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「回して」の版間の差分

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: 自力の三心ひるがへし
 
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: 通入せんとねがふべし ([[浄土和讃#no81|浄土 P.570]])
と「自力の三心ひるがへし」とある。<br />
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と「自力の三心ひるがへし」とあるが「回」をひるがえし捨てる回捨の意とみることも出来るであろう。<br />
 
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'''廻因向果から廻思向道へ''' (ブログ 用管窺天記 13/12/06)
 
'''廻因向果から廻思向道へ''' (ブログ 用管窺天記 13/12/06)

2018年12月9日 (日) 02:03時点における版

えして

Ⅰ ここでの「回」は、回転、回捨の意。 ひるがえし捨てて。(信巻P.226唯文 P.714)

Ⅱ 回向して。(往生の因として)ふりむけて。 (玄義分 P.301散善義 P.479散善義 P.481往生礼讃 P.667)

Ⅲ ふり向けて。 (安楽集 P.285)

Ⅳ ひるがえし捨てて。 次下の 「回して」 も同意。 (安楽集 P.285)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『観経讃』の結びに、

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし (浄土 P.570)

と「自力の三心ひるがへし」とあるが「回」をひるがえし捨てる回捨の意とみることも出来るであろう。

廻因向果から廻思向道へ (ブログ 用管窺天記 13/12/06)

本寺派の『註釈版聖典』二版では二河譬の合譬で、

〈ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(信巻P.226)

の、回しての脚注は「ここでの「回」は、回転、回捨の意。 ひるがえし捨てて。」となっている。この「回諸行業」とはもろもろの雑行をひるがえし捨てる、という意味である。

しかして、この回(え)す、という言葉の意味が判りにくい。回(廻)ということは方向を転換するという意味である。これについて『親鸞の世界』(東本願寺出版部)という本の説明が判りやすいのでUPしてみた。 この本は、御開山の七百回忌を記念して、鈴木大拙師、曾我量深師、金子大榮師の鼎談を西谷啓治師が司会されたものである。二十代の頃、じいさん(父親)の本箱から引っ張り出して読んだものだ。当時は、なんまんだぶを称えるご法義の凄さが解らずに、この本を縁として禅に興味を持って、もっぱら鈴木大拙師の禅関係の本を読んでいたものである。 存覚上人は『六要鈔』で、

