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「五劫思惟」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 [[阿弥陀仏]]が[[因位]]の法蔵菩薩のとき、世自在王仏のみもとで一切の衆生を平等に救うために、五[[劫]]という長い時間をかけて思惟をめぐらせ、往生の行法を選択(せんぢゃく)されたということをいう。→[[劫]](こう) ([[口伝鈔#P--877|口伝鈔 P.877]], [[持名鈔#P--1001|持名鈔 P.1001]])
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 [[阿弥陀仏]]が[[因位]]の法蔵菩薩のとき、世自在王仏のみもとで一切の衆生を平等に救うために、五[[劫]]という長い時間をかけて思惟をめぐらせ、往生の行法を[[選択]](せんぢゃく)されたということをいう。→[[劫]](こう) ([[口伝鈔#P--877|口伝鈔 P.877]], [[持名鈔#P--1001|持名鈔 P.1001]])
  
 
五劫があいだ思惟 ([[御文五#P--1206|御文章 P.1206]])
 
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『無量寿経』に法蔵比丘(因位の阿弥陀仏)の思惟を、
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『無量寿経』には「 高才勇哲にして、世と超異す(高才勇哲 与世超異)」([[大経上#P--11|大経 P.11]]) する智慧を極めた法蔵比丘(因位の阿弥陀仏)の五劫思惟を、
 
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:時彼比丘 聞仏所説 厳浄国土 皆悉覩見 超発無上殊勝之願。其心寂静 志無所著。
 
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::われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
 
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:究竟靡所聞 誓不成正覚
 
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と「名声(名号)」となって衆生に聞かしめられんとさる。
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と、阿弥陀仏の救済は「名声(なんまんだぶ)」となって衆生に聞かしめられんとされる。
この意を『正信念仏偈』では、
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御開山はこの意を『正信念仏偈』では、
 
:五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方。
 
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::五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
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::五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。 ([[行巻#弥陀章|行巻 P.203]])
 
:「現代語」
 
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::<font color="green">五劫のあいだ思惟を続け、一切を平等に救う道を選び取り、救いのみ名を十方に、普く聞かそうと誓われた。</font>
 
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この「五劫思惟」の意を『歎異抄』後序には、御開山のつねの仰せとして、
 
この「五劫思惟」の意を『歎異抄』後序には、御開山のつねの仰せとして、
:弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、{{DotUL|それほどの業をもちける身にてありけるを}}、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。
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:弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、{{DotUL|それほどの業をもちける身にてありけるを}}、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。([[歎異抄#P--853|歎異抄 P.853]])
 
と御述懐されておられたとある。<br />
 
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御開山は、五劫という気の遠くなるような長いあいだ思惟しなければ、わたくしの救いを見出さすことができなかった「それほどの業をもちける身にてありける」罪悪の中に阿弥陀仏の慈悲を「本願のかたじけなさよ」と味わっておられたのである。<br />
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御開山は、法蔵菩薩が五劫という気の遠くなるような長いあいだ思惟しなければ、わたくしの救いを見出すことができなかった「それほどの業をもちける身にてありける」自己の罪悪を凝視し阿弥陀仏の慈悲を「本願のかたじけなさよ」と味わっておられたのである。いわゆる[[二種深信]]の機の深信中に阿弥陀仏の智慧と慈悲を味わっておられたのである。<br />
この「五劫思惟」を先人は「信は仏辺に仰ぎ、罪悪は機中に味わう」といわれたものである。
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この「五劫思惟」を先人は「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれていた。
  
  
 
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2018年4月25日 (水) 10:51時点における版

ごこう-しゆい

 阿弥陀仏因位の法蔵菩薩のとき、世自在王仏のみもとで一切の衆生を平等に救うために、五という長い時間をかけて思惟をめぐらせ、往生の行法を選択(せんぢゃく)されたということをいう。→(こう) (口伝鈔 P.877, 持名鈔 P.1001)

五劫があいだ思惟 (御文章 P.1206)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『無量寿経』には「 高才勇哲にして、世と超異す(高才勇哲 与世超異)」(大経 P.11) する智慧を極めた法蔵比丘(因位の阿弥陀仏)の五劫思惟を、

時彼比丘 聞仏所説 厳浄国土 皆悉覩見 超発無上殊勝之願。其心寂静 志無所著。
ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。
一切世間 無能及者 具足五劫思惟 摂取荘厳仏国 清浄之行。
一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す。 (大経 P.15)

とあり「重誓偈」には、四十八願に重ねて、

我至成仏道 名声超十方
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(大経 P.24)

と、阿弥陀仏の救済は「名声(なんまんだぶ)」となって衆生に聞かしめられんとされる。 御開山はこの意を『正信念仏偈』では、

五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。 (行巻 P.203)
「現代語」
五劫のあいだ思惟を続け、一切を平等に救う道を選び取り、救いのみ名を十方に、普く聞かそうと誓われた。

とされていた。

この「五劫思惟」の意を『歎異抄』後序には、御開山のつねの仰せとして、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。(歎異抄 P.853)

と御述懐されておられたとある。
御開山は、法蔵菩薩が五劫という気の遠くなるような長いあいだ思惟しなければ、わたくしの救いを見出すことができなかった「それほどの業をもちける身にてありける」自己の罪悪を凝視し阿弥陀仏の慈悲を「本願のかたじけなさよ」と味わっておられたのである。いわゆる二種深信の機の深信中に阿弥陀仏の智慧と慈悲を味わっておられたのである。
この「五劫思惟」を先人は「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれていた。