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「教」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。([[大経上#17gan|大経 P.18]])
 
:たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。([[大経上#17gan|大経 P.18]])
 
と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。
 
と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。
釈尊が『大経』を説いて本願の名号のいわれを顕示したのは、この第十七願成就のすがたであり、この真実の教にあらわされている本願の名号を[[正定業]]として示すのが「行巻」とされている。
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釈尊が『大経』を説いて本願の名号のいわれを顕示したのは、この第十七願成就のすがたであり、この真実の教にあらわされている本願の名号を[[正定業]]として示すのが「行巻」とされている。(浄土真宗辞典)
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 →[[補註8]] ([[浄文#P--477|浄文 P.477]])
 
 
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*教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。<br>
 
*教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。<br>
 
*「教は<kana>暁喩(ぎょうゆ)</kana>の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「<kana>言教(ごんきょう)</kana>」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー)
 
*「教は<kana>暁喩(ぎょうゆ)</kana>の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「<kana>言教(ごんきょう)</kana>」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー)
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教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮(その教えによってあらわされている内容)の法義は「行巻」であらわされている[[補註10|大行]]である。([[行巻#no98|行巻 P.199]])
  
 
『法華玄義』「教者聖人被<sub>レ</sub>下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1716_,33,0683b09:1716_,33,0683b10.html 『法華玄義』]
 
『法華玄義』「教者聖人被<sub>レ</sub>下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1716_,33,0683b09:1716_,33,0683b10.html 『法華玄義』]
 
能詮の言教(言語によって表現された教え)、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)
 
 
  
 
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2017年11月26日 (日) 18:25時点における版

きょう

 教とは暁喩(ぎょうゆ)(あきらかにさとす)の意で、正しい道理を説いて人々をさとし、みちびくことをいう。智顗の『法華玄義』には教とは「聖人、下に(かむら)しむ(ことば)なり」とあり、真実をさとった聖人が迷えるものをみちびく言葉を教というとしている。
すなわち、釈尊の一代の説法、およびそれに準ずる菩薩諸聖の説などを指して教とよぶが、それらは八万四千の法門といわれるように膨大なものであり、説かれる内容も多岐にわたっている。そのため、それらを分類整理し価値判断して、仏教全体を統一的に把握していこうとする教相判釈(教判)の営みが古くよりなされてきた。
親鸞は、『観経』『小経』顕説の教えを方便の教とするのに対して、釈尊の出世本懐を表した経である『大経』を真実の教とした。「教巻」には、

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。 ((大経 P.4)

とある。なお、『大経』は阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされる。 第十七願文には、

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。(大経 P.18)

と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。 釈尊が『大経』を説いて本願の名号のいわれを顕示したのは、この第十七願成就のすがたであり、この真実の教にあらわされている本願の名号を正定業として示すのが「行巻」とされている。(浄土真宗辞典)

 →補註8真実教 (浄文 P.477)

  • 教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。
  • 「教は暁喩(ぎょうゆ)の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「言教(ごんきょう)」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー)

教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮(その教えによってあらわされている内容)の法義は「行巻」であらわされている大行である。(行巻 P.199)

『法華玄義』「教者聖人被下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 『法華玄義』