「獲得名号自然法爾」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 自然法爾の法語は、高田専修寺蔵の顕智書写本が原型であり「末灯鈔」や「正像末和讃」などの自然法爾の法語は、この顕智書写本の法語が元である。この法語を門弟の請いによって、少しく内容を変更し書写し下付されたのが、末灯鈔」や「正像末和讃」の文であろう。以下はその原型とされる、顕智書写本(浄土真宗聖典全書二 p773)からのものである。なお『教行証文類』を著述されておられた頃には、「獲」と「得」を明確に区別されてはおられなかった。<br /> | + | {{Kaisetu| 自然法爾の法語は、高田専修寺蔵の顕智書写本が原型であり「末灯鈔」や「正像末和讃」などの自然法爾の法語は、この顕智書写本の法語が元である。この法語を門弟の請いによって、少しく内容を変更し書写し下付されたのが、末灯鈔」や「正像末和讃」の文であろう。以下はその原型とされる、顕智書写本(浄土真宗聖典全書二 p773)からのものである。なお『教行証文類』を著述されておられた頃には、「獲」と「得」を明確に区別されてはおられなかった。<br /> |
− | なお、『唯信鈔文意』には「「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり」([[唯文#P--700|唯文 P.700]]) とある。「号」には、人を呼ぶ際に使われる呼び名という意があり、「[[本願招喚の勅命]]」の意を「号」の語にみておられたのであろう。 | + | なお、『唯信鈔文意』には「「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり」([[唯文#P--700|唯文 P.700]]) とある。「号」には、人を呼ぶ際に使われる呼び名という意があり、「[[本願招喚の勅命]]」の意を「号」の語にみておられたのであろう。}} |
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2018年11月6日 (火) 23:07時点における版
自然法爾の法語は、高田専修寺蔵の顕智書写本が原型であり「末灯鈔」や「正像末和讃」などの自然法爾の法語は、この顕智書写本の法語が元である。この法語を門弟の請いによって、少しく内容を変更し書写し下付されたのが、末灯鈔」や「正像末和讃」の文であろう。以下はその原型とされる、顕智書写本(浄土真宗聖典全書二 p773)からのものである。なお『教行証文類』を著述されておられた頃には、「獲」と「得」を明確に区別されてはおられなかった。
なお、『唯信鈔文意』には「「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり」(唯文 P.700) とある。「号」には、人を呼ぶ際に使われる呼び名という意があり、「本願招喚の勅命」の意を「号」の語にみておられたのであろう。
なお、『唯信鈔文意』には「「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり」(唯文 P.700) とある。「号」には、人を呼ぶ際に使われる呼び名という意があり、「本願招喚の勅命」の意を「号」の語にみておられたのであろう。
「獲」字は、因位のときうるを獲といふ。
「得」字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。
「名」字は、因位のときのなを名といふ。
「號」字は、果位のときのなを號といふ。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、この如來のおむちかひなるがゆへに、しからしむを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもて、この法のとくのゆへに、しからしむといふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。
彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀[1]とたのませたまひて、むかへむとはからはせたまひたるによりて、行者のよからむともあしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候。
ちかひのやうは、无上佛にならしめむとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて彌陀佛とぞときゝならひて候。みだ佛は、自然のやうをしらせむれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。
愚禿親驚八十六歳
- 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊[2]、三條とみのこうぢの御坊にて、聖人にあいまいらせてのきゝがき、そのとき顕智これをかくなり。
- ↑ この顕智書写本では、南無阿弥陀となっているので御開山は「ナンマンダ」とか「ナモアミダ」と「と発音されていたのではないかともいわれる。顕智上人は筆受後に御開山にお見せして確認を得た筈であるし、御開山は、かっては常行三昧堂で、念仏をとなええつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩く常行三昧の修行をされていたので、いきおい南無阿弥陀仏を短縮して「ナンマンダ」となったという説は首肯できる。→「般舟三昧」
- ↑ 善法坊とは親鸞聖人の弟、尋有僧都の里坊。親鸞聖人はこの里房でご往生された。親鸞聖人は生涯ご自分の寺を持とうと意図されたことはなかった。釈尊もまた生涯を遊行されたから「道の人」と呼ばれ、最後には道端の沙羅双樹の下で涅槃に入られた故事を彷彿させるのであった。