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「後世者」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 さて「往生大要抄」の三心釈によれば、
 
 さて「往生大要抄」の三心釈によれば、
  
: わたくしに料簡するに、至誠心といは真実の心なり。その真実といは、内外相応の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なくま事をあらはす也。しかるを人つねにこの至誠心を熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、此釈の心にはたがふ也……又至誠心は、深心と回向発願心とを体とす。この二をはなれては、なにによりてか至誠心をあらはすべき、ひろくほかをたずぬべきにあらず。深心も回向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。[[hwiki:和語灯録#P--570|(*)]]
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: わたくしに料簡するに、至誠心といは真実の心なり。その真実といは、内外相応の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なくま事をあらはす也。しかるを人つねにこの至誠心を熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、此釈の心にはたがふ也……又至誠心は、深心と回向発願心とを体とす。この二をはなれては、なにによりてか至誠心をあらはすべき、ひろくほかをたずぬべきにあらず。深心も回向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。[[hwiki:和語灯録#P--571|(*)]]
  
 
といわれている。これによれば内に深心と回願心をもち、それにふさわしい三業行をあらわしていることを内外相応の至誠心とされていたことがわかる。同様の釈が「十八条法語」にも出ている。すなわち、
 
といわれている。これによれば内に深心と回願心をもち、それにふさわしい三業行をあらわしていることを内外相応の至誠心とされていたことがわかる。同様の釈が「十八条法語」にも出ている。すなわち、

2018年4月7日 (土) 21:12時点における版

ごせしゃ

 世間のことがらに執着せず、ひたすら後生往生を願い求めて念仏・読経等を専ら修する者。(改邪鈔 P.921, 御文章 P.1111, P.1155,後世物語 P.1359)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

後世者とは一義的には『一言芳談』にあるような、遁世してひたすら往生極楽を願う者を指す。また一遍上人時衆(宗)のように世を捨てて諸国を遊行する念仏勧進聖を意味した語であろう。蓮如さんが越前吉崎におられた頃は、日本中で、この時衆の勢いが盛んであった。中でも現在も福井県坂井市長崎にある称念寺は、当時は北陸・奥州まで教線を張っていた時衆の大道場であったという。このひたすら南無阿弥陀仏を称える時衆の影響下にあった北陸の民衆に対して、

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。 (御文章 P.1137)

と、浄土真宗の信心をもって教化されたのが蓮如さんであった。蓮如さんは全く浄土教の素地のないところで布教されたのではなかった。時衆という南無阿弥陀仏を称えて往生極楽を欣求する、越前・加賀の民衆の宗教的基盤の上での勧化であったのである。当時の自意識が芽生えはじめた民衆に信心という火を点けたのであった。 その意は、在家門徒をして大坊主分に「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候」と信心を説く文明三年のお文→《帖外ご文章》の記述などによって窺うことが出来る。そのような意味においては、蓮如さんの説かれた「後生の一大事」の解決を目指す「後生ねがい」の在俗の門徒と、遁世した「後世者」は違うものであった。蓮如さんが、

「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」(御文章 P.1111)

とされたのは、主として当時の諸国を遊行する念仏勧進聖の無信単称を指す語であって、

聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。(御文章 P.1197)

という本願力回向の行信によって往生を願う「後生願い」を意味する語ではなかった。それはまた、法然聖人の『七箇条の御起請文』二条にある、

無智の身をもって有智の人に対(むか)い、別行の輩らに遇いて、好みて諍論をいたすを停止すべき事。 (『七箇条の御起請文)

という念仏弾圧につながりかねない門徒への後世者ぶる者への言動の誡めでもあった。ともあれ本願力回向の行信の有無によって言葉の意味する内容が変わるのである。その意味においては、辞書的知識だけではなく言葉の生まれてきた背景を考察すべきである。
 さて、後世者とは『観経』の至誠心の領解と連関する。遁世者の世を厭うしるしとして至誠心を捉えて、これを外に発露し名利に陥る時、「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(愚禿鈔 P.501) といわれた御開山の言葉の背景にある、

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266)

