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| かれは別して善導一人の徳をほむるにてこそあれ、これは通じて一切衆生の往生を决するにてあれば、たくらふべくもなき事也。所詮はたゞわれらがごときの凡夫、をのをの分につけて、強弱真実の心をおこすを、至誠心となづけたるとこそ、善導の釈の意は見えたれ。 | | かれは別して善導一人の徳をほむるにてこそあれ、これは通じて一切衆生の往生を决するにてあれば、たくらふべくもなき事也。所詮はたゞわれらがごときの凡夫、をのをの分につけて、強弱真実の心をおこすを、至誠心となづけたるとこそ、善導の釈の意は見えたれ。 |
| 文につきてこまかに心うれば、「ほかには賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいだくことなかれ」といふは内にはをろか(愚)にして、ほかにはかしこき相を現じ、うちには悪をのみつくりて、ほかには善人の相を現じ、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現ずるを、虚仮とは申す也。<br /> | | 文につきてこまかに心うれば、「ほかには賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいだくことなかれ」といふは内にはをろか(愚)にして、ほかにはかしこき相を現じ、うちには悪をのみつくりて、ほかには善人の相を現じ、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現ずるを、虚仮とは申す也。<br /> |
− | 外相の善悪をばかへり見ず、世間の謗誉をばわきまへず、内心に穢土をもいとひ、浄土をもねがひ、悪をもとゞめ、<span id="P--425"></span> | + | 外相の善悪をばかへり見ず、世間の謗誉をばわきまへず、内心に穢土をもいとひ、浄土をもねがひ、悪をもとゞめ、<span id="P--425"></span>善をも修して、まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申也。<br /> |
| + | {{DotUL|真実は虚仮に対することば也。真と仮と対し、虚と実と対するゆへなり。}}この真実虚仮につきてくはしく分別するに、[[四句]]の差別あるべし。<br /> |
| + | 一には、ほかをかざりて、うちにはむなしき人。二には、ほかをもかざらずうちもむなしき人。三には、ほかはむなしく見えて、内は ま事ある人。四には、ほかにもまことをあらはし、うちにもまことある人。かくのごときの四人の中には、さきの二人をば、ともに虚仮の行者といふべし。<br /> |
| + | のちの二人をば、ともに真実の行者といふべし。しかれば、たゞ外相の賢愚・善悪をばゑえらばず、内心の邪正・迷悟によるべき也。およそこの真実の心は、人ごとに具しがたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。おろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。無始よりこのかた、今身にいたるまで、おもひならはして さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩悩なれば、たたんとするにやすらかに はなれ(離)がたきなりけりと、おもひゆるさるゝかたもあれども、又ゆるしはんべるべき事ならねば、わが心をかへりみて、いましめ なをすべき事なり。しかるにわが心の程もおもひしられ、人のうゑをも見るに、この人め かざる心ばへは、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返々 心うくか<span id="P--426"></span>なしくおぼゆれ。<br /> |
| + | この世ばかりをふかく執する人は、たゞまなこのまへのほめられ、むなしき名をもあげんとおもはんをば、いふにたらぬ事にておきつ<ref>おきつ。取り計らう、計画すること。いふに足らない計(はから)いであること。</ref>。 |
| + | うき世をそむきて、まことのみちにおもむきたる人々のなかにも、返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。<br /> |
| + | むかしこの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事におもひて、やがてそれを、この世さまにも心のいろのうるせき<ref>うるせき。すぐれている。巧みである。</ref>にとりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、うゑにあらはるゝすがた事がらばかりを、たとがりいみじかるをのみ本意におもひて、ふかき山ぢ(路)をたづね、かすか(幽)なるすみかをしむるまでも、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、おのづからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人の、おもはん事をのみさきだて〔ゝ、〕まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道塲の荘厳など、たとくめでたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほどに、罪の事も、ほとけのおぼしめさん事をもかへりみず、人のそしりにならぬ様をのみ おもひ いとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事なんどのあるが、やがて至誠心かけて往生せぬ心<span id="P--427"></span>ばへにてある也。<br /> |
| + | 又世をそむきたる人こそ、中々ひじり名聞もありて さやうにもあれ、世にありながら往生をねがはん人は、この心は何ゆへにかあるべきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわた〔る〕事なれば、ゆめまぼろしの栄花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。<br /> |
| + | 中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、それにつけてほかをかざりて、人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。まして世をすてたる人なんどにむかひては、さなからん心をも、あはれをしり ほかにあひしらはんために、後世のおそろしさ、この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。 |
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| + | 又か様に申せば、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみず、ほかをかざらねばとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなき也。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそ、いましめられたれ。こればはう<ref>はう。生う。生じること。生じたまままに。</ref>にまかせてふるまへば、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、いさゝか人めをつゝむかたは、わざともさこそあるべき事を、人目をのみ執してま事のかたをもかへり見ず、往<span id="P--428"></span>生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返々もくちおしき也。<br /> |
| + | 譏嫌戒となづけて、やがて虚仮になる事もありぬべし。真実といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく心えとくべし。{{DotUL|詞(ことば)なをたらぬ心ちする也。}}<br /> |
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| + | 又この真実につきて、自利の真実、利他の真実あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてゝ、かろしめいやし〔めんに〕も、阿弥陀仏〔の〕依正二報を、礼拝・讃嘆・憶念せんにも、およそ厭離穢土・欣求浄土の三業にわたりて、みな真実なるべきむね、『疏』の文につぶさ也。その文しげくして、ことごとくいだすにあたはず、至誠心のありさま略してかくのごとし。 |
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− | 善をも修して、まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申也。<br />
| + | 二に深心といは、まづ『礼讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり。善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知して、いま弥陀の本弘誓願の名号を穪する事 しも十声・一声にいたるまで、さだめて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。かるがゆへに深心となづく」〔とい〕へり。<br /> |
− | {{DotUL|真実は虚仮に対することば也。真と仮と対し、虚と実と対するゆへなり。}}この真実虚仮につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。<br />
| + | |
− | 一にはほかをかざりてうちにはむなしき人。二には外をもかざらずうちもむなしき人。三にはほかはむなしく見えて内は ま事ある人。四にはほかにもまことをあらはしうちにもまことある人。かくのごときの四人の中には、前の二人をばともに虚仮の行者といふべし。<br />
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− | 後の二人をばともに真実の行者といふべし。しかればただ外相の賢愚・善悪をばゑえらばず、内心の邪正・迷悟によるべき也。およそこの真実の心は、人ごとに具しがたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。おろかにはかなしといましめられたるやうもある、ことはり也。無始よりこのかた今<span id="P--574"></span>身にいたるまで、おもひならはして、さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩悩なれば、たたんとするにやすらかにはなれ(離)がたきなりけりと、おもひゆるさるるかたもあれども、又ゆるしはんべるべき事ならねば、わが心をかへりみて、いましめなをすべき事なり。しかるにわが心の程もおもひしられ、人のうゑをも見るに、この人目をかざる心ばへは、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返々す心うくかなしくおぼゆれ。<br />
| + | |
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− | この世ばかりをふかく執する人は、ただまなこのまへのほめられ、むなしき名をもあげんとおもはんをば、いふにたらぬ事にておきつ。うき世をそむきて、まことのみちにおもむきたる人々の中にも、返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。<br />
| + | つぎに『観経の疏』{散善義意}の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定してふかく、自身は現に是罪悪生死の凡夫也、曠劫より此かた常没流転<span id="P--429"></span>して、出離の縁ある事なしと信ぜよ。<br /> |
− | むかしこの世を執する心のふかかりしなごりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事におもひて、やがてそれを、この世さまにも心のいろのうるせき<ref>うるせき。◇すぐれている。巧みである。</ref>にとりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、うゑにあらはるるすがた事がらばかりを、たとがりいみじかるをのみ本意におもひて、ふかき山ぢ(路)をたづね、かすか(幽)なるすみかをしむるまでも、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、おのづからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人のおもはん事をのみさきだてて、まがきのうち庭のこだち、菴室のし<span id="P--575"></span>つらひ、道塲の荘厳など、たとくめでたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほどに、罪の事も、ほとけのおぼしめさん事をもかへりみず、人のそしりにならぬ様をのみおもひいとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事などのあるが、やがて至誠心かけて、往生せぬ心ばへにてある也。<br />
| + | 二には决定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて、衆生を摂受し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなく、かの願力に乗じて、さだめて往生する事をうと信じ、又决定してふかく釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を証讃して、人をして[[欣慕]]せしめ給ふ事を信じ、又决定してふかく、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏の、一切の凡夫决定してむまるゝ事をうと証勧し給へり。ねがはくは一切の行者、一心にたゞ仏語を信じて身命をかへりみず、决定してより行じて、ほとけの捨しめ給はん事をばすなはちすて、ほとけの行ぜしめ給はん事をばすなはち行じ、ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。これを仏教に随順し、仏意に随順すとなづく、これを真の仏弟子となづく。<br> |
− | 又世をそむきたる人こそ、中々ひじり名聞もありてさやうにもあれ、世にありながら往生をねがはん人は、この心は何ゆへにかあるべきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわたる事なれば、ゆめまぼろしの栄花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。<br />
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− | 中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、それにつけて、ほかをかざりて人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。まして世をすてたる人などにむかひては、さなからん心をも、あはれをしり ほかにあひしらはんために、後世のおそろしさ、この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。
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− | 又か様に申せば、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみず、ほかをかざらねばとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなき也。<span id="P--576"></span>菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそいましめられたれ。さればはう<ref>はう。生う。生じること。生じたまままに。</ref>にまかせてふるまへば、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、いささか人めをつつむかたは、わざともさこそあるべき事を、人目をのみ執してま事のかたをもかへり見ず、往生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返々もくちおしき也。<br />
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− | 譏嫌戒となづけて、やがて虚仮になる事もありぬべし。真実といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく心えとくべし。{{DotUL|詞(ことば)なをたらぬ心ちする也。}}<br />
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− | 又この真実につきて、自利の真実、利他の真実あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてて、かろしめいやしめんにも、阿弥陀仏の依正二報を、礼拝・讃嘆・憶念せんにも、およそ厭離穢土・欣求浄土の三業にわたりて、みな真実なるべきむね、疏の文につぶさ也。その文しげくして、ことごとくいだすことあたはず、至誠心のありさま略してかくのごとし。
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− | 二に深心といは、まづ『礼讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち真実の信心なり。自身は是煩悩を具足せる凡夫なり。善根薄少にして、三界に流転して、火宅をいでずと信知して、いま弥陀の本弘誓願の名号を穪する事、しも十声・一声にいたるまで、さだめて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。かるかゆへ<span id="P--577"></span>に深心となづく」といへり。<br />
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− | つぎに『観経の疏』{散善義}の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定して、ふかく自身は現に是罪悪生死の凡夫也、曠劫より此かた常没流転して、出離の縁ある事なしと信ぜよ。<br />
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− | 二には决定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて、衆生を摂受し給ふ事、うたがひなくおもんはかりなく、かの願力に乗じて、さだめて往生する事をうと信じ、又决定してふかく釈迦仏、この観経の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信じ、又决定してふかく弥陀経の中に、十方恒沙の諸仏の、一切の凡夫决定してむまるる事をうと証勧し給へり。ねがはくは一切の行者、一心にただ仏語を信じて身命をかへりみず、决定してより行じて、仏の捨しめ給はん事をはすなはちすて、ほとけの行ぜしめ給はん事をはすなはち行じ、ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。これを仏教に随順し、仏意に随順すとなづく、これを真の仏弟子となづく。<br>
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| 又深心を深信といは、决定して自心を建立して、教に順じて修行して、ながく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行、異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざれ」といへり。 | | 又深心を深信といは、决定して自心を建立して、教に順じて修行して、ながく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行、異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざれ」といへり。 |
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− | わたくしに此二つの釈を見るに、文に広略あり、言(こと)ばに同異ありといへども、まづ二種<span id="P--578"></span>の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はじめにわが身は煩悩罪悪の凡夫也、火宅をいです、出離の縁なしと信ぜよといひ、つぎには决定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、人にもいひさまたげらるべからずなんどいへる、前後のことば相違して、心えがたきにに(似)たれども、心をとどめてこれを案ずるに、はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。<br />
| + | わたくしにこの二つの釈を見るに、文に広略あり、言(こと)ばに同異ありといへども、まづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はじめに「わが身〔は〕煩悩罪悪の凡夫なり、火宅をいでず、出離の縁な<span id="P--430"></span>しと信ぜよといひ、つぎには「决定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、人にもいひさまたげらるべからず」なんどいへる、 |
− | ただしのちの信心を决定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也<ref>ここで「のちの信心~はじめの信心」とは疏文の一者決定、二者決定を指しているのであって、機の深信が法の深信の条件と言われているのではない。このことは直前で「はじめにはわが身のほど」とし「つぎには决定往生すべき身」とされていることからも判る。あくまで機・法の二種深信は一具である。このはじめを一とし、のちを二とし、数が一から二へそして三へと至るように「はじめにはわが身のほど」の機の深信から順次展開するプロセスが信心のであると誤解する者がいた。『愚禿鈔』釈下の《第一の深信は、「決定して自身を深信する》と、すなはちこれ自利の信心なり。」の文は機の深信単独では「自利の信心」(自力)ではあるが、その自力の機が阿弥陀仏の「利他の信海」である法の深信に包摂されるのである。</ref>。そのゆへは、もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして、ただちに後のほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、もろもろの往生をねがはん人、雑行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。<br />
| + | 前後のことば相違して心えがたきにに(似)たれども、心をとどめてこれを案ずるに、はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。<br /> |
− | まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば、みだりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことに此弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。<br />
| + | たゞしのちの信心を决定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也<ref>ここで「のちの信心~はじめの信心」とは疏文の一者決定、二者決定を指しているのであって、機の深信が法の深信の条件と言われているのではない。このことは直前で「はじめにはわが身のほど」とし「つぎには决定往生すべき身」とされていることからも判る。あくまで機・法の二種深信は一具である。このはじめを一とし、のちを二とし、数が一から二へそして三へと至るように「はじめにはわが身のほど」の機の深信から順次展開するプロセスが信心のであると誤解する者がいた。『愚禿鈔』釈下の《第一の深信は、「決定して自身を深信する》と、すなはちこれ自利の信心なり。」の文は機の深信単独では「自利の信心」(自力)ではあるが、その自力の機が阿弥陀仏の「利他の信海」である法の深信に包摂されるのである。</ref>。そのゆへは、もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして、ただちに後のほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、もろもろの往生をねがはん人、雑行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。<br /> |
− | これは善<span id="P--579"></span>導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。<br />
| + | まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば、みだりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことにこの弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。<br /> |
| + | これは善導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげ<span id="P--431"></span>て、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。<br /> |
| かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釈の、ことに心にそみておぼえはんべる也。<br /> | | かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釈の、ことに心にそみておぼえはんべる也。<br /> |
− | さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍るなり。さやうに申したちなば、いかほどまでかほとけの本願にかなはず、さほどの心こそ本願にはかなひたれとはしり侍るべき。それをわきまへざらんにとりては、煩悩を断ぜさらんほどは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ、又煩悩を断じてぞ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。すでに弥陀の本願力といふとも、煩悩罪悪の凡夫をば、いかでかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。仏の御ちからをばいかほどとしるぞ。それにすぎてほとけの願をうたがふ事はいかがあるべき。<br />
| + | さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍る也。さやうに申したちなば、いかほどまでかほとけの本願にかなはず、さほどの心こそ本願にはかなひたれとは しり侍るべき。それをわきまへざらんにとりては、煩悩を断ぜさらんほどは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ、又煩悩を断じてぞ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。すでに弥陀の本願力といふとも、煩悩罪悪の凡夫をば、いかでかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。ほとけの御ちからをばいかほどとしるぞ。それにすぎて、ほとけの願をうたがふ事はいかがあるべき、又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべき事にてこそあれ。すべてわが心の善<span id="P--432"></span>悪をはからひて、ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、仏智ならではかなふまじき事也。されば善導は『観経の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釈するに、「一切善悪の凡夫むまるることをうる事は、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし」といひおきて、「ほとけの密意弘深にして教門さとりがたし、三賢・十聖もはかりてうかがふところにあらず、いはんや、われ信外の軽毛なり、あへて旨趣をしらんや」とこそは釈し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかでかほとけの御心をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらがさとりにて ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるまじき事也。 |
− | 又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべ<span id="P--580"></span>き事にてこそあれ。すべてわが心の善悪をはからひて、ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、仏智ならではかなふまじき事也。されば善導は『観経の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釈するに、「一切善悪の凡夫むまるることをうる事は、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし」といひおきて、「ほとけの密意弘深にして教門さとりがたし、三賢・十聖もはかりてうかがふところにあらず、いはんや、われ信外の軽毛なり、あへて旨趣をしらんや」とこそは釈し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかでかほとけの御心をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらがさとりにて、ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるまじき事也。
| + | |
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| '''ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。''' かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。<br /> | | '''ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。''' かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。<br /> |
| 所詮は深信といは、かのほとけの本願は、いかなる罪人をもすてず、ただ名号をとなふる事一声までに、决定して往生すと ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。<br /> | | 所詮は深信といは、かのほとけの本願は、いかなる罪人をもすてず、ただ名号をとなふる事一声までに、决定して往生すと ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。<br /> |
− | 『観経』の下品下生を見るに、十悪・五逆の罪人も、一念・十念に往<span id="P--581"></span>生すととかれたり。「十悪・五逆等 貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曽慚愧悔前」<ref>十悪・五逆等の貪瞋と、四重と偸僧と謗正法と、いまだかつて慚愧して前の(とが)を悔いず。</ref>{礼讃}といへるは、在生の時の悪業をあかす。「忽遇往生善知識 急勧専称彼仏名 化仏菩薩尋声到 一念傾心入寳蓮」<ref>たちまちに往生の善知識の、急に勧めてもつぱらかの仏の名を称せしむるに遇ふ。化仏・菩薩声を尋ねて到りたまふ。一念心を傾くれば宝蓮に入る。</ref>{礼讃}といへるは、臨終の時の行相をあかす也。<br>
| + | 『観経』の下品下生を見るに、「十悪・五逆の<span id="P--432"></span>罪人も、一念・十念に往生す」ととかれたり。「十悪・五逆等 貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曽慚愧悔前 |
− | 又『双巻経』のおく{巻下意}に、「三宝滅尽ののちの衆生、乃至一念に往生す」ととかれたり。善導釈していはく、「万年三宝滅、此経住百年、爾時聞一念、皆当得生彼」{礼讃}<ref>万年にして三宝滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし。</ref>といへり。<br />
| + | |
− | この二つの心をもて、弥陀の本願のひろく摂し、とをくおよぶほどをばしるべき也。おもき(重)をあげてかろき(軽)をおさめ、悪人をあげて善人をおさめ、とをき(遠)をあげてちかき(近)をおさめ、のち(後)をあげてさき(前)をおさむるなるべし。ま事に大悲誓願の深広なる事、たやすく詞をもてのぶべからず、心をとどめておもふべき也。そもそもこのごろ末法にいれりといへども、いまだ百年にみたず、われら罪業おもしといへども、いまだ五逆をつくらず、しかればはるかに百年法滅ののちをすくひ給へり、いはんやこのごろをや。ひろく五逆極重のつみをすて給はず、いはんや十悪のわれらをや。ただ三心を具して、もはら名号を称すべし。たとひ一念といふともみだりに本願をうたがふ事なかれ。<br />
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− | ただしかやうのことはりを申つればつみをもすて給はねば、心にまかせてつみをつくらんもくるしかるまじ、又一念にも一定往生すなれば、念仏はおほく申さずともありなんと、あしく<span id="P--582"></span>心うる人のいできて、つみをばゆるし、念仏をば制するやうに申しなすが返返もあさましく候也。悪をすすめ善をとどむる仏法はいかがあるべき。されば善導は、「貪瞋煩悩をきたしまじへざれ」{礼讃}といましめ、又「念念相続していのちのおはらんを期とせよ」{礼讃}とおしへ、又「日所作は五万・六万乃至十万」{観念法門意}などとこそすすめ給ひたれ。<br />
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− | ただこれは大悲本願の一切を摂する、なを十悪・五逆をももらさず、称名念仏の余行にすぐれたる、すでに一念・十念にあらはれたるむねを信ぜよと申すにてこそあれ。かやうの事はあしく心うれば、いづかたもひが事になる也。{{DotUL|つよく信ずるかたをすすむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術(すべ)なき事にて侍る也。}}かやうの分別は、このついでに事ながければ起行の下にてこまかに申ひらくべし。
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− | 又ひくところの『疏』の文を見るに、後の信心につゐて二つの心あり。すなはち仏につゐてふかく信じ、経についてふかく信ずべきむねを釈し給へるにやと心えらるる也。まづほとけについて信ずといは、一には弥陀の本願を信じ、二には釈迦の所説を信じ、三には十方恒沙の護勧を信ずべき也。経について信ずといは、一には『無量寿経』を信じ、二には『観経』を信じ、三には『阿弥陀経』を信ずるなり。すなはちはじ<span id="P--583"></span>めに「决定してふかく阿弥陀仏の四十八願」といへる文は、弥陀を信じ、又『無量寿経』を信ずる也。つぎに「又决定してふかく釈迦仏の観経」といへる文は、釈迦を信じ、『観経』を信ずるなり。つぎに「决定してふかく弥陀経の中」といへる文は、十方諸仏を信じ、又『阿弥陀経』を信ずる也。又つぎの文に、「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」といふは、雑修・雑行なり。「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜよ」と、いふは、専修正行也。「ほとけのさら(去)しめたまはん事をばされ」といふは、異学・異解・雑縁乱動のところ也。<br/>
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− | 善導の、「身づからもさへ他の往生の正行をもさふ」{礼讃}と釈し給へる事、まことにおそるべき物也。<br>
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− | 「仏教に随順す」といは、釈迦の御をしへにしたがひ、「仏願に随順す」といは、弥陀の願にしたがふ也。「仏意に随順」すといは、二尊の御心にかなふなり。いまの文の心はさきの文に、「三部経を信ずべし」といへるにたがはず、詮じてはただ雑修をすてて、専修を行ずるが、ほとけの御心にかなふとこそはきこえたれ。<br />
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− | 又つぎの文に、「別解・別行のためにやぶられざれ」といふは、さとりこと(異)に行ことならん人の難じやぶらんについて、念仏をもすて往生をもうたがふ事なかれと申す也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の諸宗の学生これなり。行ことなる人と申すは、真言・止観等の一切の行者、これなり。これらはみな聖道門の解行也。浄土門の解行にことな<span id="P--584"></span>るがゆへに、別解・別行とはなづけたり。かくのごときの人に、いひやぶらるまじきことはりは、この文のつぎにこまかに釈し給へり。<br />
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− | すなはち人につきて信をたて、行につきて信をたつといふ二の信をあげたり。はじめの 人につきて信をたつといへる、これなり。その文広博にしてつぶさにい(出)だすにあたはず。(しかれども)その義至要にしてさらにすてがたきによりて、ことばを略し心をとりて、そのをもむきをあかさば、文の心「解行不同の人ありて、経論の証拠をひきて、一切の凡夫往生することをえずといはば、すなはちこたえていへ。なんぢかひくところの経論を信ぜざるにはあらず、みなことごとくあふひで信ずといへども、さらになんぢが破をはうけず。<br>
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− | そのゆへは、なんぢかひくところの経論と、わが信ずるところの経論と、すでに各別の法門なり。ほとけこの『観経』・『弥陀経』等をとき給ふ事、時も別にところも別に、対機も別に利益も別なり。ほとけの説教は、機にしたがひ、時にしたがひて不同なり。かれには通じて人・天・菩薩の解行をとく、これは別して往生浄土の解行をとく。すなはち仏の滅後の、五濁極増の一切の凡夫、决定して往生する事をうととき給へり。われいま一心にこの仏教によりて、决定して奉行す。たとひなんぢ百千万億むまれずといふとも、ただわが往生の信心を増長し成就せんとこたへよ」といへり。
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− | 「又行者さらに難破の人に<span id="P--585"></span>むかひてときていへ。なんぢよくきけ、われいまなんぢがために、さらに决定の信相をとかん」といひて、はじめは地前菩薩・羅漢・辟支仏等より、おはり化仏・報仏までたてあげて、「たとひ化仏・報仏、十方にみちみちて、おのおのひかりをかがやかし、したをいだして、十方におほひて、一切の凡夫念仏して一定往生すといふ事は、ひが事なり信ずべからずとの給はんに、われこれらの諸仏の所説をきくとも、一念も疑退の心をおこして、かの国にむまるる事をえざらん事をおそれじ。なにをもてのゆへにとならば、一仏は一切仏也、大悲等同にしてすこしきの差別なし。同体の大悲のゆへに、一仏の所説はすなはちこれ一切仏の化なり。<br>
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− | ここをもてまづ弥陀如来、称我名号下至十声若不生者不取正覚<ref>わが名号を称すること下は十声に至るまで若し不生まれずば正覚を取らじ。『礼讃』の文。</ref>と願じて、その願成就してすでに仏になり給へり。又釈迦如来は、この五濁悪世にして、悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信さかりなる時、弥陀の名号をほめ、衆生を勧励して称念すればかならず往生する事をうととき給へり。<br>
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− | 又十方の諸仏は、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらん事をおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界におほひて、誠実のことばをとき給ふ。なんだち衆生、みな釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫罪福の多少、時節の久近をとはず、ただよく上は百年をつくし、下は一日・七日・十声・一声に<span id="P--586"></span>いたるまで、心をひとつにしてもはら弥陀の名号を念ずれは、さだめて往生する事をうといふ事を信ずべし。かならずうたがふことなかれと証誠し給へり。かるがゆへに人につゐて信をたつ」といへり。かくのごときの、一切諸仏の、一仏ものこらず同心に、あるひは願をおこし、あるひはその願をとき、あるひはその説を証して、一切の凡夫念仏して决定往生すべきむねをすすめ給へるうゑには、いかなるほとけの又きたりて、往生すべからずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、ほとけきたりての給ふとも、おどろくべからずとは信ずる也。<br />
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− | ほとけなをしかり、いはんや地前・地上の菩薩をや、いはんや小乗の羅漢をやと心えつれば、まして凡夫のとかく申さんによりて、一念もうたがひおどろく心あるべからずとは申すなり。
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− | {{DotUL|おほかた此信心の様を、人のこころえわかぬとおぼゆる也。心の ぞみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ信のおこると申すはひが事にてある也。それは歓喜・随喜・悲喜とぞ申べき。'''信といは、うたがひに対する心にて、うたがひをのぞくを信とは申すべき也'''。みる事につけても、きく事につけても、その事一定さぞとおもひとりつる事は、人いかに申せども、不定におもひなす事はなきぞかし。これをこそ物を信ずるとは申せ。その信のうへに歓喜・随喜などもおこらんは、すぐれたるにてこそあるべけれ。}}<br />
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− | たとへ<span id="P--587"></span>ばとしごろ心のほどをも見とりて、そら事せぬたしかならん人ぞとたのみたらん人の、さまざまにおそろしき<ref>おそろしき。 ◇ここでは立派な、大変なという意味。</ref>誓言をたて、なをさりならずねんごろにちぎりをきたる事のあらんを、ふかくたのみてわすれずたもちて、心のそこにふかくたくはへたらんに、いと心の程もしらざらん人の、それなたのみそ、そら事をするぞとさまざまにいひさまたげんにつきて、すこしもかはる心はあるまじきぞかし。<ref>『浄土宗全書』では「あまるしきぞかし」と、ある。</ref><br />
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− | それがやうに、弥陀の本願をもふかく信じて、いひやぶらるべからず、いはんや一代の教主も付嘱し給へるをや、いはんや十方の諸仏も証誠し給へるをやと心うべきにや。まことにことはりをききひらかざらんほどこそあらめ。<br />
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− | ひとたびもこれをききて信をおこしてんのちは、いかなる人とかくいふとも、なじかはみだるる心あるべきとこそはおぼえ候へ。
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− | つぎに行について信をたつといふは、即ち行に二つあり。一には正行、二には雑行なりといへり。この二行について、あるひは行相、あるひは得失、文ひろく義おほしといへども、しばらく略を存す。つぶさには下の起行の中にあかすべし。深心の大要をとるにこれにあり。
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− | :この文に下巻あるべしとみゆるが、いづくにかくれて侍るにか、いまだたづねえず、もしたづねうる人あらばこれにつけ。
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− | <span id="P--588"></span>
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− | <span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黒谷上人語灯録巻第十一</span>
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− | ===黒谷上人語灯録第十二===
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− | <span id="P--589"></span>
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− | <span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黒谷上人語灯録巻第十二</span>
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− | 厭欣沙門{了恵}集録
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− | 和語第二之二{当巻有五章}
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− | 念仏往生要義抄 第四<br />
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− | 三心義 第五<br />
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− | 七箇条起請文 第六<br />
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− | 念仏大意 第七<br />
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− | 浄土宗略抄 第八<br />
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− | ====念仏往生要義抄====
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− | {{Kaisetu|この法語は念仏の教えに関する様々な疑問を問答形式で明らかにする。阿弥陀如来の光明に摂取されるのは、臨終の時ではなく平生の時であり、平生の時から臨終の時まで光明が照らすことが明らかにされている。}}
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− | ;念仏往生要義抄
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− | それ念仏往生は、十悪五逆をえらばず、迎接するに十声一声をもてす、聖道諸宗の成仏は、上根上智をもととするゆへに、声聞・菩薩を機とす。しかるに世すでに末法にな<span id="P--590"></span>り、人みな悪人なり。はやく修しがたき教を学せんよりは、行じやすき弥陀の名号をとなへて、このたび生死の家をいづべき也。ただしいづれの経論も、釈尊のときをき給へる経教なり。<br />
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− | しかれば法華・涅槃等の大乗経を修行して、ほとけになるになにのかたき事かあらん。それにとりてことに『法華経』は三世の諸仏もこの経によりてほとけになり。十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。しかるに『法華経』などをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かやうに申す日はまことにさるべき事なれども、われらが器量はこの教におよばざるなり。そのゆへは、法華には菩薩・声聞を機とするゆへに、われら凡夫はかなふべからずとおもふべき也。<br />
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− | しかるに阿弥陀ほとけの本願は、末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、利益いまの時に决定往生すべき也。わが身は女人なればとおもふ事なく、わが身は煩悩悪業の身なればといふ事なかれ。もとより阿弥陀仏は罪悪深重の衆生の、三世の諸仏も十方の如来もすてさせ給ひたるわれらをむかへんと、ちかひ給ひける願にあひたてまつれり。往生うたがひなしとふかくおもひいれて、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申せば善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな往生をとぐる也。
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− | <span id="P--591"></span>
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− | 問ていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。
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− | '''答ていはく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は、またく往生すべからず。'''<ref>正徳版(義山本)『和語灯録』二所収・「念仏往生要義抄」(法然全・六八二頁の校異)では、以下のようになっている。
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− | '''答ていはく'''、凡そ念仏に他力の念仏あり、自力の念仏あり。'''他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は'''本より往生の志しにて申念仏にあらざれば、'''またく往生すべからず。''' これは「本より往生の志しにて申念仏にあらざれば」という文を挿入することによって、自力の念仏であっても往生の志があれば往生するとして自力念仏を肯定する立場であり、ここでいう自力・他力の廃立にはなっていない。鎮西義との矛盾をぼかすための義山の改変であったとされる。exp[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/9/page/498]</ref>
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− | 問ていはく、その他力の様いかむ。
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− | 答ていはく、ただひとすぢに仏の本願を信じ、わが身の善悪をかへり見ず、决定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。たとへば騏麟の尾につきたる蠅の、ひとはねに千里をかけり、輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、一日に四天下をめぐるがごとし。これを他力と申す也。<br />
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− | 又巨(おほき)なる石をふねにいれつれば、時のほどにむかひのきしにとづくがごとし。これはまたく石のちからにあらず、ふねのちからなり。それがやうにわれらがちからにてはなし、阿弥陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり。
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− | 問ていはく、自力といふはいかん。
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− | 答ていはく、煩悩具足してわろき身をもて、煩悩を断じ、さとりをあらはして、成仏すとこころえて、昼夜にはげめども、無始より貪瞋具足の身なるがゆへに、ながく煩悩を断する事かたきなり。かく断じがたき無明煩悩を、三毒具足の心にて断ぜんとする事、たとへば須弥を針にてくだき、大海を芥子のひさくにてくみつくさんがことし。たとひはりにて須弥をくだき、芥子のひさくにて大海をくみつくすとも、われらが悪業煩悩の心にては、曠劫多生をふるとも、ほとけにな<span id="P--592"></span>らん事かたし。そのゆへは、念念歩歩におもひと思ふ事は、三途八難の業、ねてもさめても案じと案ずる事は、六趣四生のきづな也。かかる身にては、いかでか修行学道をして成仏はすべきや。これを自力とは申す也。
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− | 問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と勝劣いかむ。
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− | 答ていわく、聖人の念仏と世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またくかはりめあるべからず。
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− | 疑ていはく、この条なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかず、不浄の食もせずして、申さん念仏はたとかるべし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ不浄食をして申さん念仏は、さだめておとるべし。功徳いかでかひとしかるべきや。
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− | 答ていはく、功徳ひとしくして勝劣あるべからず。そのゆへは、阿弥陀仏の本願のゆへをしらざるものの、かかるおかしきうたがひをばするなり。しかるゆへは、むかし阿弥陀仏、二百一十億の諸仏の浄土の、荘厳宝楽等の誓願利益にいたるまで、世自在王仏の御まへにしてこれを見給ふに、われらごときの妄想顚倒の凡夫の浄土にむまるべき法のなき也。されば善導和尚釈していはく、「一切仏土皆厳浄 凡夫乱想恐難生」<ref>一切の仏土みな厳浄なれども、 凡夫の乱想おそらくは生じがたし。</ref>{法事讃}といへり。この文の心は一切の仏土はたへなれども乱想の凡夫はむまるる事なしと釈し給ふ也。おのおのの御身をはからひて御らんずべきなり。そのゆへは、口には経をよみ、身には仏<span id="P--593"></span>を礼拝すれども、心には思はじ事のみおもはれて、一時もとどまる事なし。しかれば我らが身をもて、いかでか生死をはなるべき。かかりけるほどに曠劫よりこのかた三途八難をすみかとして、烔燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。かなしきかなや、善心はとしとしにしたがひてうすくなり、悪心は日日にしたがひていよいよまさる。<br />
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− | されば古人のいへる事あり、「煩悩は身にそへる影、さらむとすれどもさらず、菩提は水にうかべる月、とらむとすれどもとられず」と。このゆへに阿弥仏ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし、深重の本願と申すは、善悪をへだてず、持戒・破戒をきらはず、在家・出家をもえらばず、有智・無智をも論ぜず、平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、ただふかく本願を信じて念仏申さば、一念須臾のあひだに、阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。<br />
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− | むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく断じて、五戒・十戒等かたくたもちてやむ事なき聖人も、念仏に不足のおもひなして、余行をまじえ申さんにおきては、仏の来迎にあづからん事、千人が中に一人、万人が中に五三人などや候はんずらん。それも善導和尚は「千中無一」{礼讃}とおほせられて候へば、いかがあるべく候らんとおぼえ候。<br />
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− | およそ阿弥陀仏の本願と申す事はやうもなく、わが心をすませとにもあらず、不浄の身をきよめよとにもあらず、ただねてもさめても、ひとす<span id="P--594"></span>ぢに御名をとなふる人をば、臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せば、一期のおはりには、仏の来迎にあづからん事うたがひあるべからず。わが身は女人なれば、又在家のものなればといふ事なく往生は一定とおぼしめすべき也。
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− | 問ていはく、心のすむ時の念仏と、妄心の中の念仏と、その勝劣いかむ。
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− | 答ていはく、その功徳ひとしくして、あへて差別なし。
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− | 疑ていはく、この条なほ不審なり、そのゆへは、心のすむ時の念仏は、余念もなく一向極楽世界の事のみ、おもはれ、弥陀の本願のみ案せらるるがゆへに、まじふるものなければ、清浄の念仏なり。心の散乱する時は、三業不調にして、口には名号をとなへ、手には念珠をまはすばかりにては、これ不浄の念仏也。いかでかひとしかるべき。
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− | 答ていはく、このうたがひをなすは、いまだ本願のゆへをしらざるなり。阿弥陀仏は悪業の衆生をすくはんために、生死の大海に弘誓のふねをうかべ給へる也。たとへばおもき石、かろきあさがら(麻殻)をひとつふねにいれて、むかひのきしにとづくがごとし。本願の殊勝なることは、いかなる衆生も、ただ名号をとなふるほかは、別の事なき也。
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− | 問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。
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− | 答ていはく、ただおなし事也。
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− | 疑ていはく、この事又不審なり。そのゆへは、一声・十声すでにかずの多少あり、いかでかひとしかるべきや。
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− | 答、一声・十声と申す事は最後の時の事なり。死する時一声申すものも往生す、十声申すものも往生すといふ事なり。往生だにもひとしくば、功徳なんそ劣ならん。本願の文に、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」<ref>たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。</ref>{無量寿経} この文の意は、法蔵比丘、われほとけになりたらん時、十方の衆生極楽にむまれんとおもひて、南無阿弥陀仏と、もしは十声、もしは一声申さん衆生をむかへずは、ほとけにならじとちかひ給ふ。かるかゆへにかずの多少を論ぜず、往生の得分はおなじき也。本願の文顕然なり、なんぞうたがはんや。
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− | 問ていはく、最後の念仏と、平生の念仏といづれかすぐれたるや。
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− | 答ていはく、{{DotUL|ただをなじ事也。そのゆへは、平生の念仏、臨終の念仏とてなんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれば、臨終の念仏となり、臨終の念仏ののぶれは、平生の念仏となる也。}}
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− | 難していはく、最後の一念は百年の業にすぐれたりと見えたり、いかむ。
