ひて転じて、世のために明道となりたまふ」と。

同経の普明智菩薩の讃仏の偈にのたまはく、

「一切諸法のなかには、法門に辺あることなし。
一切智を成就して、深法海に入る」と。

{以上}この念をなすべし、「弥陀如来はわが三業を照見したまふらん。

願はくは、世尊のごとく慧眼第一に浄なることを得ん」と。

 十四には能調伏心なり。 『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「諸仏は、もしは定に入り、もしは定に入りたまはずして、心を一縁のなかに繋けんと欲せば、意の久近に随ひて意のごとくよく住したまふ。 この縁のなかよりさらに余の縁に住したまふに、意に随ひてよく住したまふ。 もし仏、常心に住したまへるに、人をして知らざらしめんと欲せば、すなはち知ることあたはず。 たとひ一切衆生の、他心を知る智をして大梵王のごとくならしめ、大声聞・辟支仏のごとく、智慧を成就して他人の心を知らんとも、仏の常心を知らんと欲はんに、もし仏聴したまはずは、すなはち知ることあたはじ」と。 念ずべし、「願はくは、われをして仏覚三昧を得しめたまへ」と。

 十五には常在安慧なり。 同論にいはく、「諸仏は安穏にして、つねに念を動かしたまはざれども、つねに心にあり。 なにをもつてのゆゑに。 先に知りて後に行生じ、意の所縁のなかに随ひて無礙の行に住するがゆゑに。 一切の煩悩を断ずるがゆゑに。 動性を出過せるがゆゑに。 仏、阿難に告げたまふがごとし。 〈仏は、この夜において阿耨菩提を得て、一切世間の、もしは天・魔・梵・沙門・婆羅門を、尽苦の道をもつて教化することあまねく畢へて無余涅槃に入りたまふ。 その中間において、仏は諸受においてを知り、を知り、生を知り、滅を知ろしめす。 諸想・諸触・諸覚・諸念においてまた起を知り、住を知り、生を知り、滅を知ろしめす。 悪魔、七年昼夜に息まずして、つねに仏に随逐するに、仏のを得ず、仏の念の安慧にあらざるを見ず〉」と。 偈(十住毘婆沙論)にいはく、

「その念大海のごとくして、湛然として安穏にまします。
世間には法として、よく擾乱するものあることなし」と。

念ずべし、「願はくは仏、わが粗動なる覚観の心を除滅したまへ」と。

 十六には悲念衆生なり。 『大般若経』にのたまはく、「十方世界には、一の有情として、如来の大悲の照らすことあたはざるところなるはなし」と。 『宝積経』にのたまはく、「たとひ、恒河沙等の諸仏の世界を過ぎて、ただ一の衆生も、この仏の化すべき限りなるには、その時に如来みづからその所に往きて、ために法要を説きて、それをして悟入せしめたまふ」と。 同経の偈にのたまはく、

「一の衆生を利せんがために、無辺の劫海に住して、
それをして調伏することを得しめたまふ。

大悲心かくのごとし」と。 『華厳経』の文殊讃仏の偈にのたまはく、

「一々の地獄のなかに、無量劫を経て、
衆生を度せんがためのゆゑに、よくこの苦を忍びたまふ」と。

『大経』(大般涅槃経)の偈にのたまはく、

「一切衆生の、異の苦を受くるは、ことごとくこれ如来一人の苦なり。{乃至}
衆生は仏のよく救ひたまふことを知らず。ゆゑに如来および法・僧を謗
ず」と。

『大論』(大智度論)にいはく、「仏は仏眼をもつて、一日一夜、おのおの三時に一切衆生を観じたまふ、たれか度すべきものあらんと。 時を失せしむることなし」と。

ある『論』(同・意)にいはく、「たとへば、魚の子の母もし念ぜざれば、子すなはち爛壊しぬるがごとく、衆生もまたしかなり。 仏もし念じたまはずは、善根すなはち壊しなん」と。 『荘厳論』の偈にのたまはく、

「菩薩は衆生を念じて、これを愛すること骨髄に徹り、
恒時に利益せんと欲ふ。

なほ一子のごときがゆゑに」と。 これらの義によりて、ある懺悔の偈にいはく、

「父母に子あり。はじめて生れてすなはち盲聾なり。
慈悲の心慇重にして、捨てずして養活す。
子は父母を見ざれども、父母はつねに子を見んがごとき、
諸仏は衆生を視そなはすこと、なほ羅睺羅のごとし。
衆生は見たてまつらずといへども、実に諸仏の前にあり」と。

{以上}この念をなすべし、「弥陀如来はつねにわが身を照らし、わが善根を護念し、わが機縁を観察したまふ。 われもし機縁熟せば、時を失はずしてを被りなん」と。

 十七には無礙弁説なり。 『十住論』(十住毘婆沙論)にいふがごとし。 「もし三千界のあらゆる四天下のなかに満てらん微塵数三千大千界の衆生、みな舎利弗のごとき、辟支仏のごとき、みなことごとく智慧・楽説を成就し、寿命も上のごとき塵数の大劫ならんに、このもろもろの人等、四念処に因せて、その形寿を尽すまで如来を問難せば、如来還りて四念処の義をもつてその所問を答へたまはんに、言義重ならず、楽説無窮ならん」と。 またいはく(十住毘婆沙論)、「仏の説きたまふところあるは、みな利益ありてつひに空言ならず。 これまた希有なり。 {乃至}もし一切衆生の智慧・勢力、辟支仏のごとくならんに、このもろもろの衆生、もし仏意を承けずして一人を度せんと欲せば、この処あることなからん。 もしこのもろもろの人、説く時には、乃至、無色界の結使の一の毫釐の分をも断つことあたはず。 もし仏、衆生を度せんと欲して、言説したまふところあれば、乃至、外道・邪見、もろもろの竜・夜叉等、および余の仏語を解せざるものにも、みなことごとく解らしめたまふ。 これらもまたよく無量の衆生を転化す。 {乃至}このゆゑに、仏を最上の導師と名づけたてまつる」と。 偈(同)にいはく、

四の問答のなかにおいて、超絶して倫匹なし。
衆生のもろもろの問難は、一切みな得やすし。
もし三時のうちにおいて、もろもろの所説あるは、
言かならず虚しく設けたるにあらず、つねに大果報あり」と。

{以上}

『華厳』の偈にのたまはく、

「諸仏の広大の音は、法界に聞えずといふことなし。
菩薩はよく了知して、よく音声海に入る」と。

『浄名経』(維摩経)の偈にのたまはく、

「仏は一音をもつて法を演説したまふに、衆生は類に随ひておのおの解を
得。
みな謂へり、世尊はその語を同じくしたまふと。これすなはち[[神力不共の
法]]なり」と。

また『譬喩経』の第三にのたまはく、「阿育王、意に仏を信ぜず。 時に海辺に鳥あり、名づけて随となす。 その音はなはだ哀和にして、すこぶる髣髴として、仏の音声の万分が一に似たることあり。 王、その音を聞きて歓喜して、すなはち無上道の意を発せり。 宮中の婇女おほよそ七千の人も、また無上道の意を発してき。 王はこれよりつひに三尊を信ぜり。 鳥の音声にして、度するところかくのごとし。 いはんや、至真の清浄の妙音のものにおいてをや」と。 {取意略抄}念ずべし、「われいづれの時にか、かの弁説を聞くことを得ん」と。

 十八には観仏法身なり。 文殊師利菩薩のいへるがごとし。 「われ、如来を観ずるに、すなはち真如の相なり。 動なく作なし。 分別するところなく分別に異なることもなし。 方処に即せず方処に離せず。 有にあらず無にあらず、常にあらず断にあらず。 三世に即せず三世に離せず。 生なく滅なく、去なく来なく、染・不染もなく、二・不二もなし。 心言の路絶えたり

もしこれらの真如の相をもつて如来を観ずるを、真に仏を見たてまつると名づく。 または如来を礼敬し、親近すと名づく。 実に有情においてよく利益をなす」と。 [『大般若』。]『占察経』の下巻に地蔵菩薩のいはく、「一実境界とは、いはく、衆生の心体は、もとよりこのかた、生ぜず滅せず、自性清浄にして無障・無礙なること、なほ虚空のごとし。 分別を離れたるがゆゑに、平等に普遍して至らざるところなく、十方に円満す。 究竟して一相にして、無二無別なり。 変ぜず異せず、増なく減なし。 一切衆生の心、一切声聞・辟支仏の心、一切菩薩の心、一切諸仏の心は、みな同じく不生不滅、無染寂静の真如の相なるをもつてのゆゑに。 所以はいかん。

一切の、心ありて分別を起すは、なほ幻化のごとくして、定実あることなし。 {乃至}一切世界に心の形状を求むるに、一区の分として得べきものなし。 ただ衆生の無明痴闇の勲習の因縁をもつて、妄りに境界を現じて、念着を生ぜしむ。 いはゆるこの心、みづから無なりと知ることあたはずして、妄りにみづから有と謂ひて、覚知の想を起して、我・我所を計す。 しかも実には覚知の想あることなし。 この妄心は畢竟じて体なく、可見ならざるをもつてのゆゑに」と。 [乃至広説。 信解をもつてこの理を観念するを、菩薩の最初根本業となせり。]この一実境界は、すなはちこれ如来の法身なり。 『華厳経』の一切慧菩薩の偈にのたまはく、

「法性はもとより空寂にして、取なくまた見なし。
性空なるはすなはちこれ仏なり。思量することを得べからず」と。{以上}

念ずべし、「われいづれの時にか本有の性を顕すことを得ん」と。

 十九には総観仏徳なり。 普賢菩薩のいふがごとし。 「如来の功徳は、たとひ十方の一切の諸仏、不可説の仏刹を、極微塵数の劫を経て、相続して演説したまふとも、窮尽すべからず」(華厳経)と。 {以上}また阿弥陀仏の威神無極なることは、『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし。 「無量寿仏は威神極まりなし。 十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、称歎したまはざることなし」と。 龍樹の偈(十住毘婆沙論)にいはく、

「世尊のもろもろの功徳は、度量することを得べからず。
人の、尺寸をもつて空を量らんに、尽すべからざるがごとし」と。

同じき讃弥陀の偈(易行品)にいはく、

「諸仏無量劫に、その功徳を讃揚したまはんに、
なほ尽すことあたはじ。清浄の人に帰命したてまつる」と。

念ずべし、「願はくは、われ仏を得て、正法の王に斉しからん」と。  二十には欣求教文なり。 『般舟経』にのたまはく、「この三昧は、値ふことを得ること難し。 たとひこの三昧を求めんに、百億劫に至り、ただその名声を聞くことを得んと欲すとも、聞くことを得ることあたはじ。 いかにいはんや学することを得るものをや。 うたたまた行じて人に教へんをや」と。 偈(同)にのたまはく、