と述懐された、御開山の悲哉(悲しきかな)という領解と違うものが出てくるのであろうと思ふ。

梯實圓和上は『法然教学の研究』で、この後世者であることをほこり振る舞う者と至誠心について述べられていた。

三、至誠心と生活規範

 さて「往生大要抄」の三心釈によれば、

 わたくしに料簡するに、至誠心といは真実の心なり。その真実といは、内外相応の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なくま事をあらはす也。しかるを人つねにこの至誠心を熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、此釈の心にはたがふ也……又至誠心は、深心と回向発願心とを体とす。この二をはなれては、なにによりてか至誠心をあらはすべき、ひろくほかをたずぬべきにあらず。深心も回向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。(*)

といわれている。これによれば内に深心と回願心をもち、それにふさわしい三業行をあらわしていることを内外相応の至誠心とされていたことがわかる。同様の釈が「十八条法語」にも出ている。すなわち、

 又云真実心といふは、行者願往生の心なり。矯飾なく表裏なき相応の心也。雑毒虚仮等は名聞利養の心也。大品経云、捨利養名聞、大論述此文之下云、当業捨雑毒者、一声一念猶具之、无実心之相也。飜内矯外者、仮令外相不法、内心真実、願往生者、可遂往生也[1] 云云。 (西方指南抄/中本)

というものがそれである。この場合も至誠心とは願往生の心があって、矯飾なく表裏相応している状態をいうわけである。その反対に雑毒虚仮とは、名聞利養の心をいうのであって、『大論』にもこれを雑毒、無実心とされているからである。それは内を飜して外を矯るものというべきである。たとえ外相は不法(愚者、虚仮者)に見えていても、内心に本願を信ずる願生心が真実にあるならば、往生をとげることができる至誠心であるといわれているのである。

 ここでは名利心を雑毒虚仮といい、往生の障りになるようにいわれているが、法然には名利心は往生の障りにならないといわれる場合もある。「十二箇条問答」に

「衆生の心はつねに名利にそみてにごれる事、かの水のごとくなれども、念仏の摩尼珠を投ぐれば、心のみづおのづからきよくなりて、往生をうる事は念仏の力也」 (*)

といい、念仏の功力によって、名利の濁心も浄化されるから、名利はあれども、往生の障りにはならないとされている。それでは名利心があるから往生できないといわれたのは何故であろうか。これについて「御消息」第三には、

 われも人も、いふばかりなきゆめの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけて名聞利養をわづかにふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事にして、やがてそれを返りて又名聞にしなして、……つゆの事も人のそしりにならん事あらじといとなむ心よりほかにおもひさす事もなきやうなる心ちのみして、仏のちかひをたのみ、往生をねがはんなんどいふ事をばおもひいれず、沙汰もせぬ事の、やがて至誠心かけて往生もえせぬ心ばヘにて候也。 (*)

といわれている。後世を願う心をおこして、世をいとい、名利をすてたはずの後世者が、かえって、後世者であることをほこるとき、名利をすてたことが名利となり、人目ばかりを飾るようになり、本願をたのみ、往生をねがう願生の信心が欠ける。それを「至誠心かけて往生もえせぬ」というのである。このように信なくして後世者ぶるものを、名利に狂うて至誠心のかけた虚仮の行者というのである。しかしそのことの浅ましさを慚愧し、回心して本願をたのみ、一向に念仏するならば、飜内播外した至誠心の行者として、名利の煩悩をもったまま障りなく往生せしめられるのである。

と、されておられた。
なお、ほこるという語については『歎異抄』第13条には「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ」とあるのは、自らの自力の至誠心の発露である、まこと心をほこるのではなく、阿弥陀仏の本願力回向の至誠心(至心)の済度をほこる意であった。 →本願ぼこり

参照

浄土をねがふ…

牛盗人・牛を盗みたる人


  1. 原文は訓点が施されているので、以下を読み下しておいた。◇「『大品経』に云く、利養名聞を捨てること、『大論』にこの文を述するの下に云く、まさに雑毒を棄(業)捨すべしとは、一声一念なおこれを具せば、実心の相無きなり。内を翻して外を矯(ため)るとは、たとい外相不法なれども内心真実にして、往生を願ずれば往生を遂ぐべきなり」と。