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− | 答ていはく、このうたがひは、この文をしらざる難なり。いきのとどまる時の一念は、悪業こはく<span id="P--596"></span>して善業にすぐれたり、善業こはくして悪業にすぐれたりといふ事也。ただしこの申す人は念仏者にてはなし、もとより悪人の沙汰をいふ事也。平生より念仏申て往生をねがふ人の事をは、ともかくもさらに沙汰におよばぬ事也。
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− | 問ていはく、摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかむ。
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− | 答ていはく、{{DotUL|平生の時なり。}}そのゆへは、往生の心まことにて、わが身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、この三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、『観経』の説なり。{{DotUL|かかる心ざしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まて捨給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也。}}
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− | 問ていはく智者の念仏と、愚者の念仏と、いづれも差別なしや。
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− | 答ていはく、ほとけの本願にとづかば、すこしの差別もなし。そのゆへは阿弥陀仏ほとけになり給はざりしむかし、十方の衆生わか名をとなへば、乃至十声までもむかへんと、ちかひをたて給ひけるは、智者をえらび、愚者をすてんとにはあらず。されば『五会法事讃』にいはく、「不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念仏 能令瓦礫変成金」<ref>多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金(こがね)と成さんがごとくせしむ。</ref>。この文の意は、智者も愚者も、持戒も破戒も、ただ念仏申さば、みな往生すといふ事也。此心に<span id="P--597"></span>住して、わか身の善悪をかへりみず、ほとけの本願をたのみて念仏申すべき也。此たび輪廻のきづなをはなるる事、念仏にすぎたる事はあるへからず。このかきおきたるものを見て、そしり謗せんともがらも、かならず九品のうてなに縁をむすび、たがひに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土のともたらむ。<br />
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− | 抑、機をいへば、五逆重罪をえらはず、女人・闡提をもすてず、行をいへば、一念・十念をもてす、これによて五障・三従をうらむべからず。この願をたのみ、この行をはげむべき也。念仏のちからにあらずば、善人なをむまれがたし、いはんや悪人をや。五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の来迎をかうぶらんと、行住坐臥に名号をとなふべし、時処諸縁に此願をたのむべし。あなかしこあなかしこ。
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− | 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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− | ====三心義====
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− | {{Kaisetu|『観経』の至誠心、深心、廻向発願心の三心を説くが、廻向発願心についは疏文を引くだけで自釈はない。深信釈中で就人立信して解行不同の破人を示すが疏文にはない聖道門と浄土門を対判されている。そして正行による就行立信を論じて正雑二行を明かされる。回向について「いはゆる正行は廻向をもちひされどもをのづから往生の業となる。」とされるのは『選択本願念仏集』と同じである。なお、同趣旨の法語が『西方指南鈔』中本の「十七条御法語」後半に漢文で示されてある。}}
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− | 『観無量寿経』には、「若有衆生 願生彼国 発三種心 即便往生 何等為三 一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心 具三心者 必生彼国」<ref>もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。
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− | 一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。といへり。◇この一文は「略観経」ともよばれ必生彼国の「必」の言が注目された。</ref><br />
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− | 『礼讃』には、三心を釈しをはりて、<span id="P--598"></span>「具三心者 必得往生也 若少一心即不得生」<ref>三心を具すれば、かならず往生とを得なり。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。</ref>といへり。しかれば三心を具すべきなり。<br>
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− | 一に至誠心といふは、真実の心なり。身に礼拝を行じ、くちに名号をとなへ、心に相好をおもふ、{{DotUL|みな真実をもちひよ。}}すべてこれをいふに、穢土をいとひ浄土をねがひて、もろもろの行業を修せんもの、みな真実をもてつとむべし。<br />
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− | 是を勤修せんに、ほかには賢善精進の相を現じ、うちには愚悪懈怠の心をいだきて修するところの行業は、日夜十二時にひまなく、これを行ずとも往生をえず。ほかには愚悪懈怠のかたちをあらはし、うちには賢善精進のおもひに住してこれを修行するもの、一時一念なりとも、その行むなしからずかならず往生をう。これを至誠心となづく。
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− | 二に深心といふは、ふかく信ずる心なり。是につゐて又二あり。一にはわれはこれ罪悪不善の身、無始よりこのかた六道に輪迴して、出離の縁なしと信じ、二には罪人なりといへどもほとけの願力をもて強縁として、かならず往生を得と信ず。<br />
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− | これにつゐて又二あり。一には人につきて信をたつ。二には行につきて信をたつ。人につきて信をたつといふは、出離生死のみちおほしといへども、大きにわかちて二あり。一には聖道門、二には浄土門なり。聖道門といふは、此娑婆世界にて煩悩を断じ、菩提を証するみちなり。浄土門といふは、この娑婆世界をいとひ、かの<span id="P--599"></span>極楽をねがひて、善根を修する門なり。二門ありいへども、聖道門をさしおきて浄土門に帰すべし。<br />
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− | しかるにもし人ありておほく経論をひきて、罪悪の凡夫往生する事をえじといはん。このことばをききて退心をなさず、いよいよ信心をますべし。ゆへいかんとなれは、罪障の凡夫の浄土に往生すといふ事は、これ釈尊の誠言也。凡夫の妄執にあらず、われすでに仏の言を信じてふかく浄土を欣求す。<br />
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− | たとひ諸仏・菩薩きたりて、罪障の凡夫浄土にむまるべからずとの給ふとも、これを信すべからず。ゆへいかんとなれば、菩薩は仏の弟子なり、もしまことにこれ菩薩ならば、仏説をそむくべからず。しかるにすでに仏説にたがひて、往生をえずとの給ふ、まことの菩薩にあらず。<br />
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− | 又仏はこれ同体の大悲なり、まことに仏ならば、釈迦の説にたがふべからず。しかればすなはち、『阿弥陀経』に、一日七日弥陀の名号を念して、かならずむまるる事をうととけり。これを六方恒沙の諸仏、釈迦仏におなじく、これを証誠し給へり。しかるにいま釈迦の説にそむきて往生せずといふ。かるがゆへにしりぬ。これまことのほとけにあらず。天魔の変化なり、この義をもてのゆへに、仏・菩薩の説なりとも信ずへからず。いかにいはんや余説をや。なんぢが執するところの経論大小ことなりといへども、みな仏果を期する穢土の修行、聖道門の意なり。われらが修するところは、正雑不同なれ<span id="P--600"></span>ども、ともに極楽をねがふ、徃生の行業、浄土門の意なり。<br />
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− | 聖道門はこれ汝が有縁の行、浄土門はこれわれらが有縁の行、これをもてかれを難ずべからず、かれをもてこれを難ずへからず。かくのごとく、信ずるものをば、就人立信となづく。
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− | つぎに行につきて信をたつといふは、往生極楽の行まちまちなりといへども二種をばいでず。一には正行、二には雑行也。正行といふは、阿弥陀仏におきて、したしき行なり。雑行といふは阿弥陀仏におきてうとき行なり。まづ正行といふは、是につきて五あり。<br>
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− | 一にはいはく読誦、いはゆる三部経をよむなり、二には観察、いはゆる極楽の依正を観ずる也。三には礼拝、いはゆる阿弥陀仏を礼拝する也。四には称名、いはゆる弥陀の名号を称する也。五には讃嘆供養、いはゆる阿弥陀仏を讃嘆し供養する也。<br />
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− | この五をもてあはせて二とす。一には一心にもはら弥陀の名号を念して、行住坐臥に時節の久近をとはず、念念にすてざる、これを正定業となづく、かのほとけの願に順するがゆへに、二にはさきの五が中に、第四の称名をのぞひてほかの礼拝・読誦等をみな助業となづく。
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− | つぎに雑行といふは、さきの五種の正助二業をのぞきて已外の、もろもろの読誦大乗・発菩提心・持戒・勧進等の一切の行なり。此正雑二行につきて五種の得失あり。
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− | 一には親疎対、いはゆる正行は阿弥陀仏にしたしく雑行はうとし。<br>
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− | 二には近遠対、いは<span id="P--601"></span>ゆる正行は阿弥陀仏にちかく、雑行は阿弥陀仏にとおし。<br>
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− | 三には有間無間対、いはゆる正行はおもひをかくるに無間也。雑行は思をかくるに間断あり。<br />
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− | {{DotUL|四に廻向不廻向対、いはゆる正行は廻向をもちひざれどもおのづから往生の業となる。雑行は廻向せざる時は往生の業とならず。}}<br>
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− | 五には純雑対、いはゆる正行は純極楽の業也。雑行はしからず、十方の浄土乃至人天に通ずる業也。かくのごとく信ずるを就行立信となづく。
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− | 三に廻向発願心といふは、過去をよび今生の身口意業に、修するところの一切の善根を真実の心をもて極楽に廻向して往生を欣求する也。これを廻向発願心となづく、この三心を具しぬれば、かならず往生する也。
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− | ====七箇条起請文====
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− | {{Kaisetu|念仏者は三心を備えなければならず、念仏を称えることによって、三心は必然的にそなわることを明らかにし、三心と念仏の相即を説く。至誠心釈では、喜足小欲と不喜足大欲をとりあげ、不喜足大欲を戒め、ないものを欲しがらずあるものを喜ぶ喜足小欲は、くるしからずとする。「おこれども煩悩をば心のまらう人とし念仏をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をはさへぬ也」は、蓮如さんの『御一代記聞書』157条に「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり」はこの文章からであろう。}}
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− | およそ往生浄土の人の要法は、おほしといへども、浄土宗の大事は、三心の法門にある也。もし三心を具せざるものは、日夜十二時に、かうべの火をはらふがごとくにすれども、つひに往生をえずといへり。
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− | 極楽をねがはん人は、いかにもして三心のやうを心えて念仏すべき也。三心といふは、一には至誠心、二には深心、三には廻向発願<span id="P--602"></span>心なり。
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− | まづ至誠心といふは大師釈しての給はく、至といふは真也。誠といふは実也といへり。ただ真実心を、至誠心と善導はおほせられたる也。真実といふはもろもろの虚仮の心のなきをいふ也。虚仮といふは、貪瞋等の煩悩をおこして、正念をうしなふを、虚仮心と釈する也。すべてもろもろの煩悩のおこる事は、みなもと貪瞋を母として出生するなり。貪といふにつゐて喜足小欲<ref>足るを喜び、欲小なり。すでに得たもので満足し多くを求めない(小欲)ということ。</ref>の貪あり、不喜足大欲<ref>不喜足大欲の貪(すでに得たものでは満足できないでさらに多くのものを求める貪り)とということ。</ref>の貪あり。いま浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩也。まづ行者かやうの道理を心えて念仏すべき也。これが真実の念仏にてある也。喜足小欲の貪はくるしからず。瞋煩悩も敬上慈下<ref>目上の人を敬い、目下の人を慈しむこと。</ref>の心をやぶらずして、道理を心えんほど也。痴煩悩といふは、おろかなる心なり。此心をかしこくなすべき也。まづ生死をいとひ浄土をねがひて往生を大事といとなみてもろもろの家業を事とせざれば、痴煩悩なき也。少少の痴は往生のさはりにはならず、このほどに心えつれは、貪瞋等の虚仮の心はうせて、真実心はやすくおこる也。{{DotUL|これを浄土の菩提心といふなり}}。詮ずるところ、生死の報をかろしめ、念仏の一行をはげむがゆへに真実心とはいふ也。
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− | 二に深心といふは、ふかく念仏を信する心なり。ふかく念仏を信すといふは、余行なく一向に念仏になる也。もし余行をかぬれは、深心かけたる行者といふ也。
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− | 詮するところ、釈迦の浄土三部経はひ<span id="P--603"></span>とへに念仏の一行をとくと心え、弥陀の四十八願は、称名の一行を本願とすと心えて、ふた心なく念仏するを、深心具足といふなり。
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− | 三に廻向発願心といふは、無始よりこのかたの所作のもろもろの善根を、ひとへに往生極楽といのる也。又つねに退する事なく念仏するを、廻向発願心といふなり。これは恵心の御義なり。此心ならは至誠心深心具足してのうへにつねに、念仏の数遍をなすへし。もし念仏退転せは、廻向発願心かけたるもの也。
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− | 浄土宗の人は、三心のやうをよくよく心えて念仏すべき也。三心の中に、ひとつもかけなば往生はかなふまじき也。三心具足しぬれば往生は無下にやすくなるなり。すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、ただ貪瞋痴の煩悩の絆によりて也。貪瞋痴おこらば、なを悪趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、是をとどむへき也。しかれどもいまだ煩悩具足のわれらなれば、かくは心えたれどもつねに煩悩はおこる也。{{DotUL|おこれども煩悩をば心のまらう人<ref>まらうど。客人のこと。◇蓮如上人の『御一代聞書』157に、「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。」とあるのはこの意であろう。</ref>とし念仏をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をはさへぬ也。}}煩悩を心のあるじとして念仏を心のまらう人とする事は、雑毒虚仮の善にて往生にはきらはるる也。詮ずるところ、前念後念のあひだには、煩悩をまじふといふとも、かまへて南無阿弥陀仏の六字の中に、貪等の煩悩をおこすまじき也。
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− | <span id="P--604"></span>
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− | | + | |
− | 一、<br />
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− | われは阿弥陀仏をこそたのみたれ。念仏をこそ信じたれとて、諸仏・菩薩の悲願をかろしめたてまつり、『法華』・『般若』等の、めでたき経どもを、わろくおもひそしる事はゆめゆめあるべからず。よろづのほとけたちを、そしり、もろもろの聖教をうたがひそしりたらんずるつみは、まづ阿弥陀仏の御心にかなふまじければ、念仏すとも悲願にもれん事は一定也。
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− | | + | |
− | 一、<br />
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− | つみをつくらじと身をつつしみてよからんとするは、阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。又念仏をおほく申さんとて、日日に六万遍などをくりゐたるは、他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。かやうのひが事ゆめゆめもちふへからず。<br />
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− | まづいづれのところにか、阿弥陀仏はつみつくれとすすめ給ひける。ひとへにわが身に悪をもとどめえず、つみのみつくりゐたるままに、かかるゆくゑほとりもなき虚言をたくみいだして、物もしらぬ男女のともからを、すかしほらかして、罪業をすすめ、煩悩をおこさしむる事、返返天魔のたぐひなり、外道のしわざ也、往生極楽のあだかたきなりとおもふべし。又念仏のかずをおほく申すものを、自力をはげむといふ事、これ又ものもおほえずあさましきひが事也。ただ一念二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。千遍・万遍をとなふと<span id="P--605"></span>も、百日・千日、よる・ひるはげみつとむとも、ひとへに願力をたのみ、他力をあふぎたらん人の念仏は、声声念念しかしなから他力の念仏にてあるべし。<br />
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− | されば三心をおこしたる人の念仏は、日日夜夜、時時剋剋にとなふれども、しかしながら願力をあふぎ、他力をたのみたる心にてとなへゐたれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいふへからす。
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− | 一、<br />
| + | |
− | 三心と申す事をしりたる人の念仏に、三心具足してあらん事は左右におよばず、つやつや三心の名をだにもしらぬ、無智のともがらの念仏には、よも三心は具し候はじ。三心かけば往生し候なんやと申す事、きはめたる不審にて候へども、これは阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし五劫のあひだ、よるひる心をくだきて案じたてて、成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。いかに無智ならん者もこれを具し、三心の名をしらぬものまでも、かならずそらに具せんずる様を択ばせ給ひたる三心なれば、阿弥陀仏をたのみたてまつりて、すこしもうたがふ心なくして、この名号をとなふれば、あみだほとけかならずわれをむかへて、極楽にゆかせ給ふとききて、これをふかく信じて、すこしもうたがふ心なく、むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、この心がすなはち三心具足の心にてあれば、ただ<span id="P--606"></span>ひらに信じてだにも念仏すれば、すずろに三心はあるなり。<br>
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− | さればこそよにあさましき一文不通のともからのなかに、ひとすぢに念仏するものは、臨終正念にして、めでたき往生をするは、現に証拠あらたなる事なれば、つゆちりもうたかふべからず。中なかよくもしらぬ三心沙汰して、あしざあまに心えたる人ひとは、臨終のわろくのみありあひたるは、それにてたれだれも心うべきなり。
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− | 一、<br />
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− | ときどき別時の念仏を修して、心をも身をもはげましととのへすすむへき也。日日に六万遍を申せば七万遍をとなふればとて、ただあるもいはれたる事にてはあれども、人の心ざまは、いたく目もなれ、耳もなれぬれば、いそいそとすすむ心もなく、あけくれ心いそがしき様にてのみ、疎略になりゆく也。その心をためなおさん料に、時々別時の念仏はすべき也。しかれば善導和尚も、ねんごろにすすめ給ひ、恵心の『往生要集』にも、すすめさせ給ひたる也。道塲をもひきつくろひ、花香をもまいらせん事、ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、わが身をもことにきよめて道塲にいりて、あるひは三時あるひは六時などに念仏すべし。もし同行などあまたあらん時は、かはるがはるいりて不断念仏にも修すべし。かやうの事はおのおのことがらにしたかひてはからふべし。さて善導のおほせられたるは、<span id="P--607"></span>「月の一日より八日にいたるまで、或は八日より十五日にいたるまで、或は十五日より廿三日にいたるまて、或は廿三日より晦日にいたるまで」{[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E6%B3%95%E9%96%80_%28%E4%B8%83%E7%A5%96%29#.E5.85.A5.E9.81.93.E5.A0.B4.E6.B3.95 観念法門]}と、おほせられたり。おのおのさしあはざらん時をはからひて、七日の別時をつねに修すべし、ゆめゆめすずろ事ともいふものにすかされて、不善の心あるべからず。
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− | 一、<br />
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− | いかにもいかにも最後の正念を成就して目には阿弥陀ほとけを見たてまつり、口には弥陀の名号をとなへ、心には聖衆の来迎をまちたてまつるべし。としごろ日ごろいみじく念仏の功をつみたりとも、臨終に悪縁にもあひ、あしき心もおこりぬるものならば順次の往生しはづして、一生二生なりとも、三生四生なりとも、生死のながれにしたがひてくるしからん事はくちをしき事ぞかし。されば善導和尚すすめておほせられたる様は、「願弟子等 臨命終時{乃至}上品往生 阿弥陀仏国」<ref>願はくは弟子等、命終の時に臨みて──心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心もろもろの苦痛なく、身心快楽なること禅定に入れるがごとくして、聖衆現前し、仏の本願に乗じて──阿弥陀仏国に上品往生せん。『礼讃』</ref>とあり、いよいよ臨終の正念はいのりもし、ねがふべき事也。臨終の正念をいのるは、弥陀の本願をたのまぬ者ぞなど申すは、善導には、いかほどまさりたる学生ぞとおもふべき也。あなあさまし、おそろしおそろし。
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− | 一、<br />
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− | 念仏は、つねにおこたらぬが、一定往生する事にてある也。されば善導すすめての給はく、「一発心已後 誓畢此生 無有退転 唯以浄土為期」<ref>一たび発心して以後、誓ひてこの生を畢るまで退転あることなし。ただ浄土をもつて期となす。{散善義}</ref> 又云 「一心専念弥<span id="P--608"></span>陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」<ref>一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。{散善義}</ref>といへり。かやうにすすめましましたる事はあまたおほけれとも、ことことくに、かきのせず。たとむへし、あふぐへし。さらにうたがふべからず。
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− | 一、<br />
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− | げにげにしく<ref>まことしとやか。それらしく。</ref>念仏を行じて、げにげにしき人になりぬれば、よろづの人を見るに、みなわが心にはおとりたり。あさましくわろければ、わが身のよきままには、ゆゆしき念仏者にてある物かな。たれだれにもすぐれたりと思ふ也。この事をはよくよく心えてつつしむべき也。世もひろし、人もおほければ、山の奥林の中にこもりゐて、人にもしられぬ念仏者の、貴くめでたき、さすがにおほくあるを、わがきかずしらぬにてこそあれ。されば、われほどの念仏者よもあらじと思ふはひが事也。大憍慢にてあれば、それをたよりにて、魔縁の付て、往生をさまたぐる也。さればわが身のいみじくて、つみをも滅し極楽へもまいらばこそあらめ、ひとへに阿弥陀仏の願力にてこそ、煩悩をも罪業をもほろぼしうしなひて、かたじけなく弥陀ほとけの、てづからみづからむかへとりて、極楽へかへらせましますことなれ。さればわがちからにて往生する事ならばこそわれかしこしといふ慢心をばおこさめ、憍慢の心だにもおこりなば、たちどころに阿弥陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば、弥陀も諸仏も護<span id="P--609"></span>念し給はじなりぬれば、悪魔のためにもなやまさるる也。返返も憍慢の心をおこすべからず。あなかしこあなかしこ。
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− | ====念仏大意====
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− | 『西方指南抄』の同趣旨文にリンク
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− | [[西方指南抄#(二四)|西方指南抄 法語(念仏大意)]]
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− | ====浄土宗略抄====
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− | {{Kaisetu|「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」とも。聖道浄土の二門について述べ、至誠心・深心・廻向発願心の三心と起行を説く。また、現世利益として、菩薩の囲繞し護念することと、諸善神は念仏の行者を護ることを説く。なお、受くべき病であれば、「いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、だれかは一人としてやみしぬる人あらん。」と、病気平癒の祈りを否定されておられる。しかし仏には転重軽受の益を与える威神力がましまして、重く受けるべき病悩も、軽く受けさせ給うから、病気を受けたときは「これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなり」と領解せよとされる。<br />
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− | 念仏者に与えられる現世の利益は、あくまでも「弥陀の本願をふかく信じて、念仏して、往生をねがふ人」に、如来の方から求めずして与えたもう益であって、行者が現世利益を祈って求めるものではない。}}
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− | このたび生死をはなるるみち、浄土にむまるるにすぎたるはなし。浄土にむまるるおこなひ、念仏にすぎたるはなし。おほよそうき世をいでて仏道にいるにおほくの門ありといへども、おほきにわかちて二門を出ず、すなはち聖道門と浄土門と也。
