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和語灯録

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』


編集中

別サイトに『和語灯録』をUPしてある。このUPしてある『和語灯録』はSAT(「大藏經テキストデータベース」)の「黒谷上人語灯録」テキストをひらがな化、新字化したものであった。これを編集して、『真宗聖典全書』の新版である『浄土真宗聖典全書』六 補遺篇の記述に合わせて編集し林遊個人の資料としてWikiArcに掲載することにした。聖教のデジタル化の利点は書誌学的知見によって新しく言葉の表記を修正することが可能なことである。例せば旧字を新字に代えて現代人にとって読みやすくすることもその一例である。仏教史上で類をみない全く新しい仏道体系の浄土宗を開宗された法然聖人であったが、その独創ゆえに弟子の間では様々な解釈がなされた。そこから自説を正統とする為に、牽強付会に法然聖人の語録として偽書や改変がされたといわれる。また凝然の『浄土法門源流章』には「念仏宗旨の所伝同じといえども、立義の巨細異解多端なり」とあるように、法然聖人の革新的な浄土仏教は、今までに無い仏教思想であったので様々な解釈があった。その中で、御開山の綿密な考察によって「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息)と、法然聖人の説かれた往生浄土思想こそ大乗仏教の極致であるといわしめる仏法であった。ともあれ、御開山にいたる法然聖人の原思想を考察する意味では、『和語灯録』は貴重だと思ふ。

なお本文の漢字は旧字体を新字体の変更した。本文中の亀甲括弧〔 〕内は『浄土真宗聖典全書』編纂者が付加したものであり、小丸括弧( )内は林遊が付加した。

  • 『西方指南鈔』に同趣旨の文章がある場合は『西方指南鈔』へリンクした。


黒谷上人語灯録第十一

黒谷上人語灯録第十一{并序}
厭欣沙門 了恵 集録

しづかにおもむみれば、良医のくすりはやまひのしなによてあらはれ、如来の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。日本一州浄純熟して朝野遠近みな浄土に帰し、緇素貴賤ことごとく往生を期す。その濫觴をたづぬれば、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと){欽明天皇} の御世に、百済国より釈迦弥陀の霊像はじめてこの国にわたり給へり。
釈迦は撥遣(発遣)の教主、弥陀は来迎の本尊なれば、二尊心をおなじくして、往生のみちをひろめむがためなるべし。しかれば小墾田天皇{推古} の御時、聖徳太子、二仏の御心にしたがはせ給ひて七日弥陀名号を称して、祖王{欽明} の恩を報じ、御文を善光寺の如来へたてまつり給ひしかば、如来みづから御返事ありき。太子の御消息にいはく

名号穪揚七日已 此是為報広大恩
仰願本師弥陀尊 助我済度常護念「隠/顕」
名号を称揚すること七日に已んぬ、此はこれ広大の恩を報いんが為なり。仰ぎ願はくは本師弥陀尊、我が済度を助け常に護念したまへ。『太子伝撰集抄』

如来の御返事にいはく、

一念穪揚恩無留 何况七日大功徳
我待衆生心無間 汝能済度豈不護「隠/顕」
一念称揚留む事無し、何に況んや七日の大功徳をや。我衆生を待ちて心間(ひま)無し。汝能く済度せんこと豈に護らざらんや。

太子つゐに往生の異境(瑞相)をあらはして、利益を本朝にしめし(たま)ひき。そののち大炊(おおい)の天皇[1]の御時、弥陀・観音 化しきたりて、極楽の曼陀羅をおりあらはして、往生の本尊とさだめおき給ふ。ここに六字の功徳粗ほゞあらはれて、二尊の本意やうやくひろまりしかば、行基菩薩慈覚大師等の聖人、みな極楽をねがひてさり給ひき。
恵心僧都は、楞厳の月のまえに往生の要文をあつめ、永観律師は、禅林の花のもとに念仏の十因を詠じて、おのおの浄土の教行をひろめ給ひしかども、往生の化道いまださかりならざりしに、なかごろ黒谷の上人、勢至菩薩化身として、はじめて弥陀の願意をあきらめ、もはら称名の行をすゝめ給ひしかば、勧化一天にあまねく、利生万人におよぶ。浄土宗といふ事は、この時よりひろまりけるなり。

しかれば、往生の解行をまなぶ人、みな上人をもて祖師とす。ここにかのながれをくむ人おほきなかに、おのをの義をとることまちまちなり。いはゆる余行は本願か本願にあらざるか、往生するやせずや、三心のありさま、二修のすがた、一念・多念のあらそひなり。まことに金鍮しりがたく、邪正いかでかわきまふべきなれば、きくものおほく、みなもとをわすれてながれにしたがひ、あたらしきを貴てふるきをしらず。『尚書』にいへることあり、「人貴旧器貴新。」「隠/顕」
人は旧きを貴び、器は新しきを貴ぶ。
 予、この文におどろきて、いさゝか上人のふるきあとをたづねて、やゝ近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。仍(よ)て、あるひは かの書状をあつめ、あるひは書籍にのするところの(ことば)を拾ふ。やまとことばはその文みやすく、その心さとりやすし。

ねがはくは、もろもろの往生をもとめん人、これをもて灯として、浄土のみちをてらせと也。もしおつるところの書あらば、後賢かならずこれに続け。
時に文永十二年正月廿五日、上人遷化の日、報恩の心ざしをもていふことしか也。


和語 第二之一{当巻有三章}
三部経釈 第一
御誓言書 第二
往生大要抄 第三

三部経釈

異本に、真宗高田派に秘蔵されていた『三部経大意』(『浄土真宗聖典全書』三)があり、これの至誠心釈で法然聖人は「すこぶるわれらが分にこえたり」とされ、至誠心を総の自力の至誠心と別の他力の至誠心に分けて釈されている。この『三部経釈』にはそれがない。編者の了恵師によって鎮西浄土宗の宗義に合わせた意図的な削除と改竄があると思われる。法然聖人の至誠心の解釈については、浄土真宗の者は注意すべきである。なお、『三部経大意』のテキストは ➡三部経大意にある。
三部経釈 第一
黒谷作

『双巻経』・『観経』・『阿弥陀経』、これを浄土三部経といふ。
『双巻経』には、まづあみだほとけの四十八願をとく、のちに願成就をあかせり。その四十八願といふは、法蔵比丘、世自在王仏の御まへにして、菩提心をおこして、浄仏国土・成就衆生の願をたて給ふ。およそその四十八願に、あるいは无三悪趣ともたて、あるひは不更悪趣ともとき、あるひは悉皆金色ともいふは、みな第十八の願のためなり。

「設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」「隠/顕」
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。
{大経巻上}といへるは、四十八願の中に、この願ことにすぐれたりとす。

そのゆえは、かのくにゝもしむまるゝ衆生なくは、悉皆金色・無有好醜等の願も、なにによてか成就せん。往生する衆生のあるにつきてこそ、身のいろも金色に、好醜ある事もなく、五通をも具し、宿命をもさとるべけれ。

これによて、善導釈しての給はく、「法蔵比丘四十八願をたて給ひて、願々にみな、若我得仏、十方衆生、称我名号、願生我国、下至十念、若不生者、不取正覚 「隠/顕」
もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。
{云々}。四十八願に一一にみなこの意あり」{玄義分意}と釈し給へり。およそ諸仏の願といふは、 上求菩提・下化衆生の心なり。大乗経にいはく、「菩薩願有二種、一上求菩提、二下化衆生也。其上求菩提本意、為易済度衆生。」{云云}

しかれば、たゞ本意は下化衆生の願にあり。いま弥陀如来の国土を成就し給ふも、衆生を引接せんがためなり。総じていづれのほとけも、成仏已後は内証外用の功徳、済度利生の誓願、いづれもいづれもみなふかくして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行じ給ひし時の善巧方便のちかひ、みなこれまちまちなる事也。弥陀如来は因位の時、もはらわが名号を念ぜんものをむかへんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらずは、なにをか期せんや。
これによて、かのほとけも、「我建超世願」(大経巻上)となのり給へり。三世の諸仏も、いまだかくのごとくの願をばおこし給はず。十方の薩埵も、いまだこれらの願はましまさず。
「斯願若尅果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙花」{大経巻上}とちかひ給ひしかば、大地六種に震動し、天より花ふりて、なんぢまさに正覚なり給ふべしとつげたりき。法蔵比丘いまだ成仏し給はづとも、この願うたがふべからず。いかにいはんや、成仏已後十劫になり給へり。信ぜすはあるべからず。
「彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」{礼讃}と釈したまへるはこれなり。
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法」{大経巻下}文 これは第十八の願成就の文なり。
願には「乃至十念」{大経巻上}とゝくといへども、まさしく願成就のなかには一念にありとあかせり。つぎに三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。発菩提心等の業をもて三輩をわかつといへども、往生の業は通じてみな「一向専念無量寿仏」{大経巻下} といへり。これすなはちかのほとけの本願なるがゆへなり。
また「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」といふ文あり。漢朝に玄通律師といふものありき。小戒をたもてるものなり。遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをききて一両遍誦してのち、おもひいだす事もなくてわすれにけり。そのゝちこの玄通律師戒をやぶれり。そのつみによて閻魔の庁にいたる時、閻魔法王の給はく、なんぢ仏法流布のところにむまれたりき。 所学の法あらば、すみやかにとくべしとて、高座にのぼせ給ひき。その時玄通、高座にのぼりておもひめぐらすに、すべて心におぼゆる事なし。野寺に宿してきゝし文あり、これを誦せんとおもひいでて、「其仏本願力」といふ文を誦したりしかば、閻魔法王、たまのかぶりをかたぶけて、これはこれ、西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて、礼拝し給ひき。願力不思議なる事、この文に見へたり。

「仏語弥勒 其有得聞 彼仏名号 信心歓喜 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳。」{大経巻下意文}文
弥勒菩薩、この『経』を付属し給ふには、乃至一念するをもて大利無上の功徳との給へり。経の大意、これらの文にあきらかなるものなり。

次に『観経』には、定善・散善をときて、念仏をもて阿難に付属し給ふ。「汝好持是語」{観経}といへるはこれなり。
第九の真身観に、「光明徧照十方世界 念仏衆生摂取不捨」といふ文あり。済度衆生の願は平等にして差別ある事なけれども、无縁の衆生は利益をかうぶる事あたはず。
このゆへに、弥陀善逝、平等の慈悲にもよほされて、十方世界にあまねく十方世界をてらして、一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために、光明無量の願をたて給へり。第十二の願これなり。名号をもて因として、衆生を引接し給ふ事を、一切衆生にあまねくきかしめむがために、第十七の願に、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わか名を称せすといはゞ、正覚をとらじ」{大経巻上}といふ願をたて給ひて、次に第十八の願に、「乃至十念、若不生者、不取正覚」{大経巻上}とたて給へり。これによて、釈迦如来この土にしてとき給ふがごとく、十方にも。おのおの恒河沙のほとけましまして、おなじくこれをしめし給へるなり。しかれば、光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらす事なく。又十方无量の諸仏みな名号を称讃し給へば、きこえずといふところなし。
「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」(大経巻上)とちかひ給ひしは、このゆへなり。しかれば、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかうぶらん事うたがふべからず。このゆへに『往生礼讃』の序にいはく、
「諸仏所証平等是一 若以願行来収 非無因縁然 弥陀世尊 本発深重誓願 以光明名号 摂化十方」といへり。
又この願ひさしく衆生を済度せんがために、寿命無量の願をたて給へり。第十三の願これなり。総じては、光明無量の願は、横に一切衆生をひろく摂取せんがためなり。寿命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。かくのごとくの因縁和合すれば、摂取の光明の中に又化仏・菩薩ましまして、この人を摂護して、百重千重囲繞し給ふに、信心いよいよ増長し、衆苦ことことく消滅す。臨終の時、ほとけみづから来迎し給ふに、もろもろの邪業繫よくさふるものなし。これは衆生いのちをはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすき事なく、悪縁ほかにひき、妄念うちにもよほして、境界・自躰・当生の三種の愛心きおひおこる。第六天の魔王、この時にあたりて、威勢をおこして、もてさまたげをなす。
かくのごときの種種のさはりをのぞかんがために、かならず臨終の時にはみづから菩薩聖衆に囲繞せられて、その人のまへに現ぜんとちかひ給へり。第十九の願これ也。

これによて、臨終の時いたれば、ほとけ来迎し給ふ。行者これを見たてまつりて、心に歓喜をなして、禅定にいるがことくして、たちまちに観音の蓮台に乗して、安養の宝地にいたる也。
これらの益あるがゆへに、「念仏衆生摂取不捨」といふなり。
又この『経』(観経) に「具三心者必生彼国」ととけり。三心といは、一には至誠心、二にに深心、三には廻向発願心なり。
三心はまちまちにわかれたりといへども、要をとり詮をえらんでこれをいへば、深心におさめたり。
善導和尚釈し給はく、「至といは真なり、誠といは実なり。一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとす。ほかに賢善精進の相を現じて、うちに虚仮をいだく事をえざれ」(散善義) といへり。
その解行といは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願によて、十声・一声决定してむまると、真実にさとりて行ずる、これなり。ほかには本願を信ずる相を現じ、うちには疑心をいたく。これは不真実の心なり。

「深心はふかく信ずる心なり。决定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫よりこのかたつねに流転して、出離の縁なしと信じ、决定してふかくこの阿弥陀如来は四十八願をもて衆生を摂取し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生する事をうと信ずべし」(散善義) といへり。
はじめに、まづ「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信ぜよ」といへるは、これすなはち断善闡提のごとくなるもの也。かかる衆生の一念・十念すれば、无始よりこのかた、いまだいでざる生死の輪廻をいでゝ、かの極楽世界の不退の国土にむまるといふによりて、信心はおこるべきなり。およそほとけの別願の不思議は、ただ心のはかるところにあらず。仏と仏とのみよくしり給へり。阿弥陀仏の名号をとなふるによて、五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議のちからまします、たれかこれをうたがふべき。
善導の「疏」(散善義) にいはく、「あるひは人ありて、なんぢ衆生、曠劫よりこのかた および今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうへにおいて、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまだのぞきつくす事あたはず。しかも、これらのつみは三界悪道に繫属す。いかんそ、一生の修福念仏をもて、すなはちかの无漏无生のくにゝいりて、ながく不退のくらゐを証悟する事をえんやといはば、いふべし。諸仏の教行はかず塵沙にこえたり、禀識の機縁、随情ひとつにあらず。たとへば世間の人のまなこに見つべく信じつべきがごときは、明よく暗を破し、空よく有をふくむ。地よく載養し、みづよく生潤し、火よく成壊するがごとし。 かくのごときらの事ことごとく待対の法となづく。すなはちみづから見るべし、千差万別なり。いかにいはんや、仏法不思議のちから、あに種種の益なからんや」といへり。 極楽世界に水鳥・樹林の微妙の法をさやづるは不思議なれども、これらはほとけの願力なればと信じて、なんぞたゞ第十八の「乃至十念」(大経巻上) といふ願をのみうたがふべきや。
総じて仏説を信せば、これも仏説なり。『花厳』の三無差別、『般若』の尽浄虚融、『法花』の実相真如、『涅槃』の悉有仏性、たれか信ぜざらんや。これも仏説なり、かれも仏説なり。いづれをか信じ、いづれをか信ぜざらんや。それ三字の名号はすくなしといへども、如来所有の内証外用の功徳、万億恒沙の甚深の法門を、このうちにおさめたり。たれかこれをはかるべきや。 『疏』の「玄義分」(意) にこの名号を釈していはく、「阿弥陀仏といは、これ天竺の正音、こゝには翻じて无量寿覚といふ。无量寿といは、これ法、覚といはこれ人、人法ならべてあらはす。かるがゆへに阿弥陀仏といふ。人法といは所観の境也、これについて依報あり、正報あり」といへり。しかれば、はじめ弥陀如来・観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹より、乃至かの土の菩薩・声聞等にいたるまでそなへ給へるところの事理の観行、定恵の功力、内証の智恵、外用の功徳、総じて万徳无漏の所証の法門、みなことごとく三字のなかにおさまれり。そうじて極楽界にいづれの法門か もれたるところあらん。
しかるを、この三字の名号をば、諸宗おのおのわか宗に釈しいれたり。真言には阿字本不生の義、四十二字を出生せり。一切の法は阿字をはなれる事なきがゆへに、功徳甚深の名号といへり。天台宗には空・仮・中の三諦、正・了・縁の三義、法・報・応の三身、如来所有の功徳これをいでざるがゆへに、功徳莫大なりといへり。
かくのごとく諸宗におのおのわが存ずるところの法について、阿弥陀の三字を釈せり。いまこの宗のこころは、真言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識の心も、総じて森羅の万法ひろくこれを摂すとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆえに。たゞしいま弥陀の願の心は、かくのごとくさとるにはあらず。たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかへんとなり。耆婆・扁鵲か万病をいやすくすりは、もろもろの草・よろづのくすりをもて合薬せりといへども、病者これをさとりて、その薬種何分、その薬草何両和合せりとしらず。しかれども、これを服するに万病ことごとくいゆるがごとし。たゞしうらむらくは、このくすりを信ぜずして、わがやまひはきはめておもし、いかゞこの薬にてはいゆる事あらんとうたがひて服せずんば、耆婆か医術も、扁鵲か秘方も、むなしくしてその益あるべからざるがごとく、弥陀の名号もかくのごとし。それ煩悩悪業のやまひ、きはめておもし、いかがこの名号をとなへてむまるゝ事あらんと、うたがひてこれを信ぜずは、弥陀の誓願・釈尊の所説、むなしくして、そのしるしあるべからず。ただあふいて信ずべし。良薬をえて服せずして死することなかれ。崑崙のやまにゆきて たまをとらずしてかへり、栴檀のはやしにいりて枝をよぢずしていでなば、後悔いかゞせん、みつからよく思量すべし。 そもそもわれら曠劫よりこのかた、仏の出世にもあひけん、菩薩の化道にもあひけん。過去の諸仏も、現在の如来も、みなこれ宿世の父母なり、多生の朋友なり。 かれはいかにして菩提を証し給へるぞ、われはなにゝよて生死にはとゞまるぞ、はづべしはづべし、かなしむべしかなしむべし。本師釈迦如来の、大罪のやまにいりて、邪見のはやしにかくれて、三業放逸に六情全からざらん衆生を、わか国土にはとりおきて教化度脱せしめんとちかひ給ひたりしは、そもそもいかにしてかゝる衆生をば度脱せしめんとちかひ給ふぞやとたづぬれば、阿弥陀如来の因位の時、无上(諍)念王と申して菩提心をおこし、衆生を過度せしめむとちかひ給ひしに、釈迦如来は寳海梵志と申して、无上(諍)念王、くにのくらゐをすてゝ菩提心をおこし、摂取衆生の願をおこし給ひし時に、この无上(諍)念王も願をおこして、「われかならず穢土にして正覚をなりて、罪業の衆生を引導せん」(悲華経巻三 本授記品意) とちかひ給ひて、この願をおこし給ふ也。曠劫よりこのかた、諸仏出世して、縁にしたがひ、機をはかりて、おのおの衆生を化度し給ふ事、かず塵沙にすぎたり。あるいは大乗をとき小乗をとき、あるひは実教をひろめ権教をひろむ。有縁の機は、みなことごとくその益をう。ここに釈尊、八相成道を五濁悪世にとなえて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきをあはれみて、「これより にしに極楽世界あり、仏まします、阿弥陀となづけたてまつる」(小経意)。 このほとけは「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経巻上)とちかひ給ひて、仏になり給へり。すみやかに念ぜよ。出離生死のみちおほしといへども、悪業煩悩の衆生の、とく生死をはなるゝ事、この門にすぎたるはなしとおしへて、ゆめゆめうたがふ事なかれ。「六方恒沙の諸仏も証誠し給ふなり」(小経意) と。
ねんごろにおしへ給ひて、「われもしひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしりわれをそむきて、かへりて悪道におちなん」(法華経巻五寿量品)。濁世にいでたる事は、本意たゞこの事を衆生にきかしめんかためなりとて、阿難尊者に、「なんぢよくこの事を遐代に流通せよ」(散善義意)と、ねんごろに約束しおきて、跋提河のほとり、沙羅林のもとにして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして滅度に入給ひき。その時に、日月ひかりをうしなひ、草木いろを変じ、龍神八部、禽獣・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけふ。阿難・目連等のもろもろの大弟子等、悲泣のなみだをおさへて、あひ議していはく、釈尊の恩になれたてまつりて、八十の春秋をおくりき。化縁こゝにつきて、黄金のはだへ、たちまちにへだゝり給ひぬ。あるひはわれら世尊に問たてまつるに、答へ給へる事もありき、あるいは釈尊みづから告給ふ事もありき。済度利生の方便、いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。すべからく如来の御ことばをしるしおきて、未来にもつたへ、御かたみともせんといひて、多羅葉をひろひてことごとくこれをしるしおきしを、三蔵たちこれを訳して唐土へわたし、本朝へつたへ給ふ。諸宗につかさどるところの一代聖教これ也。しかるに阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土にいでゝ、「如来出現於五濁、随宜方便化群萌、或説多聞而得度、或説小解証三明、或教福恵双除障、或教禅念坐思量、種種法門皆解脱、无過念仏往西方、上尽一形至十念、三念五念仏来迎、直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」{法事讃巻下}との給へり。
釈尊出世の本懐、たゞこの事にありといふべし。「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讃)といへば、釈尊の恩を報ずるは、これたれがためぞや、ひとえにわれらがためにあらずや。このたびむなしくてすぎなば、出離いづれの時をか期せんとする。すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。

次に廻向発願心といは、人ことに具しつべき事なり。国土の快楽をきゝて、たれかねがはざらんや。そもそも、かの国土に九品の差別あり、われらいづれの品をか期すべき。善導和尚の御心は、「極楽弥陀は報仏・報土也。未断惑の凡夫、すべてむまるべからずといへども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫、一念・十念してすなはちむまる」(玄義分意) と釈し給へり。しかるを上古よりこのかた、「おほく 下品といふとも足ぬべし」(和漢朗詠集) といひて上品をねがはす。これは悪業のおもきをおそれて心を上品にかけざる也。
もしそれ悪業によらば、総じて往生すべからず。願力によてむまれば、なんぞ上品にすゝまん事をかたしとせん。総じては弥陀浄土をまうけ給事は、願力の成就するゆへなり。 しかれば、又念仏衆生のむまるべき くになり。「乃至十念、若不生者。不取正覚」(大経上) とたて給ひて、この願によて感得し給ふところなるかゆへなり。
いま又『観経』の九品の業をいはば、下品は五逆・十悪の罪人、臨終の時、はじめて善知識のすゝめによて、あるいは十声、あるいは一声称念して、むまるゝ事をえたり。われら罪業おもしといへども、五逆をばつくらず。行業おろそかなりといへども、一声・十声にすぎたり。臨終よりさきに弥陀の誓願を聞得て、随分に信心をいたす。しかれば、下品までくだるべからず。中品は小乗の持戒の行者、孝養、仁・義・礼・智・信等の行人なり。この品には中々にむまれがたし、小乗の行人にもあらず、たもちたる戒もなければ、われらが分にあらず。上品は大乗の凡夫、菩提心等の行なり。
菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ。浄土宗の心は、浄土にむまれんとねがふを菩提心といふ。念仏はこれ大乗の行なり、無上功徳なり。しかれば上品往生は手をひくべからず。又本願に「乃至十念」(大経巻上) とたて給ひて、臨終現前の願に「大衆と囲繞せられてその人のまへに現ぜん」(大経巻上) とたて給へり。中品は声聞衆の来迎、下品は化仏の三尊、あるひは金蓮花等の来迎なり。
しかるを大衆と囲繞して現ぜんとたて給へる本願の意趣は、上品の来迎をまうけ給へり、なんぞあながちにあひすまはんや。又善導和尚、「三万已上は上品上生の業」(観念法門意) との給へり。数遍によて上品にむまるべし。又三心について九品あるべし。信心によて上品にむまるべしとみえたり。上品をねがふ事は、わが身のためにはあらず。かのくにゝむまれおはりて、かえりてとく(疾)衆生を化せんがためなり。これあにほとけの御心にかなはざらんや。

次に『阿弥陀経』は、まづ極楽依正の功徳をとく。これ衆生の願楽の心をすゝめんがためなり。のちに往生の行をあかすに、「少善根をもては むまるゝ事をうべからず。阿弥陀仏の名号を執持して、一日七日すれば、往生する事をう」(小経意) とあかせり。衆生これを信ぜざらん事をおそれて、六方におのおの恒河沙の諸仏ましまして、大千の舌相をのべて証誠し給へり。善導釈していはく、「この証によてむまるゝ事をえずは、六方如来のゝべ給へるした(舌)、ひとたび口よりいでをわりて、ながくくちに還りいらずして、自然に壊爛せん」(観念法門) との給へり。しかればこれをうたがはんものは、弥陀の本願をうたがふのみにあらず、釈尊の所説をうたがふなり。釈尊の所説をうたがふは、六方恒沙の諸仏の所説をうたがふなり。すなはちこれ大千にのべ給へる舌相を壊爛する也。もし又これを信ぜば、たた弥陀の本願を信ずるのみにあらず釈尊の所説を信ずるなり。釈尊の所説を信ずるは、六方恒沙の諸仏の所説を信ずる也。一切の諸仏を信ずるは、一切の法を信ずるになる。一切の法を信ずるは、一切の菩薩を信ずるになる。この信ひろくして広大の信心なり。
善導和尚のいわく、

為断凡夫疑見執 皆舒舌相覆三千 共証七日称名号 又表釈迦言説真」「隠/顕」
凡夫疑見の執を断ぜんがために、みな舌相を舒べて三千に覆ひて、とも に七日名号を称することを証し、また釈迦の言説の真なることを表す。
(法事讃巻下) 「 六方如来舒舌証 専称名号至西方 到彼花開聞妙法 十地願行自然彰 心心念仏莫生疑 六方如来証不虚 三業専心無雑乱 百寳蓮花応時見」「隠/顕」
心々に念仏して疑を生ずることなかれ、六方の如来不虚を証したまふ。三業専心にして雑乱なければ、百宝の蓮華時に応じて見る。
{法事讃巻下}


御誓言の書(一枚起請文)

法然上人の晩年の念仏の領解を述べられたもので、ただ念仏を申せば往生せしめられると信じて称えているほかにはないといい、次に、念仏を信ずるものは、いかに学問をしたものであっても愚鈍の身にかえって念仏すべきであるといわれている。➡一枚起請文
御誓言の書 第二

もろこし・わが朝にも、もろもろの智者たちの沙汰し申さるゝ観念の念にもあらず。又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかには別の子細候はず。たゞし三心四修なんど申す事の候は、みな决定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふうちにこもり候なり。
このほかにおくふかき事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の无智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、たゞ一向に念仏すべし。

これは御自筆の書なり、勢観聖人にさづけられき。

往生大要抄

この法語は、浄土門と聖道門と違いを説明し、浄土の安心とは何かということを説明する。法滅以後も百年存続し続ける『無量寿経』が根拠になっているのだから、三心を備えひたすらに称名念仏すべきであると説き、至誠心釈と深信釈を詳釈される。
深信釈ではいわゆる深心を二種に開いて釈する所以は、法の深信のみでは、自身の器量を怯弱して、罪をもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこした勝れた人のみが称える念仏の法門であると誤解するおそれがあるゆえ、善導和尚は機の深心を釈されたとする。また信心とは、感情に駆られた「心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみたもおつるをのみ信のおこると申すはひが事」であるとし、疑いを除くことが信心であるとする。行と信に関しては「つよく信ずるかたをすすむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術(すべ)なき事にて侍る也」と嘆いておられるが、一念義に立って造悪無碍の邪見に陥る輩も多かったのであろう。ある意味では、現代人の、ありもしない自己の拵えた信に迷う者も邪見であろう。
往生大要抄 第三
いまわが浄土宗には、二門をたてゝ釈迦一代の説教をおさむるなり。いはゆる聖道門浄土門なり。はじめ花厳・阿含より、おはり法花・涅槃にいたるまで、大小乗の一切の諸経にとくところの、この娑婆世界にありながら、断迷開悟のみちを、聖道門とは申すなり。これにつきて大乗の聖道あり、小乗の聖道あり。大乗にも二あり、すなわち仏乗と菩薩乗と也。小乗に二あり、すなわち声聞と、縁覚との二乗なり。これをすべて四乗となづく。仏乗とは即身成仏の教なり。真言・達磨・天台・花厳等の四乗(宗)にあかすところなり。すなはち真言宗には、「父母所生身、速証大覚位」「隠/顕」
父母所生の身にすみやかに大覚位を証す。
{菩提心論}と申して、この身ながら、大日如来のくらゐいにのぼるとならふ也。

仏心宗[2]には、「前仏後仏以心伝心」[3](達磨大師血脈論)とならひて、たちまちに人の心をさしてほとけと申なり。かるがゆえに即心是仏の法となづけて、成仏とは申さぬなり。この法は、釈尊入滅の時、『涅槃経』をときおはりてのち、たゞ一偈をもちて迦葉尊者に付嘱し給へる法なり[4]
天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。八歳の竜女が南方無垢世界にして、たちまちに正覚をなりし、その証なり。[5]
花厳宗には、「初発心時 便成正覚」[6]{晋訳華厳経巻八梵行品} とて、又即身成仏とならふなり。これらの宗には、みな即身頓証のむねをのべて、仏乗となづくる也。
つぎに菩薩乗といは、歴劫修行成仏の教なり、三論・法相の二宗にならふところなり。すなはち三論宗には、八不中道の無相の観に住して、しかも心には四弘誓願をおこし、身には六波羅蜜を行じて、三僧祇に菩薩の行を修してのち、ほとけになると申す也。
法相宗には、五重唯識[7]の観に住して、しかも四弘をおこし、六度を行じて三祇劫をへて、ほとけになると申す也。これらを菩薩乗となづく。つぎに縁覚乗といは、飛花落葉を見て、ひとり諸法の無常をさとり、あるいは十二因縁を観じて、とき(疾) は四生、おそきは百劫にさとりをひらくなり。 つぎに声聞乗といは、はじめ不浄・数息を観ずるより、おはり四諦の観にいたるまで、ときは三生、おそきは六十劫に、四向三果のくらゐをへて、大阿羅漢の極位にいたる也。この二乗の道は、成実・倶舎の両宗にならふところ也。又声聞につきて、戒行をそなふべし。比丘は二百五十戒を受持し、比丘尼は五百戒を受持するなり。これを五篇・七聚の戒となづくる也。又沙弥・沙弥尼の戒、式沙摩尼の六法、優婆塞・優婆夷の五戒、みなこれ律宗の中にあかすところ也。
およそ(この四乗の聖道は)大小乗をえらばず、この四乗の聖道は、われらが身にたへ、時にかなひたる事にてはなき也。もし声聞のみちにおもむくは、二百五十戒たもちがたし、苦・集・滅・道の観成じがたし。もし縁覚の観をもとむとも、飛花落葉のさとり、十二因縁の観、ともに心もおよばぬ事也。(又菩薩の行におゐては、)三聚・十重の戒行発得しがたし、四弘六度の願行成就しがたし。
身子(舎利弗)は六十劫まで修行して、乞眼の悪縁にあひて、たちまちに菩薩の広大の心をひるがへしき。いはんや末法のこのごろをや、下根のわれらをや。たとひ即身頓証の理を観ずとも、真言の入我々入[8]・阿字本不生の観[9]、天台の三観・六即・中道実相の観、花厳宗の法界唯心の観、仏心宗の即心是仏の観、理はふかく、解は〔あさ〕し。
かるがゆへに末代の行者、その証をうるに、きはめてかたし。このゆへに、道綽禅師は「聖道の一種は今の時は証しがたし」{安楽集巻上}とのたまへり。すなはち『大集の月蔵経』をひきて、おのおの行ずべきありようをあかせり。こまかにのぶるにおよばず。 つぎに浄土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてゝ、いそぎてかの極楽浄土にむまれて、かのくにゝして仏道を行ずる也。しかればかつがつ浄土にいたるまでの願行をたてゝ、往生をとぐべきなり。
しかるにかのくにゝにむまるゝ事は、すべて行者の善悪をゑらばず。たゞほとけのちかひを信じ信ぜざるによる。五逆十悪をつくれるものも、たゞ一念十念に往生するは、すなはちこのことはり也。このゆへに道綽は、「ただ浄土の一門の〔み〕ありて、通入すべきみちなり」{安楽集巻上}と釈し給へり。
「通じているべし」といふにつきて、わたくしに心うるに、二つの心あるべし。一にはひろく通じ、二にはとをく通ず。ひろく通ずといは、五逆の罪人をあげてなお往生の機におさむ、いはんや余の軽罪をや、いかにいはんや善人をやと心えつれば、往生のうつはもの[10]にきらはるゝものなし。かるがゆえにひろく通ずといふ也。とをく通ずといは、「末法万年のゝち法滅百歳まで、この教とどまりて、その時にききて、一念する、みな往生す」{大経巻下意} といへり。 いはんや末法のなかをや、いかにいはんや正法・像法をやと心えつれば、往生の時もるゝ世なし。かるがゆへにとおく通ずといふなり。
しかればこのごろ生死をはなれんとおもはんものは、難証の聖道をすてて、易往の浄土をねがふべき也。又この聖道・浄土をば、難行道易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふには、「難行道とは、さかしきみちをかち[11]よりゆかんがごとし。易行道とは、海路をふねよりゆくがご」(十住論巻五易行品意) としといへり。しかるに目しゐ足なえたらんものは[12] 、陸地にはむかふべからず、ただふねにのりてのみ むかひのきしにはつくべき也。しかるにこのごろ、われらは智恵のまなこしゐて、行法のあしおれたるともがら也。
聖道難行のさかしきみちには、すべてのぞみをたつべし。ただ弥陀の願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて、極楽のきしにはつくべきなり。いまこのふねといは、すなはち弥陀の本願にたとふる也。この本願といは、四十八願也、そのなかに、第十八の願をもて、衆生の往生のさだめたる本願とせり。二門の大旨、略してかくのごとし。聖道の一門をさしおきて、浄土の一門にいらんとおもわん人は、道綽・善導の釈をもて、所依の三部経を習ふべきなり。
さきには聖道・浄土の二門を分別して、浄土門にいるべきむねを申ひらきつ。いまは浄土の一門につきて、修行すべきやうを申すべし。

浄土に往生せんとおもはば、心と行との相応すべきなり。かるがゆへに善導の釈にいはく、「ただしその行のみあるは、行すなはちひとりにして、又いたるところなし。ただその願のみあるは、願すなはちむなしくして、又いたるところなし。かならず願と行とをあひともにたすけて、ためにみな剋するところ也。およそ往生のみにかぎらず、聖道門の得道をもとめんにも、心と行とを具すべし」{玄義分意}といへり。発心修行となづくる、これなり。
いまこの浄土宗に、善導のごとくは安心・起行となづけたり。まづその安心といは、『観無量寿経』にといていはく、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんとねがはんものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。なにをか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迥向発願心なり。三心を具するものは、かならずかのくににむまる」といへり。善導和尚の『観経の疏』、ならびに『往生礼讃』の序に、この三心を釈し給へり。 一に至誠心といは、まづ『往生礼讃』の文をいださば、「一には至誠心。いはゆる身業にかのほとけを礼拝せんにも、口業にかのほとけを讃嘆称揚せんにも、意業にかの仏を専念観察せんにも、およそ三業をおこすには、かならず真実をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となづく」といへり。
つぎに『観経の疏』(散善義意) の文をいださば、「一に至誠心といは、至といは真也、誠といは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとおもふ。ほか(外) には賢善精進の相を現じて、内には虚仮をいだく事なかれ。善の三業をおこす事は、かならず真実心のなかになすべし。内外明闇をゑらばず、みな真実をもちゐよ」{散善義}といへり。 この二つの釈をひいて、わたくしに料簡するに、至誠心といは真実の心なり。その真実といは、内外相応の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なく、ま事をあらはす也。しかるを、人つねにこの至誠心を、熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを、至誠心と申すは、この釈の心にはたがふ也。文字もかはり、心もかはりたるものを。さればとて、その猛利の心は、すべて至誠心をそむくと申にはあらず。それは至誠心のうゑの熾盛心にてこそあれ。真実の至誠心を地にして、熾盛なるはすぐれ、熾盛ならぬはおとるにてある也。これにつきて、九品の差別までもこゝろうべき也。

されば善導の『観経の疏』(散善義) に、九品の文を釈するしたに、一一の品ごとに、「弁定三心以為正因」「隠/顕」
三心を弁定してもつて正因となす。
とさだめて、「この三心は九品に通ずべし」{散善義意}と釈し給へり。恵心も是をひきて、「禅師の釈のごときは、理九品に通ずべし」{往生要集巻中本}とこそはしるされたれ。この三心の中、かの至誠心なれば、至誠心すなはち九品に通ずべき也。又至誠心は、深心と廻向発願心とを体とす。この二をはなれては、なにによりてか、至誠心をあらはすべき。ひろくほかをたづぬべきにあらず。深心も廻向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。

三心すでに九品に通ずべしと心えてのうへには、その差別のあるやうをこころうるに、三心の浅深強弱によるべき也。かるがゆへに上品上生には、『経』(観経)に、「精進勇猛なかるがゆへに」とゝき、『釈』には「日数すくなしといへども、作業はげしきがゆへに」(玄義分)といへり。又上品中生をば、「行業やゝよはくして」と釈し、上品下生をば、「行業こわからず」なんど釈せられたれば、三心につきて、こわきもよはきもあるべしとこそこゝろえられたれ。よはき三心具足したらん人は、くらゐこそさがらんずれ、なを往生はうたがふべからざる也。
それに強盛の心をおこさずば、至誠心かけて、ながく往生すべからずと心えて、みだりに身をもくだし、あまさへ人をもかろしむる人々の不便におぼゆる也。
さらなり[13] 強盛の心のおこらんは、めでたき事なり。『善導の十徳』の中に、はじめの至誠念仏の徳をいだすにも、「一心に念仏して、ちからのつくるにあらざればやまず、乃至寒冷にも又あせをながす、この相状をもて至誠をあらはす」なんどあるなれば、たれだれもさこそははげむべけれ。たゞしこの定なるをのみ至誠心と心えて、これにたがわんをば至誠心かけたりといはんには、善導のごとく至誠心至極して、勇猛ならん人ばかりぞ往生はとぐべき。われらがごときの尫弱[14] の心にては、いかが往生すべきと臆せられぬべき也。 かれは別して善導一人の徳をほむるにてこそあれ、これは通じて一切衆生の往生を决するにてあれば、たくらふべくもなき事也。所詮はたゞわれらがごときの凡夫、をのをの分につけて、強弱真実の心をおこすを、至誠心となづけたるとこそ、善導の釈の意は見えたれ。 文につきてこまかに心うれば、「ほかには賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいだくことなかれ」といふは内にはをろか(愚)にして、ほかにはかしこき相を現じ、うちには悪をのみつくりて、ほかには善人の相を現じ、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現ずるを、虚仮とは申す也。
外相の善悪をばかへり見ず、世間の謗誉をばわきまへず、内心に穢土をもいとひ、浄土をもねがひ、悪をもとゞめ、善をも修して、まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申也。
真実は虚仮に対することば也。真と仮と対し、虚と実と対するゆへなり。この真実虚仮につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。
一には、ほかをかざりて、うちにはむなしき人。二には、ほかをもかざらずうちもむなしき人。三には、ほかはむなしく見えて、内は ま事ある人。四には、ほかにもまことをあらはし、うちにもまことある人。かくのごときの四人の中には、さきの二人をば、ともに虚仮の行者といふべし。
のちの二人をば、ともに真実の行者といふべし。しかれば、たゞ外相の賢愚・善悪をばゑえらばず、内心の邪正・迷悟によるべき也。およそこの真実の心は、人ごとに具しがたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。おろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。無始よりこのかた、今身にいたるまで、おもひならはして さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩悩なれば、たたんとするにやすらかに はなれ(離)がたきなりけりと、おもひゆるさるゝかたもあれども、又ゆるしはんべるべき事ならねば、わが心をかへりみて、いましめ なをすべき事なり。しかるにわが心の程もおもひしられ、人のうゑをも見るに、この人め かざる心ばへは、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返々 心うくかなしくおぼゆれ。
この世ばかりをふかく執する人は、たゞまなこのまへのほめられ、むなしき名をもあげんとおもはんをば、いふにたらぬ事にておきつ[15]。 うき世をそむきて、まことのみちにおもむきたる人々のなかにも、返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。
むかしこの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事におもひて、やがてそれを、この世さまにも心のいろのうるせき[16]にとりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、うゑにあらはるゝすがた事がらばかりを、たとがりいみじかるをのみ本意におもひて、ふかき山ぢ(路)をたづね、かすか(幽)なるすみかをしむるまでも、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、おのづからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人の、おもはん事をのみさきだて〔ゝ、〕まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道塲の荘厳など、たとくめでたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほどに、罪の事も、ほとけのおぼしめさん事をもかへりみず、人のそしりにならぬ様をのみ おもひ いとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事なんどのあるが、やがて至誠心かけて往生せぬ心ばへにてある也。
又世をそむきたる人こそ、中々ひじり名聞もありて さやうにもあれ、世にありながら往生をねがはん人は、この心は何ゆへにかあるべきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわた〔る〕事なれば、ゆめまぼろしの栄花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。
中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、それにつけてほかをかざりて、人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。まして世をすてたる人なんどにむかひては、さなからん心をも、あはれをしり ほかにあひしらはんために、後世のおそろしさ、この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。

又か様に申せば、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみず、ほかをかざらねばとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなき也。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそ、いましめられたれ。こればはう[17]にまかせてふるまへば、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、いさゝか人めをつゝむかたは、わざともさこそあるべき事を、人目をのみ執してま事のかたをもかへり見ず、往生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返々もくちおしき也。
譏嫌戒となづけて、やがて虚仮になる事もありぬべし。真実といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく心えとくべし。(ことば)なをたらぬ心ちする也。

又この真実につきて、自利の真実、利他の真実あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてゝ、かろしめいやし〔めんに〕も、阿弥陀仏〔の〕依正二報を、礼拝・讃嘆・憶念せんにも、およそ厭離穢土・欣求浄土の三業にわたりて、みな真実なるべきむね、『疏』の文につぶさ也。その文しげくして、ことごとくいだすにあたはず、至誠心のありさま略してかくのごとし。

二に深心といは、まづ『礼讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり。善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知して、いま弥陀の本弘誓願の名号を穪する事 しも十声・一声にいたるまで、さだめて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。かるがゆへに深心となづく」〔とい〕へり。

つぎに『観経の疏』{散善義意}の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定してふかく、自身は現に是罪悪生死の凡夫也、曠劫より此かた常没流転して、出離の縁ある事なしと信ぜよ。
二には决定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて、衆生を摂受し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなく、かの願力に乗じて、さだめて往生する事をうと信じ、又决定してふかく釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信じ、又决定してふかく、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏の、一切の凡夫决定してむまるゝ事をうと証勧し給へり。ねがはくは一切の行者、一心にたゞ仏語を信じて身命をかへりみず、决定してより行じて、ほとけの捨しめ給はん事をばすなはちすて、ほとけの行ぜしめ給はん事をばすなはち行じ、ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。これを仏教に随順し、仏意に随順すとなづく、これを真の仏弟子となづく。
又深心を深信といは、决定して自心を建立して、教に順じて修行して、ながく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行、異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざれ」といへり。

わたくしにこの二つの釈を見るに、文に広略あり、(こと)ばに同異ありといへども、まづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はじめに「わが身〔は〕煩悩罪悪の凡夫なり、火宅をいでず、出離の縁なしと信ぜよといひ、つぎには「决定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、人にもいひさまたげらるべからず」なんどいへる、 前後のことば相違して心えがたきにに(似)たれども、心をとどめてこれを案ずるに、はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。
たゞしのちの信心を决定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也[18]。そのゆへは、もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして、ただちに後のほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、もろもろの往生をねがはん人、雑行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。
まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば、みだりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことにこの弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。
これは善導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。
かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釈の、ことに心にそみておぼえはんべる也。
さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍る也。さやうに申したちなば、いかほどまでかほとけの本願にかなはず、さほどの心こそ本願にはかなひたれとは しり侍るべき。それをわきまへざらんにとりては、煩悩を断ぜさらんほどは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ、又煩悩を断じてぞ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。すでに弥陀の本願力といふとも、煩悩罪悪の凡夫をば、いかでかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。ほとけの御ちからをばいかほどとしるぞ。それにすぎて、ほとけの願をうたがふ事はいかがあるべき、又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべき事にてこそあれ。すべてわが心の善悪をはからひて、ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、仏智ならではかなふまじき事也。されば善導は『観経の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釈するに、「一切善悪の凡夫むまるることをうる事は、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし」といひおきて、「ほとけの密意弘深にして教門さとりがたし、三賢・十聖もはかりてうかがふところにあらず、いはんや、われ信外の軽毛なり、あへて旨趣をしらんや」とこそは釈し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかでかほとけの御心をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらがさとりにて ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるまじき事也。

ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。
所詮は深信といは、かのほとけの本願は、いかなる罪人をもすてず、ただ名号をとなふる事一声までに、决定して往生すと ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。

