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「信行両座」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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親鸞が法然の門下で学んでいた時に設けたという[[信不退]]、[[行不退]]の2つの座のこと。またその両座についての逸話を記した『御伝鈔』上巻6段([[御伝鈔#P--1048|註 1048]])の通称。[[信不退]]とは阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決定するという立場、[[行不退]]とは念仏の行をはげみ、その[[功徳]]によって浄土往生が決定するとする立場をいう。<br />
 
親鸞が法然の門下で学んでいた時に設けたという[[信不退]]、[[行不退]]の2つの座のこと。またその両座についての逸話を記した『御伝鈔』上巻6段([[御伝鈔#P--1048|註 1048]])の通称。[[信不退]]とは阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決定するという立場、[[行不退]]とは念仏の行をはげみ、その[[功徳]]によって浄土往生が決定するとする立場をいう。<br />
法然の許可を得た親鸞が、同門の人々に[[信不退]]、[[行不退]]いづれかの座に着くよう求めたところ、多くの門弟たちはいずれとも決めかねて戸惑った。親鸞は[[聖覚]]、[[信空]]、[[法力]](熊谷直実)とともに[[信不退]]の座に列し、やがて法然もそれに加わった{{WavyUL|という<ref>という。「という」や「いわれている」や「伝 なにがし」といふような表現は[[EXC:伝聞|伝聞]]であり、書誌学的には二次資料だといふことに留意すること。辞書編纂者の苦労するところでろう。</ref>
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法然の許可を得た親鸞が、同門の人々に[[信不退]]、[[行不退]]いづれかの座に着くよう求めたところ、多くの門弟たちはいずれとも決めかねて戸惑った。親鸞は[[聖覚]]、[[信空]]、[[法力]](熊谷直実)とともに[[信不退]]の座に列し、やがて法然もそれに加わった{{WavyUL|という}}<ref>という。「という」や「いわれている」や「伝 なにがし」といふような表現は[[EXC:伝聞|伝聞]]であり、書誌学的には二次資料だといふことに留意すること。辞書編纂者の苦労するところでろう。</ref>
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 御開山が法然聖人から享(う)けられた'''[[念仏往生]]'''の仏道において、[[[行]]]と「[[信]]」とは本来不離一体であり、「[[行信]]」を分離して法然門下の古参の弟子に対して、行と信のいずれに立つかと発議することなど、考えられない。覚如上人は法然門下の弟子中で御開山の優位性をあらわし、法然聖人の教えは信一念であることを強調するために、この逸話を作られたのであろう。<br />
 
 御開山が法然聖人から享(う)けられた'''[[念仏往生]]'''の仏道において、[[[行]]]と「[[信]]」とは本来不離一体であり、「[[行信]]」を分離して法然門下の古参の弟子に対して、行と信のいずれに立つかと発議することなど、考えられない。覚如上人は法然門下の弟子中で御開山の優位性をあらわし、法然聖人の教えは信一念であることを強調するために、この逸話を作られたのであろう。<br />

2019年12月30日 (月) 03:04時点における版

しんぎょう-りょうざ

しんぎょう-りょうざ

親鸞が法然の門下で学んでいた時に設けたという信不退行不退の2つの座のこと。またその両座についての逸話を記した『御伝鈔』上巻6段(註 1048)の通称。信不退とは阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決定するという立場、行不退とは念仏の行をはげみ、その功徳によって浄土往生が決定するとする立場をいう。
法然の許可を得た親鸞が、同門の人々に信不退行不退いづれかの座に着くよう求めたところ、多くの門弟たちはいずれとも決めかねて戸惑った。親鸞は聖覚信空法力(熊谷直実)とともに信不退の座に列し、やがて法然もそれに加わったという[1] 。(浄土真宗辞典)

 御開山が法然聖人から享(う)けられた念仏往生の仏道において、[]と「」とは本来不離一体であり、「行信」を分離して法然門下の古参の弟子に対して、行と信のいずれに立つかと発議することなど、考えられない。覚如上人は法然門下の弟子中で御開山の優位性をあらわし、法然聖人の教えは信一念であることを強調するために、この逸話を作られたのであろう。
なお『明義進行集』には、空阿弥陀仏(空阿)が、弟子を「一念多念ノ座ヲハ(ワ)ケテ、彼此混合セス」(*) と、当時 水火の如く爭った一念義の者と多念義の者の両座に分けたとある。この両座の逸話が誤伝されたものか。


行信不離
信不退
行不退
一念多念
体失不体失の往生の事
鏡の御影の讃文

  1. という。「という」や「いわれている」や「伝 なにがし」といふような表現は伝聞であり、書誌学的には二次資料だといふことに留意すること。辞書編纂者の苦労するところでろう。