「怖畏」の版間の差分
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2020年7月15日 (水) 00:24時点における版
ふい
おそれること。(真巻 P.343)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
畏怖心 の去らぬ者
怖も畏もおそれるという意。→怖、→畏
凡夫の定義の一つに「畏怖心の去らぬ者」とある。凡夫とはびくびくおどおどしながら暮らしている者を凡夫と名づけるのである。このような漠然とした畏怖である不安を抱いている状態を、実叉難陀訳の『大方広仏華厳経 』(八十華厳) では、五怖畏(ご-ふ-い)として挙げる。「始得入初地 即超五怖畏 不活死惡名 惡趣衆威徳(始めに初地に入れることを得れば、すなわち不活・死・悪名・悪趣・衆威徳の五怖畏を超すなり)」(*)の五である。
仏法の真理をさとらない凡夫は、
不活畏 (活命畏。このままで生きていけるだろうか、という生活上の不安におののく畏れ)。死畏 (命終畏。仏教では死苦といい、自己の死に対する根源的な畏れ)。悪名畏 (悪名畏。誰かに悪口を言われていないか、自己の名誉(プライド)が損なわれるのではないかという不安の畏れ)。悪趣畏 (悪道畏。地獄などの悪趣に堕ちるのではないかという不安の畏れ)。衆威徳畏 (怯衆畏。自信がなくて大衆の前に出るのを畏れること)。
の、五怖畏の状態にある。
浄土真宗では、このような五怖畏を法蔵菩薩の発願でもある「讃仏偈」では
と、四十八願に先立って誓願されておられる。この願が成就したことを十方無量の諸仏が証誠し、なんまんだぶと称え聞くことを勧めるのである。たとえ自己が妄想しこしらえた畏怖心は消えなくても、その本体はすでに大願業力によって無化されているのであった。なんまんだぶを称えることは、不安の中にありながら、その不安に本願を感じ安心できる境地がめぐまれるのである。この道の先達は「みだの本願、南無阿弥陀仏ができてから、われが案ずることはない」[1]といわれていた。
御開山は、「行巻」でこの意を元照律師の『弥陀経義』から引文しておられる。
- 「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」(行巻 P.180)
それはまた、法然聖人の仰せであった、
- たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。(西方指南抄p.191)
の、「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」という法語を承けられ元照律師の文に拠って確認されたものであった。
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- あさましや さいちこころは あさましや
- 妄念が いちどに出るぞ にがにがしい
- 悪のまぜりた 火がもゑる
- 悪のまぜりた 波がたつ あさましや
- 愚痴のまぜりた 火がもゑる
- 邪慳もの あさましや
- とどめられんか さいちがこころ
- くよくよと起こる心を たする(たずねて)みれば
- 天にのり(乗り)こす さいちのこころ
- ここに知識の 御化導あり
- 「これさいち ここがそなたの 聞き場ぞよ。」
- 「ありがとうござります。」
- 「みだの本願 なむあみだぶが できてから、
- われが案ずることは ない。
- きけよ きけよ なむあみだぶを
- ききぬれば われが 往生これにある
- なむあみだぶつわ われがもの。」(浅原 才市)『妙好人』鈴木大拙 p.109