『観経』の下品下生を見るに、「十悪・五逆の罪人も、一念・十念に往生す」ととかれたり。「十悪・五逆等 貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曽慚愧悔前𠍴」「隠/顕」
十悪・五逆等の貪瞋と、四重と偸僧と謗正法と、いまだかつて慚愧して前の𠍴(とが)を悔いず。
{礼讃}といへるは、在生の時の悪業をあかす。「忽遇往生善知識 急勧専称彼仏名 化仏菩薩尋声到 一念傾心入寳蓮」「隠/顕」
たちまちに往生の善知識の、急に勧めてもつぱらかの仏名を称せしむるに遇ふ。化仏・菩薩声を尋ねて到りたまふ。一念心を傾くれば宝蓮に入る。
{礼讃}といへるは、臨終の時の行相をあかす也。
又『双巻経』(大経巻下意)のおくに、「三宝滅尽ののちの衆生、乃至一念に往生す」とゝかれたり。善導釈していはく、「万年三宝滅、此経住百年、爾時聞一念、皆当得生彼」「隠/顕」
万年にして三宝滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし。
{礼讃}といへり。

この二つの心をもて、弥陀の本願のひろく摂し、とをくおよぶほどをばしるべき也。おもき(重)をあげてかろき(軽)をおさめ、悪人をあげて善人をおさめ、とをき(遠)をあげてちかき(近)をおさめ、のち(後)をあげてさき(前)をおさむるなるべし。ま事に大悲誓願の深広なる事、たやすく(ことば)をもてのぶべからず、心をとどめておもふべきなり。そもそもこのごろ末法にいれりといへども、いまだ百年にみたず、われら罪業おもしといへども、いまだ五逆をつくらず、しかればはるかに百年法滅ののちをすくひ給へり、いはんやこのごろをや。ひろく五逆極重のつみをすて給はず、いはんや十悪のわれらをや。ただ三心を具して、もはら名号を称すべし。たとひ一念といふとも、みだりに本願をうたがふ事なかれ。
かやうのことはりを申つればつみをもすて給はねば、心にまかせてつみをつくらんもくるしかるまじ、又一念にも一定往生すなれば、念仏はおほく申さずともありなんと、あしく心うる人のいできて、つみをばゆるし、念仏をば制するやうに申しなすが返返もあさましく候也。悪をすすめ善をとどむる仏法はいかがあるべき。 されば善導は、「貪瞋煩悩をきたしまじへざれ」{礼讃}といましめ、又「念念相続していのちのおはらんを期とせよ」{礼讃}とおしへ、又「日所作は五万・六万乃至十万」{観念法門意}なんどとこそすすめ給ひたれ。
ただこれは大悲本願の一切を摂する、なを十悪・五逆をももらさず。称名念仏の余行にすぐれたる、すでに一念・十念にあらはれたるむねを信ぜよと申すにてこそあれ。〔か〕やうの事は、あしく心うれば、いづかたもひが事になる也。つよく信ずるかたをすゝむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術(すべ)なき事にて侍る也。かやうの分別は、このついでに事ながければ、起行の下にてこまかに申ひらくべし。 又ひくところの『疏』の文を見るに、のちの信心につゐて二つの心あり。すなはち仏につゐてふかく信じ、経についてふかく信ずべきむねを釈し給へるにやと心えらるる也。まづほとけについて信ずといは、一には弥陀の本願を信じ、二には釈迦の所説を信じ、三には十方恒沙の護勧を信ずべき也。経について信ずといは、一には『無量寿経』を信じ、二には『観経』を信じ、三には『阿弥陀経』を信ずる也。すなはちはじめに「决定してふかく阿弥陀仏の四十八願」といへる文は、弥陀を信じ、又『無量寿経』を信ずる也。つぎに「又决定してふかく釈迦仏の観経」といへる文は、釈迦を信じ、『観経』を信ずるなり。つぎに「决定してふかく弥陀経の中」といへる文は、十方諸仏を信じ、又『阿弥陀経』を信ずる也。又つぎの文に、「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」といふは、雑修・雑行なり。「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜよ」といふは、専修正行也。「ほとけのさら(去)しめたまはん事をばされ」といふは、異学・異解・雑縁乱動のところ也。
善導の、「みづからもさへ、他の往生の正行をもさふ」{礼讃}と釈し給へる事、まことにおそるべき物也。
「仏教に随順す」といは、釈迦の御をしへにしたがひ、「仏願に随順す」といは、弥陀の願にしたがふ也。「仏意に随順」すといは、二尊の御心にかなふなり。いまの文の心は、さきの文に「三部経を信ずべし」といへるにたがはず、詮じてはただ雑修をすてて、専修を行ずるが、ほとけの御心にかなふとこそはきこえたれ。
又つぎの文に、「別解・別行のためにやぶられざれ」といふは、さとりこと(異)に行ことならん人の難じやぶらんについて、念仏をもすて往生をもうたがふ事なかれと申す也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の諸宗の学生これなり。行ことなる人と申すは、真言・止観等の一切の行者これなり。これらはみな聖道門の解行也。浄土門の解行にことなるがゆへに、別解・別行とはなづけたり。かくのごときの人に、いひやぶらるまじきことはりは、この文のつぎにこまかに釈し給へり。
すなはち人につきて信をたつ、行につきて信をたつといふ、二の信をあげたり。はじめの 人につきて信をたつといへる、これなり。その文広博にして、つぶさにい(出)だすにあたはず。(しかれども)その義至要にしてさらにすてがたきによりて、ことばを略し心をとりて、そのをもむきをあかさば、文の心、「解行不同の人ありて、経論の証拠をひきて、一切の凡夫往生することをえずといはば、すなはちこたえていへ。なんぢかひくところの経論を信ぜざるにはあらず、みなことごとくあふいで信ずといへども、さらになんぢが破をはうけず。
そのゆへは、なんぢかひくところの経論と、わが信ずるところの経論と、すでに各別の法門なり。ほとけ、この『観経』・『弥陀経』等をとき給ふ事、時も別にところも別に、対機も別に利益も別なり。ほとけの説教は、機にしたがひ、時にしたがひて不同なり。かれには通じて人・天・菩薩の解行をとく、これは別して往生浄土の解行をとく。すなはち、ほとけの滅後の、五濁極増の一切の凡夫、决定して往生する事をうととき給へり。われいま一心にこの仏教によりて、决定して奉行す。たとひなんぢ百千万億むまれずといふとも、ただわが往生の信心を増長し成就せんとこたへよ」(散善義意)といへり。

「又行者さらに難破の人にむかひてときていへ。なんぢよくきけ、われいまなんぢがために、さらに决定の信相をとかん」(散善義)といひて、はじめは地前菩薩・羅漢・辟支仏等より、おはり化仏・報仏までたてあげて、「たとひ化仏・報仏、十方にみちみちて、おのおのひかりをかがやかし、したをいだして、十方におほひて、一切の凡夫念仏して一定往生すといふ事は、ひが事なり、信ずべからずとの給はんに、われこれらの諸仏の所説をきくとも、一念も疑退の心をおこして、かの国にむまるる事をえざらん事をおそれじ。なにをもてのゆへにとならば、一仏は一切仏也、大悲等同にしてすこしきの差別なし。同体の大悲のゆへに、一仏の所説はすなはちこれ一切仏の化なり。
ここをもて、まづ弥陀如来、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚[19]と願じて、その願成就してすでに仏になり給へり。又釈迦如来は、この五濁悪世にして、悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信さかりなる時、弥陀の名号をほめ、衆生を勧励して、称念すればかならず往生する事をうとゝき給へり。
又十方の諸仏は、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらん事をおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界におほひて、誠実のことばをとき給ふ。なんだち衆生、みな釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫罪福の多少、時節の久近をとはず、ただよく上は百年をつくし、下もは一日・七日・十声・一声にいたるまで、心をひとつにしてもはら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生する事をうといふ事を信ずべし。かならずうたがふことなかれと証誠し給へり。かるがゆへに人につゐて信をたつ」(散善義意)といへり。 かくのごときの、一切諸仏の、一仏ものこらず同心に、あるひは願をおこし、あるひはその願をとき、あるひはその説を証して、一切の凡夫、念仏して决定往生すべきむねをすすめ給へるうゑには、いかなるほとけの又きたりて、往生すべからずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、ほとけきたりての給ふとも、おどろくべからずとは信ずる也。
ほとけなをしかり、いはんや地前・地上の菩薩をや、いはんや小乗の羅漢をやと心えつれば、まして凡夫のとかく申さんによりて、一念もうたがひおどろく心あるべからずとは申す也。 おほかた此信心の様を、人のこころえわかぬとおぼゆる也。心の ぞみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ、信のおこると申すはひが事にてある也。それは歓喜・随喜・悲喜と〔ぞ〕申べき。信といは、うたがひに対する心〔にて、〕うたがひをのぞくを信とは申すべき也。見る事につけても、きく事につけても、その事一定さぞとおもひとりつる事は、人いかに申せども、不定におもひなす事はなきぞかし。これをこそ、物を信ずるとは申せ。その信のうへに、歓喜・随喜なんどもおこらんは、すぐれたるにてこそあるべけれ。
たとへばとしごろ心のほどをもみ(見)とりて、そら事せぬたしかならん人ぞとたのみたらん人の、さまざまにおそろしき[20]誓言をたて、なをざりならず、ねんごろにちぎり をきたる事のあらんを、ふかくたのみてわすれずたもちて、心のそこにふかくたくわへたらんに、いと心の程もしらざらん人の、それなたのみそ、そら事をするぞと、さまざまにいひさまたげんにつきて、すこしもかはる心はあるまじきぞかし。[21]
それがやうに、弥陀の本願をもふかく信じて、いひやぶらるべからず。いはんや一代の教主も付嘱し給へるをや、いはんや十方の諸仏も証誠し給へるをやと心うべきにや。まことにことはりをききひらかざらんほどこそあらめ。
ひとたびもこれをききて信をおこしてんのちは、いかなる人とかくいふとも、なじにかはみだるゝ心あるべきとこそはおぼえ候へ。 つぎに行について信をたつといふは、すなはち行に二つあり。一には正行、二には雑行なりといへり。この二行について、あるひは行相、あるひは得失、文ひろく義おほしといへども、しばらく略を存ず。つぶさには、下もの起行の中にあかすべし。深心の大要をとるにこれにあり。

この文に下巻あるべしとみゆるが、いづくにかくれて侍るにか、いまだたづねえず、もしたづねうる人あらばこれにつけ。


黒谷上人語灯録巻第十一

黒谷上人語灯録第十二

黒谷上人語灯録巻第十二

厭欣沙門了恵集録

和語第二之二{当巻有五章}

念仏往生要義抄 第四
三心義 第五
七箇条起請文 第六
念仏大意 第七
浄土宗略抄 第八

念仏往生要義抄

この法語は念仏の教えに関する様々な疑問を問答形式で明らかにする。阿弥陀如来の光明に摂取されるのは、臨終の時ではなく平生の時であり、平生の時から臨終の時まで光明が照らすことが明らかにされている。
念仏往生要義抄

それ念仏往生は、十悪・五逆をえらばず、迎摂するに十声・一声をもてす。聖道諸宗の成仏は、上根・上智をもととするゆへに、声聞・菩薩を機とす。しかるに世すでに末法になり、人みな悪人なり。はやく修しがたき教を学せんよりは、行じやすき弥陀の名号をとなへて、このたび生死の家をいづべき也。ただしいづれの経論も、釈尊のときをき給へる経教なり。
しかれば、『法華』・『涅槃』等の大乗経を修行して、ほとけになるになにのかたき事かあらん。それにとりて、いますこし『法華経』は、三世の諸仏もこの経によりてほとけになり、十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。しかるに『法華経』なんどをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かやうに申す日は、まことにさるべき事なれども、われらが器量は、この教におよばざるなり。そのゆへは、『法華』には菩薩・声聞を機とするゆへに、われら凡夫はかなふべからずとおもふべき也。
しかるに阿弥陀ほとけの本願は、末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、利益いまの時に决定往生すべき也。わが身は女人なればとおもふ事なく、わが身は煩悩悪業の身なればといふ事なかれ。もとより阿弥陀仏は、罪悪深重の衆生の、三世の諸仏も、十方の如来も、すてさせ給ひたるわれらをむかへんと、ちかひ給ひける願にあひたてまつれり。往生うたがひなしとふかくおもひいれて、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな往生をとぐる也。

問ていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。

答ていはく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は、またく往生すべからず。[22]

問ていはく、その他力の様いかむ。

答ていはく、ただひとすぢに仏の本願を信じ、わが身の善悪をかへり見ず、决定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。たとへば騏麟の尾につきたる蠅の、ひとはねに千里をかけり、輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、一日に四天下をめぐるがごとし。これを他力と申す也。
又おほきなる石をふねにいれつれば、時のほどにむかひのきしにとづくがごとし。またくこれは石のちからにはあらず、ふねのちからなり。それがやうに、われらがちからにてはなし、阿弥陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり。

問ていはく、自力といふはいかん。

答ていはく、煩悩具足して、わろき身をもて煩悩を断じ、さとりをあらはして成仏すとこころえて、昼夜にはげめども、無始より貪瞋具足の身なるがゆへに、ながく煩悩を断する事かたきなり。かく断じがたき無明煩悩を、三毒具足の心にて断ぜんとする事、たとへば須弥を針にてくだき、大海を芥子のひさくにてくみつくさんがことし。たとひはりにて須弥をくだき、芥子のひさくにて大海をくみつくすとも、われらが悪業煩悩の心にては、曠劫多生をふ(経)とも、ほとけにならん事かたし。そのゆへは、念念歩歩におもひと思ふ事は、三途八難の業、ねてもさめても案じと案ずる事は、六趣四生のきづな也。かかる身にては、いかでか修行学道をして成仏はすべきや。これを自力とは申す也。

問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものゝ申す念仏と勝劣いかむ。

答ていわく、聖人の念仏と世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またくかはりめあるべからず。

疑ていはく、この条なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかず、不浄の食もせずして、申さん念仏はたとかるべし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ不浄食をして申さん念仏は、さだめておとるべし。功徳いかでかひとしかるべきや。

答ていはく、功徳ひとしくして勝劣あるべからず。そのゆへは、阿弥陀仏の本願のゆへをしらざるものの、かゝるおかしきうたがひをばする也。しかるゆへは、むかし阿弥陀仏、二百一十億の諸仏の浄土の、荘厳・宝楽等の誓願利益にいたるまで、世自在王仏の御まへにしてこれを見給ふに、われらごときの妄想顚倒の凡夫の浄土にむまるべき法のなき也。されば善導和尚釈していはく、「一切仏土皆厳浄 凡 夫乱想恐難生」[23]{法事讃巻下}といへり。この文の心は、一切の仏土はたへなれども、乱想の凡夫はむまるる事なしと釈し給ふ也。おのおのの御身をはからひて御らんずべきなり。そのゆへは、口には経をよみ、身には仏を礼拝すれども、心には思はじ事のみおもはれて、一時もとどまる事なし。しかれば我らが身をもて、いかでか生死をはなるべき。かかりけるほどに曠劫よりこのかた三途八難をすみかとして、烔燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。かなしきかなや、善心はとしとしにしたがひてうすくなり、悪心は日日にしたがひていよいよまさる。
されば古人のいへる事あり、「煩悩は身にそへる影、さらむとすれどもさらず、菩提は水にうかべる月、とらむとすれどもとられず」と。このゆへに阿弥仏ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、善悪をへだてず、持戒・破戒をきらはず、在家・出家をもえらばず、有智・無智をも論ぜず、平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、ただふかく本願を信じて念仏申さば、一念須臾のあひだに、阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。
むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく断じて、五戒・十戒等かたくたもちて、やん事なき聖人も、自力の心に住して念仏申さんにおきては、仏の来迎にあづからん事、千人が一人、万人が一、二人なんどや候はんずらん。それも善導和尚は「千中無一」{礼讃}とおほせられて候へば、いかがあるべく候らんとおぼえ候。
およそ阿弥陀仏の本願と申す事は、やうもなく わが心をすませとにもあらず、不浄の身をきよめよとにもあらず、たゞねてもさめても、ひとすぢに御名をとなふる人をば、臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せば、一期のおはりには、仏の来迎にあづからん事うたがひあるべからず。わが身は女人なれば、又在家のものなればといふ事なく、往生は一定とおぼしめすべき也。

問ていはく、心のすむ時の念仏と、妄心の中の念仏と、その勝劣いかむ。

答ていはく、その功徳ひとしくして、あへて差別なし。

疑ていはく、この条なほ不審なり。そのゆへは、心のすむ時の念仏は、余念もなく一向極楽世界の事のみおもはれ、弥陀の本願のみ案ぜらるゝがゆへに、まじふるものなければ、清浄の念仏なり。心の散乱する時は、三業不調にして、口には名号をとなへ、手には念珠をまはすばかりにては、これ不浄の念仏也。いかでかひとしかるべき。

答ていはく、このうたがひをなすは、いまだ本願のゆへをしらざる也。阿弥陀仏は悪業の衆生をすくはんために、生死の大海に弘誓のふねをうかべ給へる也。たとへばふねにおもき石、かろきあさがら(麻殻)をひとつふねにいれて、むかひのきしにとづくがごとし。本願の殊勝なることは、いかなる衆生も、たゞ名号をとなふるほかは、別の事なき也。

問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。

答ていはく、ただおなし事也。

疑ていはく、この事又不審なり。そのゆへは、一声・十声すでにかずの多少あり、いかでかひとしかるべきや。

答、このうたがひは、一声・十声と申す事は最後の時の事なり。死する時、一声申すものも往生す、十声申すものも往生すといふ事なり。往生だにもひとしくは、功徳なんそ劣ならん。本願の文に、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経巻上)[24] この文の心は、法蔵比丘、われほとけになりたらん時、十方の衆生、極楽にむまれんとおもひて、南無阿弥陀仏と、もしは十声、もしは一声申さん衆生をむかへずは、ほとけにならじとちかひ給ふ。かるがゆへにかずの多少を論ぜず、往生の得分はおなじき也。本願の文顕然なり、なんぞうたがはんや。

問ていはく、最後の念仏と、平生の念仏といづれかすぐれたるや。

答ていはく、ただをなじ事也。そのゆへは、平生の念仏、臨終の念仏とてなんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれば、臨終の念仏となり、臨終の念仏ののぶれは、平生の念仏となる也。

難していはく、最後の一念は百年の業にすぐれたりと見えたり、いかむ。

答ていはく、このうたがひは、この文をしらざる難なり。いきのとゞまる時の一念は、悪業こはくして善業にすぐれたり、善業こはくして悪業にすぐれたりといふ事也。ただしこの申す人は念仏者〔に〕て〔は〕なし、もとより悪人の沙汰をいふ事也。平生より念仏申て往生をねがふ人の事をば、ともかくもさらに沙汰におよばぬ事也。

問ていはく、摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかむ。

答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心ま事にて、わが身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、『観経』の説なり。かかる心ざしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まてすて給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也。

問ていはく智者の念仏と、愚者の念仏と、いづれも差別なしや。

答ていはく、ほとけの本願にとづかば、すこしの差別もなし。そのゆへは、阿弥陀仏、ほとけになり給はざりしむかし、十方の衆生わが名をとなへば、乃至十声までもむかへんと、ちかひをたて給ひけるは、智者をえらび、愚者をすてんとにはあらず。されば『五会法事讃』にいはく、「不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念仏 能令瓦礫変成金」[25]。この文の心は、智者も愚者も、持戒も破戒も、ただ念仏申さば、みな往生すといふ事也。この心に住して、わが身の善悪をかへりみず、ほとけの本願をたのみて念仏申すべき也。このたび輪廻のきづなをはなるる事、念仏にすぎたる事はあるべからず。このかきおきたるものを見て、そしり謗せんともがらは、かならず九品のうてなに縁をむすび、たがひに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土のともたらむ。

そもそも機をいへば、五逆重罪をえらはず、女人・闡提をもすてず、行をいへば、一念・十念をもてす、これによて、五障・三従をうらむべからず。この願をたのみ、この行をはげむべき也。念仏のちからにあらずば、善人なをむまれがたし、いはんや悪人をや。五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の来迎をかうぶらんと、行住坐臥に名号をとなふべし、時処諸縁に此願をたのむべし。 あなかしこあなかしこ。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

三心義

『観経』の至誠心、深心、廻向発願心の三心を説くが、廻向発願心についは疏文を引くだけで自釈はない。深信釈中で就人立信して解行不同の破人を示すが疏文にはない聖道門と浄土門を対判されている。そして正行による就行立信を論じて正雑二行を明かされる。回向について「いはゆる正行は廻向をもちひされどもをのづから往生の業となる。」とされるのは『選択本願念仏集』と同じである。なお、同趣旨の法語が『西方指南鈔』中本の「十七条御法語」後半に漢文で示されてある。


『観無量寿経』には、「若有衆生 願生彼国 発三種心 即便往生 何等為三 一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心 具三心者 必生彼国」「隠/顕」
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
といへり。[26]

『礼讃』には、三心を釈しおはりて、「具三心者 必得往生也 若少一心即不得生」[27]といへり。しかれば三心を具すべきなり。

一に至誠心といふは、真実の心なり。身に礼拝を行じ、くちに名号をとなへ、心に相好をおもふ、みな真実をもちひよ。すべてこれをいふに、穢土をいとひ浄土をねがひて、もろもろの行業を修せんもの、みな真実をもてつとむべし。
是を勤修せんに、ほかには賢善精進の相を現じ、うちには愚悪懈怠の心をいだきて修するところの行業は、日夜十二時にひまなく、これを行ずとも往生をえず。ほかには愚悪懈怠のかたちをあらはして、うちには賢善精進のおもひに住して、これを修行するもの、一時一念なりとも、その行むなしからずかならず往生をう。これを至誠心となづく。

二に深心といふは、ふかく信ずる心なり。これにつゐて二あり。一にはわれはこれ罪悪不善の身、无始よりこのかた六道に輪迴して、出離の縁なしと信じ、二には罪人なりといへども、ほとけの願力をもて強縁として、かならず往生をえん事、うたがひなくうらもひなしと信ず。
これにつゐて又二あり。一には人につきて信をたつ。二には行につきて信をたつ。人につきて信をたつといふは、出離生死のみちおほしといへども、大きにわかちて二あり。一には聖道門、二には浄土門なり。聖道門といふは、この娑婆世界にて、煩悩を断じ菩提を証するみちなり。浄土門といふは、この娑婆世界をいとひ、かの極楽をねがひて、善根を修する門なり。二門ありいへども、聖道門をさしおきて浄土門に帰す。
しかるにもし人ありて、おほく経論をひきて、罪悪の凡夫往生する事をえじといはん。このことばをききて、退心をなさず、いよいよ信心をますべし。ゆへいかんとなれば、罪障の凡夫の浄土に往生すといふ事は、これ釈尊の誠言也。凡夫の妄執にあらず、われすでに仏の言を信じて、ふかく浄土を欣求す。
たとひ諸仏・菩薩きたりて、罪障の凡夫、浄土にむまるべからずとの給ふとも、これを信すべからず。ゆへいかんとなれば、菩薩は仏の弟子なり、もしま事にこれ菩薩ならば、仏説をそむくべからず。しかるにすでに仏説に〔たが〕ひて、往生をえずとの給ふ。ま事の菩薩にあらず。
又仏はこれ同体の大悲なり。ま事に仏ならば、釈迦の説にたがふべからず。しかればすなはち、『阿弥陀経』(意) に、「一日七日弥陀の名号を念して、かならずむまるる事をう」ととけり。これを六方恒沙の諸仏、釈迦仏におなじく、これを証誠し給へり。しかるにいま釈迦の説にそむきて、往生せずといふ。かるがゆへにしりぬ、ま事のほとけにあらず、これ天魔の変化なり。この義をもてのゆへに、仏・菩薩の説なりとも信ずへからず。いかにいはんや余説をや。なんぢが執するところの大小ことなりといへども、みな仏果を期する穢土の修行、聖道門の心なり。われらが修するところは、正雑不同なれども、ともに極楽をねがふ徃生の行業は、浄土門のこころなり。
聖道門はこれ汝が有縁の行、浄土門といふはわれらが有縁の行、これをもてかれを難ずべからず、かれをもてこれを難ずへからず。かくのごとく、信ずるものをば、就人立信となづく。