「われみづから往世の時を識念するに、その数六万歳を具足するまで、つねに法師に随ひて捨離せざりしに、初めより、この三昧を聞くことを得

  ざりき。

仏ましましき。号をば具至誠とまうしき。時に智の比丘ありき。和隣と名づけき。
かの仏世尊の泥洹の後に、比丘つねにこの三昧を持ちき。
われ時に王君子の種たりき。夢のなかにこの三昧を聞くに逮びぬ。
〈和隣比丘この経を有てりき。王まさに従ひてこの定意を受くべかりき〉と。
夢より覚めをはりてすなはち往きて求むるに、すなはち比丘の三昧を持てるを見つ。
すなはち鬚髪を除きて沙門となりにき。学すること八千歳して一時聞きき。
その数八万歳を具足するまで、この比丘を供養し奉事しき。
時に魔の因縁しばしば興起して、初めよりいまだかつて一反すら聞くことを得ざりき。
このゆゑに比丘・比丘尼、および清信士・清信女
この経法を持てとなんぢらに属す。この三昧を聞きては疾く受行せよ。
つねにこれを習持せる法師を敬ひて、一劫を具足するまで懈ることを得ることなかれ。{乃至}
たとひ億千那術劫に、この三昧を求むるに聞くことを得ること難し。
たとひ世界の、恒沙のごとき、なかに満てらん珍宝をもつて布施せんも、もしこの一偈の説を受けて敬誦することあらんには、功徳かれに過ぎたらん」と。

『双巻経』(大経・下)にのたまはく、「たとひ大火ありて三千大千世界に充満せりとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて、歓喜し信楽し、受持、読誦して、説のごとく修行すべし。

所以はいかん。 多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すとも、しかも得ることあたはず。 もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せじ。 このゆゑに、まさに専心にして信じ、受持し読誦して、行ずべし」と。{以上}

この念をなすべし、「あるいは大千の猛火聚を過ぎ、あるいは億劫を経とも、法を求むべし。 われすでに深三昧に値遇せり。 いかんぞ退屈して勤修せざらん」と。 行者、このもろもろの事において、もしは多もしは少、楽に随ひて憶念せよ。 もし憶念することあたはずは、すべからく巻を披きて文に対ひて、あるいは決択し、あるいは誦詠し、あるいは恋慕し、あるいは敬礼すべし。 近くは勤心の方便となし、遠くは見仏の因縁を結べ。 おほよそ三業・四儀に、仏の境界を忘るることなかれ。

 問ふ。 如来のかくのごとき種々の功徳を信受し、憶念するは、なんの勝利やある。

答ふ。 『度諸仏境界経』にのたまはく、「もし十方世界の微塵等の諸仏および声聞衆において、百味の飲食、微妙の天衣を施すること、日々に廃せずして恒沙の劫を満てて、かの仏の滅後に、一々の仏のために、十方界の一々の世界において塵数の塔を起て、衆宝をもつて荘厳し、種々に供養すること、一日に三時、日々に廃せずして恒沙の劫を満てて、また無数無量の衆生を教へて、もろもろの供養を設けしめんに、もし一人ありて、この如来の智慧功徳、不可思議の境界を信ぜば、所得の功徳はかれに勝れたること無量なり」と。 {取意}また『華厳』の偈にのたまはく、

  「如来の自在力は、無量劫にも遇ふこと難し。   もし一念の信をなすは、すみやかに無上道を証す」と。

余は、下の利益門のごとし。

 問ふ。 凡夫の行人は、物に逐ひて意移る。 なんぞつねに念仏の心を起すことを得ん。

答ふ。 かれ、もしただちに仏を念ずることあたはずは、事々に寄せてその心を勧発すべし。 いはく、遊戯・談笑の時には、極楽界の宝池・宝林のなかにして、天・人聖衆と、かくのごとく娯楽することを得んと願へ。 もし憂苦する時には、もろもろの衆生とともに、苦を離れて極楽に生ぜんと願へ。 もし尊徳に対ひては、まさに極楽に生れて、かくのごとく世尊に奉らんと願ふべし。 もし卑賤を見ば、まさに極楽に生じて、孤独の類を利楽せんと願ふべし。 おほよそ人畜を見るごとに、つねにこの念をなすべし、「願はくは、この衆生とともに安楽国に往生せん」と。 もし飲食する時には、まさに極楽の自然の微妙の食を受けんと願ずべし。 衣服・臥具、行住坐臥違縁・順縁、一切准へて知れ。 [事に寄せて願をなすこと、これ『華厳経』等の例なり。]

止悪修善

【51】 第四に止悪修善とは、『観仏三昧経』にのたまはく、「この念仏三昧を、もし成就せんには、五の因縁あり。 一には持戒不犯。 二には不起邪見。 三には不生驕慢。 四には不恚不嫉。 五には勇猛精進して、頭燃を救ふがごとくす。 この五の事を行じて、まさしく諸仏の微妙の色身を念じて、心をして退せざらしめよ。 またまさに大乗経典を読誦すべし。 この功徳をもつて仏力を念ずるがゆゑに、疾々に無量の諸仏を見たてまつることを得」と。 {以上}

 問ふ。 この六種の法はなんの義かあるや。

答ふ。 同経にのたまはく、「浄戒をもつてのゆゑに、仏の像面を見たてまつること、真金の鏡のごとくして、了了分明なり」と。 また『大論』(大智度論)にいはく、「仏は医王のごとく、法は良薬のごとく、僧は瞻病人のごとく、戒は服薬の禁忌のごとし」と。{以上}

ゆゑに知りぬ、たとひ法薬を服したりとも、禁戒を持たずは、煩悩の病患を除愈するに由なし。 ゆゑに『般舟経』にのたまはく、「戒を破ること、大きさ毛髪のごとくにもすることを得ざれ」と。 [以上、戒品。]『観仏経』にのたまはく、「もし邪念および貢高の法を起さば、まさに知るべし、この人はこれ増上慢にして、仏法を破滅す。

多く衆生をして不善の心を起さしめ、和合僧を乱り、異を顕して、衆を惑はす。 これ悪魔の伴なり。 かくのごとき悪人は、また仏を念ずといへども、甘露の味はひを失ふ。 この人は生るる処に、貢高をもつてのゆゑに、身つねに卑小にして、下賤の家に生れ、貧窮の諸衰、無量の悪業、もつて厳飾となす。

かくのごとき種々の衆多の悪事は、まさにみづから防護して、永く生ぜざらしむべし」と。 [以上、邪見・驕慢。]『六波羅蜜経』にのたまはく、「無量劫のうちにもろもろの善を修行すとも、安忍の力および智慧の眼なければ、一念の瞋火に焼滅して余なし」と。 またある所に説きていはく、「よく大利を損ずること、瞋りに過ぎたるはなし。 一念の因縁ことごとく倶胝広劫の所修の善を焚滅す。 このゆゑに慇懃につねに捨離すべし」と。 また『遺教経』にのたまはく、「功徳を劫むる賊は、瞋恚に過ぎたるはなし」と。

『大集』の「月蔵分」(意)に、無瞋の功徳を説きてのたまはく、「つねに賢聖とあひ会して、三昧に着くことを得」と。 [以上、瞋恚。]『双巻経』(大経・下)にのたまはく、「今世の恨みの意は微しきあひ憎嫉すれども、後世にはうたたはなはだしくして、大きなる怨となるに至る」と。 {云々}また他人を嫉毀する、その罪はなはだ重し。 また『宝積経』の九十一にのたまふがごとし。 「仏、施鹿園にましましき。 時に六十の菩薩あり。 業障深重にして、諸根闇鈍なり。 仏足を頂礼して悲感して涙を流す。 みづから起くることあたはず。 時に仏告げてのたまはく、〈なんぢら、起くべし。 また悲号して大熱悩をなすことなかれ。 なんぢ、曾、倶留孫仏の法のなかにして、出家して道をなせしかども、みづから多聞・持戒・頭陀・少欲に執着せりき。

時に二の説法の比丘ありき。 もろもろの親友多く、名聞・利養ありき。 なんぢら、嫉妬の心をもつて妄言誹謗して、かの親友・もろもろの衆生をして、随順の心なく、もろもろの善根を断ぜしめき。 この悪業によりて、六十百千歳のうちに阿鼻地獄に生れき。 余業いまだ尽きずして、また四十百千歳のうちに等活地獄に生れ、また二十百千歳のうちに黒縄地獄に生れ、また六十百千歳のうちに焼熱地獄に生れき。 かしこより歿しをはりて、還りて人となることを得て、五百世のうちに生盲にして目なかりき。 在在の所生に正念を忘失し善根を障礙しき。 形容醜欠にして、人見んと喜まざりき。 つねに辺地に生れて、貧窮下劣なりき。

ここより歿しをはりて、後末の五百歳のうちに法滅せんと欲する時に、還りて辺地にして下劣の家に生れて、匱乏飢凍して、正念を忘失せん。 たとひ善を修せんと欲すとも、もろもろの留難多し。 五百歳の後に悪業すなはち滅して、後に阿弥陀仏の極楽世界に生るることを得ん。 この時に、かの仏、まさになんぢらがために阿耨菩提の記を授けたまふべし〉と。 時にもろもろの菩薩、仏の所説を聞きて、挙りて身の毛竪ち、深く憂悔を生じて、すなはちみづから涙を収めてまうさく、〈われ、今日より未来際に至るまで、もし菩薩乗の人において違犯あらんを見て、その過を挙露さば、われらすなはち如来を欺誑したてまつるとせん。 われ、今日より未来際に至るまで、もし在家・出家の菩薩乗の人の、欲楽をもつて遊戯し歓娯するを見んも、つひにその過を伺ひ求めずして、つねに信敬を生じて、教師の想を起さん。 われ、今日より未来際に至るまで、もしよくその身を摧伏して下劣の想をなすこと、旃陀羅および狗犬のごとくせずは、すなはち如来を欺誑したてまつるとせん。 もし持戒・多聞・頭陀・少欲・知足の一切の功徳において、身みづから炫曜せば、すなはち如来を欺誑したてまつるとせん。 所修の善本をばみづから矜り伐らじ、所行の罪業をば慚愧発露せん。 もししからずは、すなはち如来を欺誑したてまつるとせん〉と。 時に仏、讃じてのたまはく、〈善きかな、善きかな。 かくのごとき決定心をもつてせば、一切の業障みなことごとく消滅し、無量の善根はまたまさに増長すべし〉」と。{略抄}

このゆゑに『大論』(大智度論)の偈にいはく、

「自法に愛染するがゆゑに、他人の法を毀訾するは、持戒の行人なりといへども、地獄の苦を脱れず」と。[以上、嫉妬。]

同論の偈にいはく、

馬・井の二の比丘は、懈怠にして悪道に堕したり。
仏を見、法を聞くといへども、なほまたみづから勉れざるをもつてなり」と。{以上}

またもし精進なくは、行成就すること難し。 ゆゑに『華厳経』の偈にのたまはく、

鑚燧して火を求むるがごとし。いまだ出でざるにしばしば息めば、火の勢随ひて止滅す。懈怠のものまたしかなり」と。[以上、精進。]

読誦大乗の功徳無量なることは、『金剛般若論』の偈にいふがごとし。

「福は菩提に趣かず。よく菩提に趣く。
実においては了因と名づく余においては生因と名づく」と。[以上、『観仏 経』の六種の法畢りぬ。かの『経』(同)に、嫉・恚・精進はつぶさにこれを説かず。
ゆゑに、余の文をもつて『経』(同)の意を釈成す。]