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− | はじめに聖道門といは、此娑婆世界にありながら、まどひをたちさとりをひらく道也。これにつきて大乗の聖道あり、小乗の聖道あり。大乗に又二あり、すなはち仏乗と菩薩乗と也。小乗に又二あり、声聞乗と縁覚乗と也。これらを総して四乗となづく。ただしこれらはみな、このころのわれら<span id="P--610"></span>が身にたへたる事にあらず。<br />
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− | このゆへに道綽禅師は、聖道の一種は今時に証しがたしとの給へり。さればおのおのゝおこなふやうを申して詮なし。ただ聖道門は聞とをくしてさとりかたく、まどひやすくしてわが分にはおもひよらぬみちなりと、おもひはなつべき也。
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− | つぎに浄土門といは、この娑婆世界をいとひすてていそぎて極楽にむまるる也。かの国にむまるる事は阿弥陀仏のちかひにて人の善悪をえらばず、ただほとけのちかひをたのみたのまざるによる也。このゆへに道綽は、「浄土の一門のみありて通入すべきみちなり」とのたまへり。さればこのごろ生死をはなれんと思はむ人は、証じかたき聖道をすてて、ゆきやすき浄土をねがふべき也。この聖道・浄土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふに、「難行道はけはしきみちをかち(徒)にてゆくかごとし。易行道は、海路をふねにのりてゆくかごとし」{論註}といへり。あしなえ目しゐたらん人は、かかるみちにはむかふべからず。ただふねにのりてのみむかひのきしにはつくなり。<br />
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− | しかるにこのごろのわれらは、智恵のまなこしゐ、行法のあしなへたるともがら也。聖道難行のけはしきみちには、総じてのぞみをたつべし。ただ弥陀の本願のふねにのりて、生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべき也。い<span id="P--611"></span>まこのふねは、すなはち弥陀の本願にたとふる也。<br />
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− | その本願といは、弥陀のむかしはじめて道心をおこして、国王のくらゐをすてて出家して、ほとけになりて衆生をすくはんとおぼしめしし時、浄土をまうけむために、四十八願をおこし給ひし中に、第十八の願にいはく、もしわれほとけにならんに、十方の衆生、わがくににむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、下十声にいたるまでわが願力に乗して、もしむまれずは、われほとけにならじとちかひ給ひて、その願をおこなひあらはして、いますでにほとけになりて十劫を経給へり。<br />
| + | |
− | されば善導の釈には、かのほとけいま現に世にましまして、成仏し給へり。まさにしるべし本誓重願むなしからず、衆生称念すれは、かならず往生する事を得との給へり。このことはりをおもふに、弥陀の本願を信じて念仏申さん人は、往生うたがふべからず。よくよくこのことはりを思ひときて、いかさまにもまづ阿弥陀仏のちかひをたのみて、ひとすぢに念仏を申して、ことさとりの人の、とかくいひさまたげむにつきて、ほとけのちかひをうたがふ心ゆめゆめあるべからず。<br />
| + | |
− | かやうに心えて、さきの聖道門は、わが分にあらずと思ひすてて、この浄土門にいりて、ひとすぢにほとけのちかひをあふぎて、名号をとなふるを、浄土門の行者とは申す也。これを聖道・浄土の二門と申すなり。<br />
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− | <span id="P--612"></span>
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− | つぎに浄土門にいりておこなふべき'''行につきて申さば心と行と相応すべき也'''。すなはち安心、起行となづく。その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち『観無量寿経』に説ていはく、もし衆生ありて、かのくににむまれんと願ずるものは、三種の心をおこして、すなはち往生すべし。何等をか三とする、一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心也。
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− | 三心を具するものは、かならずかのくににむまるといへり。善導和尚この三心を釈しての給はく。
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− | はじめの至誠心といは、至といは、真也。誠といは、実也。一切衆生の身口意業に、修せんところの解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとおもふ。外には賢善精進の相を現じて、内には虚仮をいだく事を得ざれ。又内外明闇をきらはず、かならず真実をもちゐるがゆへに至誠心となづくといへり。かるがゆへに至誠心ととかれたるは、すなはち真実の心を云なり。真実といふは、身にふるまひ口にいひ心に思はん事も、内むなしくして外をかざる心なきをいふなり。詮じてはまことに穢土をいとひ浄土をねがひて、外相と内心と相応すべき也。ほかにはかしこき相を現じて、うちには悪をつくり、外には精進の相を現じて、内には懈怠なる事なかれといふこころ也。かるがゆへにほかには賢善精進の相を現じて、うちには虚仮をいだく事なかれといへり。念仏を申さんにつゐて、人目には六万・七万申すと披露してまこと<span id="P--613"></span>にはさ程も申さずや。又人のみるおりはたうとげにして、念仏申すよしを見え、人も見ぬところにては念仏申さずなどするやうなる心ばへ也。<br />
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− | さればとて、わろからん事をもほかにあらはさんがよかるべき事にてはなし。ただ詮するところは、まめやかにほとけの御意にかなはん事をおもひて、内にまことをおこして、外相をは機嫌にしたがふべき也。機嫌にしたがふがよき事なればとて、やがて内心のまこともやぶるるまでふるまはば、又至誠心かけたる心になりぬべし。ただうちの心をまことにて、ほかをばとてもかくてもあるべき也。かるがゆへに至誠心となづく。
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− | 二に深心といは、すなはち善導釈しての給はく、深心といは、ふかく信ずる心也。これに二つあり。<br />
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− | 一には決定して、わが身はこれ煩悩を具足せる罪悪生死の凡夫也。善根薄少にして、曠劫よりこのかたつねに三界に流転して、出離の縁なしと、ふかく信ずべし。<br />
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− | 二には、ふかくかの阿弥陀仏、四十八願をもて衆生を摂取し給ふ。すなはち名号をとのふる事、下十声にいたるまで、かのほとけの願力に乗じて、さだめて往生を得と信じて、乃至一念もうたがふ心なきがゆへに深心となづく。
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− | 又深心といは、决定して心を建、仏の教に順して修行して、ながくうたがひをのぞきて、一切の別解別行、異学異見、異執のために、退失傾動せられざれといへり。この釈の意は、は<span id="P--614"></span>じめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずるなり。のちの信心のために、はじめの信をはあぐる也。そのゆへは、往生をねがはんもろもろの人、弥陀の本願の念仏を申しながら、わが身に貪欲瞋恚の煩悩をもおこし、十悪破戒の罪悪をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろしめてかへりてほとけの本願をうたがふ。
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− | 善導はかねてこのうたがひをかがみて、二つの信心のやうをあげてわれらがごときの煩悩をもおこし、罪をもつくる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば、十声・一声にいたるまで、决定して往生するむねを釈し給へり。まことにはじめのわが身を信する様を釈し給はざりせば、われらが心ばへのありさまにては、いかに念仏申すともかのほとけの本願にかなひがたく、いま一念・十念に往生するといふは、煩悩をもおこさず、つみをもつくらぬめでたき人にてこそあるらめ。われらごときのともがらにてはよもあらじなど、身の程思ひしられて、往生もたのみがたきまであやうくおぼえなましに、この二つの信心を釈し給ひたる事は、いみじく身にしみておもふべき也。<br />
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− | この釈を心えわけぬ人は、みなわが心のわろければ、往生はかなはじなとこそは申あひたれ、そのうたかひをなすは、やがて往生せぬ心ばへ也。此むねを心えて、ながくうたがふ心あるまじき也。<br />
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− | '''心の善悪をもかへり見づ、つみの<span id="P--615"></span>軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。'''<br />
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− | {{DotUL|往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。}}詮じてはふかく仏のちかひをたのみて、いかなる過(とが)をもきらはず、一定むかへ給ぞと信じて、うたがふ心のなきを深心とは申候也。いかなるとがをもきらはねばとて、法にまかせてふるまふべきにはあらず、されば善導も{散善義}「不善の三業をば、真実心の中にすつべし。善の三業をば、真実心の中になすべし」とこそは釈し給ひたれ、又{散善義}「善業にあらざるをば、うやまてこれをとをざかれ。又随喜せざれ」など釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。ただ弥陀の本誓の善悪をもきらはず、名号をとなふれば、かならずむかへ給ぞと信じ、名号の功徳のいかなるとがをも除滅して、一念・十念もかならず往生をうる事の、めてたき事をふかく信じて、うたがふ心一念もなかれといふ心也。又一念に往生すればとて、かならずしも一念にかぎるべからず。弥陀の本願の心は、名号をとなへん事、もしは百年にても、十・二十年にても、もしは四・五年にても、もしは一・二年にても、もしは七日・一日十声・一声までも、信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、かならずむかへ給な<span id="P--616"></span>り。惣じてこれをいへば、上は念仏申さんと思ひはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。
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− | 中は七日・一日も申し、下は十声・一声までも弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、一念までも定めて往生すと思ひて、退転なくいのちおはらんまで申すべき也。又まめやかに往生の心ざしありて、弥陀の本願をたのみて念仏申さん人、臨終のわろき事は何事にかあるべき。<br />
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− | そのゆへは、仏の来迎し給ふゆへは、行者の臨終正念のため也。それを心えぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申したらんおりぞ、ほとけはむかへ給ふべきとのみ心えたるは、仏の本願を信ぜず、経の文を心意えぬ也。『称讃浄土経』には、慈悲をもて加へ祐けて心をしてみだらざらしめ給ふととかれたる也。ただの時よくよく申しをきたる念仏によりて、かならずほとけは来迎し給ふ也。仏のきたりて現じ給へるを見て、正念には住すと申すべき也。それにさきの念仏をばむなしく思ひなして、よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある、ゆゆしき僻胤の事也。<br />
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− | されば仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終をうたがふ心あるべからず。当時申さん念仏をぞ、いよいよ心を至して申べき。いつかは仏の本願にも、臨終の時念仏申たらん人をのみ、むかへんとはたて給ひたる。臨終の念仏にて、往生すと申事は、もとは往生をもねがはずして、ひ<span id="P--617"></span>とへにつみをつくりたる悪人の、すでに死なんとする時、はじめて善知識のすすめにあひて、念仏して往生すとこそ、『観経』にもとかれたれ。もとより念仏を信ぜん人は、臨終の沙汰をばあながちにすべき様もなき事なり。仏の来迎一定ならば、臨終の正念は、また一定とこそはおもふべきことはりなれ。この意をよくよく心をとどめて、こころうべき事なり。又別解・別行の人に、やぶられざれといは、さとりこと(異)に、おこなひことならん人の、いはん事につきて、念仏をもすて、往生をもうたがふ心なかれといふ事也。
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− | さとりことなる人と申すは、天台・法相等の、八宗の学匠なり。行ことなる人と申すは、真言・止観の一切の行者也。これらは聖道門をならひおこなふ也。浄土門の解行には異なるがゆへに、別解・別行となづくる也。
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− | 又惣じておなじく念仏を申す人なれども、弥陀の本願をばたのまづして、自力をはげみて、念仏ばかりにてはいかが往生すべき、異なる功徳をつくり、ことなる仏にもつかへて、ちからをあはせてこそ、往生程の大事をばとぐべけれ。ただ阿弥陀仏ばかりにては、かなはじものをなどうたがひをなし、いひさまたげん人のあらんにも、げにもと思ひて、一念もうたがふ心なくて、いかなることはりをきくとも、往生决定の心をうしなふ事なかれと申す也。<br>
| + | |
− | 人にいひやぶらるまじきことはりを、善導こまかに釈し給へり。意をとりて申さば、たとひ仏ま<span id="P--618"></span>しまして、十方世界にあまねくみちみちて、光をかがやかし舌をのべて、煩悩罪悪の凡夫、念仏して一定往生すといふ事ひが事なり。信ずべからずとの給ふとも、それによりて、一念もうたがふべからず。<br>
| + | |
− | そのゆへは、仏はみな同心に衆生を引導し給に、すなはちまづ、阿弥陀仏浄土をまうけて、願をおこしての給はく、十方衆生わが国にむまれんとねがひて、わが名号をとなへんもの、もしむまれずは、正覚をとらじとちかひ給へるを、釈迦仏この世界にいでて、衆生のためにかの仏の願をとき給へり。六方恒沙の諸仏は、舌相を三千世界におほふて、虚言せぬ相を現じて、釈迦仏の弥陀の本願をほめて、一切衆生をすすめて、かのほとけの名号をとなふれば、さだめて往生すとの給へるは、决定にしてうたがひなき事也。<br />
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− | 一切衆生みなこの事を信すべしと証誠し給へり。かくのごとく一切諸仏一仏ものこらず、同心に一切凡夫念仏して、决定して往生すべきむねをすめめ給へるうへには、いずれの仏の又往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、仏きたりての給ふともおどろくべからずとは申す也。仏なをしかり、いはむや菩薩・声聞・縁覚をや、いかにいはんや凡夫をやと心えつれば、一度この念仏往生を信じてんのちは、いかなる人とかくいひさまたぐとも、うたがふ心あるべからずと申事なり。これを深心とは申すなり。
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− | | + | |
− | <span id="P--619"></span>
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− | 三に廻向発願心とは、善導これを釈しての給はく。過去およひ今生の、身口意業に修するところの、世・出世の善根、および他の一切の凡聖の、身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもて、ことごとく真実深心の中に廻向して、かのくににむまれんとねがふなり。かるがゆへに廻向発願心となづくる也。<br />
| + | |
− | 又廻向発願して、むまれんと願はむものは、かならづ决定して、真実心の中に廻向して、むまる事をうる想をなす也。この心ふかくして、なおし金剛のごとくして、一切の異見・異学、別解・別行の人のために、動乱破壊せられざれといへり。この釈の意はまづわが身につきて、前世にもつくりとつくりたらん功徳をみなことごとく極楽に廻向して往生をねがふ也。
| + | |
− | わが身の功徳のみならず、一切凡聖の功徳をも廻向するなり。凡といは、凡夫のつくりたらん功徳をも、聖といは、仏菩薩のつくり給はん功徳をも、随喜すればわが功徳となるをもて、みな極楽に廻向して往生をねがふなり。<br />
| + | |
− | 詮ずるところ、往生をねがふよりほかに、異事をばねがふまじき也。わが身にも人の身にも、この界の果報をいのり、又おなじく後世の事なれども、極楽ならぬ浄土にむまれんともねがひ、もしは人中天上にむまれんともねがひ、かくのごとくかれこれに廻向する事なかれと也。<br />
| + | |
− | もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに、この土の事をもいのり、あらぬかたへ廻向し<span id="P--620"></span>たらん功徳をも、みなとり返して、いまは一すぢに極楽に廻向して往生せんとねがふべき也。一切の功徳をみな極楽に廻向せよといへばとて、又念仏の外に、わざと功徳をつくりあつめて廻向せよといふにはあらず。ただすぎぬるかたの功徳をも、今は一向に極楽に廻向し、こののちなりともおのづからたよりにしたがひて僧をも供養し、人に物をもほどこしあたへたらんをも、つくらんにしたがひて、みな往生のために廻向すべしといふこころ也。<br />
| + | |
− | この心金剛のごとくして、あらぬさとりの人におしへられて、かれこれに廻向する事なかれといふ也。金剛はいかにもやぶれぬものなれば、たとへにとりてこの心をもて廻向発願してむまると申也。
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− | 三心のありさまあらあらかくのごとし。この三心を具すればかならず往生す。もし一心もかけぬればむまるる事をえずと、善導は釈し給ひたれば、もともこの心を具足すへき也。しかるにかやうに申たつる時は、別別にして事事しきやうなれども、こころえとけばやすく具しぬべき心也。詮じてはまことの心ありて、ふかく仏のちかひをたのみて、往生をねがはんずる心なり。深き浅き事こそかはりめありとも、たれも往生をもとむる程の人は、さ程の心なき事やはあるべき。かやうの事は疎く思へば大事におぼえ、とりよりて沙汰すればさすがにやすき事也。<br />
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− | かやうにこまかに沙汰し、<span id="P--621"></span>しらぬ人も具しぬべく、又よくよく知たる人も少(かく)る事ありぬべし。さればこそいやしくおろかなるものの中にも往生する事もあり、いみじくたとげなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあり。されどもこれを具足すべき様をもよくよくこころえわけて、わが心に具したりともしり、又かけたりとも思はんをばかまへてかまへて具足せんとはげむべきことなり。これを安心となづくる也。これぞ往生する心のありさまなり。
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− | これをよくよくこころえわくべきなり。
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− | 次に起行といは、善導の御意によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす。一には正行、二には雑行也。正行といは、これに又あまたの行あり。読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆供養正行、これらを五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二行とわかつ時には、六種の正行とも申也。<br />
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− | この正行につきて、ふさねて二とす、一には一心にもはら弥陀の名号をとなへて、行住坐臥によるひるわするる事なく、念念にすてざるを正定の業となづく。かのほとけの願に順するがゆへにといひて、念仏をもてまさしくさだめたる往生の業にたてて、もし礼誦等によるをば、なづけて助業とすといひて、念仏の外に阿弥陀仏を礼し、もしは三部経をよみ、もしは極楽のありさまを観ずるも、讃嘆供養したてまつる事も、みな称名念仏をたすけん<span id="P--622"></span>がためなり。<br />
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− | まさしくさだめたる往生の業は、ただ念仏ばかりといふ也。この正と助とをのぞきて外の諸行をば、布施をせんも、戒をたもたんも、精進ならんも、禅定を修せんも、かくのごとくの六度万行、『法華経』をよみ、真言をおこなふ、もろもろのおこなひをば、ことごとくみな雑行となづく。ただ極楽に往生せんとおもはば、一向に称名の正定業を修すべき也。<br />
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− | これすなはち弥陀本願の行なるがゆへに、われらが自力にて生死をはなれぬべくば、かならずしも本願の行にかぎるべからずといへども、他力によらずば往生をとげがたきかゆへに、弥陀の本願のちからをかりて、一向に名号をとなへよと、善導はすすめ給へる也。自力といは、わがちからをはげみて往生をもとむる也。他力といは、ただ仏のちからをたのみたてまつる也。<br />
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− | このゆへに正行を行するものをば、専修の行者といひ、雑行を行ずるをば、雑修の行者と申也。正行を修するは、心つねにかの国に親近して、憶念ひまなし、雑行を行ずるものは、心つねに間断す。廻向してむまるる事をうべしといへども、疎雑の行となづくといひて、極楽にうとき、行といへり。又専修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに、外に雑縁なくして正念をうるがゆへに。弥陀の本願と相応するがゆへに、釈迦の教に順ずるがゆへ也。
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− | 雑修のものは、百人の中に一・二<span id="P--623"></span>人むまれ、千人の中に四・五人むまる。なにをもてのゆへに、弥陀の本願と相応せさるがゆへに。釈迦の教に順ぜさるがゆへに、憶想間断するがゆへに、名利と相応するがゆへに、自もさへ他の往生をもさふるがゆへにと釈し給ひたれば、善導を信じて浄土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日日の所作に、一万二万乃至五万六万十万をも、器量のたへんにしたがひて、いくらなりともはげみて申すべきなりとこそ心えられたれ。
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− | それにこれをききながら、念仏の外に余行をくはふる人のおほくあるは、こころえられぬ事也。そのゆへは、善導のすすめ給はぬ事をば、すこしなりともくはふべき道理ゆめゆめなき也。すすめ給へる正行をだにも、なをものうき身にて、いまだすすめ給はぬ雑行をくはふべき事は、まことしからぬかたもありぬべし。又つみつくりたる人だにも往生すれば、まして功徳なれば『法華経』などをよまんは、なにかはくるしかるべきなと申す人もあり。
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− | それらはむげにきたなき事也。往生をたすけばこそいみじからめ、さまたげにならぬばかりを、いみじき事とてくはへおこなはん事は、なにかは詮あるべき。
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− | 悪をばされば仏の御意にこのみてつくれとやすすめ給へる、かまへてとどめよとこそいましめ給へども、凡夫のならひ、当時のまよひにひかれて悪をつくる事はちからをよばぬ事なれば、慈悲をおこしてす<span id="P--624"></span>て給はぬにてこそあれ。まことに悪をつくる人のやうに、余行どもをくはへたからんは、ちからおよばず。ただし経なとをよまん事を、悪つくるにいひならべて、それもくるしからねば、ましてこれもなどといはんは不便の事也。'''ふかき御のりもあしく心うるものにあひぬれば、返りて物ならずあさましくかなしき事也'''。ただあらぬさとりの人の、ともかくも申さん事をばききいれずして、すすみぬべからん人をば誘(こしらえ)すすむべし。さとりたがひてあらぬさまならん人などに、論じあふ事などはゆめゆめあるまじき事也。ただわが身一人まづよくよく往生をねがひて、念仏をはげみて、位たかく往生して、いそぎ返りきたりて、人人を引導せんとおもふべき也。
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− | 又善導の『往生礼讃』に、問ていはく、阿弥陀仏を称念礼観するに、現世にいかなる功徳利益かある。答ていはく、阿弥陀仏をとなふる事一声すれば、すなはち八十億劫の重罪を除滅す。又『十往生経』にいはく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念して往生をねがふものは、かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしはよる、もしはひる、一切の時、一切のところに、悪鬼・悪神をしてそのたよりをえせしめ給はずと。
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− | 又『観経』にいふごときは、阿弥陀仏<span id="P--625"></span>を称念して、かのくにに往生せんとおもへば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。さきの二十五の菩薩と、百重千重に行者を囲繞して、行住坐臥をとはず、一切の時処に、もしはひる、もしはよる、つねに行者をはなれ給はずと。<br />
| + | |
− | 又いはく弥陀を念じて往生せんとおもふものは、つねに六方恒沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆへに護念経となづく。いますでにこの増上縁の、誓願のたのむべきあり、もろもろの仏子等、いかでか心をはげまさざらんやといへり。かの文の意は弥陀の本願をふかく信じて、念仏して往生をねがふ人をば、弥陀仏よりはじめたてまつりて、十方の諸仏・菩薩・観音・勢至・無数の菩薩この人を囲繞して、行住坐臥、よるひるをもきらはず、かげのごとくにそひて、もろもろの横悩をなす、悪鬼・悪神のたよりをはらひのぞき給ひて、現世にはよこさまなるわづらひなく、安穏にして、命終の時は、極楽世界へむかへ給ふ也。
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− | されば念仏を信じて往生をねがふ人は、ことさらに悪魔をはらはんために、よろづのほとけかみにいのりをもし、つつしみをもする事は、なじかはあるべき。<br />
| + | |
− | いはんや仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙の鬼神を眷属として、つねにこの人をまもり給ふといへり。しかればかくのごときの諸仏・諸神、囲繞してまもり給はんうへは、又いづれの仏・<span id="P--626"></span>神かありて、なやまし、さまたぐる事あらん。<br />
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− | {{DotUL|又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。}}<br />
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− | いはんや又仏の御ちからは、念仏を信ずるものをば、転重軽受といひて、宿業かぎりありて、おもくうくべきやまひを、かろくうけさせ給ふ。いはんや非業<ref>ひごう。前世の業因によらないこと。</ref>をはらひ給はん事ましまさざらんや。されば念仏を信ずる人は、たとひいかなるやまひをうくれども、みなこれ宿業也。これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。われらが悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。ましてこのよにいくほどならぬいのちをのべ、やまひをたすくるちからましまさざらんやと申事也。されば後生をいのり、本願をたのむ心もうすき人は、かくのごとく囲繞にも護念にもあづかる事なしとこそ善導はの給ひたれ。<br />
| + | |
− | おなじく念仏すとも、ふかく信をおこして、穢土をいとひ極楽をねがふべき事也。かまへて心をとめて、このことはりをおもひほどきて、一向に信心を至して、つとめさせ給ふべき也。
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− | かやうにこまかに申のべたるをば、わたくしのことばおほくして、あやまりあらんなと、あなずりおぼしめす<span id="P--627"></span>事ゆめゆめあるべからず。ひとへに善導の御ことばをまなび、ふるき文釈の意をぬきいだして申す事也。うたがひをなす心なくて、かまへて心をとどめて御らんじときて、こころえさせ給ふべき也。
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− | あなかしこあなかしこ。
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− | この定にこころえて、念仏申さんにすぎたる往生の義はあるまじき事にて候なり。