つぎに行につきて信をたつといふは、往生極楽の行まちまちなりといへども、二種をばいでず。一には正行、二には雑行也。正行といふは、阿弥陀仏におきてしたしき行なり。雑行といふは阿弥陀仏におきてうとき行なり。まづ正行といふは、これにつきて五あり。
一にはいはく読誦、いはゆる「三部経」をよむなり。二には観察、いはゆる極楽の依正を観ずる也。三には礼拝、いはゆる阿弥陀仏を礼拝する也。四には称名、いはゆる弥陀の名号を称する也。五には讃嘆供養、いはゆる阿弥陀仏を讃嘆し供養する也。
この五をもてあはせて二とす。一には一心にもはら弥陀の名号を念して、行住坐臥に時節の久近をとはず念念にすてざる、これを正定業となづく、かのほとけの願に順するがゆへに、二にはさきの五が中、かの称名のほかの礼拝・読誦等をみな助業となづく。

つぎに雑行といふは、さきの五種の正助二業をのぞきて已外のもろもろの読誦大乗・発菩提心・持戒・勧進等の一切の行なり。この正雑二行につきて、五種の得失あり。 一には親疎対、いはゆる正行は阿弥陀仏にしたしく、雑行はうとく、 二には近遠対、いはゆる正行は阿弥陀仏にちかく、雑行は阿弥陀仏にとをし。
三には有間無間対、いはゆる正行はおもひをかくるに无間也、雑行は思をかくるに間断あり。
四に廻向不廻向対、いはゆる正行は廻向をもちひざれどもおのづから往生の業となる。雑行は廻向せざる時は往生の業とならず。
五には純雑対、いはゆる正行は純極楽の業也。雑行はしからず、十方の浄土乃至人天に通ずる業也。かくのごとく信ずるを就行立信となづく。 三に廻向発願心といふは、過去をよび今生の身口意業に修するところの一切の善根を、真実の心をもて極楽に廻向して往生を欣求する也。これを廻向発願心となづく、この三心を具しぬれば、かならず往生する也。

七箇条起請文

念仏者は三心を備えなければならず、念仏を称えることによって、三心は必然的にそなわることを明らかにし、三心と念仏の相即を説く。至誠心釈では、喜足小欲と不喜足大欲をとりあげ、不喜足大欲を戒め、ないものを欲しがらずあるものを喜ぶ喜足小欲は、くるしからずとする。「おこれども煩悩をば心のまらう人とし念仏をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をはさへぬ也」は、蓮如さんの『御一代記聞書』157条に「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり」はこの文章からであろう。
七箇条の起請文 第六

およそ往生浄土の人の要法はおほしといへども、浄土宗の大事は、三心の法門にある也。もし三心を具せざるものは、日夜十二時に、かうべの火をはらふがごとくにすれども、つひに往生をえずといへり。 極楽をねがはん人は、いかにもして三心のやうを心えて、念仏すべき也。三心といふは、一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。

まづ至誠心といふは、大師釈しての給はく、「至といふは真也。誠といふは実也」(散善義)といへり。ただ真実心を至誠心と善導はおほせられたる也。真実といふはもろもろの虚仮の心のなきをいふ也。虚仮といふは、貪瞋等の煩悩をおこして、正念をうしなふを、虚仮心と釈する也。すべてもろもろの煩悩のおこる事は、みなもと貪瞋を母として出生するなり。貪といふについて、喜足小欲[28]の貪あり、不喜足大欲[29]の貪あり。いま浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩也。まづ行者、かやうの道理を心えて念仏すべき也。これが真実の念仏にてある也。喜足小欲の貪はくるしからず。瞋煩悩も、敬上慈下[30]の心をやぶらずして、道理を心えほどく也。痴煩悩といふは、おろかなる心なり。この心をかしこくなすべき也。まづ生死をいとひ浄土をねがひて、往生を大事といとなみて、もろもろの家業を事とせざれば、痴煩悩なき也。少少の痴は、往生のさはりにはならず。このほどに心えつれば、貪瞋等の虚仮の心はうせて、真実心はやすくおこる也。これを浄土の菩提心といふなり。詮ずるところ、生死の報をかろしめ、念仏の一行をはげむがゆへに、真実心とはいふ也。

二に深心といふは、ふかく念仏を信ずる心なり。ふかく念仏を信ずといふは、余行なく一向に念仏になる也。もし余行をかぬれは、深心かけたる行者といふ也。 詮するところ、釈迦の「浄土三部経」は、ひとへに念仏の一行をとくと心え、弥陀の四十八願は、称名の一行を本願とすと心えて、ふた心なく念仏するを、深心具足といふなり。三に廻向発願心といふは、无始よりこのかたの所作のもろもろの善根を、ひとへに往生極楽といのる也。又つねに退する事なく念仏するを、廻向発願心といふなり。これは恵心の御義なり。この心ならば、至誠心・深心具足してのうへに、つねに念仏の数遍をすべし。もし念仏退転せば、廻向発願心かけたるもの也。 浄土宗の人は、三心のやうをよくよく心えて念仏すべき也。三心の中に、ひとつもかけなば、往生はかなふまじき也。三心具足しぬれば、往生は无下にやすくなる也。すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、ただ貪瞋痴の煩悩の絆によりて也。貪瞋痴おこらば、なを悪趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、これをとどむへき也。しかれどもいまだ煩悩具足のわれらなれば、かくは心えたれども、つねに煩悩はおこる也。おこれども煩悩をば心のまらう人[31]とし念仏をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をばさへぬ也。煩悩を心のあるじとして、念仏を心のまらう人とする事は、雑毒虚仮の善にて、往生にはきらはるる也。詮ずるところ、前念・後念のあひだには、煩悩をまじふといふとも、かまへて南無阿弥陀仏の六字の中に、貪等の煩悩をおこすまじき也。

一、
われは阿弥陀仏をこそたのみたれ。念仏をこそ信じたれとて、諸仏・菩薩の悲願をかろしめたてまつり、法華・般若等の、めでたき経どもを、わろくおもひそしる事はゆめゆめあるべからず。よろづのほとけたちをそしり、もろもろの聖教をうたがひそしりたらんずるつみは、まづ阿弥陀仏の御心にかなふまじければ、念仏すとも悲願にもれん事は一定也。

一、
つみをつくらじと、身をつゝしんでよからんとするは、阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。又念仏をおほく申さんとて、日々に六万遍なんどをくりゐたるは、他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。かやうのひが事、ゆめゆめもちふべからず。
まづいづれのところにか、阿弥陀仏はつみつくれとすゝめ給ひける。ひとへにわが身に悪をもとゞめえず、つみのみつくりゐたるままに、かゝるゆくゑほとりもなき虚言をたくみいだして、物もしらぬ男女のともがらを、すかしほらかして罪業をすすめ、煩悩をおこさしむる事、返々天魔のたぐひ也、外道のしわざ也、往生極楽のあだかたきなりとおもふべし。又念仏のかずをおほく申すものを、自力をはげむといふ事、これ又ものもおぼへずあさましきひが事也。たゞ一念・二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。千遍・万遍をとなふとも、百日・千日、よる・ひるはげみつむとも、ひとへに願力をたのみ、他力をあふぎたらん人の念仏は、声々念々しかしながら他力の念仏にてあるべし。
されば三心をおこしたる人の念仏は、日々夜々、時々剋々にとなふれども、しかしながら願力をあふぎ、他力をたのみたる心にてとなへゐたれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいふべからず。

一、
三心と申す事は、しりたる人の念仏に、三心具足してあらん事は左右におよばず、つやつや三心の名をだにもしらぬ无智のともがらの念仏には、よも三心は具し候はじ。三心かけば往生し候なんやと申す事、きはめたる不審にて候へども、これは阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあひだ、よる・ひる心をくだきて案じたてて、成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。

いかに無智ならん物もこれを具し、三心の名をしらぬ物までも、かならずそらに具せんずる様をつくらせ給ひたる三心なれば、阿弥陀仏をたのみたてまつりて、すこしもうたがふ心なくして、この名号をとなふれば、あみだほとけかならずわれをむかへて、極楽にゆかせ給ふとききて、これをふかく信じて、すこしもうたがふ心なく、むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、この心がすなはち三心具足の心にてあれば、ただひらに信じてだにも念仏すれば、すずろに三心はあるなり。
さればこそ、よにあさましき一文不通のともがらのなかに、ひとすぢに念仏するものは、臨終正念にして、めでたき往生どもをするは、現に証拠あらたなる事なれば、つゆちりもうたがふべからず。なかなかよくもしらぬ三心沙汰して、あしざまに心えたる人々は、臨終のわろくのみありあひたるは、それにてたれたれも心うべきなり。

一、
ときどき別時の念仏を修して、心をも身をもはげましとゝのへすゝむへき也。日々に六万遍を申せば、七万遍をとなふればとて、ただあるもいはれたる事にてはあれども、人の心ざまは、いたく目もなれ耳もなれぬれば、いそいそとすゝむ心もなく、あけくれは心いそがしき様にてのみ、疎略になりゆく也。その心をためなおさん料に、時々別時の念仏はすべき也。しかれば、善導和尚もねんごろにすすめ給ふ、恵心の『往生要集』にも、すすめさせ給ひたる也。道場をもひきつくろひ、花香をもまいらせん事、ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、わが身をもことにきよめて道塲にいりて、あるひは三時、あるひは六時なんどに念仏すべし。もし同行なんどあまたあらん時は、かはるがはるいりて不断念仏にも修すべし。かやうの事は、おのおのことがらにしたがひてはからふべし。さて善導のおほせられたるは、「月の一日より八日にいたるまで、あるいは八日より十五日にいたるまで、或は十五日より廿三日にいたるまて、或は廿三日より晦日にいたるまで」{観念法門}と、おほせられたり。おのおのさしあはざらん時をはからひて、七日の別時をつねに修すべし。ゆめゆめすゞろ事ともいふ物にすかされて、不善の心あるべからず。

一、
いかにもいかにも最後の正念を成就して、目には阿弥陀ほとけを見たてまつり、口には弥陀の名号をとなへ、心には聖衆の来迎をまちたてまつるべし。としごろ日ごろ、いみじく念仏の功をつみたりとも、臨終に悪縁にもあひ、あしき心もおこりぬるものならば、順次の往生しはづして、一生・二生なりとも、三生・四生なりとも、生死のながれにしたがひて、くるしからん事はくちおしき事ぞかし。されば、善導和尚すゝめておほせられたる様は、「願弟子等 臨命終時{乃至}上品往生 阿弥陀仏国」(礼讃)[32]とあり、いよいよ臨終の正念はいのりもし、ねがふべき事也。臨終の正念をいのるは、弥陀の本願をたのまぬ物ぞなんど申すは、善導にはいかほどまさりたる学生ぞとおもふべき也。あなあさまし、おそろしおそろし。