『般舟経』にまた十の事あり。 かの『経』(同)にのたまふがごとし。 「もし菩薩ありてこの三昧を学誦せば、十の事あり。 一には他人の利養を嫉妬せざれ。 二にはことごとくまさに人を愛敬し、長老に孝順すべし。 三にはまさに報恩を念ふべし。 四には妄語せずして非法を離れよ。 五にはつねに乞食してを受けざれ。 六には精進して経行せよ。 七には昼夜に臥出することを得ざれ。 八にはつねに布施することを欲ひて、つひに惜しみ悔ゆることなかれ。 九には深く慧のなかに入りて着するところなかれ。 十には善師に敬事すること、仏のごとくせよ」と。{略抄}

 問ふ。 『般舟経』にまた四々十六種の法あり。 『十住毘婆沙』の第九に百四十余種の法あり。 『念仏三昧経』に種々の法あり。 また『華厳経』の「入法界品」の偈にのたまはく、

「もし信解して驕慢を離るることあらば、発心してすなはち如来を見たてまつることを得るも、もし諂誑不浄の心あらば、億劫に尋求すれども値遇することなからん」と。

『観仏経』にのたまはく、「昼夜六時六法を勤行し、端坐正受して、まさに小語を楽ふべし。 経を読誦し、広く法教を演ぶるを除きては、つひに無義の語を宣説せざれ。 つねに諸仏を念じて、心々相続せよ。 乃至、一念のあひだも仏を見ざる時あることなし。 心専精なるがゆゑに、仏日を離れず」と。

また『遺日摩尼経』に説かく、「沙門の、牢獄に堕するに、多くの事あり。 あるいは人を求めて供養を得んと欲し、あるいは多く衣鉢を積まんと欲し、あるいは白衣と厚善し、あるいはつねに愛欲を念ひ、あるいは喜みて知友と交結す」と。 [文に多くの法あり、略してこれを抄す。]なんぞいま、かれらの法を挙げざるや。

答ふ。 もし広くこれを出さば、還りて行者をして退転の心をなさしめん。 ゆゑに略して要を挙ぐ。

もし堅く十重・四十八軽戒を持たば、理かならず念仏三昧を助成して、また任運に余の行をも持得しつべし。 いはんや六法を具し、あるいは十法を具せんに、いづれの行か摂まらざらん。 ゆゑに略して述せず。

しかも粗強の惑業は、人をして覚了せしむれども、ただ無義の語はその過顕ならずして、つねに正道を障ふ。 よくこれを治すべし。

あるいは『大論』(大智度論)の文によるべし。 いはく、「人の失火して、四辺にともに起らんがごときに、いかんぞそのうちに安処して、余の事を語説せん。 このなかに仏説きたまはく、〈もし声聞・辟支仏の事を説くすら、なほ無益の言となす。 いかにいはんや、余の事をや〉」と。{以上}

行者つねに娑婆の依正において火宅の想を生じて、無益の語を絶ち、相続して仏を念ずべし。

 問ふ。 『往生論』(天親の浄土論)に念仏の行法を説きていはく、「三種の菩提門の相違の法を遠離せよ。 なんらか三種。 一には智慧門によりて、自楽を求めず。 我心の、自身に貪着することを遠離するがゆゑに。 二には慈悲門によりて、一切衆生の苦を抜く。 無安衆の心を遠離するがゆゑに。 三には方便門によりて、一切衆生を憐愍する心なり。 自身を供養し恭敬する心を遠離するがゆゑに。 これを、三種の菩提門の相違の法を遠離すと名づくがゆゑに。 菩薩、かくのごとき三種の菩提門の相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足することを得るがゆゑに。 なんらか三。 一には無染清浄心。 身のためにもろもろの楽を求めざるがゆゑに。 二には安清浄心。 一切衆生の苦を抜くがゆゑに。 三には楽清浄心。 一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに。 衆生を摂取して、かの国土に生れしむるをもつてのゆゑに。 これを三種の随順菩提門の法満足すと名づく」と。 {以上}このなかに、なんがゆゑぞ、かの『論』(同)によらざる。

答ふ。 前の四弘のなかに、この六法を具せり。 文言異なりといへども、その義は闕くることなし。

 問ふ。 仏を念ずるに、おのづから罪を滅す。 なんぞかならずしも堅く戒を持つや。

答ふ。 もし一心に念ぜば、まことに責むるところのごとし。 しかも尽日に仏を念ぜんも、閑かにその実を撿すれば、浄心はこれ一両、その余はみな濁乱せり。 野の鹿は繋ぎがたく、家の狗はおのづから馴れたり。 いかにいはんや、みづから心をほしいままにせば、その悪いくばくぞや。 このゆゑに、かならずまさに精進して、浄戒を持つこと、なほ明珠を護るがごとくすべし。 後の悔い、なんぞ及ばんや。 よくこれを思念せよ。

 問ふ。 まことにいふところのごとし。 善業はこれ今世の所学、欣ふといへども、ややもすれば退す。 妄心はこれ永劫の所習、厭ふといへども、なほ起る。 すでにしからば、なんの方便をもつてかこれを治せん。

答ふ。 その治、一にあらず。 『次第禅門』にいふがごとし。 「一に、沈惛闇塞の障を治せんには、応仏を観念すべし。 三十二相のなかに、随ひて一を取れ。 あるいは先づ眉間の毫相を取りて、目を閉ぢて観ぜよ。 もし心闇鈍にしてはるかに成ぜんとするに成ぜずは、まさに一の好厳の形像に対ひて、一心に相を取り、これを縁じて定に入るべし。 もし明了ならずは、眼を開きてさらに観じ、またさらに目を閉ぢよ。 かくのごとくして一相を取ること明了ならば、次第にあまねく衆相を観じて、心眼をして開明ならしめ、すなはち惛睡沈闇の心を破せよ。 仏の功徳を念ずれば、すなはち罪障を除く。

二に、悪念思惟の障を治せんには、報仏の功徳を念ずべし。 正念のうちに、仏の十力・四無所畏・十八不共・一切種智は、円かに法界を照らして、常寂不動にして、あまねく色身を現じて、一切を利益したまふ功徳は無量にして不可思議なることを縁ぜよ。 なにをもつてのゆゑに。 この、仏の功徳を念ずるは、勝善法をずるなかより生ずる心数なれども、悪念思惟は、悪法を縁ずるなかより生ずる心数なり。 善はよく悪を破するがゆゑに、報仏を念ずべし。 たとへば、醜陋少智の人の、端正大智の人のなかにありては、すなはちみづから鄙恥するがごとく、悪もまたかくのごとし。 善心のなかにありては、すなはち恥愧しておのづから息む。 仏の功徳を縁ずれば、念念のうちに一切の障を滅す。

三に、境界逼迫の障を治せんには、法仏を念ずべし。 法仏とは、すなはちこれ法性なり。 平等にして不生不滅なり。 形色あることなく、空寂無為なり。 無為のなかにはすでに境界なし。 何者かこれ逼迫の相ならん。 境界の空なることを知るがゆゑに、すなはちこれ対治なり。 もし三十二相を念ずれば、すなはち対治にあらず。 なにをもつてのゆゑに。 この人いまだ相を縁ぜざる時に、すでに境界のために悩乱せらる。 しかるをさらに相を取らば、この着によりて、魔はその心を狂乱す。 いま空を観じて相を破すれば、もろもろの境界を除き、心に在きて仏を念ずれば、功徳無量にしてすなはち重罪を滅す」と。 {略抄}別相の治もかくのごとし。

いま三の通の治を加へん。 一には、よくの起ることを了して、その心を驚覚して、煩悩を呵責すること、悪賊を駆るがごとくし、三業を防護すること、油鉢を擎ぐるがごとくせよ。 『六波羅蜜経』にのたまふがごとし。 「結跏趺坐して正念に観察し、大悲心をもつて屋宅となし、智慧をもつて鼓となし、覚悟の杖をもつてこれを扣き撃ちて、もろもろの煩悩に告げよ。 〈なんぢら、まさに知るべし、もろもろの煩悩の賊は妄想より生ず。 わが法王の家に善事の起ることあり。 なんぢが所為にあらず。 なんぢ、よろしくすみやかに出づべし。 もし時に出でずは、まさになんぢが命を断つべし〉と。 かくのごとく告げをはるに、もろもろの煩悩の賊は、尋いでおのづから散滅す。 次に自身において、よく防護を起して、放逸すべからず」と。 また『菩薩処胎経』の偈にのたまはく、

「かの犯罪の人の、満鉢の油を擎げ持して、もし油を棄つること一渧をもせば、罪大僻に交入せん。
左右に伎楽をなせども、死を懼れて顧視せざるがごとし。
菩薩の浄観を修するには、執意、金剛のごとく、毀誉および悩乱に、心意、傾動せず。
空は本来浄にして、彼此、中間もなしと解す」と。

 二には、通じて四句を用ゐて、一切の煩悩の根源を推求せよ。 いはく、この煩悩は、によりて生ずとやせん、によりて生ずとやせん、共に生ずとやせん、離れて生ずとやせん。 もし心によりて生ぜば、さらに縁を待たじ。 あるいは亀毛・兎角においても、貪瞋を生ずべし。 もし縁によりて生ぜば、心を用ゐざるべし。 あるいは眠れる人をして煩悩を生ぜしむべし。 もし共に生ずとせば、いまだ共せざるとき、おのおのなくして、共の時に、いづくんぞあらん。 たとへば二の沙の合すといへども、油なきがごとし。 あるいは心境ともに合するに、なんぞ煩悩を生ぜざる時ある。 もし離れて生ずとせば、すでに心を離れ縁を離れたり、なんぞたちまちに煩悩を生ぜん。 あるいは虚空、二を離れたり。 つねに煩悩を生ずべし。 種々に観察するに、すでに実の生なし。 よりて来るところなく、また去るところなし。 内にあらず、外にあらず、また中間にあらず。 すべて処所なく、みな幻有のごとし。 ただ惑心のみにあらず、観心もまたしかなり。 かくのごとく推求するに、惑心おのづから滅す。 ゆゑに『心地観経』の偈にのたまはく、

「かくのごとき心法はもとより有にあらず、凡夫は執迷して非無なりと謂へり。
もしよく心の体性の空なることを観ずれば、惑障生ぜずしてすなはち解脱す」と。

また『中論』の第一の偈にいはく、

「諸法は自より生ぜず、また他よりも生ぜず。
共ならず無因ならず。このゆゑに無生なりといふことを知りぬ」と。

この偈によりて、多くの四句を用ゐるべし。

三には、念ずべし、「いま、わが惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまへる八万四千の波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。 貪欲はすなはちこれ道なり。 恚・痴またかくのごとし。 水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。 ゆゑに経にのたまはく、〈煩悩・菩提は体無二なり。 生死・涅槃は異処にあらず〉と。 われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたはず。 願はくは仏、われを哀愍して、その所得の法のごとく、定慧力をもつて荘厳し、これをもつて解脱せしめたまへ」と。 かくのごとく念じをはりて、声を挙げて仏を念じて、救護を請へ。 『止観』にいふがごとし。