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− | :本にいはく、この書はかまくらの二位の禅尼の請によて、しるし進ぜらるる書也。{云云}
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− | 黒谷上人語灯録巻第十二
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− | | + | |
− | ===黒谷上人語灯録第十三===
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− | <span id="P--628"></span>
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− | 厭欣沙門{了恵}集録
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− | | + | |
− | 和語第二之三{当巻有四章}
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− | | + | |
− | 九条殿下の北政所へ進する御返事 第九<br />
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− | 鎌倉の二位の禅尼へ進する御返事 第十<br />
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− | 要義問答 第十一<br />
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− | 大胡太郎へつかはす御返事第 十二<br />
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− | ====九条殿下の北政所へ進する御返事====
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− | [[西方指南抄#(二五)|九条殿下の北政所へ進ずる御返事]]
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− | ====鎌倉の二位の禅尼へ進する御返事====
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− | | + | |
− | [[西方指南抄#(一二)|鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事]]
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− | | + | |
− | ====要義問答====
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− | | + | |
− | [[西方指南抄#(二七)|要義問答]]
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− | | + | |
− | ====大胡太郎實秀へつかはす御返事====
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− | [[西方指南抄#(一五)|大胡の太郎實秀へつかわす御返事]]
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− | | + | |
− | ===黒谷上人語灯録巻第十四===
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− | <span id="P--630"></span>
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− | 厭欣沙門{了恵}集録
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− | 和語第二之四{当巻有九章}
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− | 大胡太郎の妻室へつかはす御返事 第十三<br />
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− | 熊谷の入道へつかはす御返事 第十四<br />
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− | 津戸三郎へつかはす御返事 第十五<br />
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− | 黒田の聖へつかはす御返事 第十六<br />
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− | 越中の光明房へつかはす御返事 第十七<br />
| + | |
− | 正如房へつかはす御文 第十八<br />
| + | |
− | 禅勝房にしめす御詞 第十九<br />
| + | |
− | 十二問答 第二十<br />
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− | 十二箇条問答 第二十一
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− | ====大胡太郎實秀が妻室のもとへつかはす御返事====
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− | | + | |
− | [[西方指南抄#(一四)|大胡の太郎實秀が妻のもとへつかわす御返事]]
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− | | + | |
− | ====熊谷の入道へつかはす御返事====
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− | | + | |
− | [[西方指南抄#(二六)|熊谷へ遣はす書(九月十六日付)]]
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− | ====津戸の三郎入道へつかはす御返事====
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− | [[西方指南抄#(二八)|津戸三郎に答ふる書]]
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− | ====黒田の聖人へつかはす御文====
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− | [[西方指南抄#(二三)|黒田の聖人へつかはす御文]]
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− | <span id="P--632"></span>
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− | | + | |
− | ====越中国光明房へつかはす御返事====
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− | [[西方指南抄#(一七)|越中国光明房へつかはす御返事]]
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− | ====正如房へつかはす御文====
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− | [[西方指南抄#(一六)|正如房へつかわす御文]]
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− | ====禅勝房にしめす御詞====
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− | {{Kaisetu|このご法語は、一念の念仏の無上功徳であることを説き、いのちは刹那刹那の存在であるから、今・いま・今の一声一声の念仏を勧める。また、信に居座れば「信が行をさまたぐる」とし、一声・十声の念仏では不足と思えば「行が信をさまたぐる」と行信不離を説かれる。「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし」である。}}
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− | ;禅勝房にしめす御詞
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− | {{DotUL|阿弥陀仏は、一念となふるを一度の往生にあてがひてをこし給へる本願也。かるがゆへに十念は十度むまるる功徳也。}}一向専修の念仏者になる日よりして、臨終の時にいたるまで申たる一期の念仏をとりあつめて、一度の往生はかならずする事也。
| + | |
− | | + | |
− | 又云、念仏申す機は、むまれつきのままにて申す也。さきの世の業(しわざ)によりて、今生<span id="P--633"></span>の身をはうけたる事なれば、この世にてはえな<ref>胞衣。胎児を包む膜と胎盤。</ref>をしあらためぬ事也。たとへは女人の男子にならばやとおもへども、今生のうちには男子とならざるかごとし。
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− | 智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばおこしてましませ。
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− | 又云、{{DotUL|一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。<br>
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− | かるがゆへに'''信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし'''。}}
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− | 又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。
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− | <span id="P--634"></span>
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− | ====十二の問答====
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− | [[西方指南抄#(二〇)|或人念仏之不審聖人に奉問次第]]
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− | ====十二箇条の問答====
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− | 十二箇条問答
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− | {{Kaisetu|この法語は、問答形式で行と信を説く。念仏が易行であるがゆえの疑問と凡夫の悪業に碍えられない本願を説く。さればとて好んで悪を造ることを誡め、「悪を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて、いましむるがことし」と浄土教の倫理観を説く。}}
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− | | + | |
− | 問ていはく、念仏すれは往生すべしといふ事、耳なれたるやうにありながら、いかなるゆへともしらず。かやうの五障の身までも、すてられぬ事ならば、こまかにをしへさせ給へ。
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− | 答ていはく、およそ生死をいづる行一つにあらずといへども、まづ極楽に往生せんとねがへ、弥陀を念ぜよといふ事、釈迦一代の教にあまねくすすめ給へり。<br />
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− | そのゆへは、阿弥陀仏本願をおこして、わが名号を念せんもの、わが浄土にむまれずは、正覚をとらじとちかひて、すでに正覚をなり給ふゆへに、この名号をとなふるものはかならず往生する也。臨終の時もろもろの聖衆とともにきたりて、かならす迎接し給ふゆへに、悪業としてさふるものなく、魔縁としてさまたぐる事なし。<br />
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− | 男女貴賤をもえらばす、善人悪人をもわかたず、至心に弥陀を念ずるにむまれずといふ事なし。たとへばおもき石をふねにのせつれば、しづむ事なく、万里のうみをわたるがことし。罪業のおもき事は石のごとくなれども、本願のふねにのりぬれは生死<span id="P--635"></span>のうみにしづむ事なく、かならず往生する也。ゆめゆめわが身の罪業によりて本願の不思議をうたがはせ給ふべからず。これを他力の往生とは申也。<br />
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− | 自力にて生死をいでんとするには、煩悩悪業を断じつくして浄土にもまいり菩提にもいたるとならふ、これは歩(かち)よりけはしきみちをゆくがことし。
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− | 問ていはく、罪業おもけれども、智恵の灯をもて煩悩のやみをはらふ事にて候なれば、かやうの愚痴の身には、つみをつくる事はかさなれども、つくのふ事はなし、なにをもてこのつみをけすべしともおほえず候はいかん。
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− | 答ていはく、ただ仏の御詞を信じてうたかひなければ、仏の御ちからにて往生する也。さきのたとへのごとく、ふねにのりぬれば、目しゐたるものも目あきたるものもともにゆくがことし。智恵のまなこある者も、仏を念ぜされは願力にかなはず、愚痴のやみふかきものも、念仏すれは願力に乗ずるなり。念仏する者をば弥陀の光明をはなちてつねにてらして捨給はねば、悪縁にあはずして、必臨終に正念をえて往生する也。さらにわが身の智恵のありなしによりて、往生の定不定をばさだむへからす、ただ信心のふかかるべき也。
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− | 問ていはく、世をそむきたる人は<ref>俗世に背き出家した人。遁世。</ref>、ひとすぢに念仏すれば往生も得やすき事也。かやう<span id="P--636"></span>の身には、あしたにもゆふべにも、いとなむ事は名聞、昨日も今日もおもふ事は利養也。かやうの身にて申さん念仏はいかが仏の御意にもかなひ候べきや。
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− | 答ていはく、浄摩尼珠といふ珠を、にごれる水に投ぐれば、珠の用力にてその水きよくなるがごとし。衆生の心はつねに名利にそみて、にごれる事かの水のごとくなれども、念仏の摩尼珠を投ぐれは、心の水おのづからきよくなりて、往生をうる事は、念仏のちから也。<ref>『浄土論註』に「たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。」とある。</ref><br />
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− | わが心をしづめ、このさわりをのぞきて、後念仏せよとにはあらず、ただつねに念仏して、そのつみをは滅すべし。さればむかしより在家の人、おほく往生したるためしいくばくかおほき。心のしづかならざらんにつけても、よくよく仏力をたのみ、もはら念仏すべし。
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− | 問ていはく、念仏は数遍を申せとすすむる人もあり、又さもなくともなど申人もあり、いづれにかしたがひ候へき。
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− | 答ていはく、さとりもあり、ならふむねもありて申さん事は、その心のうちしりがたけれは、さだめがたし。在家の人の、つねに悪縁にのみしたしまれ、身には数遍を申さずして、いたづらに日をくらし、むなしく夜をあかさん事、荒凉の事にや候はんずらん。凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれば、いかにもいかにもはげむべき事也。
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− | され<span id="P--637"></span>ば処処に、おほく念念相続してわすれざれといへり。
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− | 問ていはく、念念にわすれざる程の事は、わが身にかなひがたくおほえ候へ。又手には念珠をとれとも心にはそぞろ事をのみおもふ、この念仏は往生の業にはかなひがたくや候はんずらん。これをきらはれば、この身の往生は不定なるかたもありぬへし。
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− | 答ていはく、念念にすてざれとおしゆる事は、人のほどにしたがひてすすむる事なれば、わが身にとりて心のおよび、身のはげまん程は、心にはからはせ給ふべし。又念仏の時悪業のおもはるる事は、一切の凡夫のくせ也。<br />
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− | さりながらも往生の心ざしありて念仏せば、ゆめゆめさはりとはなるべからず。たとへば親子の約束をなす人いささかそむく心あれども、さきの約束変改する程の心なければ、おなじ親子なるがごとし。念仏して往生せんと志して、念仏を行ずるに、凡夫なるがゆへに貪瞋の煩悩おこるといへども、念仏往生の約束をひるがへさざれは、かならず往生する也。
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− | 問ていはく、これ程にやすく往生せば、念仏するほどの人はみな往生すべきに、ねがふものもおほく、念するものもおほき中に、往生するもののまれなるは、なにのゆへとか思ひ候へき。<span id="P--638"></span>
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− | 答ていはく、人の心は外にあらはるる事なければ、その邪正さだめがたしといへども、経には三心を具して往生すとみえて候めり。この心を具せざるがゆへに、念仏すれども往生を得ざる也。三心と申は、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心也。<br />
| + | |
− | はしめに至誠心といふは、真実心也と釈して、内外ととのほれる心也。何事をするにも、まことしき心なくては成ずる事なし。人なみなみの心をもて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、浄土のねがはしからぬをねがふ気色をして、内外ととのほらぬをきらひて、まことの志しをもて、穢土をもいとひ浄土をもねがへとおしふる也。<br />
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− | 次に深心といふは、仏の本願を信ずる心也、われは悪業煩悩の身なれども仏の願力にて、かならず往生するなりといふ道理をききてふかく信じて、つゆちりばかりもうたがはぬ心也。人おほくさまたげんとして是をにくみ、これをさへぎれとも、これによりて心のはたらかざるをふかき信とは申也。<br />
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− | 次に迴向発願心といふは、わが修するところの行を迴向して、極楽にむまれんとねがふ心也。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとはおもはず、仏の願力のいみじくおはしますによりて、むまるべくもなきものも生るべしと信じて、いのちおはらば仏必ずきたりてむかへ給べしとおもふ心を、金剛の一切のものにやぶられざるかご<span id="P--639"></span>とく、この心をふかく信じて、臨終までもとほりぬれば、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまるる也。<br />
| + | |
− | さればこの心なきものは、仏を念ずれども順次の往生をばとげず、遠縁とはなるべし。この心のおこりたる事は、わが身にしるべし、人はしるべからず。
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− | | + | |
− | 問ていはく、往生をねがはぬにはあらず、ねがふといへどもその心勇猛ならず、又念仏を賤しと思ふにはあらず、行じながらおろそかにしてあかしくらし候へば、かかる身なれば、いかにもこの三心具したりと申べくもなし。さればこのたびの往生をはおもひたえ候べきにや。
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− | 答ていはく、浄土をねがへともはげしからず、念仏すれども心のゆるらかなる事をなげくは、往生の心ざしのなきにはあらず。心ざしのなき者はゆるらかなるをもなげかず、はげしからぬをもかなしまず。いそくみちにはあしのおそきをなげく、いそがざるみちにはこれをなげかざるかごとし。<br />
| + | |
− | 又このめばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進してかならず往生すべし。日ごろ十悪五逆をつくれるものも、臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。いはんや往生をねがひ、念仏を申してわが心のはげしからぬ事をなげかむ人をば、仏もあはれみ菩薩もまもりて、障りをのぞき、<span id="P--640"></span>知識にあひて、往生をうべき也。
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− | 問ていはく、念仏の行者はつねにいかやうにかおもひ候べき。
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− | | + | |
− | 答ていはく、あるときには世間の無常なる事をおもひて、このよのいくほとなき事をしれ。ある時には、仏の本願をおもひて、かならすむかへ給へと申せ。ある時には人身のうけがたきことはりをおもひて、このたびむなしくやまん事をかなしめ。六道をめぐるに、人身をうる事は、梵天より糸をくだして、大海のそこなる針のあなをとおさんがごとしといへり。ある時は、あひがたき仏法にあへり。このたひ出離の業をうへずは、いつをか期すべきとおもふべき也。ひとたび悪道に堕しぬれば、阿僧祇劫をふれども、三寳の御名をきかず、いかにいはんやふかく信ずる事をえんや。<br />
| + | |
− | ある時にはわが身の宿善をよろこぶべし。かしこきもいやしきも人おほしといへども、仏法を信じ浄土をねがふものはまれ也。信ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて悪道の因をのみつくる。しかるにこれを信じこれを貴びて、仏をたのみ往生を志す、これひとへに宿善のしからしむる也。ただ今生のはげみにあらす、往生すべき期のいたれる也とたのもしくよろこぶべし。かやうの事を、おりにしたがひ、事によりておもふべき也。<span id="P--641"></span>
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− | 問ていはく、かやうの愚痴の身には聖教をもみず、悪縁のみおほし。いかなる方法をもてか、わが心をまもり、信心をももよほすべきや。
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− | 答ていはく、そのやう一つにあらず。あるひは人の苦にあふをみて、三途の苦をおもひやれ、あるひは人のしぬるを見て、無常のことはりをさとれ、あるひは、つねに念仏してその心をはげませ、あるひはつねによき友にあひて、心をはぢしめられよ。人の心はおほく悪縁によりてあしき心のおこる也。されば悪縁をばさり、善縁にちかづけといへり、これらの方法ひとしなならず、時にしたがひてはからふべし。
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− | 問ていはく、念仏の外の余善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。
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− | 答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷属のゆくがごとし。往生の業の中に念仏は主人也、余の善は眷属也。しからば余善をきらふまではあるへからず。
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− | 問ていはく、本願は悪人をきらはねばとて、このみて悪業をつくる事はしかるべしや。
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− | 答ていはく、仏は悪人をすて給はねとも、このみて悪をつくる事、これ仏の弟子<span id="P--642"></span>にはあらず。一切の仏法に悪を制せずといふ事なし。悪を制するに、かならずしもこれをとどめ得ざるものは、念仏してそのつみを滅せよとすすめたる也。わが身のたへねばとて、仏にとがをかけたてまつらん事は、おほきなるあやまり也。わが身の悪をとどむるにあたはずは、ほとけ慈悲をすて給はずして、このつみを滅してむかへ給へと申べし。つみをばただつくるへしといふ事は、すべて仏法にいはざるところ也。<br />
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− | {{DotUL|たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに其中によき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすといへども、悪を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて、いましむるがことし。仏の慈悲のあまねき事をききては、つみをつくれとおぼしめすといふおもひをなさば、仏の慈悲にももれぬべし。悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけては、いよいよ仏の知見をばはづへし、かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて悪を行ぜんに、その父母よろこぶべしや、'''なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。仏も又もてかくのごとし'''。}}
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− | | + | |
− | 問ていはく、凡夫は心に悪をおもはずといふ事なし。この悪を外にあらはさざるは、仏をばはぢずして、人目をはばかるといふ物なり。これは心のままにふるまふべしや。<span id="P--643"></span>
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− | | + | |
− | 答ていはく、人の帰依を得むとおもひて、外をかざらんはとがあるかたもやあらん、悪をしのばんがために、たとひ心におもふとも、ほかまではあらはさじとおもひて、おさへん事は、すなはち仏に耻る心也。とにもかくにも悪をしのびて、念仏の功をつむべき也。習ひさきよりあらざれは、臨終正念もかたし。常に臨終のおもひをなして、臥(ふす)ごとに十念をとなふべし<ref>法然聖人のお歌に「阿弥陀仏と十こゑとなへてまとろまん なかきねむりになりもこそすれ」がある。就寝する毎に布団の上でなんまんだぶを称えよ、ということ。</ref>。さればねてもさめてもわするる事なかれといへり。おほかたは世間も出世も、道理はたがはぬ事にて候也。心ある人は、父母あはれみ、主君もはぐくむにしたがひて、悪事をばしりぞき、善事をばこのまんと思へり。悪人をもすて給はぬ本願ときかんにも、まして善人をば、いかばかりかよろこび給はんと思ふべき也。<br />
| + | |
− | 一念・十念をもむかへ給ふときかば、いはんや百念・千念をやとおもひて、心のおよび、身のはげまれん程ははげむべし。さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらず、仏の引接をばうたがふべからず。たとひ七・八十のよはひを期すとも、おもへは夢のごとし。いはんや老少不定なれば、いつをかぎりとおもふべからず、さらに後を期する心あるべからず、ただ一すぢに念仏すべしといふ事、そのいはれ一にあらず。
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− | | + | |
− | :これを見むおりおりことにおもひいでて南無阿弥陀仏とつねにとなへよ。
| + | |
− | <span id="P--644"></span>
| + | |
− | | + | |
− | 黒谷上人語灯録巻第十四
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− | <span id="P--645"></span>
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− | | + | |
− | ===黒谷上人語灯録巻第十五===
| + | |
− | 厭欣沙門{了恵}集録
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− | | + | |
− | 和語第二之五{当巻有三章}
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− | | + | |
− | 一百四十五箇条問答 第二十二<br />
| + | |
− | 上人と明遍との問答 第二十三<br />
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− | 諸人伝説の詞 第二十四{御歌附}
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− | | + | |
− | ====一百四十五箇条問答====
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− | {{Kaisetu|法然聖人在世の頃の、物忌みにがんじがらめになっていた人々に対する逐次的な問いと法然聖人の答え。タブーに対する忌みが宗教だと錯覚している現代人にも通ずる法語である。ちなみに迷信や奇跡を否定するのは、浄土真宗とマルキストとプロテスタントである。}}
