「現生正定聚」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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::あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。([[大経上#P--41|大経 P.41]]) | ::あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。([[大経上#P--41|大経 P.41]]) | ||
の、阿弥陀仏の「至心に回向したまへる」信心を歓喜し「諸仏の大法を念ず」ることは「歓喜地」と同じであるとみられたからであろう。 | の、阿弥陀仏の「至心に回向したまへる」信心を歓喜し「諸仏の大法を念ず」ることは「歓喜地」と同じであるとみられたからであろう。 | ||
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2018年1月20日 (土) 13:32時点における版
げんしょう-しょうじょうじゅ
正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地をいう。浄土教では正定聚は浄土で得られる利益とされていたが、御開山は「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(御消息 P.735) と摂取不捨の故に現生で正定聚に住すとされた。→菩薩
御開山は、
- 凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。 (行巻 P.147)
と、初地に入る歓喜地に言及されている。そして「地相品」を引き、
- 「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。
- 答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と。かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地のなかにありて心に歓喜多し。(行巻 P.147)
とされておられる。このように歓喜という語に着目されておられるのは「本願成就文」の、
- 諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転。
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経 P.41)
の、阿弥陀仏の「至心に回向したまへる」信心を歓喜し「諸仏の大法を念ず」ることは「歓喜地」と同じであるとみられたからであろう。