「人の重きを引くに、自力にて前まずは、傍らの救助を仮りて、すなはち軽く挙げらるるがごとく、行人もまたしかなり。 心弱くして障を排ふことあたはずは、名を称して護を請ふに、悪縁壊することあたはず」と。 {以上}もし、心を覆ひて通別の対治を修せんと欲せしめずは、すべからくその意を知りて、つねに心が師となりて、心を師とせざるべし。

 問ふ。 もし破戒のもの、三昧成ぜずは、いかんぞ、『観仏経』に、「この観仏三昧は、これ一切衆生の、罪を犯せるものの薬、破戒のものの護りなり」とのたまへるや。

答ふ。 破戒の以後に、前の罪を滅せんがために一心に仏を念ず。 これがために薬と名づく。 もしつねに毀犯せば、三昧成じがたし。

懺悔衆罪

【52】 第五に懺悔衆罪とは、もし煩悩のためにその心を迷乱して禁戒を毀らば、日を過ぐさずして懺悔を営修すべし。 『大経』(大般涅槃経)の十九にのたまふがごとし。 「もし罪を覆へば、罪すなはち増長す。 発露懺悔すれば、罪すなはち消滅す」と。 また『大論』(大智度論・意)にいはく、「身口の悪を悔いずして仏を見んと欲せば、この処あることなからん」と。 {以上}懺法、一にあらず。 楽に随ひてこれを修せよ。 あるいは五体を地に投げ、遍身に汗を流して弥陀仏に帰命し、眉間の白毫相を念じ、発露涕泣して、この念をなすべし、「過去の空王仏の眉間の白毫相を、弥陀尊礼敬して、罪を滅して、いま仏を得たまへり。 われいま弥陀を礼することは、またまさにまたかくのごとくなるべし」と。 すべからく罪の相に随ひて、仏の光を哀請すべし。 いはく、「檀光を放ちては慳蔽の罪を滅したまへ。 戒光を放ちては毀禁の罪を滅したまへ。 忍辱の光を放ちては瞋恚の罪を滅したまへ。 精進の光を放ちては懈怠の罪を滅したまへ。 禅定の光を放ちては散乱の罪を滅したまへ。 智慧の光を放ちては愚惑の罪を滅したまへ」と。 かくのごとくして、一日もしは七日に至らば、百千劫の煩悩の重障を除きてん。 あるいは須臾のあひだも、坐禅入定して仏の白毫を念じ、心をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明にまさしく住して意を注けて息まざれば、九十六億那由他等の劫の生死の罪を除却す。 あるいは一心にかの仏の神呪を念ずること、一返すればよく四重・五逆を滅し、七返すればよく根本の罪を滅す。 [『儀軌』に出づ。]あるいはまた『心地観経』に、理の懺悔を明かしてのたまはく、

「一切のもろもろの罪は、性みななり。顛倒の因縁、妄心より起る。
かくのごとき罪相は本来空なり。三世のなかに得るところなし。
内にあらず外にあらず中間にあらず。性相は如々にしてともに不動なり。
真如の妙理は名言を絶つ。ただ聖智のみありてよく通達す。
有にあらず無にあらず有無にあらず。有無にあらざるにあらず。名相を離れ、法界に周遍して生滅なく、諸仏は本来同一体なり。
ただ願はくは諸仏、加護を垂れて、よく一切の顛倒の心を滅したまへ。
願はくはわれ早く真性の源を悟りて、すみやかに如来の無上道を証せん」と。

 問ふ。 ただに仏を観念するに、すでによく罪を滅す。 なんがゆゑぞ、さらに理の懺悔を修するや。

答ふ。 たれかはいふ、一々にこれを修せよとは。 ただ意楽に随ふべし。 いかにいはんや、もろもろの罪性は空にして所有なしと観ずるは、すなはちこれ真実の念仏三昧なり。 『華厳』の偈にのたまふがごとし。

「現在は和合にあらず。去・来もまたしかなり。
一切の法の無相なる、これすなはち仏の真体なり」と。

また『仏蔵経』の「念仏品」(意)にのたまはく、「所有なしと見るを名づけて念仏となし、諸法の実相を見るを名づけて念仏となす。 分別あることなく、取なく捨なき、これ真の念仏なり」と。 {以上}諸余の空・無相等の観も、これに准じてみな念仏三昧に摂入すべし。

 問ふ。 かくのごとき懺悔はなんの勝徳かある。

答ふ。 『心地観経』の偈にのたまはく、

「在家はよく煩悩の因を招き、出家もまた清浄の戒を破る。
もしよく法のごとく懺悔するものは、あらゆる煩悩ことごとくみな除こる。{乃至}
懺悔はよく三界の獄を出で、懺悔はよく菩提の華を開き、懺悔は仏の大円鏡を見、懺悔はよく宝所に至る」と。

 問ふ。 このなかに何者をか最勝なりとなすや。

答ふ。 もし一人に約せば、機に順ずるを勝れたりとなす。 もし汎爾に判ぜば、理の懺を勝れたりとなす。 ゆゑに『如来秘密蔵経』の下巻に、仏、迦葉に告げてのたまはく、「もし少不善をも、もしそれ堅住し、堅執し、堅着せば、一切われ説きて、これを名づけて犯となす。 迦葉、五無間罪をも、もし堅住し、堅執し、堅着して見をなさざるものをば、われ、かれを説きて、名づけていひて犯となさず。 いはんやまた、余の少不善の業道をや。

迦葉、われは不善の法をもつて菩提を得るにあらず。 また善法をもつて菩提を得るにあらず。 {乃至}煩悩は因縁より生ずと解知するを、菩提を得と名づく。 迦葉、いかなるをか、因縁より生ずるところの煩悩を解知すとはなす。 これ自性なくして起る法は、これ無生の法なりと解知す。 かくのごとく解知するを、菩提を得と名づく」と。 {云々}また『決定毘尼経』(意)にのたまはく、「大乗のなかにおいて発起し修行するに、日の初分の時に所犯の戒あるに、日の中分において一切智の心を離れずは、かくのごとき菩薩、戒身壊せず。 もし日の中分に所犯の戒あるに、日の後分において一切智の心を離れずは、かくのごとき菩薩、戒身壊せず。 {乃至}もし夜の後分に所犯の戒あるに、日の初分において一切智の心を離れずは、かくのごとき菩薩、戒身壊せず。 この義をもつてのゆゑに、菩薩乗の人は開遮の戒を持てば、たとひ所犯ありとも、失念して妄りに憂悔を生じて、みづからその心を悩ますべからず。 声聞乗においては所犯あるものをば、すなはち声聞の浄戒を破壊しつとなす」と。 {云々}「一切智の心」とは、余処の説に准へば、これ第一義空相応の心なり。 あるいはこれ仏の種智を願求する心なるべし。

 問ふ。 もし懺悔を修するに、よく衆罪を滅せば、いかんぞ『大論』(大智度論)の四十六に、「戒律のなかの戒は、また細微なりといへども、懺悔すればすなはち清浄なり。 十善戒を犯せば、また懺悔すといへども、三悪道の罪除こらず」とはいひ、また『十輪経』(意)に説かく、「十悪輪罪を造れるは、一切の諸仏の救ひたまはざるところなり」とはいへる。

答ふ。 『観経』には、十念してよく五逆を滅し、『観仏経』には、仏の一相を念ずればよく十悪・五逆を滅し、『大経』(大般涅槃経)には、闍王、殺父の罪を懺除し、『般若経』には、読誦・解説すればよく三界の衆生を殺害せる罪を滅して、悪趣に堕せず、『華厳経』には、普賢の願を誦するに、一念によく十悪・五逆を滅すと。 あきらかに知りぬ、大乗の実説は、罪を滅せずといふことなし。

しからば、この『論』(大智度論)の文は、あるいはこれ転重軽受にしてまつたく受けざるにあらざるを、これを「除こらず」と名づけ、あるいはこれ随転理門の説ならん。 また感禅師(懐感)、『十輪経』を会していはく(群疑論)、「如来の密意、罪を畏さしめんと欲すなり」と等いへり。 {云々}余は、下の料簡の念仏相門のごとし。 これらはみなこれ別時の懺悔なり。 しかも行者はつねにまさに三事を修すべし。 『大論』(大智度論)にいふがごとし。 「菩薩はかならず、すべからく昼夜六時に、懺悔・随喜勧請の三事を修すべし」と。 {略抄}五念門のうちに、礼拝の次に、この事を修すべし。 『十住婆沙』の懺悔の偈にいはく、

「十方無量の仏は、知るところ、尽きたまはずといふことなし。
われいまことごとく前にして、もろもろの黒悪を発露す
三々合して九種あり、三煩悩より起る。
今身もしは前身の、この罪をことごとく懺悔す。
三悪道のなかにして、もし業報を受くべからんをば、願はくは今身に償ひて、悪道に入りては受けじ」と。[「三々合して九種あり」とは、身口意におのおの現・生・後業あり。「三煩悩より起る」とは、三界の煩悩なり。]

勧請の偈(十住毘婆沙論)にいはく、

「十方の一切の仏の、現在に仏になりたまへるものを、われ請ひたてまつる。法輪を転じて、もろもろの衆生を安楽ならしめたまへと。
十方の一切の仏、もし寿命を捨てんと欲したまはば、われいま頭面をもつて礼して、勧請して久しく住せしめたてまつらん」と。

随喜の偈(同)にいはく、

「あらゆる布施の福も、持戒と修禅の行も、身口意より生ず。去・来・今の所有の、

三乗を習行する人と、三乗を具足するものと、一切の凡夫との福を、みな随ひて歓喜せん」と。{以上}

また常行三昧・法華三昧真言教等に、みなおのおの文あり。 意に随ひてこれを用ゐよ。 もし略を楽はば、『弥勒菩薩本願経』の一偈によるべし。 『経』(同)にのたまはく、「仏、阿難に語りたまはく、〈弥勒菩薩、本道を求めたまひし時に、耳・鼻・頭・目・手・足・身命・珍宝・城邑・妻子、および国土を持ちて、布施して人に与へ、もつて仏道を成ぜしにはあらず。 ただ善権安楽の行をもつて、無上正真の道を致すことを得たり〉と。

阿難、仏にまうさく、〈弥勒菩薩は、なんの善権をもつてか、仏道を致すことを得たる〉と。 仏、阿難に語りたまはく、〈弥勒菩薩は、昼夜におのおの三たび、正衣束体し、手を叉へ、右の膝を地に着けて、十方に向かひて偈を説きていはく、

《われ一切の過を悔いて、もろもろの道徳を明かしたまへと勧め、帰命して諸仏を礼したてまつる。無上の慧を得しめたまへ》〉と。

仏、阿難に語りたまはく、〈弥勒菩薩は、この善権をもつて無上正真の道を得たり〉」と。{以上}

 問ふ。 この懺悔・勧請等の事を修するに、いくばくの福をか得る。

答ふ。 『十住論』(十住毘婆沙論)の偈にいはく、

「もし一時のうちにおいてせんに、福徳、形あらば、
恒河沙の世界も、すなはちおのづから容受せじ」と。

対治魔事

【53】 第六に対治魔事とは、

問ふ、種々の魔事よく正道を障ふ。 あるいは病患を発さしめ、あるいは観念を失はしめ、あるいは邪法を得しむ。

いはゆる、もしは有の見もしは無の見、もしは明了もしは昏闇、もしは邪定もしは攀縁、もしは悲もしは喜、もしは苦もしは楽、もしは禍もしは福、もしは悪もしは善、もしは人を憎みもしは恋着し、もしは心強くもしは心軟らかなり。 かくのごとき等の事の、もしは過ぎたる、もしは及ばざるは、みなこれ魔事なり。 ことごとく正道を障ふ。 なにをもつてかこれを対治する。