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− | ;一百四十五箇条問答
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− | 一。ふるき堂塔を修理して候はんをは、供養し候へきか
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− | 答。かならす供養すへしといふ事も候はす。又供養して候はんもあしき事にも候はす。功徳にて候へは又供養せねばとてつみをえ、あしき事と申にても候はす。<span id="P--646"></span>
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− | | + | |
− | 一。仏の開眼と、供養とは一つ事にて候か。
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− | 答。開眼と供養とは、別の事にて候へきを、おなし事にしあひて候也。開眼と申すは、本躰は、仏師かまなこをいれひらきまいらせ候を申候也。これをは事の開眼と申候也。つぎに僧の仏眼の真言をもて、まなこをひらき、大日の真言をもて、ほとけの一切の功徳を成就し候をは、理の開眼と申候也。つぎに供養といふは、ほとけに、花香仏供、御あかしなとをもまいらせ、さらぬたからをもまいらせ候を、供養とは申候也。
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− | | + | |
− | 一。この真如観は、志候へき事にて候か。
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− | 答。これは恵心のと申て候へとも、いらぬ物にて候也。
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− | おほかた真如観は、われら衆生は、えせぬ事にて候程に、往生のためには、成へきともおもはれぬことにて候へは、無益に候。
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− | | + | |
− | 一。又これに計算して候ところは、何事もむなしと観ぜよと申て候。空観と申候は、これにて候な。されは観し候へきやうは、たとへはこの世のことを執著して、思ふましきとをしへて候と見えて候へは、おほやう御らんのためにまいらせ候。
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− | 答。これはみな理観とてかなはぬ事にて候也。僧のとしころならひたるだにもえせず、まして女房なとの、つやつや案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候也。御たづねまでも無益にて候。<span id="P--647"></span>
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− | 一。この七仏<ref>過去七仏のこと。釈尊が世に出るまえに出られた仏、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏をいう。</ref>の名号をとなふべき様とて、人のたびて候ままに信じ候へは、つみはうせ候べきか。なに事もそれよりおほせ候御事は、たのもしく候ひて、かやうに申候。
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− | 答。これさなくとも候なん。念仏にこれらのつみのうせ候ましくはこそ候はめ。
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− | 一。一文の師をもをろそかに申候へは、習ひたる物の冥加なしと申候は、まことにて候か。
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− | 答。師のことはをろそかならず候、恩の中にふかき事これにすぎ候はす。
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− | 一。心を一つにして念し候はは、心よくなをり候はずとも、何事ををこなひ候はずとも、念仏はかりにて浄土へはまいり候へきか。
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− | 答。心のみだるるは、この凡夫の習ひにて、ちからをよはぬ事にて候。ただ心を一にして、よく御念仏せさせ給ひ候はは、そのつみを滅して、往生せさせ給ふへき也。その妄念よりもおもきつみも、念仏だに申候へは、うせ候也。
| + | |
− | | + | |
− | 一。経の陀羅尼は、灌頂の僧にうけ候へきか。
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− | | + | |
− | 答。『法花経』のはくるしからす。灌頂の僧のうけさする陀羅尼は、別の事に候。それはおほめしよらざれ。
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− | | + | |
− | 一。普賢経に、仏の母を念ずへしと申候は。<span id="P--648"></span>
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− | 答。いさおほえす。
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− | | + | |
− | 一。百日のうちの、赤子の不浄かかりたるは、物まうでにはばかりありと申たるは。
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− | 答。百日のうちのあか子の不浄くるしからす。なにもきたなき物のつきて候はんは、きたなくこそ候へ赤子にかきるまし。
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− | 一。念仏の百万遍、百度申てかならす往生すと申て候に。いのちみじかくてはいかがし候へき。
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− | | + | |
− | 答。これもひが事に候。百度申てもし候。十念申てもし候。又一念にてもし候。
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− | | + | |
− | 一。阿弥陀経十万巻よみ候へしと申て候は、いかに。
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− | | + | |
− | 答。これもよみつべからんにとりての事に候。ただつとめを、たかくつみ候はんれうにて候。
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− | 一。日所作は、かならすかずをきはめ候はすとも、かぞへられんにしたがひてかぞへ、念仏も申候へきか。
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− | | + | |
− | 答。かずをさだめ候はねは、懈怠になり候へは、かずをさだめたるがよき事にて候。
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− | | + | |
− | 一。にら、き、ひる、ししをくひて、香うせ候はずとも、つねに念仏は申候へきやらん。
| + | |
− | | + | |
− | 答。念仏はなににもさはらぬ事にて候。<span id="P--649"></span>
| + | |
− | | + | |
− | 一。六斎に、斎をし候はんには、かねて精進をし、いかけ<ref>沃懸け。水を注ぎかけて身を清めること。沐浴。</ref>をし、よき物をきてし候べきか。
| + | |
− | | + | |
− | 答。かならすさ候はずとも候なん。
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− | | + | |
− | 一。一七日二七日なと服薬し候はんに、六斎の日にあたりて候はんをは、いかがし候へき。
| + | |
− | | + | |
− | 答。それちからをよはぬ事にて候。されはとて罪にては候まじ。
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− | | + | |
− | 一。六斎は一生すべく候か、何年すべく候そ。
| + | |
− | | + | |
− | 答。それも御心によるべき事にて候。いくらすへしと申事は候はず。
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− | 一。念仏をは、日所作にいくらばかりあててか、申候へき。
| + | |
− | | + | |
− | 答。念仏のかずは、一万遍をはしめにて、二万・三万・五万・六万、乃至十万まて申候也。この中に、御心にまかせて、おぼしめし候はん程を、申させおはしますへし。
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− | | + | |
− | 一。阿弥陀経をは、一日に何巻ばかりあててか、よみ候べき。
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− | | + | |
− | 答。阿弥陀経はちかひて一生中に、十万巻をだにもよみまいらせ候ぬれは、决定して往生すと、善導和尚のおほせられて候也。毎日に十五巻つつよめは、二十年に十万巻にみち候也。三十巻つつよめは、十年にみち候也。<span id="P--650"></span>
| + | |
− | | + | |
− | 一。五色のいとは、ほとけには、ひだりにとをほせ候き。わがてには、いづれのかたにていかがひき候へき。
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− | 答。左右の手にてひかせ給ふへし。
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− | 一。仏の名をもかき、貴き事をもかきて候を、あだにせじとて、やき候は罪をうるに、誦文をしてやくと申候は、いかか候へき。
| + | |
− | | + | |
− | 答。さる反故やき候はんに、何条の誦文か候へき、しかれどもやくは罪にて候。おほかたは法文をは、うやまふ事にて候へは、ただきよきところに埋ませ給ふへし。
| + | |
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− | 一。戒うけ候時、和尚となり給へ、阿闍梨となり給へと申事の候、心え候はす。なにといふ事にて候そ。
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− | 答。和尚と申候は、まさしく戒うくる根本の師を申候也。阿闍梨と申候は、戒をうくる時作法をいたす師にて候也。これをは羯磨阿闍梨と申候也。
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− | | + | |
− | 一。斎し候は功徳にて候やらん、かならすすへき事にて候やらん。
| + | |
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− | 答。斎は功徳をうる事にて候也。六斎の御斎ぞさも候ひぬへき。又御大事にて御やまひなともをこらせおはしましぬへく候はは、さなくとも、ただ御念仏だにもよくよく候はは、それにて生死をはなれ、浄土にも往生せさせおはしまさんずる事は、これ<span id="P--651"></span>によるべく候。
| + | |
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− | 一。臨終のおり、阿弥陀の定印なとをならひて、五色の糸とひかへ候やらん。たださ候はずとも、左右の手にひかへ候やらん。
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− | 答。かならす定印をむすふべきにても候はす、ただ合掌を本躰にてその中にひかへられ候へし。
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− | 一。ちかくてかならすしも、見まいらせ候はねとも、とをらかにて、ひかへ候やらん。
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− | 答。とをくも、ちかくも、便宜によるべく候。いかなるもくるしく候はす。
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− | 一。かならす仏を見、糸をひかへ候はずとも、われは申さずとも、人の申さん念仏をききても、死候はは浄土には往生し候へきやらん。
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− | 答。かならす糸をひくといふ事候はす。仏にむかひまいらせねども、念仏だにもすれは往生し候也。又ききてもし候。それはよくよく信心ふかくての事に候。
| + | |
− | | + | |
− | 一。ながく生死をはなれ、三界にむまれしとおもひ候に、極楽の衆生となりても、又その縁つきぬれはこの世にむまるると申候は、まことにて候か。たとひ国王ともなり、天上にもむまれよ、ただ三界をわかれんとおもひ候に、いかにつとめをこなひてか。還り候はざるへき。<span id="P--652"></span>
| + | |
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− | 答。これもろもろのひが事にて候。極楽へ一たびむまれ候ぬれは、ながくこの世にかへる事候はす、みな仏に成ことにて候也。ただし人をみちびかんためには、ことさらに還る事も候、されとも生死にめくる人にては候はず。三界をはなれ、極楽に往生するには、念仏にすぎたる事は候はぬ也。よくよく御念仏候へき也。
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− | 一。女房の聴聞し候に、戒をたもたせ候をやぶり候はんずればとて、たもつとも申候はぬは、いかか候へき。ただ聴聞の塲にては、一時もたもつと申候が、めてたき事と申候は、まことにて候か。
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− | 答。これはくるしく候はず。たとひのちにやぶれ候とも、その時たもたんとおもふ心にて、たもつと申すはよき事にて候。
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− | 一。仏の薄(金箔)ををして、又供養し候か。
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− | 答。さ候はすとも。
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− | 一。所作をかきて人にし入させ候は、いかか候へき。<ref>日課の念仏を欠きながら人に勧めるのはどのようでしょう。答。そのように考えなくてもよろしい。</ref>
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− | 答。さなくとも候ひなむ。
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− | 一。巻経を草子にたたむは、罪と申候はいかか候へき。
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− | 答。つみをえぬ事にて候。<span id="P--653"></span>
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− | 一。ほとけに具する経を、とりはなちて人にもたぶはつみにて候か。
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− | 答。ひろむるは功徳にて候。
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− | 一。一部とある経、一巻つつとりはなちてよまんは、つみにて候か。
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− | 答。つみにても候はす。
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− | 一。ほとけに厨子をさしてすへまいらせては、供養すべく候か。
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− | 答。一切あるまじ。
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− | 一。不軽<ref> 法華経・常不軽菩薩品に説かれる常不軽菩薩のこと。</ref>のことく、人をおかむ事し候べきか。
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− | 答。このころの人の、え意えぬ事にて候也。
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− | 一。七歳の子しにて、いみなしと申候はいかに。
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− | 答。仏教にはいみといふ事なし、世俗に申したらんやうに。
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− | 一。仏ににかは(膠)を具し候がきたなく候、いかかし候へき。
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− | 答。まことにきたなけれとも、具せではかなふまじけれは。
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− | 一。尼の服薬し候は、わろく候か。
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− | | + | |
− | 答。やまひにくふはくるしからす。たたはあしく候。
| + | |
− | | + | |
− | 一。父母のさきに死ぬるは、つみと申候はいかに。<span id="P--654"></span>
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− | 答。穢土のならひ、前後ちからなき事にて候。
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− | 一。いきてつくり候功徳はよく候か。
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− | 答。めでたし。
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− | 一。人のまもりをえて<ref>祈祷などによって護ってもらったという意か。</ref>候はんは、供養し候へきか。
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− | | + | |
− | 答。せずともくるしからす。
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− | | + | |
− | 一。わわく<ref>枉惑。人をたぶらかすような者。</ref>に物くるるは、つみにて候か。
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− | 答。つみにて候。
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− | 一。経をして供養せすとも、くるしからす候か。
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− | 答。ただよむへし。
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− | 一。経千部よみては、供養し候へきか。
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− | 答。さも候まし。
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− | 一。懺悔の事、幡や花鬘なとかざり候へきか。
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− | 答。さらでも、たた一心ぞ大切に候。
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− | 一。花香をほとけにまいらせ候事は。
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− | 答。暁は供養法にかならすまいらせ候。ただは花瓶にさしちらしても供養<span id="P--655"></span>すへし。香はかならずたくへし、便あしくはなくとも。<ref>都合が悪くて出来ない時は、なくとも仕方ありません。</ref>
| + | |
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− | 一。経をは、僧にうけ候べきか。
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− | 答。われとよみつへくは、僧にうけすとも。
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− | 一。聴聞ものまうでは、かならずし候へきか。
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− | 答。せずとも、中中わろく候。しづかにたた御念仏候へ。
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− | 一。神に後世申候事いかむ。
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− | 答。仏に申すにはすぐまし。
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− | 一。説経師は、つみふかく候歟。又妻にならんものもつみふかしと申候は、まことにて候か。
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− | 答。本躰は功徳をうへく候に、末世のはつみをえつべし、妻にならんものは、つみ。
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− | 一。麝香・丁子をもち候は、つみにて候か。
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− | 答。かをあつむるは、つみ。
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− | 一。妻、おとこに経ならふ事、いかか候へき。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。還俗のものに目を見あはせずと申候は、まことにて候か。
| + | |
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− | 答。さまでは不説、ひが事。<span id="P--656"></span>
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− | 一。還俗を心ならずして候はんは、罪いかに。
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− | 答。あさく候。
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− | 一。神仏へまいらんに、三日一日の精進、いづれかよく候。
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− | 答。信を本にす。いくかといふ本説なし、三日こそよく候はめ。
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− | 一。歌よむはつみにて候か。
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− | 答。あながちにえ候はじ。ただし罪もえ、功徳にもなる。
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− | 一。さけのむは、つみにて候か。
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− | 答。まことにはのむべくもなけれども、この世のならひ。
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− | 一。魚・鳥・鹿は、かはり候か。<ref>魚や鳥や鹿を食べることはどうでしょうか。</ref>
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− | 答。ただおなし事。
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− | 一。尼になりて、百日精進はよく候か。
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− | 答。よし。
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− | 一。仏つくりて、経はかならす具し候へきか。
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− | 答。かならす具すへしとも候はす、又具してもよし。
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− | 一。功徳は身のたふるほどど申候は、まことにて候か。<span id="P--657"></span>
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− | 答。沙汰にをよひ候はす、ちからのたふるほと。
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− | 一。経と仏と、かならす一度にすへ候か。
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− | 答。さも候はす、ひとつつつも。
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− | 一。錫杖は、かならす誦すへきか。
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− | 答。さなくとも、そのいとまに念仏一遍も申へし。あま法師こそありく時、むしのために誦し候へ。
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− | 一。いみの日、物まうでし候はいかに。
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− | 答。くるしからす、本命日にも。
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− | 一。五逆十悪、一念十念にほろび候か。
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− | 答。うたがひなく候。
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− | 一。臨終に、善知識にあひ候はずとも、日ころの念仏にて往生はし候へきか。
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− | 答。善知識にあはずとも、臨終おもふ様ならずとも念仏さへ申さは往生すへし。
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− | 一。誹謗正法は、五逆のつみにおほくまされりと申候はまことにて候か。
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− | 答。これはいと人のせぬ事にて候。
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− | 一。死て候はんもののかみは、そり候へきか。<span id="P--658"></span>
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− | 答。かならすさるまし。<ref>必ずしも、そうするのではありません。</ref>
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− | 一。心に妄念のいかにも思はれ候は、いかかし候へき。
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− | 答。ただよくよく念仏を申させ給へ。
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− | 一。わかれうの、臨終の物の具、まづ人にかし候はいかか候へき。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。五色のいとをうむ<ref>績む。糸をよりあわせる事。</ref>事はいかか。
| + | |
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− | 答。おさなきものに、うます。
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− | 一。節ある楊枝をはつかはず、続帯・青帯・無文の帯するはいむと申候は。<ref>臨終の時、節のある楊枝を用いないことや、続帯や青帯とか無文の帯をするのは忌みを避ける為だということですが。</ref>
| + | |
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。服薬のわた(綿)は、あらひ候はざらんはいかか候。
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− | 答。くるしからす。
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− | | + | |
− | 一。よき物をき、わろきところに居て、往生ねかひ候はいかか。
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− | | + | |
− | 答。くるしからす。八斎戒の時こそ、さは候はめ。
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− | 一。月のはばかりの時、経よみ候はいかか。
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− | 答。くるしみあるへしとも見えす候。<span id="P--659"></span>