  • 回思向道(他力)。思いをひるがえし捨てて道に向かう。
  • 回因向果(自力)。因をめぐらして果に向かう。

という語を示しておられた。

二河の譬
西谷 そこでさっきの曽我先生のお話で自利・利他ということですが、そのまえに、廻向といふうなことには二つの意味があると言われましたですね。廻因向果、それから廻思向道ですね。これはやはり衆生の側の廻向ということに……。
曾我 はあ。自力を捨てるということでですね。廻思向道ということは「二河讐」のところから出てきてますね。「二河讐」のはじめには、やはり廻因向果の道しかわからないですわね。廻因向果の道しかわからぬともがらは、ただ経文を読むべからずですね。
西谷 しかし、普通の、つまり人間……。
曾我 そうです。普通の人間相互の関係ですね、そのいろいろの関係を、人間と仏との関係に応用してきた。それが廻因向果であります。その廻因向果という道を歩こうとすると、まったくもう、「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」という、本当の孤独というものになるですね。ところが、だんだんその孤独というところに徹してくる。
『二河譬」(『観経疏』散善義)でいいますと、はじめには道は近くて、彼岸はもう目の前にありますけれども、火の河・水の河がおそろしいと、その中間に道があるけれどもその道は狭小であって、とても渡ることができない。それは廻因向果の道では狭いんです。果はすぐ目の前にあるわげですわね。その目の前に果が見えるもんだからして、因を廻らして果に向かおうとするのだけれども、そこに火の河・水の河が道を湿おし、道を焼いて、そうして、さなきだに狭い四、五寸の道が、一寸一分にもおよばん狭いものになる。廻因向果の道としてみるときになれば、まったくそれはもう、行かれませんですよ。一足先へも行くことができない。それをさらに徹していくんでししょう。それでまったく行きづまってしまう。
で、「我いま廻(かえ)らばまた死せん、住(とど)まらばまた死ぜん、去かばまた死せん」、三定死といいます。とどまっても定んで死すると、前に進んでも定んで死すると、左右へ逃げても定んで死すると、死ぬということが決定していると。どっちにしても決定している。つまり廻因向果でもってまったく行きづまったと。その行きづまったときに、いわゆる窮して通ずるという、そういうことが出てくるんでありましょう。それでこの、「一種として死を免れざれば、我むしろこの道を尋ねて、前に向うて去(い)かん」と。どうせ死ぬのであれば、死を覚悟して、この道をたずねていこうと、こう自分が決心した。その決心を、それを廻思向道というのでありましょう。廻因向果から廻思向道へ転じた。そういうんですね。廻因向果の廻向心から廻思向道の廻向心に転じた。つまり自力の廻向心から他力の廻向心に転じた。そういうんであります。
三定死をくぐって、そうして死ぬということが決定するならば、逃げて死んだり、横向きになって避けて死んだりするよりは、前向きになって死んだ方がいいと。同じ屍をさらすものならば、前向きになって屍をさらしたいと、こう覚悟したんでありましょう。そのように覚悟したら、そのときに「東の岸に忽ち人の勧むる声を聞く、なんぢただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難無けん」と、東の岸の発遣の命令。それと同時にまた「西岸の上に人有って喚んでいわく、汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん、すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣わし、かしこに喚ぼうを聞いて、水火二河を畏れず、そうして西に向かってすすんでいったと。それをつまり廻思向道というんです。廻因向果の道から廻思向道という、自道四、五寸の道がそのままその本願の大道になった。そういうんでありまして、「二河譬」に出ているんです。同じ屍をさらすなら、横向きや後向きは恥をさらすだけだと。そうでなくして、前向きにすすんだら、おなじ死んでもとにかく正しい死に方である。ですから死を覚悟して、すすんでいこうと決心した。そうですわね。そうすれば『歎異抄』の第二章とおなじでありましょう。「いずれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と、そして「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」と転じてきます。弥陀と釈迦と出てきますね。二尊の勅命を聞いて、そうして水火二河をかえりみない。おそれもせず後退もしないと。まっすぐに一心一向に進むと。ふりかえることはもちろんのこと、横も、右も左も向かずに、まっすぐに行くと。まっすぐに行けば、もうその道は狭い道じゃなくて、本願の大道である。それを廻思向道というのであります。
西谷 そこではじめて、如来の声を聞くという……。
曾我 ええ、如来の本当の声を聞くと。いままでは、ただお経にそういう文字があるということだけ考えている。ところがその経文の文字が生きた声、生きた言葉になった。廻思向道というところに生きた声になった。廻因向果のところではただ死んだ文字でありましょう。それは経文が死んでいるんでありましょう。ところが千年も二千年も昔の経典でありますけれども、その経典が生きてくるんでありましょう。
西谷 それはつまり如来の大悲に触れたというふうにいってもいいわけでしょうか。
曾我 それは「聞其名号信心歓喜」(『大経』下巻)といいます。南無阿弥陀仏といいます。経の体、南無阿弥陀仏であると。
「是を以て、如来の本願を説くを経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体とするなり。」と、「教の巻」には釈遡・弥陀二尊について、『大無量寿経』の大意というものを述べております。「この経の大意は」と、それから「是を以て」と、経の大意から推していくんです。推していくならば、「是を以て、如来の本願を説くを経の宗致と為す」と。
その本願を以て経の宗致とするならば、「即ち」と、即ちで抑さえたんですね。「即ち」と宗を抑さえて、「即ち仏の名号を以て経の体とする」のであると。ですからいままではただ、お経を読んでもお経の言葉というものが死んだ言葉であった。その死んだ文字が生きた言葉になる。廻因向果などというときは、どうしても「ただ是れ自力にして他力の持つなし」(『論註』上巻)ということになりますが、廻思向道へくると、はじめて本願他力の大道というものを発見する。大道を発見したということは、「如来の本願を説くを経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体とする」という、そういうことに目を開いた。

ここで曾我師が述べておられるのは、廻因向果(因をめぐらして果に向かう)と、廻思向道(思いをひるがえし捨てて道に向かう)ということの違いについてである。
なんまんだぶのご法義は、本願力回向のご法義であって、善根を積むという因をめぐらして果に向かうようなご法義ではない。二河の譬喩によってあらわされる、廻因向果から廻思向道へということは行為の主体が転換するするということである。
人間の世界は、因を修して果へ向かうという、いわゆる因果の法則の支配する世界である。 曾我師が仰るように、このような人間世界の対人関係性の論理を阿弥陀如来の救済に関連づけるから、凡夫の口先に称えられている仏智の顕現としての、なんまんだぶつを見失うのであろう。