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後生の一大事

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

ごしょうのいちだいじ

 後生とは後に来るべき生涯。一大事とは最も重要なことの意。転迷開悟(てんめい-かいご)(煩悩の迷いを転じて、さとりを開くこと)のことで、生死の問題を解決して後生浄土往生するという人生における最重要事項をいう。
『御文章』5帖目第16通には「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまゐらせて」(御文章 P.1204)等とある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『無量寿経』に、

雖一世勤苦 須臾之間 後生無量寿仏国 快楽無極。

一世に勤苦すといへども須臾のあひだなり、に無量寿仏国にれて快楽極まりなし。(大経 P.61)

とある。

死の帰するところを浄土におく(帰依)

 我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(『往生と成仏』法蔵館 曽我量深・金子大榮著 p.171から)

大谷派の学僧である金子大榮師は、浄土を「死のする(ところ)、生のって立つ(ところ)」とおっしゃったが、死ぬることの解決ができてこそ、この生をより深く味わうことができるのであろう。『論註』に「蟪蛄は春秋を識らず、といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや」(論註P.98)とあり、今しか知らない者は実は今も知らないというのである。生きることに意味があるように死ぬことにも意義があることを示してくださる言葉が蓮如さんの「後生の一大事」という言葉であった。 星野元豊氏は『教行信証』の思想と内容といふ論考で

それにもかかわらず、現代のさかしらな人間たちは科学的知識に訓練された現代人にとって、このような浄土など信ずる能わざるものである、原始未開人ならいざ知らず、現代人に対してなお浄土を説くがごとき、愚や極まれりというべしという。俗間、浄土教の呪術化された布教に対する警告としては一応もっともなようである。しかしかかる発言は自体、宗教に対する無知を暴露したものにほかならない。何故なら浄土を信ずるということと科学的知識ということとはなんら関係ないことだからである。科学的知識がないから浄土を信ずることができるのではない、無知蒙味なるがゆえに浄土を信ずることができるのではない、浄土は煩悩成就の凡夫、生死に繋縛された凡夫のために存在するのである。それゆえに自己が生死流転の自己であり、迷倒の自己であり、罪濁の現実であることを理解したものには浄土の存在は十分に理解されうるであろう。自分の力では生死を出離しえないもの、煩悩を断じえないもの、どこまでも我執にとらわれてこれを離脱しえないもの、そのようなもののために浄土は建立されているのである。それゆえに自己の煩悩に悩み、自己の底深く巣くう我執の執拗さと凄まじさに戦(おのの)くものにのみ浄土は欠くことのできないものとして求められるのである。科学的知識がいかに発達しようと科学がどれだけ進歩しようと、私の存在の底に渦まく煩悩は一厘一毛といえども消されず、私の存在の底にこびりついている我執は離れ難い。科学的知識の世界と浄土の求められる世界とはその世界が異なるのであり、次元が異なるのである。(*)

と、云われていた。

トーク:後生の一大事
蟪蛄は春秋を識らず