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「僧にあらず俗にあらず」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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::まことに知んぬ、{{DotUL|悲しきかな愚禿鸞}}、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]) 《悲哉》
 
::まことに知んぬ、{{DotUL|悲しきかな愚禿鸞}}、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]) 《悲哉》
 
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それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。「非僧非俗」の「僧にあらず」とは、真実に出遇いながら僧たり得ない自己の慚愧であり、「俗にあらず」とは、煩悩にまみれた俗にありながら真実の光に照し出された自身を感佩する語であった。
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それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。「非僧非俗」の「僧にあらず」とは、真実に出遇いながら僧たり得ない自己の慚愧であり、「俗にあらず」とは、煩悩にまみれた俗にありながら真実の光に照し出され摂取された自身を感佩する語であった。
  
 
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2017年12月25日 (月) 05:10時点における版

そうにあらず-ぞくにあらず

 「非僧非俗」。 『教行信証』後序に出る語。 親鸞(しんらん)聖人は自らを非僧非俗と位置づけ、愚禿と名のった。 承元(じょうげん)の法難 (1207) によって流罪に処せられた時に僧籍(そうせき)剥奪(はくだつ)されたから、「僧尼令(そうにりょう)」 によって国家に公認された僧侶ではない (非僧)。 しかし妻帯をしていても、法衣をつけ、世俗の権勢にこびず、名利をいたむ心をもって、念仏の自信教人信に生きるのだから単なる俗人でもない (非俗)。 このような宗教的態度を表明するために聖人は 「禿(とく)」 を姓とし、さらに自身の愚悪を表して 「愚禿」 と称した。 後年は 「愚禿釈親鸞」 などと自署するが、「愚禿」 は 「非僧」を示す姓、「釈親鸞」 は 「非俗」 なる仏教徒としての自覚を示す名とみられる。 →愚禿(ぐとく)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

主上臣下 背法違義 成忿結怨。因茲真宗興隆大祖源空法師 并門徒数輩 不考罪科 猥坐死罪。或改僧儀 賜姓名処遠流。予其一也。
主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
爾者 已非僧非俗。是故以禿字為姓。(後序)
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。(化巻 P.471)

処分に対する宗祖の反応

非僧 僧籍剥奪。 僧に非ず→肯定。
非俗 還俗。   俗に非ず→否定。 還俗名 藤井善信(歎異抄)の姓を否定→愚禿と自称
  • 1211年。親鸞聖人三十九歳の時に赦免。当時は赦免されれば僧籍は復活されたといわれる。


 御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。

誠哉 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132) 《誠哉》
爰愚禿釈親鸞 慶哉 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(総序 P.132) 《慶哉》

御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。

誠知。悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266) 《悲哉》

それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。「非僧非俗」の「僧にあらず」とは、真実に出遇いながら僧たり得ない自己の慚愧であり、「俗にあらず」とは、煩悩にまみれた俗にありながら真実の光に照し出され摂取された自身を感佩する語であった。

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