答ふ。 治道多しといへども、いまただ念仏の一の治によるべし。 このなかにまた事理あり。

 一に事の念とは、言行相応して一心に仏を念ずる時に、もろもろの悪魔、沮壊することあたはず。

 問ふ。 なんがゆゑぞ壊せざる。

答ふ。 仏、護念したまふがゆゑに、法の威力のゆゑに、沮壊することあたはず。 『大般若』に、魔事を対治するに、番々の二法を出せるがごとし。 そのなかにのたまはく、「一には、いふところのごとくみなことごとくよくなす、二には、諸仏のためにつねに護念せらる」と。 また『般舟経』にのたまはく、「もし閲叉・鬼神の、人のを壊り、人の念を奪はんも、たとひこの菩薩を中らんと欲せば、つひに中ることあたはじ」と。 余は下の利益門のごとし。

 二に理の念とは、『止観』の第八にいふがごとし。 「魔界のと仏界の如とは、一如にして二如なし。 平等一相なりと知りて、魔をもつてひとなし、仏をもつて欣びとなさず、これを実際に安く。 {乃至}魔界すなはち仏界なり。 しかも衆生は知らずして仏界に迷ひて、横に魔界を起し、菩提のなかにおいて、しかも煩悩を生ず。 このゆゑに悲を起して、衆生をして魔界において仏界に即し、煩悩において菩提に即せしめんと欲ふ。 このゆゑに慈悲を起す」と。 {以上}この念をなすべし、「魔界・仏界および自他界、同じく空なり、無相なり。 この諸法の無相、これすなはち仏の真体なり。 まさに知るべし、魔界すなはちこれ仏身なり、またすなはちわが身なり。 理、無二なるがゆゑに。 しかるを、もろもろの衆生は妄想の夢いまだ覚めず。 一実の相を解らずして、是非の想を生じて五道に輪廻す。 願はくは、衆生をして平等の慧に入らしめん」と。 かくのごとく、深く無縁の大悲を起して、{乃至}仏の妙色身を観ずといへども、三空の門入りて執着すべからず。 熱金丸の、色の妙なることを見るといへども、手に触るべからざるがごとし。 いはんや、余の事において着を生じ、慢を生ぜんや。 この観をなす時に、魔、沮壊せず。 ゆゑに『大般若経』に、またその治を説きてのたまはく、「一には諸法はみな畢竟空なりと観じ、二には一切有情を棄捨せず」と。 また『大論』(大智度論)にいはく、「十二入はみなこれ魔網なり。 虚誑にして実ならず。 このなかにおいて六種の識を生ずるも、またこれ魔網にして虚誑なり。 何者かこれ実。 ただ不二の法あるのみ。 眼もなく色もなく、{乃至}意なく法等もなきが、これを実と名づく。 衆生をして十二入を離れしめんがゆゑに、つねに種々の因縁をもつてこの不二の法を説く」と。

 問ふ。 なんがゆゑぞ、空を観ずるに、魔、便りを得ざる。

答ふ。 かの『論』(同)にいはく、「一切の法のなかにみなせず。 着せざるがゆゑに違錯なし。 違錯なきがゆゑに、魔、その便りを得ることあたはず。 たとへば、人の身に瘡なきときには、毒屑のなかに臥すといへども、毒また入らず。 もし小瘡あらば、すなはち死ぬるがごとし」と。 また『大集経』の「月蔵分」のなかに、他化天の魔王、菩提心を発し、記を受けて、願を発していはく、「われら、現在・未来のもろもろの仏弟子の、第一義と相応して住するものを護念して、供給し供養せん。 もしわが教に順ぜずして行者を悩乱せば、すなはちかの類をして種々の病を得しめ、神通を退失せしめん」と。 {取意}あきらかに知りぬ、実の魔は便りを得ず、権の魔は護念するのみ。 前の二種の治はみな証拠あり。 ゆゑにさらに諸師の所釈を引かず。

総結要行

【54】 第七に総結要行とは、

問ふ、上の諸門のなかに陳ぶるところすでに多し。 いまだ知らず、いづれの業をか往生の要となす。

答ふ。 大菩提心と、三業を護ると、深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずとは、願に随ひて決定して極楽に生ず。 いはんやまた、余のもろもろの妙行を具せらんをや。

 問ふ。 なんがゆゑぞ、これらを往生の要となす。

答ふ。 菩提心の義は、前につぶさに釈するがごとし。 三業の重悪はよく正道を障ふ。 ゆゑにすべからくこれを護るべし。

往生之業念仏為本

往生の業は念仏を本となす

その念仏の心は、かならずすべからく理のごとくすべし。 ゆゑに深信・至誠・常念の三の事を具す。 常念に三の益あり。 迦才のいふがごとし。 「一には諸悪の覚観、畢竟じて生ぜず。 また業障を消することを得。 二には善根増長し、また見仏の因縁を種うることを得。 三には薫習熟利して、命終の時に臨みて、正念現前す」(浄土論)と。{以上}
業は願によりて転ず。ゆゑに随願往生といふ。
総じてこれをいへば、三業を護るは、これ止の善なり。 仏を称念するは、これ行の善なり。 菩提心および願は、この二の善を扶助す。 ゆゑにこれらの法を往生の要となす。 その旨経論に出でたり。 これをつぶさにすることあたはず。

第六 別時念仏

【55】 大文第六に、別時念仏といふは、二あり。 初めには尋常の別行を明かす。 次には臨終の行儀を明かす。

尋常別行

【56】 第一に尋常の別行とは、日々の行法においてつねに勇進することあたはず。 ゆゑに、時ありて別時の行を修すべし。 あるいは一・二・三日、乃至七日、あるいは十日乃至九十日、楽に随ひてこれを修せよ。 いふところの「一日乃至七日」とは、導和尚(善導)の『観念門』(観念法門)にいはく、「『般舟三昧経』に、〈仏、跋陀和に告げたまはく、《この行法を持てば、すなはち三昧を得、現在の諸仏、ことごとく前にましまして立ちたまふ。 それ比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷ありて、法のごとく、持戒まつたく具し、独り一処に止まりて、西方の阿弥陀仏、いま現にかしこにましますと念へ。 所聞に随ひてまさに念ずべし。 ここを去ること十万億の仏刹なり、その国を須摩提と名づく。 一心にこれを念ずること、一日一夜、もしは七日七夜せよ。 七日を過ぎてより以後に、これを見たてまつること、たとへば夢のうちに見るところのごとくせん。 昼夜を知らず、また内外を知らず、冥のなかにありて弊礙するところあるによるがゆゑに、見ざるにあらず。 跋陀和、四衆つねにこの念をなす時に、諸仏の境界のなかのもろもろの大山・須弥山、それ幽冥なることある処、ことごとく開闢することをなして、弊礙するところなからん。 この四衆は、天眼を持ちても徹し視るにあらず、天耳を持ちても徹し聴くにあらず、神足を持ちてもその仏刹に到るにあらず、この間に終りて、かの間にも生るるにあらずして、すなはちここに坐してこれを見るなり》と。

仏ののたまはく、《四衆、この間の国土にして、阿弥陀仏を念ずること、念をもつぱらにするがゆゑに、これを見たてまつることを得。 すなはち問へ、“なんの法を持ちてか、この国に生るることを得る”と。 阿弥陀仏、報じてのたまはく、“来生せんと欲はば、つねにわが名を念じて休息することを得ることなかれ。 すなはち来生することを得てん”》と。 仏ののたまはく、《念をもつぱらにするがゆゑに往生することを得。 まさに念ずべし、仏身には三十二相・八十種好ありて、巨億の光明徹照し、端正無比にして、菩薩僧のなかにましまして法を説きたまふことを。 色を壊することなかれ。 なにをもつてのゆゑに。 色を壊せざるがゆゑに、仏の色身を念ふによるがゆゑに、この三昧を得》〉と。 {以上}念仏三昧の法を明かす。

[この文はかの『経』(般舟三昧経)の〈行品〉のなかにあり。 もし覚めて仏を見ずは、夢のうちにこれを見んといへり。]三昧の道場に入らんと欲ふ時には、もつぱら仏教の方法によりて、先づすべからく道場を料理し、尊像を安置し、香湯をもつて掃灑すべし。 もし仏堂なきも、浄き房あらば、また得たり。 掃灑すること法のごとくして、一の仏像を取りて西の壁に安置せよ。 行者等、月の一日より八日に至り、あるいは八日より十五日に至り、あるいは十五日より二十三日に至り、あるいは二十三日より三十日に至るまで、月別に四時するは佳し。

行者等、みづから家業の軽重を量りて、この時のうちにおいて浄行の道に入れ。 もしは一日乃至七日、ことごとく浄衣を須ゐよ、鞋靺もまた新浄なるを須ゐよ。 七日のうちは、みなすべからく一食長斎すべし。 軟らかなる餠、粗き飯、随時の醤菜、倹素し節量せよ。 道場のなかにして、昼夜に心を束ね、相続してもつぱら阿弥陀仏を念ぜよ。 心と声と相続して、ただ坐し、ただ立して、七日のうち睡眠を得ざれ。 また時によりて、仏を礼し経を誦すべからざれ。 数珠をもまた捉るべからず。 ただ合掌して仏を念ずと知り、念々に見仏の想をなせ。 仏ののたまはく、〈阿弥陀仏の真金色の身に、光明徹照し、端正無比にして、心眼の前にましますと想念せよ〉と。 まさしく仏を念ずる時には、もし立たばすなはち立ちて一万・二万を念ぜよ。 もし坐せばすなはち坐して一万・二万を念ぜよ。 道場のうちにして、頭を交へてひそかに語らふことを得じ。 昼夜あるいは三時・六時に、諸仏、一切の賢聖天曹・地府、一切の業道に表白して、一生の己身の身口意業の所造のもろもろの罪を発露懺悔せよ。

事々、実によりて懺悔しをはりて、還りて法によりて仏を念ぜよ。 所見の境界は、たやすく説くことを得ざれ。 善ならばみづから知れ。 悪ならば懺悔せよ。 酒・肉・五辛は、きはめて願を発して、手に捉らざれ、口に喫はざれ。 もしこの語に違はば、すなはち身口にともに悪瘡を着けんと願ぜよ。 願じて『阿弥陀経』を誦すること十万遍を満てよ。 日別に仏を念ずること一万遍せよ。 経を誦すること日別に十五遍せよ。 あるいは誦すること二十遍・三十遍せよ。 力の多少に任せよ。

