「名の字…」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
13行目: | 13行目: | ||
「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。([[唯文#P--700|唯文 P.700]]) | 「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。([[唯文#P--700|唯文 P.700]]) | ||
}} | }} | ||
− | + | とあるように名と号を分けて考察されている。<br> | |
− | + | これは後述する『[[wdm:たんげんき|華厳経探玄記]]』に「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」とあり、名は「呼召」<ref>まねきよぶこと。呼び寄せること。</ref>の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である、などの意に拠られたのであろう。<br> | |
− | + | 『無量寿経』には、[[法蔵菩薩]]修行の[[因位]]の段では名の字が用いられるが、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは名号の字がもちられている。[[本願]]が成就して、阿弥陀仏となられた[[果位]]においては[[名号]]となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。<br /> | |
− | + | その[[因位]]と[[果位]]の違いを、 | |
:「名」の字は、[[因位]]のときのなを名といふ。「号」の字は、[[果位]]のときのなを号といふ。 | :「名」の字は、[[因位]]のときのなを名といふ。「号」の字は、[[果位]]のときのなを号といふ。 | ||
や、 | や、 |
2020年6月23日 (火) 15:43時点における版
みょう の じ…
『唯信鈔文意』700頁1行以下参照。 (正像 P.621)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「自然法爾章」に、
とあり、『唯信鈔文意』には
「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。(唯文 P.700)
とあるように名と号を分けて考察されている。
これは後述する『華厳経探玄記』に「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」とあり、名は「呼召」[1]の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である、などの意に拠られたのであろう。
『無量寿経』には、法蔵菩薩修行の因位の段では名の字が用いられるが、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは名号の字がもちられている。本願が成就して、阿弥陀仏となられた果位においては名号となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。
その因位と果位の違いを、
や、
- 「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。
と、されたのであった。
「本願成就文」には「その名号を聞きて、信心歓喜せん」とある。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。(大経 P.41)
於中 名謂釈迦等別名。号謂十号諸仏通名。
- 中において、名は謂はく、釈迦等の別名、号は謂はく、十号、諸仏の通名なり。
又召体為名。標徳為号。
- また、体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す。
又亦名号無別。如文内説。
- また、名と号と別無し、文の内に説くが如し。(『華厳経探玄記』巻第四)
- ↑ まねきよぶこと。呼び寄せること。