「悪人正機」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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現代の[[浄土真宗]]の僧俗は「どうせ私は凡夫ですから」という語をもって、自らの煩悩熾盛を許容し糊塗する方法とするのだが、ある意味では「慚愧なき真宗は外道に堕する」であった。 | 現代の[[浄土真宗]]の僧俗は「どうせ私は凡夫ですから」という語をもって、自らの煩悩熾盛を許容し糊塗する方法とするのだが、ある意味では「慚愧なき真宗は外道に堕する」であった。 | ||
法然聖人は悪人正機を説きながら『和語灯録』十二箇条問答で、 | 法然聖人は悪人正機を説きながら『和語灯録』十二箇条問答で、 | ||
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とされておられた。悪人正機説は、単に悪人を救済するという意味だけでなく、そこには「[[回心]]」という厳しい選択があるのである。 | とされておられた。悪人正機説は、単に悪人を救済するという意味だけでなく、そこには「[[回心]]」という厳しい選択があるのである。 | ||
2019年12月10日 (火) 09:12時点における版
あくにん-しょうき
阿弥陀仏の平等の慈悲を表す語。正機とはまさしきめあて(救済の対象)という意で、阿弥陀仏の本願による救いは自らの力で迷いを離れることができないもの(悪人)のためにあることをいう。 『涅槃経』には慈悲のはたらきが悪人に焦点を合わせていることを父母の子に対する愛情に喩え、
- 「たとへば一人にして七子あらん[1]。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
- もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものは心すなはち放捨す。」(信巻引文 信巻 P.279)
と説かれている。このような悪人正機を示すものとして『歎異抄』第3条が有名である。ここでは、世の人がいう
- 「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」(歎異抄 P.833)
と示し、悪人こそをめあてとする本願他力の意趣が明らかにされている。(浄土真宗辞典)
なお、御開山は十三文例で『観経』の「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(観経 P.93) を釈して、
- 言「汝是凡夫心想羸劣」 則是彰為悪人往生機也。
- 「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。(十三文例 化巻 P.382)
とされておられるが悪人正機という語は使われていない。悪人正機説は『歎異抄』にふれた近代人の観念的な悪の自覚の内容として受容されてきた歴史がある。しかして、その淵源は法然門下の勢観房源智上人が法然聖人の言行をしるした『三心料簡および御法語』の、
- 善人尚以往生況悪人乎事《口伝有之》
- 善人なおもって往生す、いわんや悪人においておやの事。口伝これあり。(善人尚以往生況悪人乎事)
であった。法然聖人は、誤解されやすい教説であるから文字にあらわすことなく真意を理解できる弟子のみに口伝されたのであろう。その口伝を『歎異抄』の著者は文字として残したのである。悪人正機説は、廃悪修善を旨とする聖道門仏教を批判的媒介項とする浄土門の論理であった。聖道門仏教では救われることのない凡夫(悪人)に開示された教説が悪人正機説なのであった。
現代の浄土真宗の僧俗は「どうせ私は凡夫ですから」という語をもって、自らの煩悩熾盛を許容し糊塗する方法とするのだが、ある意味では「慚愧なき真宗は外道に堕する」であった。
法然聖人は悪人正機を説きながら『和語灯録』十二箇条問答で、
- たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに其中によき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすといへども、悪を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて[2]、いましむるがことし。仏の慈悲のあまねき事をききては、つみをつくれとおぼしめすといふおもひをなさば、仏の慈悲にももれぬべし。悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけては、いよいよ仏の知見をばはづへし、かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて悪を行ぜんに、その父母よろこぶべしや、なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。仏も又もてかくのごとし。(十二箇条問答)
とされておられた。悪人正機説は、単に悪人を救済するという意味だけでなく、そこには「回心」という厳しい選択があるのである。
御開山が〔なんまんだぶ〕を称える意味を、
- 称仏六字 即嘆仏即懺悔
- 仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり。
- {─中略─}
- また「「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり」(尊号 P.655)
と、なんまんだぶを称えることには「懺悔」の意味もあるとされたのも、その意であった。もちろん称名〔なんまんだぶ〕は滅罪の懺悔法ではないのだが、真実なるもの(無縁の大悲)に出あった者の讃歎になり懺悔になる「本願招喚の勅命」なのであった。
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