浄土に生れんと誓ひ、摂受したまへと願ぜよ。 またもろもろの行者にまうさく、ただ今生に日夜相続して、もつぱら弥陀仏を念じ、もつぱら『弥陀経』を誦し、浄土の聖衆・荘厳とを称揚し、礼讃して、生ずることを願はんと欲するものは、三昧道場に入ることを除きて、日別に弥陀仏を念ずること一万して、命を畢るまで相続せば、すなはち弥陀の加念を蒙り、罪障を除くことを得ん。 また仏、聖衆とつねに来りて護念することを蒙らん。 すでに護念を蒙りなば、すなはち年を延べ、転じて長命安楽なることを得ん。

因縁の一々は、つぶさに『譬喩経』・『惟無三昧経』・『浄度三昧経』等に説くがごとし。 また『観仏経』にのたまはく、〈もしもろもろの比丘・比丘尼、もしは男・女の人、四根本罪、十悪等の罪、五逆の罪を犯し、および大乗を謗らんに、かくのごときもろもろの人、もしよく懺悔して、日夜六時に身心息まず、五体を地に投ずること、大山の崩るるがごとくし、号泣して涙を雨らし、合掌して仏に向かひて、仏の眉間の白毫相の光を念ずること、一日より七日に至らば、前の四種の罪は軽微なることを得べし。 白毫の毛を観ぜんに、闇にして見えずは、塔のうちに入りて、像の眉間の白毫を観ずべし。 一日より三日に至るまで、合掌して啼泣せよ〉」と。 [以上、『観念門』(観念法門)の文よりこれを略抄す。]『大般若』の五百六十八に、七日の行を明かしてのたまはく、「もし善男子・善女人等、心に疑惑なく、七日のうちにおいて、澡浴清浄にして、新浄の衣を着、華香をもつて供養し、一心にまさしく前の所説のごとき、如来の功徳および大威神を念ぜば、その時、如来は慈悲をもつて護念し、身を現じて見せしめたまひ、願をして満足せしめたまふ。 もし華香等の事に闕少せることあらば、ただ一心に功徳威神を念ぜよ。 まさに命終せんとする時に、かならず仏を見たてまつることを得ん」と。 {以上}「前の所説の功徳」と等いふは、如来の大慈と大悲と説法と無礙の静慮と、一念によく無辺類の身を現ずると、天眼と天耳と他心智と無失念無漏離垢と、得一切法自在平等等の功徳威神なり。 『大集の賢護経』にまた七日の行あり。 次の利益のなかに説くがごとし。

また迦才の『浄土論』にいはく、「綽禅師(道綽)、『経』(木槵子経)の文を撿へ得たるに、〈ただよく仏を念ずること一心に乱れずして、百万遍以去を得つるものは、さだめて往生することを得〉と。 また綽禅師、『小阿弥陀経』の七日の念仏によりて、百万遍を撿へ得たるなり。 このゆゑに、『大集経』・『薬師経』・『小阿弥陀経』にみな七日の念仏を勧めたるは、この意あきらかなり」と。 [以上、迦才。]いふところの十日の行とは、『鼓音声経』・『平等覚経』に出でたり。 次の利益門に至りてまさに知るべし。 いふところの九十日の行とは、『止観』の第二にいはく、「常行三昧とは、先づは方法を明かす。 次には勧修を明かす。 方法とは、身の開遮口の説黙意の止観なり。 この法は『般舟三昧経』に出でたり。 〔般舟を〕翻じて〈仏立〉となす。 仏立に三の義あり。 一には仏の威力、二には三昧力、三には行者の本功徳力なり。 よく定のなかにして、十方現在の仏、その前にありて立ちたまへりと見ること、明眼の人の、清夜に星を観るがごとし。 十方の仏を見たてまつることも、またかくのごとく多し。 ゆゑに仏立三昧と名づく。 『十住毘婆沙』の偈にいはく、

〈この三昧の住処に、少と中と多との差別あり。
かくのごとき種々の相、またすべからく論議すべし〉と。

〈住処〉とは、あるいは初禅・二・三・四の中間とにおいて、この勢力を発し、よく三昧を生ず。 ゆゑに住処と名づく。 初禅は少なり、二禅は中なり、三・四は多なり。 あるいは少時に住するを少と名づく。 あるいは世界を見ること少なり。 あるいは仏を見たてまつること少なり。 ゆゑに少と名づく。 中と多とまたかくのごとし。 身には常行を開す。 この法を行ずる時には、悪知識および痴人・親属・郷里を避れ。 つねに独り処止して、他人に悕望して求索するところあることを得ざれ。 つねに乞食して別請を受けざれ。 道場を厳飾して、もろもろの供具・香餚・甘菓を備へよ。 その身を盥沐し、左右出入に衣服を改め換へよ。 ただもつぱら行旋し、九十日を一期となせ。 明師の、内外の律によくして、よく妨障を開除するを須ゐよ。 所聞の三昧の処において、世尊を視たてまつるがごとくにし、嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。 まさに肌肉を割きて、師に供養すべし。 いはんやまた余のものをや。 師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。 もし師において悪をなすときには、この三昧を求むるに、つひに得ること難し。 外護の、母の子を養ふがごときを須ゐ、同行の、ともに嶮を渉るがごときを須ゐよ。 すべからく要期し、誓願すべし。 わが筋骨をして枯れ朽ちせしむとも、この三昧を学せんに得ずは、つひに休息せずと。 大信を起さば、よく壊るものなからん。 大精進を起さば、よく及ぶものなからん。 所入の智はよく逮ぶものなからん。 つねに善師とともに事に従へ。

三月を終竟るまで、世間の想欲を念ふこと、弾指のあひだのごとくすることを得ざれ。 三月終竟るまで、臥出すること弾指のあひだのごときも得ざれ。 三月を終竟るまで、行じて休息することを得ざれ。 坐食・左右をば除く。 人のために経を説かんに、衣食を望むことを得ざれ。 『婆沙』(十住毘婆沙論)の偈にいはく、

〈善知識に親近し、精進して懈怠なく、
智慧はなはだ堅牢にして、信力妄りに動ずることなかれ〉と。

口の説黙とは、九十日、身にはつねに行じて休息することなく、九十日、口にはつねに阿弥陀仏の名を唱へて休息することなく、九十日、心にはつねに阿弥陀仏を念じたてまつりて休息することなかれ。 あるいは唱と念とともに運らし、あるいは先づ念じ後に唱へ、あるいは先づ唱へ後に念ぜよ。 唱・念あひ継ぎて休息する時なかれ。

もし弥陀を唱ふるは、すなはちこれ十方の仏を唱へたてまつると功徳等し。 ただもつぱら弥陀をもつて法門の主となす。 要を挙げてこれをいはば、歩々・声々・念々、ただ阿弥陀仏にあり。 意に止観を論ずとは、西方の阿弥陀仏を念ぜよ。 ここを去ること十万億の仏刹にして、宝地・宝池・宝樹・宝堂にましまして、もろもろの菩薩の中央に坐して経を説きたまふ。 三月つねに仏を念ぜよ。 いかんが念ずる。 三十二相を念ず。 足の下の千輻輪相より、一々に逆に縁じて、諸相乃至無見頂を念じ、また頂相より順に縁じて、すなはち千輻輪に至るべし。 われをしてまたこの相に逮ばしめたまへと。

また念ぜよ、われまさに心よりや仏を得ん、身よりや仏を得んと。 仏をば、心を用ゐても得ず、身を用ゐても得ず。 心を用ゐても仏の色を得ず。 色を用ゐても仏の心を得ず。 なにをもつてのゆゑに。 心といはば、仏には心なし。 色といはば、仏には色なし。 ゆゑに色・心を用ゐても三菩提を得べからず。 仏はすでに尽き、乃至、もすでに尽きたまへり。 仏の諸説の尽をば、これ痴人は知らず、智者は暁了す。 身口を用ゐても仏を得ず、智慧を用ゐても仏を得ず。 なにをもつてのゆゑに。 智慧は索むるに得べからず、みづからを索むるに、つひに得べからざればなり。 また所見なし。 一切の法はもとより所有なし。 本を壊し本を絶す。

[それ一。]夢に七宝を見て、親属ありて歓楽するも、覚めをはりて追ひて念ふに、いづれの処にあるといふことを知らざるがごとく、かくのごとくにして仏を念ず。 また舎衛に女ありて須門と名づく。 これを聞きて心に喜ぶ。 夜夢に事に従ふ。 覚めをはりてこれを念ふに、かれも来らずわれも往かず、しかも楽事宛然なり。 まさにかくのごとくして仏を念じたてまつるべし。 人の大きなる沢を行くに、飢渇して夢に美食を得るも、覚めをはりて腹空し。 みづから一切のあらゆる法みな夢のごとしと念ふがごとく、まさにかくのごとく仏を念じたてまつるべし。 しばしば念じて休息することを得ることなかれ。 この念を用ゐて、まさに阿弥陀仏の国に生るべし。 これを如想の念と名づく。

人宝をもつて瑠璃の上に倚するに、影そのなかに現ずるがごとく、また比丘の、骨を観ずるに、骨より種々の光を起すがごとく、これ持ちて来るものなく、またこの骨あることもなし。 これ意のなせるのみ。 鏡のなかの像の、外よりも来らず、中よりも生ぜず、鏡浄きをもつてのゆゑに、おのづからその形を見るがごとし。 行人、色清浄なれば、あらゆるもの清浄なり。 仏を見たてまつらんと欲へば、すなはち仏を見たてまつる。 見ればすなはち問ひ、問へばすなはち報へたまふ。 経を聞きて、大きに歓喜す。 [それ二。]みづから念ず。 仏はいづれの所よりか来りたまふ、われもまた至るところなし。 わが所念をもつて、すなはち見るなり。 心、仏に作る。 心みづから心を見るは、仏心を見るなり。 この仏心は、これわが心、仏を見るなり。 心はみづから心を知らず、心はみづから心を見ず。 心に想あるをば痴となし、心に想なきはこれ泥洹なり。 この法は示すべきものなし。 みな念の所為なり。 たとひ念ありとも、また所有なくして空なりと了するのみ。 [それ三。]偈(般舟三昧経)にのたまはく、

〈心は心を知らず。心ありて心を見ず。
心に想を起すは、すなはち痴なり。想なきは、すなはち泥洹なり。
諸仏は心より解脱を得たまふ。心は垢なければ、清浄と名づく。
五道は鮮潔にして色を受けず。これを解ることあるものは大道を成ず〉と。

これを仏印と名づく。 所貪なく、所着なく、所求なく、所想なく、所有尽き、所欲尽く。 従りて生ずるところなく、滅すべきところなく、壊敗するところなし。 道の要、道の本なり。 この印は、二乗も壊することあたはず、いかにいはんや魔をや。 {云々}『婆沙』(十住毘婆沙論)に明かさく、〈新発意の菩薩、先づ仏の色相、相体、相業、相果、相用を念じて、下の勢力を得。 次に仏の四十の不共の法を念じて、心に中の勢力を得。 次に実相の仏を念じて、上の勢力を得。 しかも色と法との二身にせず〉と。 偈(同)にいはく、

