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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

ぎょう

 他力の念仏のこと。(化巻 P.388)

【左訓】「おこなふとまうすなり」(唯文 P.700)


ぎょう

Ⅰ 梵語チャリャー(caryā)またはプラティパッティ(puratipatti)の漢訳。遮唎耶(しゃりや)・遮利夜などと音写する。行為・動作・実践の意。さとりに至るための修行、行法(ぎょうぼう)を指す。浄土真宗では、浄土往生の行は信と同じく阿弥陀仏より衆生にふり向けられ、与えられたものとして、大行といわれる。

Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意味。身口意(からだ・言葉・心)のはたらきという場合もある。

Ⅲ 四威儀の一。歩くこと。→四威儀(しいぎ)。

Ⅳ ここでは歩く姿の意。 (要集 P.1061)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

行(ぎょう)

Ⅰ 梵語チャリャー(caryā)またはプラティパッティ(puratipatti)の意訳。遮唎耶(しゃりや)・遮利夜などと音写する。行為・動作・実践の意で、さとり・涅槃に至るための行業を意味する。善導・法然は、称名念仏が阿弥陀仏の本願に順じる正定業であるから衆生を往生せしめる行であるとした。
これをうけた親鸞は、その称名念仏が本願力回向の行であることを示し、称えられている名号に衆生を往生成仏せしめる功徳がそなわっているとした。→大行、→三法、→四法
Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意。三宝印の一である「諸行無常」の行の場合は一切の有為法、十二因縁の第二支とする場合は、無明を縁として生じた誤った行いと、その果報をいう。
Ⅲ 梵語ガマナ(gamana)の意訳。歩み行くこと。四威儀の一。→四威儀 (浄土真宗辞典)
  • 浄土真宗は、本願力回向の宗義であるから衆生にはさとりに至る能力を全く認めない。ゆえに行は阿弥陀仏から回向される念仏成仏の法であるとし大行という。

ぎょう-しん 行信

 真宗の用語。一般仏教では心行というのにあたる。普通には、「」とはさとりに至るための実践、「」とは信心を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。
即ち、行をさとりにおもむかせるものという意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の具体的な現れとしての名号のことを「」、その名号のはたらきによって起こされた信心のことを「」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「行」という。
この行・信はいずれも如来のはたらきであるから大行大信といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。 (仏教学辞典)

大行大信とは、「行巻」に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行巻 P.141)

と述べられている。阿弥陀如来から回向される行と信であるから、大行大信というのである。
行信とは『無量寿経』の、第十七願で誓われた「行」と第十八願で誓われた「信」をいう。「行巻」には、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。( 行巻 P.202)

とある。この行と信が阿弥陀如来より回向されることを、「信巻」に、

 しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 (信巻 P.229)

と述べられている。行信とは『歎異鈔』に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄 P.839)といわれているように、実に単純明快なのであるが、この行信を学問的に考究することを「行信論」といい、本派の教学は行信論が「行信半学」というぐらい大きな位置を占めている。
法然聖人は、第十八願と第十七願の関係を『三部経大意』で、

つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。
その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。(三部経大意P.784)

とされておられた。御開山はこの意を承けられて、第十八願の「乃至十念」を第十七願の「咨嗟称我名(咨嗟し我が名を称せよ)」の、諸仏の教位においてみておられたのである。
以下に、第十七願と第十八願を挙げておく。

《行》第十七願(諸仏称名の願)

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

《信》第十八願(至心信楽の願)

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
大行
大信
選択本願
第十七願
第十八願

正定業