「品位階次」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。([[hwiki:西方指南抄/下本#P--214|西方指南抄P.214]]) | :答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。([[hwiki:西方指南抄/下本#P--214|西方指南抄P.214]]) | ||
と、いわれていた。御開山は、この法然聖人の意を承けられて「大願清浄の報土には品位階次をいはず」とされたのである。「いそぎまいりてみるべし」とは面白い表現なのだが、浄土は有・無を論ずるものではなく、往くか往かないかが問題なのだということであろう。 | と、いわれていた。御開山は、この法然聖人の意を承けられて「大願清浄の報土には品位階次をいはず」とされたのである。「いそぎまいりてみるべし」とは面白い表現なのだが、浄土は有・無を論ずるものではなく、往くか往かないかが問題なのだということであろう。 | ||
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2017年11月5日 (日) 06:58時点における版
ほんい-かいじ
阿弥陀仏の浄土には『観経』で説かれる九品の階次のような差別はないということ。 (信巻 P.254)
法然聖人は『西方指南抄』下本の問答で、
- 問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。
- 答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。(西方指南抄P.214)
と、いわれていた。御開山は、この法然聖人の意を承けられて「大願清浄の報土には品位階次をいはず」とされたのである。「いそぎまいりてみるべし」とは面白い表現なのだが、浄土は有・無を論ずるものではなく、往くか往かないかが問題なのだということであろう。