〈色身に貪着せず、法身にもまた着せず。
よく一切の法は、永寂なること虚空のごとしと知る〉と。

勧修をいはば、もし人、智慧大海のごとくにして、よくわがために師たるものなからしめ、ここに坐して、神通を運ばずしてことごとく諸仏を見たてまつり、ことごとく所説を聞き、ことごとくよく受持することを得んと欲はば、つねに三昧を行ぜよ。

もろもろの功徳において、もつとも第一なりとなす。 この三昧はこれ諸仏の母なり、仏の眼なり、仏の父なり、無生大悲の母なり。 一切のもろもろの如来は、この二法より生じたまふ。 大千の地および草木を砕きて塵となし、一塵を一仏刹となして、そこばくの世界のなかに満てる宝をもつて布施せんは、その福はなはだ多し。 この三昧を聞きて驚せず、畏せざらんにはしかじ。 いはんや信じて受持し、読誦して人のために説かんをや。 いはんや定心に修習すること、牛乳を搆るがあひだのごとくせんをや。 いはんやよくこの三昧を成ぜんをや。 ゆゑに無量無辺なり。 『婆沙』(十住毘婆沙論)にいはく、〈劫火・官・賊・怨・毒・竜・獣・衆病、この人を侵すといはば、この処あることなからん。

この人はつねに天竜八部と諸仏のために、みなともに護念称讃せらる。 みなともに見んと欲して、ともにその所に来らん〉と。 もしこの三昧の上のごとき四番の功徳を聞きて、みな随喜すること、三世の諸仏・菩薩のみな随喜したまふがごとくならんに、また上の四番の功徳に勝る。 もしかくのごとき法を修せざるは、無量の重宝を失ひ、人天これがために憂悲す。 齆鼻の人の、栴檀を把りて嗅がさざらんがごとく、田家の子の、摩尼珠をもつて一頭の牛に博ふるがごとし」と。 [云々。

「四番の功徳」とは、『弘決』にいはく、「また四番の果報あり。 一には驚せざること、二には信受すること、三には定心に修すること、四にはよく成就することなり」と。]

臨終行儀

【57】 第二に臨終の行儀とは、先づ行事を明かし、次に勧念を明かす。

行事

初めに行事とは、『四分律の抄』の瞻病送終の篇に、中国の本伝を引きていはく、「祇園の西北の角、日光の没する処を無常院となせり。 もし病者あれば、安置してなかに在く。 おほよそ貪染を生ずるものは、本房のうちの衣鉢・衆具を見て、多く恋着を生じ、心に厭背なきをもつてのゆゑに、制して別処に至らしむるなり。 堂を無常と号くるなり。 来るものはきはめて多く、還反るものは一二なり。 事につきて求め、専心に法を念ず。 その堂のうちに、一の立像を置けり。 金薄をもつてこれに塗り、面を西方に向かへたり。 その像の右の手は挙げ、左の手のなかには、一の五綵の幡の、脚垂れて地に曳けるを繋けたり。

まさに病者を安んじて像の後に在き、左の手に幡の脚を執りて、仏に従ひて仏の浄刹に往く意をなさしむべし。 瞻病のひとは、香を焼き華を散らして病者を荘厳し、乃至、もし屎尿・吐唾あれば、あるに随ひてこれを除く」と。 ある説には「仏像を東に向け、病者を前に在く」と。 [わたくしにいはく、もし別処なくは、ただ病者をして面を西に向かへしめて、香を焼き華を散じて、種々に勧進せよ。 あるいは、端厳の仏像を見しむべし。]導和尚(善導)のいはく(観念法門)、「行者等、もしは病し、病せざらんも、命終らんと欲する時には、もつぱら上の念仏三昧の法によりて、身心を正当にして、面を回らして西に向かへ、心また専注して阿弥陀仏を観想し、心口相応して声々絶ゆることなく、決定して往生の想、華台の聖衆来りて迎接する想をなせ。 病人もし前の境を見ば、すなはち看病の人に向かひて説け。 すでに説くを聞きをはらば、すなはち説によりて録記せよ。

また病人、もし語ることあたはずは、看病者かならずすべからくしばしば病人に問ふべし、なんの境界をか見たると。 もし罪の相を説かば、傍らの人すなはちために仏を念じ、助けて同じく懺悔して、かならず罪を滅せしめよ。 もし罪滅することを得ば、華台の聖衆念に応じて現前せん。 前に准へて抄記せよ。 また行者等の眷属六親、もし来りて病を看ば、酒・肉・五辛を食らへる人をあらしむることなかれ。 もしあらば、かならず病人の辺に向かふことを得ざれ。 すなはち正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して、三悪道に堕しなん。 願はくは行者等、よくみづから謹慎して仏教を奉持して、同じく見仏の因縁をなせ」と。 {以上}往生の想、迎接の想をなすこと、その理しかるべし。

『大論』(大智度論)に、神変の作意を説きていふがごとし。 「地の想を取ること多きがゆゑに、水を履むこと地のごとし。 水の想を取ること多きがゆゑに、地に入ること水のごとし。 火の想を取ること多きがゆゑに、身より煙火等を出す」と。 {云々}あきらかに知りぬ、所求の事において、かの相を取る時には、よくその事を助けて成就することを得るなり。 ただ臨終のみにあらず。 尋常もこれに准へよ。 綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・上)、「十念相続することは難からざるがごときに似たり。 しかれども、もろもろの凡夫、心は野馬のごとく、識は猿猴よりもはなはだしく、六塵に馳騁して、なんぞかつて停息せんや。 おのおの、すべからくよろしく信心を致し、あらかじめみづから剋念し、積習してを成じ、善根をして堅固ならしむべし。

仏(釈尊)、大王に告げたまへるがごとし。 〈人、善行を積めば、死するときに悪念なし。 樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし〉(大智度論)と。 もし刀風一たび至れば、百苦身に奏まる。 もし習先よりあらずは、懐念なんぞ弁ずべけんや。 おのおのよろしく同志三五と、あらかじめ言要を結びて、命終の時に臨みて、たがひにあひ開暁し、ために弥陀の名号を称し、極楽に生るることを願じて、声々あひ次いで十念を成ぜしむべし」と。 {以上}いふところの「十念」といふは、多くの釈ありといへども、しかも一心に十返「南無阿弥陀仏」と称念する、これを十念といふ。 この義、経の文に順ぜり。 余は下の料簡のごとし。

勧念

 次に臨終の勧念とは、善友・同行のその志あるものは、仏教に順ずるがために、衆生を利せんがために、善根のために、結縁のために、患に染まん初めより病の床に来りて問ひて、幸ひに勧進を垂れよ。 ただ勧誘の趣は、人の意にあるべし。 いましばらく自身のために、その詞を結びていはく、仏子、年来のあひだ、この界の希望を止めて、ただ西方の業を修す。 就中、もとより期するところは、これ臨終の十念なり。 いますでに病の床に臥しぬ。 恐れざるべからず。 すべからく目を閉ぢ、掌を合せて、一心に誓期すべし。 仏の相好にあらざるよりは、余の色を見ることなかれ。 仏の法音にあらざるよりは、余の声を聞くことなかれ。 仏の正教にあらざるよりは、余の事を説くことなかれ。 往生の事にあらざるよりは、余の事を思ふことなかれ。 かくのごとくして、乃至、命終の後に、宝蓮台の上に坐して、弥陀仏の後に従ひ、聖衆囲繞して、十万億の国土を過ぐるあひだをもまたかくのごとくして、余の境界を縁ずることなかれ。

ただ極楽世界の七宝の池のなかに至りて、はじめて目を挙げ、掌を合せて、弥陀の尊容を見たてまつり、甚深の法音を聞き、諸仏の功徳の香を聞ぎ、法喜・禅悦の味はひを嘗め、海会の聖衆を頂礼し、普賢の行願に悟入すべし。 いま十事あり。 まさに心を一にして聴き、心を一にして念ふべし。 一々の念ごとに疑心をなすことなかれ。

 一には先づ大乗の実智を発して生死の由来を知るべし。 『大円覚経』の偈にのたまふがごとし。

「一切のもろもろの衆生の、無始の幻の無明は、
みなもろもろの如来の、円覚の心より建立せり」と。

まさに知るべし、生死即涅槃なり、煩悩即菩提なり、円融無礙にして無二無別なり。 しかるを一念の妄心によりて、生死の界に入りにしよりこのかた、無明の病に盲ひられて、久しく本覚の道を忘れたり。 ただ諸法はもとよりこのかた、つねにおのづから寂滅の相なり。 幻のごとくして定まれる性なし。 心に随ひて転変す。 このゆゑに、仏子、三宝を念じたてまつりて、邪を翻して正に帰すべし。 しかも仏はこれ医王なり、法はこれ良薬なり、僧はこれ瞻病人なり。 無明の病を除き、正見の眼を開き、本覚の道を示して、浄土に引摂することは、仏法僧にしくはなし。 このゆゑに、仏子、先づ大医王の想をなして、一心に仏を念じたてまつるべし。

「南無三世十方一切諸仏・南無本師釈迦牟尼仏・南無薬師琉璃光仏」と、[三念以上。]「南無阿弥陀仏」と。 [十念以上。]次に妙良薬の想を生じて、一心に法を念ずべし。

「南無三世仏母摩訶般若波羅蜜・南無平等大慧妙法蓮華経・南無八万十二一切正法」と。 次に随逐護念の想を生じて、一心に僧を念ずべし。

「南無観世音菩薩・南無大勢至菩薩・南無普賢菩薩・南無文殊師利菩薩・南無弥勒菩薩・南無地蔵菩薩・南無龍樹菩薩・南無三世十方一切聖衆・南無極楽界会一切三宝・南無三世十方一切三宝」と。 [三念以上、あるいはよろしきに随ひて、同音に助念せよ。 あるいは鐘声を聞かしめて、正念を増せしめよ。 下去はこれに准ぜよ。]

 二には法性は平等なりといへども、また仮有を離れず。 弥陀仏ののたまふがごとし。

「諸法の性は、一切、空・無我なりと通達して、
もつぱら浄仏土を求むれば、かならずかくのごとき浄刹を成ず」(大経・下)と。

ゆゑに浄土に往生せんがために、先づこの界を厭離すべし。 いまこの娑婆世界は、これ悪業の所感なり、衆苦の本源なり。 生老病死は輪転して際なし。 三界は極縛にして一も楽しむべきことなし。 もしこの時においてこれを厭離せずは、まさにいづれの生にか輪廻を離るべけんや。 しかも阿弥陀仏には不可思議の威力まします。

もし一心に名を称すれば、念々のうちに、八十億劫の生死の重罪を滅したまふ。 このゆゑに、いままさに一心にかの仏を念じて、この苦界を離るべし。 この念をなすべし、「願はくは阿弥陀仏、決定してわれを抜済したまへ」と。南無阿弥陀仏。[その十念以上の信心の勢ひの尽くるを見て、次の事を勧むべし。

あるいは加へて二菩薩(観音・勢至)を称せよ。 下去はこれに准ず。]