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− | 一。申す事のかなひ候はぬに、仏をうらみ申はいかか。
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− | 答。うらむへからす。縁により信のありなしによりて、利生はあり、この世のちの世、仏をたのむにはしかす。
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− | 一。ひる・ししは、いづれも七日にて候か。又ししの干たるは、いみふかしと申候はいかに。
| + | |
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− | 答。ひるも香うせなははばかりなし。ししのひたる<ref>ひたるは干たるで。干したしし(肉)のこと。</ref>によりて、いみふかしといふ事はひが事。
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− | 一。月のはばかりのあひだ、神の料に、経はくるしく候まじきか。
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− | 答。神やはばかるらん。仏法にはいまず、陰陽師にとはせ給へ。
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− | 一。子うみて、仏神へまいる事、百日はばかりと申候は、まことにて候か。
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− | 答。それも仏法には、いまず。
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− | 一。法花経一品よみさして、魚くはずと申候はいかに。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。ずずもたず、かけおびかけずして、経をうけ候事はいかに。
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− | 答。くるしからす。<span id="P--660"></span>
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− | 一。斎にまめ・あづきの御れうくはせずと申候は、まことにて候か。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。ねてもさめても、口あらはて念仏申候はんは、いかか候へき。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。信施をうくるは、つみにて候か。
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− | 答。つとめしてくふ僧はくるしからず、せねばふかし。
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− | 一。神のあたりの物くふは、くちなは(蛇)と申候はいかに。
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− | 答。禰宜・神主は、ひとへにその身になるにこそ、さらぬが、すこしくはんはおもからじ。
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− | 一。僧の物くひ候も、つみにて候か。
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− | 答。つみうるも候、えぬも候。仏のもの、奉加結縁の物くふは、つみ。
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− | 一。大仏・天王寺なとの辺に居て、僧の物くひて、後世とらんとし候人は、つみか。
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− | 答。念仏だに申さは、くるしからす。
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− | 一。斎するあした、御れう<ref>御料、食料のこと。お斎の食料を数多く集めるのはどうでしょうと問いている。</ref>あまたにむかふはいかか候。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。斎をつとめて見そうず、いかに。<span id="P--661"></span>
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。戒をたもちて、のち精進はいく日し候。
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− | 答。いくかも御心まかせ。
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− | 一。聴聞は功徳をえ候か。
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− | 答。功をえ候。
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− | 一。念仏を行にしたるものが、物まうではいかに。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。物まうでして、経を廻向すべきに、経をはよまで、念仏を廻向する、くるしからすと申候はいかに。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。わが心ざさぬ魚は、殺生にては候はぬか。
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− | 答。それは殺生ならす。
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− | 一。服薬のずずは、あらひ候へきか。
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− | 答。あらひあらはす、くるしからす。
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− | 一。千手・薬師は、ものいませ給ふと申いかに。<span id="P--662"></span>
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− | 答。さる事なし。
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− | 一。六斎に、にら・ひる、いかに。
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− | 答。めさざらんはよく候。
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− | 一。斎のくひ物は、きよくし候へきか。
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− | 答。例の定、行水も候まじ。かねて精進も候まじ。ひきいれ(入れ物)も、たたのおり(折箱)のにて候へし。斎の誦文も女房はせずとも、ただ念仏を申させ給へ。さしたる事ありて、斎をかきたらは、いつの日にてもせさせ給へ。
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− | 一。三年おがみ(三回忌)の事。し候へきか。
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− | 答。さらずとも候なん。
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− | 一。斎のさば(生飯)には、菜を具し候へきか。斎の生飯をは、屋のうへにうちあげ候へきか。かはらけにとり候へきか、わがひきいれのさらにとり候へきか。
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− | | + | |
− | 答。いつれも御心したい。
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− | 一。女のものねたむ事は、つみにて候か。
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− | 答。世世に女となる果報にて、ことに心うき事也。
| + | |
− | | + | |
− | 一。出家し候はねども、往生はし候か。<span id="P--663"></span>
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− | 答。在家ながら往生する人おほし。
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− | 一。五色の糸を、あまたにきりて、人にたまはんは、いかか候へき。
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− | 答。きるべからす。
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− | 一。念仏を申候に、はらのたつ心のさまざまに候、いかがし候へき。
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− | 答。散乱の心、よにわろき事にて候、かまへて一心に申させ給へ。
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− | | + | |
− | 一。かみ(髪)つけながら、おとこをんなの死候は、いかに。
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− | | + | |
− | 答。かみにより候はす、ただ念仏と見えたり。
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− | 一。尼の子うみ、おとこもつ事は、五逆罪ほどと申、まことにて候か。
| + | |
− | | + | |
− | 答。五逆ほどならねとも、おもく見えて候。
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− | | + | |
− | 一。尼法師、かみをおほす(髪をはやす)、つみにて候か。
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− | 答。三悪道の業にて候。
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− | 一。経仏なとうり候は、つみにて候か。
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− | 答。つみふかく候。
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− | 一。人をうり候も、つみにて候か。
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− | | + | |
− | 答。それもつみにて候。<span id="P--664"></span>
| + | |
− | | + | |
− | 一。精進の時つめきらすと申、又女にかみそらせぬと申候、いかに。
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− | | + | |
− | 答。みなひが事。
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− | 一。われも人も、さゑもん<ref>祭文。死者をとぶらう時などに哀悼を示す文。</ref>かく、罪にて候か。
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− | | + | |
− | 答。すごさざらんには、なにか罪にて候へき。
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− | | + | |
− | 一。酒のいみ、七日と申候は、まことにて候か。
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− | | + | |
− | 答。さにて候。されどもやまひには、ゆるされて候。
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− | 一。魚鳥くひては、いかけして、経はよみ候へきか。
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− | | + | |
− | 答。いかけしてよむ本躰にて候。せでよむは、功徳と罪と、ともに候。たたしいかけせでも、よまぬよりはよむはよく候。
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− | | + | |
− | 一。妻おとこ一つにて、経よみ候はん事、いかけし候へきか。
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− | 答。これもおなし事。本躰はいかけしてよむへく候、念仏はせでもくるしからす、経はいかけしてよみ候へし、毎日よみ候とも。
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− | | + | |
− | 一。大根・柚は、をこなひ(仏前でのお勤め)にはばかり候と申は、いかに。
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− | | + | |
− | 答。はばかりなし。
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− | | + | |
− | 一。尼になりたるかみ、いかがし候へき。<span id="P--665"></span>
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− | 答。経の料紙にすき、もしは仏の中にこそはこめ候へ。
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− | 一。尼法師の紺のきぬ著候はいかに。
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− | | + | |
− | 答。よに(非常に)罪うる事にて候。
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− | 一。物まうでし候はんに、男女かみあらひ、せめてはいただきあらふと申候は、まことにて候か。
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− | | + | |
− | 答。いづれもさる事候はす。
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− | 一。仏をうらむる事は、あるまじき事にて候な。
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− | 答。いかさまにも、仏をうらむる事なかれ。信あるものは大罪すら滅す。信なき者は小罪だにも滅せす、わが信のなき事をはづへし。
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− | | + | |
− | 一。八専<ref>陰陽道で、壬子の日から癸亥の日までの一二日のうち、丑・辰・午・戌の日を除いた八日をいう。</ref>に、物まうでせすと申は、まことにて候か。
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− | 答。さる事候はず。いつならんおりにも、仏の耳にきかせ給はぬ事の、なじか候へき。
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− | 一。灸治の時、物まうでせず、そのおりの著物も、すつると申候は。
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− | | + | |
− | 答。これも又きはめたるひが事にて候。ただ灸治をいたはりて、ありきなどをせぬ事にてこそ候へ、灸治のいみある事候はす。
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− | 一。ひるししくひて、三年がうちに死候人は、往生せずと申候は、まことにて候やらん。<span id="P--666"></span>
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− | 答。これ又きはめたるひが事にて候。臨終に五辛くひたる者をはよせずと申たる事は候へとも、三年まていむ事はおほかた候はぬ也。
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− | 一。厄病やみて死ぬる者、子うみて死ぬる者は、つみと申候はいかに。
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− | 答。それも念仏申せは往生し候。
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− | 一。子の孝養おやのするは、うけずと申候はいかに。
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− | 答。ひが事なり。
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− | 一。産のいみいくかにて候そ、又いみもいくかにて候そ。
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− | 答。仏教には、いみといふ事候はす。世間には産は七日、又三十日と申げに候。いみも五十日と申す、御心まかせに候。
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− | 一。没後の仏経しをく事は、一定すへく候か。
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− | 答。一定にて候、すへく候。
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− | 一。所作かきてしいれ、かねてかかんするを、まづ候はいかに。<ref>毎日しなければならないお念仏を欠いたとき無理(しいて)につとめ、欠くかもしれないお念仏をあらかじめつとめておくのは、どうですか。</ref>
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− | 答。しいるるはくるしからす、かねては懈怠也。
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− | 一。出家は、わかきとおひたると、いづれか功徳にて候。
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− | 答。老ては功徳ばかりえ候、わかきはなをめてたく候。<span id="P--667"></span>
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− | 一。仏に花まいらする誦文、御らんのためにまいらせ候。
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− | 答。これせんなし。念仏を申させ給へ。
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− | 一。いみの者の、ものへまいり候事は、あしく候か。
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− | 答。くるしからす。
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− | 一。物まうてして、かへさにわがもとへ、返らぬ事はあしく候か。又魚鳥にやがてみだれ候事いかに。<ref>神社に参詣したとき、帰りに来たと同じ道を通らないのは悪いことですか。また、魚や鳥にうつつをぬかしことは、どうですか。</ref>
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− | 答。熊野のほかはくるしからす。
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− | 一。斎のおりの誦文は、かく し候へしと申候、御らんのためにまいらせ候。
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− | 答。斎のおりも、ただ念仏を申させ給へ、女房は誦文せずとも。
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− | 一。女房の物ねたみの事、されはつみふかく候な。
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− | 答。ただよくよく一心に念仏を申させ給へ。
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− | 一。桐のはい、かみ(紙)につくるは、仏神に申事のかなはぬと申候は、まことにて候か。
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− | 答。そら事なり。
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− | 一。物へまいり候精進、三日といふ日まいり候へきか、四日のつとめでか。
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− | 答。三日のつとめでまいる。<span id="P--668"></span>
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− | 一。物こもりして候に、三日とおもひ候はんは四日になしていで、七日とおもひて候はんは八日になしていで候へきか。
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− | 答。それは世の人のせんように。
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− | 一。ずずに、さくら・くり、いむと申候はいかに。
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− | 答。さる事候はす。
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− | 一。法師のつみは、ことにふかしと申候は。
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− | 答。とりわき候はす。
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− | 一。現世をいのり候に、しるしの候はぬ人はいかに候ぞ。
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− | 答。現世をいのるに、しるしなしと申事、仏の御そらことには候はす。わが心の説のことくせぬによりてしるしなき事は候也。されはよくするにはみなしるしは候也。観音を念するにも、一心にすれはしるし候。もし一心なけれはしるし候はす。むかしの縁あつき人は、定業すらなを転ず、むかしもいまも縁あさき人は、ちりはかりのくるしみにだにもしるしなしと申て候也。仏をうらみおほしめすへからす。ただこの世、のち世のために仏につかへんには、心を至し、実をはげむ事、この世もおもふ事かなひ、のちの世も浄土にむまるる事にて候也。しるしなくは、わか心をはづへし。
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− | <span id="P--669"></span>
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− | :建仁元年十二月十四日、けざん(見参)にいりて、とひまいらする事。
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− | 一。臨終の時不浄のものの候には、仏のむかへにわたらせ給ひたるも、かへらせ給ふと申候は、まことにて候か。
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− | 答。仏のむかへにおはしますほどにては、不浄のものありといふとも、なじかはかへらせ給へき。仏はきよききたなきの沙汰なし。ただ念仏ぞよかるへききよくとも念仏申さざらんには益なし、万事をすてて念仏を申すへし、証拠のみをほかり。
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− | :これは御文にてたつね申す。
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− | 一。家のうちのもののしたしき・うときをきらはす、往生のためとをもひて、くひ物きものたまはんは、仏に供養せんとをなし事にて候か。
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− | 答。したしき・うときをえらはす。往生のためとおほしめして、物たびおはしまさん、めてたき功徳にて候。御つかひによくよく申候ぬ。
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− | 一。破戒の僧、愚痴の僧、供養せんも功徳にて候か。
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− | 答。破戒の僧、愚痴の僧を、すゑの世には、仏のことくたとむへきにて候也。この御つか<span id="P--670"></span>ひに申候ぬ、きこしめし候へ。
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− | :この御ことはは、上人のまさしき御手也。あみた経のうらにをしたり。見参にいりてうけ給はる事。
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− | 一。毎日の所作に、六万十万の数遍を、ずずをくりて申候はんと、二万・三万をずずをたしかにひとつつつ申候はんと、いつれかよく候へき。
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− | 答。凡夫のならひ。二万・三万あつとも如法にはかなひがたからん。ただ数遍のおほからんにはすぐへからす、名号を相続せんため也。かならずしもかずを要とするにはあらす、たたつねに念仏せんがためなり。かずをさためぬは懈怠の因縁なれは、数遍をすすむるにて候。
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− | 一。真言の阿弥陀の供養法は、正行にて候へきか。
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− | 答。仏躰は一つに似たれとも、その意不同なり。真言教の弥陀は、これ己心の如来、ほかをたずぬへからす。この教の弥陀は、これ法蔵比丘の成仏也。西方におはしますゆへに、その意おほきにことなり。
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− | '''一。つねに悪をとどめ、善をつくるべき事をおもはへて念仏申候はんと、ただ本願をたのむばかりにて、念仏を申候はんと、いづれかよく候べき。'''<span id="P--671"></span>
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− | '''答。廃悪修善は、諸仏の通戒なり。しかれども、当世のわれらは、みなそれにはそむきたる身なれば、ただひとへに、別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智、持戒・破戒をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候なり。御意え候へ。'''
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− | ====上人と明遍との問答====
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− | {{Kaisetu| [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%81%8D 明遍僧都]が、まったく挨拶なしに、単刀直入に念仏の義を問われたことに対する法然聖人のお答え。もちろん帰り際の挨拶もないのだが、まさに禅語における挨拶のようなご法語である。「ただ詮ずるところ、おほらかに念仏を申候が第一の事にて候」に尽きている。}}。
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− | ;上人と明遍との問答
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− | 明遍問たてまつりての給はく。末代悪世のわれらがやうなる罪濁の凡夫、いかにしてか生死をはなれ候へき。
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− | 上人答ての給はく、南無阿弥陀仏と申して、極楽を期するばかりこそ、しえつへき事と存して候へ。
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− | 僧都のいはく。それは形の様に、さ候へきかと存して候。それにとりて、决定をせん料に申つるに候。それに念仏は申候へとも、心のちるをはいかがし候へき。
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− | 上人答ていはく。それは源空もちからをよび候はす。
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− | 僧都のいはく。さてそれをはいかがし候へき。<span id="P--672"></span>
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− | 上人のいはく。ちれども名を称すれは、仏の願力に乗じて、往生すべしとこそ意えて候へ。ただ詮ずるところ、おほらかに念仏を申候が第一の事にて候也。
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− | 僧都のいはく。かう候そうろう、これうけ給はりにまいりつるに候と。{これより前後には、いささかも詞なくていてられにけり。}
