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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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:Ⅰ ここでは本願力を観知する他力信心の意。『一多証文』には「観」の字を解釈して「観は願力を心にうかべみると申す。またしるといふ心なり」とある。([[行巻#P--154|行巻 P.154]], [[化巻本#P--388|化巻 P.388]]) 
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# ここでは本願力を観知する他力信心の意。『一多証文』には「観」の字を解釈して「観は願力を心にうかべみると申す。またしるといふ心なり」とある。([[行巻#P--154|行巻 P.154]], [[化巻本#P--388|化巻 P.388]]) 
 
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# 「観の字、東大寺の覚寿僧都『観経義』にこれあり。世に流布するは願の字なり」と註記がある。高田派専修寺(せんじゅじ)蔵親鸞聖人加点『観経疏』や『観経集註』では「願」の字を用いてある。([[愚禿上#P--513|愚禿 P.513]])
:Ⅱ 「観の字、東大寺の覚寿僧都『観経義』にこれあり。世に流布するは願の字なり」と註記がある。高田派専修寺(せんじゅじ)蔵親鸞聖人加点『観経疏』や『観経集註』では「願」の字を用いてある。([[愚禿上#P--513|愚禿 P.513]])
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【左訓】「みるなり、しるこころなり」([[一多#P--691|一多 P.691]])
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:1・梵語ヴィパシャナー(vipaśyanā)の漢訳。<ruby><rb>毘鉢舎那</rb><rp>(</rp><rt>びばしゃな</rt><rp>)</rp></ruby>・毘婆舎那・毘波奢那と音写し、<ruby><rb>観察</rb><rp>(</rp><rt>かんざつ</rt><rp>)</rp></ruby>と漢訳する。<ruby><rb>智慧</rb><rp>(</rp><rt>ちえ</rt><rp>)</rp></ruby>で物事の道理をありのままに観ること。<ruby><rb>止</rb><rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>(奢摩他 śamatha)と並べて止観という。→[[止観]] (しかん)1.。
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#[[親鸞聖人]]は観を[[本願力]]をこころに思いうかべることとされる。
  
:2・[[親鸞聖人]]は観を[[本願力]]をこころに思いうかべることとされる。
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【左訓】「みるなり、しるこころなり」([[一多#P--691|一多 P.691]])
  
 
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2005年10月18日 (火) 19:23時点における版

  1. ここでは本願力を観知する他力信心の意。『一多証文』には「観」の字を解釈して「観は願力を心にうかべみると申す。またしるといふ心なり」とある。(行巻 P.154, 化巻 P.388) 
  2. 「観の字、東大寺の覚寿僧都『観経義』にこれあり。世に流布するは願の字なり」と註記がある。高田派専修寺(せんじゅじ)蔵親鸞聖人加点『観経疏』や『観経集註』では「願」の字を用いてある。(愚禿 P.513)

(かん)

  1. 梵語ヴィパシャナー(vipaśyanā)の漢訳。毘鉢舎那(びばしゃな)・毘婆舎那・毘波奢那と音写し、観察(かんざつ)と漢訳する。智慧(ちえ)で物事の道理をありのままに観ること。()(奢摩他 śamatha)と並べて止観という。→止観 (しかん)
  2. 親鸞聖人は観を本願力をこころに思いうかべることとされる。

【左訓】「みるなり、しるこころなり」(一多 P.691)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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