 三には浄土を欣求すべし。 西方極楽は、これ大乗善根の界、無苦無悩の処なり。 一たび蓮胎に託しぬれば、永く生死を離れ、眼には弥陀の聖容を瞻たてまつり、耳には深妙の尊教を聞く。 一切の快楽、具足せずといふことなし。 もし人、臨終の時に、十たび弥陀仏を念ずれば、決定してかの安楽国に往生す。 仏子、いまたまたま人身を得たり、また仏教に値へり。 なほ一眼の亀の、浮木の孔に値へるがごとし

もしこの時において、往生することを得ずは、還りて三悪・八難のなかに堕して、法を聞くことなほ難し。 いかにいはんや、往生をや。 ゆゑに、一心にかの仏を称念したてまつるべし。 この念をなすべし、「願はくは仏、今日決定して、われを引接して、極楽に往生せしめたまへ」と。 [南無阿弥陀仏。]

 四にはおほよそかの国に往生せんと欲ふものは、すべからくその業を求むべし。

かの仏の本願(第二十願)にのたまふがごとし。 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳の本を殖ゑて、心を至して回向して、わが国に生れんと欲せん。 果し遂げずは、正覚を取らじ」(大経・上)と。 仏子、一生のあひだ、ひとへに西方の業を修す。 所修の業多しといへども、期するところはただ極楽なり。

いますべからくかさねて三際の一切の善根を聚集して、ことごとく極楽に回向すべし。 この念をなすべし、「願はくは、わが所有の一切の善根力によりて、今日決定して極楽に往生せん」と。 [南無阿弥陀仏。]

 五にはまた本願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発して、もろもろの功徳を修して、至心に願を発して、わが国に生れんと欲せん。 寿終の時に臨みて、たとひ大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(大経・上)と。 仏子、久しくすでに菩提心を発し、およびもろもろの善根をもつて極楽に回向せり。 いますべからくかさねて菩提心を発して、かの仏を念じたてまつるべし。 この念をなすべし、「願はくはわれ、一切衆生を利益せんがために、今日決定して極楽に往生せん」と。 [南無阿弥陀仏。]

 六にはすでに知りぬ。 仏子はもとよりこのかた、往生の業を具せり。 いますべからくもつぱら弥陀如来を念じて、業をして増盛ならしむべし。 しかも、かの仏の功徳は無量無辺にして、つぶさに説くべからず。 いま現に十方にまします、おのおの恒河沙等の諸仏、つねにかの仏の功徳を称讃したまふ。 かくのごとく称讃したまふこと、たとひ恒沙劫を経とも、つひに窮尽すべからず。 仏子、総じて一心にかの仏の功徳を帰命すべし。 念ふべし、「われいま、一念のうちに、ことごとくもつて弥陀如来の一切の万徳を帰命す」と。 [南無阿弥陀仏。]

 七には仏子、弥陀仏の一の色相を念じて、心をして一境に住せしむべし。 いはく、かの仏の色身は閻浮檀金のごとし。 威徳巍々たること金山王のごとく、無量の相好をもつて、その身を荘厳せり。 そのなかに眉間の白毫は、右に旋りて婉転せること五須弥のごとし。 七百五倶胝六百万の光明、熾然赫奕たること億千の日月のごとし。 これすなはち無漏の万徳の成就したまへるところ、大定智悲の流出せるところなり。 須臾のあひだも、この相を憶へば、よく九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の重罪を滅す。 このゆゑに、いままさにかの相を憶念して、決定して罪業を滅除すべし。 この念をなすべし、「願はくは白毫相の光、わがもろもろの罪を滅したまへ」と。 [南無阿弥陀仏。]

 八にはかの白毫相のそこばくの光明は、つねに十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。 まさに知るべし、大悲の光明は決定して来りて照らしたまふらん。 『華厳』の偈にのたまふがごとし。

「また光明を放ちたまふを見仏と名づく。かの光は命終のものを覚悟せしめたまふ。
念仏三昧をしてかならず仏を見たてまつり、命終の後に仏前に生る」と。

ゆゑにいまこの念をなすべし、「願はくは弥陀仏、清浄の光を放ちて、はるかにわが心を照らしたまひ、わが心を覚悟して、境界と自体と当生との三種の愛を転じて、念仏三昧成就して極楽に往生することを得しめたまへ」と。 [南無阿弥陀仏]

 九には弥陀如来は、ただ光をもつてはるかに照らしたまふのみにあらず。 みづから観音・勢至とつねに来りて行者を擁護したまふ。 いかにいはんや、父母は病の子においては、その心ひとへに重し。 〔仏は〕法性の山を動かし、生死の海に入りたまふ。 まさに知るべし、この時に、仏、大光明を放ちて、もろもろの聖衆とともに来りて、引接擁護したまふらん。 惑障あひ隔てて、見たてまつることあたはずといへども、大悲の願疑ふべからず。 決定してこの室に来入したまふらん。 ゆゑに仏子、この念をなすべし、「願はくは仏、大光明を放ちて、観音・勢至とともに来りて、決定して来迎し、引接して極楽に往生せしめたまへ」と。 [南無阿弥陀仏。

以上第七・八・九条の事は、つねに勧誘すべし。 その余の条は、時々、これを用ゐよ。]もし病者の気力、やうやく羸劣なる時には、いふべし、「仏、観音・勢至、無量の聖衆とともに来りて、宝蓮台を擎げて、仏子を引接したまふらん」と。

 十にはまさしく終りに臨む時にいふべし、「仏子、知るやいなや。 ただいまはすなはちこれ最後の心なり。 臨終の一念は百年の業に勝れり。 もしこの刹那を過ぎなば、生処一定しぬべし。 いままさしくこれその時なり。 まさに一心に仏を念じて、決定して西方極楽の微妙浄土の八功徳池のうちの、七宝蓮台の上に往生すべし」と。 この念をなすべし、「如来の本誓は一毫も謬ることなし。 願はくは仏、決定してわれを引摂したまへ」と。 [南無阿弥陀仏。]あるいは漸々に略を取りて、念ふべし、「願はくは仏、かならず引摂したまへ」と。 [南無阿弥陀仏。]かくのごとく病者の気色を瞻て、その所応に随順して、ただ一の事をもつて最後の念となし、衆多なることを得ざれ。 その詞の進止は、ことに用意すべし。 病者をして攀縁をなさしむることなかれ。

 問はく、『観仏三昧経』に説くがごとし。 「仏、阿難に告げたまはく、〈もし衆生ありて、父を殺し、母を害し、六親罵辱せらん。 この罪を作れるものは、命終の時に、銅の狗、口を張りて十八の車を化す。 状、金車のごとし。 宝蓋、上にありて、一切の火焔は、化して玉女となる。 罪人はるかに見て、心に歓喜を生じて、《われなかに往かんと欲す》と。 風刀の解くる時に、寒急にして声を失ひ、《むしろ好火を得て、車の上にありて、坐して燃ゆる火にみづから爆られん》と。 この念をなしをはりて、すなはち命終す。 揮攉のあひだに、すでに金車に坐しぬ。 玉女を顧み瞻れば、みな鉄斧を捉りて、その身を折り截る〉」と。 またのたまはく(同)、「また衆生ありて、四重禁を犯し、虚しく信施を食らひ、誹謗・邪見にして、因果を識らず、般若を学することを断じ、十方の仏を毀り、僧祇物を偸み、婬妷無道にして、浄戒のもろもろの比丘尼、姉妹・親戚を逼略して、懺愧することを知らず、所親を毀辱し、もろもろの悪事を造れる、この人の罪報、命終の時に臨みて、風刀身を解くに、偃坐不定なること、杖楚を被るがごとし。 その心は荒越して、痴狂の想を発し、おのが室宅を見れば、男女・大小の一切は、みなこれ不浄の物なり。 屎尿の臭き処にして、ほかに盈流せん。

その時に、罪人すなはちこの語をなしていはく、〈なんぞ、この処に好き城廓および好き山林の、われをして遊戯せしむるものなくして、すなはちかくのごとき不浄物のあひだに処せるや〉と。 この語をなしをはるに、獄卒羅刹、大きなる鉄叉をもつて、阿鼻地獄およびもろもろの刀山を擎げて、化して宝樹および清涼の池となす。 火焔は化して金葉の蓮華となり、もろもろの鉄の嘴ある虫は、化して鳧・雁となる。 地獄の痛む声は、詠歌の音のごとし。 罪人、聞きをはりて、〈かくのごとき好き処に、われまさになかに遊ぶべし〉とおもふ。 念じをはりて、尋いで時に大蓮華に坐せん」と。 {云々} いかんぞ知るや、今日の蓮華の来り迎ふること、これ火華にあらずとは。

答ふ。 感和尚(懐感)の釈していはく(群疑論)、「四の義をもつてのゆゑに、火車にあらずといふことを知る。

一には行をもつて、二には相をもつて、三には語をもつて、四には仏をもつてなり。 この四義、火華に異なり。 一に行をもつてとは、『観仏三昧経』に、〈罪人は罪を造りて、四重禁を犯し、乃至、所親を毀辱して〉と説けども、悔過をなさず、善友の、教へて仏を念ぜしむるにも遇はざるがゆゑに、所見の華はこれ地獄の相なり。 いまこの下品等の三人は、また生れてよりこのかた、罪を造れりといへども、終りの時に、善知識に遇ひて、心を至して仏を念ず。 仏を念ずるをもつてのゆゑに、多劫の罪を滅して、勝功徳を成じて、宝池のなかの華来り迎ふることを感得す。 あに前の華に同じからんや。

二に相といふは、かの『経』(観仏経)に、〈風刀身を解くに、偃臥定まらず楚撻を被るがごとし。 その心は荒越して、狂痴の想を発す。 おのが室宅を見れば、男女・大小の一切は、みなこれ不浄の物なり。 屎尿の臭き処にして、ほかに盈流せん〉と説けども、いまこれは、仏を念じて、身心安穏にして、悪想すべて滅しぬ。 ただ聖衆を見、異香あることを聞ぐ。 ゆゑに類せざるなり。

三に語といふは、かの『経』(同)のなかに、〈地獄の痛む声は、詠歌の音のごとし。 罪人、聞きをはりて、《かくのごとき好き処に、われまさになかに遊ぶべし》〉と説けども、『観経』のなかに、讃へてのたまはく、〈善男子、なんぢ、仏の名を称するがゆゑに、もろもろの罪消滅して、われ来りてなんぢを迎ふ〉と。 かれ(観仏経)はこれ詠歌の音なり。 これ(観経)は滅罪の語を陳ぶ。 二音すでに別なり。 ゆゑに不同なり。

四に仏といふは、かの『経』(観仏経)に、〈一切の火焔は、化して玉女となる。 罪人はるかに見て、心に歓喜を生じて、《われなかに往かんと欲ふ》と。 金車に坐しをはりて、玉女を顧み瞻れば、みな鉄斧を捉りて、その身を折り截る〉と。 『観経』に、〈その時に、かの仏、すなはち化仏・化の観世音・化の大勢至を遣はして、行者の前に至らしむ〉とのたまへり。

この四の義をもつて、准へて知れ。 蓮華の来迎すること、『観仏三昧経』の説には同ぜず」と。 {以上}看病の人は、よくこの相を了りて、しばしば病者の所有のもろもろの事を問ひて、前の行儀によりて種々に教化せよ。

往生要集 巻中