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− | 上人又僧都退出の後、当座のひじりたちにかたりての給はく。欲界散地にむまれたるものはみな散心あり。たとへは人界の生をうけたる物の、目鼻のあるがことし。散心をすてて往生せんといはん事、そのことはりしかるへからす。散心ながら念仏申すものか往生すれはこそ、めてたき本願にてはあれ。この僧都の念仏申せども、心のちるをはいかがすへきと不審せられつるこそ、いはれずおほゆれと。{云云}
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− | ====諸人伝説の詞====
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− | 諸人伝説の詞 {御歌附}
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− | 隆寛律師のいはく、法然上人のの給はく、源空も念仏の外に、毎日に『阿弥陀経』を三巻よみ候き、一巻は唐、一巻は吳一巻は訓なり。しかるにこの経に詮ずるところ、ただ念仏申せとこそとかれて候へば、いまは一巻もよみ候はず。一向念仏を申候也と、隆寛{毎日に阿弥陀経四十八巻よまれき} すなはち心えて、やがて『阿弥陀経』をさしおきて、念仏三万遍を申<span id="P--673"></span>しきと。{進行集よりいてたり云云}
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− | 乗願上人のいはく、ある人問ていはく、色相観は、観経の説也。たとひ称名の行人なりといふとも、これは観ずべ候かいかん。<br>
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− | 上人答ての給はく。源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の称名也と。{授手印决答よりいでたり}<br />
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− | 又人目をかざらずして、往生の業を相続すれば、自然に三心は具足する也。<br />
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− | {{DotUL|たとへば葦のしげき池に、十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりてみれば、あしまをわけてやどるなり。妄念のあしはしげげれとも、三心の月はやどる也。 これは故上人のつねにたとへにおほせられし事也と。}}{かの二十八問答よりいでたり}
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− | | + | |
− | ある時又の給はく、あはれこのたびしおほせばやなと。<br />
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− | その時、乗願申さく、上人だにもかやうに不定げなるおほせの候はんには、ましてその余の人はいかが候へきと。<br />
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− | その時上人うちわらひての給はく、蓮台にのらんまでは、いかでかこのおもひはたえ候べきと。{閑亭問答集よりいでたり}
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− | 信空上人のいはく、ある時上人の給はく、浄土の人師おほしといへども、みな菩提心をすすめて、観察を正とす。ただ善導一師のみ、菩提心なくして、観察をもて称名の助<span id="P--674"></span>業と判す。当世の人善導の意によらずば、たやすく往生をうべからず。曇鸞・道綽・懐感等、みな相承の人師なりといへども、義においては、いまだかならずしも一凖ならず。よくよくこれを分別すべし。このむねをわきまへずば、往生の難易において存知しがたき物也と。
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− | ある時問ていはく、智恵のもし往生の要事となるべくば、正直におほせをかぶりて修学をいとなむべし。又ただ称名不足あるへからじば、そのむねを存ずへく候、ただいまのおほせを如来金言と存ずべく候。
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− | 答ていはく、往生の業は、これ称名といふ事、釈文分明也。有智・無智をきらはずといふことはりまた顕然也。しかれば、往生のためには称名足ぬとす、学問をこのまんとおもはんよりは、たた一向念仏して往生をとぐへし。弥陀・観音・勢至にあひたてまつらん時いづれの法文か達せざらん。かのくにの荘厳、昼夜朝暮に甚深の法門をとく也。但し念仏往生のむねをしらざらん程は、これを学すべし。もしこれをしりなば、いくばくならざる智恵をもとめて、称名のいとまをさまたぐべからず。
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− | ある時問ていはく、人おほく持斎をすすむ、この条いかん。
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− | 答ての給はく、尼法師の食の作法は、もともしかるべしといへども、当世は機すでに<span id="P--675"></span>おとろへたり。食すでに减じたり。この分際をもて一食せば、心ひとへに食事をおもひて念仏しづかならじ。『菩提心経』にいはく、「食菩提をさまたけず、心よく菩提をさまたぐ」といへり。そのうへは自身をあひはからふべきなりと。
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− | ある時問ていはく、往生の業においてはおもひさだめをはりぬ。たたし一期の身のありさまをば、いかやうにか存じ候へき。
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− | 答ての給はく、僧の作法は大小の戒律あり。しかりといへども末法の僧これにしたがはず。源空これをいましむとも、たれの人かこれにしたがふべき。ただ詮するところは、念仏の相続するやうにあひはからふべし。往生のためには、念仏すでに正業也。かるがゆえにこのむねをまもりて、あひはげむべきなり。
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− | '''ある人問ていはく、つねに廃悪修善のむねを存して念仏すると、つねに本願のむねをおもひて念仏するといづれかすぐれて候。'''
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− | '''答ての給はく、廃悪修善は、これ諸仏の通誡なりといへども、当世のわれらことごとく違背せり。若し別意の弘願に乗ぜすば、生死をはなれがたきものか。'''
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− | ある人問ていはく、称名の時 心をほとけの相好にかけん事、いかやうにか候べき。
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− | 答ての給はく、しからず、ただ「若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正<span id="P--676"></span>覚、彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」<ref>「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇親鸞聖人が『教行証文類』の後序で法然聖人から書き与えられたこの礼讃の文を感動をもって記されておられる。なお、親鸞聖人は《世》の字を略されるのが常であった。</ref>{礼讃}とおもふばかり也。われらが分際をもて、仏の相好を観ずとも、さらに如説の観にはあらじ。ただふかく本願をたのみて、口に名号をとなふる、この一事のみ仮令ならざる行也。
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− | <span id="mk-syoumyou"></span>
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− | ある人問ていはく、善導本願の文を釈し給ふに、至心信楽欲生我国の安心を略したまふ事、なに心かあるや。
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− | 答ての給はく、衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。
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− | ある人問ていはく、毎日の所作に、六万・十万等の数遍をあてて不法なると、二万三万の数遍をあてて如法なると、いづれをか正とすべき。
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− | 答ての給はく、凡夫のならひ二万三万をあつといふとも、如法の義あるべからず。ただ数遍のおほからんにしかず。詮ずるところ心をして相続せしめんがため也。かならずしもかずを沙汰するを要とするにはあらず。ただ常念のためなり。数遍をさだめつるは懈怠の因縁なるがゆへに、数遍をすすむる也。
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− | ある人問ていはく、上人の御房の申させたまふ御念仏は、念念ことにほとけの御意にあひかなひ候らんとおぼえ候。智者にてましませば、くはしく名号の功徳をもしろし<span id="P--677"></span>めし、あきらかに本願のやうをも御心得あるがゆへにと。
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− | 答ての給はく、なんぢ本願を信する事まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり・くさかり・なつみ・みづくみのたぐひごときのものの、内外ともにかけて、一文不通なるが、となふればかならずむまれなんと信じて、真実に欣楽して、つねに念仏申を最上の機とす。もし智恵をもて生死をはなるべくは、源空なんぞ聖道門をすててこの浄土門におもむくべき。'''まさにしるべし、聖道の修行は、智恵をきはめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴に反へりて極楽にむまる'''と。{已上信空上人の伝説なり進行集よりいでたり}
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− | 信空上人又いはく、先師法然上人あさゆふおしへられし事也。念仏申にはまたく様もなし。ただ申せば極楽にむまるとしりて、心を至して申せばまいる事也。ものをしらぬうへに、道心もなく、いたづらに所(ゆへ)なき物のいふこと也。さ いはん口にて、阿弥陀仏を一念・十念にても申せかしと候ひし事也。<br />
| + | |
− | 又御往生の後、三井寺の住心房と申す学生、ひじりに、ゆめのうちに問れても、阿弥陀仏はまたく風情もなく、たた申す事也と答へられたりと。大谷の月忌の導師せらるとて、おほくの人の中にて説法にせられ候きと。{白川消息よりいでたり}
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− | 弁阿上人のいはく、故上人の給はく、われはこれ烏帽子もきざるおとこ也。十悪の<span id="P--678"></span>法然房が念仏して往生せんといひて居たる也。又愚痴の法然房が念仏して往生せんといふ也。安房の助といふ一文不通の陰陽師か申す念仏と、源空か念仏とまたくかはりめなしと。{物語集にいでたり}
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− | ある時問ていはく、上人の御念仏は智者にてましませば、われらが申す念仏にはまさりてぞおはしまし候らんとおもはれ候は、ひが事にて候やらん。
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− | その時上人'''御気色あしくなりておほせられていはく'''、さばかり申す事を用ひ給はぬ事よ、もしわが申す念仏の様、風情ありて申候はば、毎日六万遍のつとめむなしくなりて、三悪道におち候はん、またくさる事候はずと、まさしく御誓言候しかば、それより弁阿はいよいよ念仏の信心を思ひさだめたりき。{同集}
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− | 又人ごとに、上人つねにの給しは、一丈のほりをこへんとおもはん人は、一丈五尺をこへんとはげむべし。往生を期せん人は、决定の信をとりてあひはげむべき也。ゆるくしてはかなふべからずと。{同集}
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− | 又上人のの給はく、念仏往生と申す事は、もろこしわが朝の、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にもあらず。又学問をして念仏の心をさとりとほして申す念仏にもあらず、ただ極楽に往生せんがために南無阿弥陀仏と申てうたがひな<span id="P--679"></span>く往生するぞとおもひとりて申すほかに、別の事なし。ただし三心ぞ四修ぞなんど申す事の候は、みな南無阿弥陀仏にて决定して往生するぞとおもふうちにおさまれり。ただ南無阿弥陀仏と申せば、决定して往生する事なりと信じとるべき也。<br />
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− | 念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく学しきはめたる人なりとも、文字一もしらぬ愚痴鈍根の不覚の身になして、尼入道の無智のともがらにわが身をおなじくなして、智者のふるまひせずして、ただ一向に南無阿弥陀仏と申てぞかなはんずると。{同集}
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− | 又上人のの給はく、源空の目には、三心も南無阿弥陀仏、五念も南無阿弥陀仏、四修も南無阿弥陀仏なりと。{授手印にいでたり}
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− | 又上人かたりての給はく、世の人は、みな因縁ありて道心をばおこす也。いはゆる父母・兄弟にわかれ、妻子・朋友にはなるる等也。しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也。<br />
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− | されは出離の心(志)ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す、およそ仏教おほしといへども、詮ずるところ戒・定・慧の三学をばすぎず、いはゆる小乗の戒・定・慧、大乗の戒・定・慧、顕教の戒・定・慧、密教の戒・定・慧なり。しかるにわ<span id="P--680"></span>がこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定において一もこれをえず。智恵において断惑証果の正智をえず、これによて戒行の人師釈していはく、「尸羅清浄ならざれは、三味現前せず」<ref>尸羅 梵語(śīla)の音写。戒のこと。清浄に戒を保たなければ三昧をうることが出来ないということ。</ref>といへり。又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとふるにさるのごとし、まことに散乱してうごきやすく、一心しづまりがだし。無漏の正智なにによりてかおこらんや。<br />
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− | もし無漏の智釼なくば、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。悪業煩悩の絆を断ぜずば、何ぞ生死繫縛の身を解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒・定・慧の三学のうつはものにあらず、この三学の外にわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらひしに、おしゆる人もなく、しめすともがらもなし。<br />
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− | しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」<ref>一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。</ref>といふ文を見得て後、われらがごときの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、决定往生の業因にそなふべし。<br />
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− | ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に<span id="P--681"></span>順ぜり。<br />
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− | 「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。そののち恵心の先徳の『往生要集』の文をひらくに、「往生之業念仏為本」といへり。又恵心の『妙行業記』の文をみるに、「往生之業念仏為先」といへり。覚超僧都、恵心僧都にとひての給はく、僧都が所行の念仏は、これ事を行ずとやせん、これ理を行ずとやせんと。<br />
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− | 恵心僧都こたへての給はく、心万境にさへぎる、ここをもてわれただ称名を行ずる也。往生の業には称名もともたれり。これによて一生の中の念仏、そのかずをかんがへたるに、二十倶胝遍也との給へり。しかればすなわち源空は、大唐の善導和尚のおしへにしたがひ本朝の恵心の先徳のすすめにまかせて、称名念仏のつとめ、長日六万遍也。死期やうやくちかづくによて、又一万遍をくはへて。長日七万遍の行者なりと。{徹選択にいでたり}
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− | 禅勝房のいはく、上人おほせられてのたまはく、今度の生に念仏して、来迎にあづからんうれしさよとおもひて、踊躍歓喜の心のおこりたらん人は、自然に三心は具足したりとしるべし。念仏申ながら後世をなげく程の人は、三心不具の人也。もし歓喜する心いまだおこらずば、漸漸によろこびならふべし。又念仏の相続せられん人は、われ三心具したりとしるべし。{念仏問答集にいでたり}<span id="P--682"></span>
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− | 又いはく往生の得否は、わが心にうらなへ<ref>自分の心に尋ねなさいということ。卜占の意ではない。</ref>、その占の様は、念仏だにもひまなく申されば、往生は决定としれ。もし疎相ならば、順次の往生はかなふまじとしれ。この占をしてわが心をはげまし、三心の具すると、具せざるとをもしるべし。{同集}
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− | 又いはく、たとひ念仏せんもの、十人あらんが中に九人は臨終あしくて往生せずとも、われ一人は决定して念仏往生せんとおもふべし。{同集}
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− | 又いはく、自身の罪悪をうたがひて往生を不定に思はんは、おほきなるあやまり也。さればとて、ふてかかりてわろからんとにはあらず。本願の手ひろく、不思議なる道理を心えんがため也。されば念仏往生の義を、ふかくも、かたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心得べし。源空が身も、撿挍別当どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。さればとしごろならひあつめたる智恵は、往生のためには要にもたつべからず。されどもならひたるかひには、かくのごとくしりたればはかりなき事也。{同集}
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− | 又いはく、{{DotUL|本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助をささぬ也。}}助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。<br />
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− | それに善人は善人なから念仏し、悪人は悪人なが<span id="P--683"></span>ら念仏して、ただむまれつきのままにて、念仏する人を、念仏にすけささぬとは申す也。さりなからも、悪をあらためて善人となりて念仏せん人は、ほとけの御意にかなふべし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。{同集}
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− | 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。{{DotUL|阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。}}<ref>『瑜伽師地論』の、観待道理(相待道理ともいう。真と俗のように相待的に考えられる道理。)、作用道理(因果の関係において存在する作用についての道理)、証成道理(成就道理ともいう。確認するしかたについての道理。)、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理。)の四種道理のうちの法爾道理のこと。南無阿弥陀仏と称えたから救われるのではなく、称えた者を救うという本願があるから救われる。法爾道理→本願力→自然法爾。</ref>{同集}
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− | 又いはく、{{DotUL|現世をすぐへき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。<br />
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− | いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申べし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申べし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申べし。一人して申されずば、同朋とともに申べし。共行して申されずは、一人籠居て申すべし。衣食住の三は、念仏の助業也。これすなは}}<span id="P--684"></span>{{DotUL|ち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業也。}}<br />
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− | 三途へかへるべき事をする身をだにもすてがたければ、かへりみはぐくむぞかし。まして往生程の大事をはげみて、念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし。もし念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。極楽往生の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。万事かくのごとしと。{同集}
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− | 沙弥道遍<ref>道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣の渋谷荘であったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。
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− | 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『西方指南抄』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。
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− | その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいた在阿らと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。嘉禄の法難の際には京都に駆けつけて延暦寺の僧兵から法然の遺骸を警固して無事改葬を行っている。(Wikipedia)</ref>かたりていはく、故上人おほせられていはく、往生のためには念仏第一なり。学問すべからず、ただし念仏往生を信ぜん程はこれを学すべし。{宗要集にいてたり}
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− | ====御 歌====
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− | <span id="P--685"></span>
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− | =====御歌=====
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− | 阿弥陀仏といふよりほかはつのくにの<br />
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− | なにはの事もあしかりぬへし
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− | 千とせふるこまつのもとをすみかにて<br />
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− | あみたほとけのむかへをそまつ
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− | いけのみつ人のこころににたりけり<br />
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− | にこりすむ事さためなけれは
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− | むまれてはまつおもひてんふるさとに<br />
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− | ちきりしとものふかきまことを
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− | あみたふつと申すはかりをつとめにて<br />
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− | 浄土の荘厳見るそうれしき
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− | しはの戸にあけくれかかるしら雲を<br />
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− | いつむらさきのいろとみなさん
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− | 露の身はここかしこにてきえぬとも<br />
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− | 心はおなしはなのうてなそ
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− | 阿弥陀仏と十こゑとなへてまとろまん<br />
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− | なかきねむりになりもこそすれ
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− | | + | |
− | 月かけのいたらぬさとはなけれとも<br />
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− | なかむる人のこころにそすむ
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− | 黒谷上人語灯録巻第十五
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− | </div>
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− | <p id="page-top">[[#|▲]]</p>
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− | 末註:
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− | <references/>
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別サイトに『和語灯録』をUPしてある。この『和語灯録』はSAT(「大藏經テキストデータベース」)の「黒谷上人語灯録」テキストをひらがな化、新字化したものであった。これを編集して、『真宗聖典全書』の新版である『浄土真宗聖典全書』六 補遺篇の記述に合わせて編集し林遊個人の資料としてWikiArcに掲載することにした。聖教のデジタル化の利点は書誌学的知見によって新しく言葉の表記を修正することが可能なことである。例せば旧字を新字に代えて現代人にとって読みやすくすることもその一例である。仏教史上で類をみない全く新しい仏道体系の浄土宗を開宗された法然聖人であったが、その独創ゆえに弟子の間では様々な解釈がなされた。そこから自説を正統とする為に、牽強付会に法然聖人の語録として偽書や改変がされたといわれる。また凝然の『浄土法門源流章』には「念仏宗旨の所伝同じといえども、立義の巨細異解多端なり」とあるように、法然聖人の革新的な浄土仏教は、今までに無い仏教思想であったので様々な解釈があった。その中で、御開山の綿密な考察によって「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息)と、法然聖人の説かれた往生浄土思想こそ大乗仏教の極致であるといわしめる仏法であった。ともあれ、御開山にいたる法然聖人の原思想を考察する意味では、『和語灯録』は貴重だと思ふ。