一、
念仏は、つねにおこたらぬが一定往生する事にてある也。されば善導すゝめての給はく、「一発心已後 誓畢此生 無有退転 唯以浄土為期」[33] 又云 「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」[34]といへり。かやうにすすめましましたる事はあまたおほけれとも、ことことくに、かきのせず。たとむへし、あふぐへし。さらにうたがふべからず。

一、
げにげにしく[35]念仏を行じて、げにげにしき人になりぬれば、よろづの人を見るに、みなわが心にはおとりたり。あさましくわろければ、わが身のよきままには、ゆゆしき念仏者にてある物かな。たれだれにもすぐれたりと思ふ也。この事をば、よくよく心えてつつしむべき事也。世もひろし、人もおほければ、山の中、林の中にこもりゐて、人にもしられぬ念仏者の、貴くめでたき、さすがにおほくあるを、わがきかずしらぬにてこそあれ。されば われほどの念仏者、よもあらじと思ふはひが事也。大憍慢にてあれば、それをたよりにて、魔縁の付きて往生をさまたぐる也。さればわが身のいみじくてつみをも滅し、極楽へもまいらばこそあらめ、ひとへに阿弥陀仏の願力にてこそ、煩悩をも罪業をもほろぼしうしなひて、かたじけなく弥陀ほとけの、てづからみづからむかへとりて、極楽へ返らせましますことなれ。さればわがちからにて往生する事ならばこそ、われかしこしといふ慢心をばおこさめ、憍慢の心だにもおこりぬれば、たちどころに阿弥陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば、弥陀も諸仏も護念し給はずなりぬれば、悪魔のためにもなやまさるる也。返々も憍慢の心をおこすべからず。あなかしこ、あなかしこ。


念仏大意

『西方指南抄』の同趣旨文にリンク

西方指南抄 法語(念仏大意)



浄土宗略抄

「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」とも。聖道・浄土の二門について述べ、至誠心・深心・廻向発願心の三心と起行を説く。また、現世利益として、菩薩の囲繞し護念することと、諸善神は念仏の行者を護ることを説く。なお、受くべき病であれば、「いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、だれかは一人としてやみしぬる人あらん。」と、病気平癒の祈りを否定されておられる。しかし仏には転重軽受の益を与える威神力がましまして、重く受けるべき病悩も、軽く受けさせ給うから、病気を受けたときは「これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなり」と領解せよとされる。
 念仏者に与えられる現世の利益は、あくまでも「弥陀の本願をふかく信じて、念仏して、往生をねがふ人」に、如来の方から求めずして与えたもう益であって、行者が現世利益を祈って求めるものではない。


浄土宗略抄 第八

このたび生死をはなるるみち、浄土にむまるるにすぎたるはなし。浄土にむまるるおこなひ、念仏にすぎたるはなし。おほかたうき世をいでて仏道にいるにおほくの門ありといへども、おほきにわかちて二門を出ず。すなはち聖道門と浄土門と也。

はじめに聖道門といは、この娑婆世界にありながら、まどひをたち、さとりをひらく道也。これにつきて大乗の聖道あり、小乗の聖道あり。大乗に又二あり、すなはち仏乗と菩薩乗と也。これらを総じて四乗となづく。ただしこれらはみな、このごろわれらが身にたへたる事にあらず。
このゆへに道綽禅師は、「聖道の一種は、今時に証しがたし」(安楽集巻上)との給へり。されば、おのおのゝおこなふやうを申して詮なし。ただ聖道門は聞とをくしてさとりがたく、まどひやすくしてわが分にはおもひよらぬみち也とおもひはなつべき也。 つぎに浄土門といは、この娑婆世界をいとひすてて、いそぎて極楽にむまるる也。かのくににむまるる事は、阿弥陀仏のちかひにて、人の善悪をえらばず、ただほとけのちかひをたのみたのまざるによる也。このゆへに道綽は、「浄土の一門のみありて通入すべきみちなり」(安楽集巻上)と給へり。

さればこのごろ生死をはなれんと思はむ人は、証じかたき聖道をすてて、ゆきやすき浄土をねがふべき也。この聖道・浄土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふに、「難行道はけわしきみちをかち(徒)にてゆくかごとし。易行道は、海路をふねにのりてゆくかごとし」{十住毘婆沙論巻五易行品意}といへり。あしなえ目しゐたらん人は、かかるみちにはむかふべからず。ただふねにのりてのみ、むかひのきしにはつくなり。
しかるにこのごろのわれらは、智恵のまなこしゐて、行法のあしおれたるともがら也。聖道難行のけはしきみちには、総じてのぞみをたつべし。ただ弥陀の本願のふねにのりて、生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべき也。いまこのふねは、すなはち弥陀の本願にたとふる也。
その本願といは、弥陀のむかしはじめて道心をおこして、国王のくらゐをすてて出家して、ほとけになりて衆生をすくはんとおぼしめしし時、浄土をまうけむために、四十八願をおこし給ひし中に、第十八の願にいはく、「もしわれほとけにならんに、十方の衆生、わがくににむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、下十声にいたるまで、わが願力に乗して、もしむまれずは、われほとけにならじ」(大経巻上意)とちかひ給ひて、その願をおこなひあらはして、いますでにほとけになりて十劫をへ(経)給へり。
されば善導の釈には、「かのほとけは、いま現に世にましまして、成仏し給へり。まさにしるべし本誓重願むなしからず、衆生称念すれは、かならず往生する事を得」(礼讃)との給へり。このことはりをおもふに、弥陀の本願を信じて念仏申さん人は、往生うたがふべからず。よくよくこのことはりを思ひときて、いかさまにもまづ阿弥陀仏のちかひをたのみて、ひとすぢに念仏を申して、こと(異)さとりの人の、とかくいひさまたげむにつきて、ほとけのちかひをうたがふ心ゆめゆめあるべからず。
かやうに心えて、さきの聖道門は、わが分にあらずと思ひすてて、この浄土門にいりて、ひとすぢにほとけのちかひをあふぎて、名号をとなふるを、浄土門の行者とは申す也。これを聖道・浄土の二門と申すなり。
つぎに浄土門にいりておこなふべき行につきて申さば心と行と相応すべき也。すなはち安心、起行となづく。その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち『観無量寿経』に説ていはく、「もし衆生ありて、かのくににむまれんと願ずるものは、三種の心をおこして、すなはち往生すべし。何等をか三とする、一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心也。 三心を具するものは、かならずかのくににむまるといへり。善導和尚この三心を釈しての給はく。

「はじめの至誠心といは、至といは、真也。誠といは、実也。一切衆生の身口意業に、修せんところの解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとおもふ。外には賢善精進の相を現じて、内には虚仮をいだく事を得ざれ」(散善義)。又「内外明闇をきらはず、かならず真実をもちゐるがゆへに至誠心」(散善義) とかれたるは、すなはち真実心なり。真実といふは、身にふるまひ、口にいひ、心に思はん事も内むなしくしてほかをかざる心なきをいふなり。詮じてはまことに穢土をいとひ浄土をねがひて、外相と内心と相応すべき也。

ほかにはかしこき相を現じて、うちには悪をつくり、ほかには精進の相を現じて、うちには懈怠なる事なかれといふ心也。かるがゆへにほかには賢善精進の相を現じて、うちには虚仮をいだく事なかれといへり。念仏を申さんについて、人目には六万・七万申すと披露して、ま事には さ程も申さずや。又人の見るおりは、たうとげにして、念仏申すよしを見え、人も見ぬところにては、念仏申さずなどするやうなる心ばへ也。
さればとて、わろからん事をもほかにあらはさんがよかるべき事にてはなし。ただ詮ずるところは、まめやかにほとけの御心にかなはん事をおもひて、うちにま事をおこして、外相をば機嫌にしたがふべき也。機嫌にしたがふがよき事なればとて、やがて内心のまこともやぶるるまでふるまはば、又至誠心かけたる心になりぬべし。ただうちの心のま事にて、ほかをばとてもかくてもあるべき也。かるがゆへに至誠心となづく。

二に深心といは、すなはち善導釈しての給はく、「深心といは、ふかく信ずる心也。これに二つあり。
一には決定して、わが身はこれ煩悩を具足せる罪悪生死の凡夫也。善根薄少にして、曠劫よりこのかたつねに三界に流転して、出離の縁なしと、ふかく信ずべし。
二にはふかく、かの阿弥陀仏、四十八願をもて衆生を摂取し給ふ。すなはち名号をとのふる事、下十声にいたるまで、かのほとけの願力に乗じて、さだめて往生を得と信じて、乃至一念もうたがふ心なきがゆへに深心となづく」(散善義意)。

「又深心といは、决定して心をたてゝ、仏の教に順して修行して、ながくうたがひをのぞきて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、退失傾動せられざれ」(散善義意)といへり。この釈の心は、はじめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずるなり。のちの信心のために、はじめの信をばあぐる也。そのゆへは、往生をねがはんもろもろの人、弥陀の本願の念仏を申しながら、わが身貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、十悪・破戒の罪悪をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろしめて、かへりてほとけの本願をうたがふ。

善導は、かねてこのうたがひをかがみて、二つの信心のやうをあげてわれらがごときの煩悩をもおこし、罪をもつくる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば、十声・一声にいたるまで、决定して往生するむねを釈し給へり。ま事にはじめのわが身を信する様を釈し給はざりせば、われらが心ばへのありさまにては、いかに念仏申すとも、かのほとけの本願にかなひがたく、いま一念・十念に往生するといふは、煩悩をもおこさず、つみをもつくらぬめでたき人にてこそあるらめ。われらごときのともがらにてはよもあらじなんど、身の程思ひしられて、往生もたのみがたきまであやうくおぼへまし候に、この二つの信心を釈し給ひたる事は、いみじく身にしみておもふべき也。
この釈を心えわけぬ人は、みなわが心のわろければ、往生はかなはじなどこそは申あひたれ、そのうたかひをなすは、やがて往生せぬ心ばへ也。このむねを心えて、ながくうたがふ心あるまじき也。
心の善悪をもかへりみづ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。
往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。詮じては、ふかく仏のちかひをたのみて、いかなるところをもきらはず、一定むかへ給ぞと信じて、うたがふ心のなきを深心とは申候也。いかなるとが(科)をもきらはねばとて、法にまかせてふるまふべきにはあらず。されば善導も、「不善の三業をば、真実心の中にすつべし。善の三業をば、真実心の中になすべし」{散善義}とこそは釈し給ひたれ。又「善業にあらざるをば、うやまてこれをとをざかれ、又随喜せざれ」(散善義)なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。ただ弥陀の本誓の善悪をもきらはず、名号をとなふれば、かならずむかへ給ぞと信じ、名号の功徳のいかなるとがをも除滅して、一念・十念もかならず往生をうる事の、めでたき事をふかく信じて、うたがふ心一念もなかれといふ心也。又一念に往生すればとて、かならずしも一念にかぎるべからず。弥陀の本願の心は、名号をとなへん事、もしは百年にても、十・二十年にても、もしは四・五年にても、もしは一・二年にても、もしは七日・一日、十声・一声までも、信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、かならずむかへ給なり。総じてこれをいへば、上は念仏申さんと思ひはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。

中は七日・一日も申し、下は十声・一声までも弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、一念までも定めて往生すと思ひて、退転なくいのちおはらんまで申すべき也。又まめやかに往生の心ざしありて、弥陀の本願をたのみて念仏申さん人、臨終のわろき事は何事にかあるべき。
そのゆへは、仏の来迎し給ふゆへは、行者の臨終正念のため也。それを心えぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申したらんおりぞ、ほとけはむかへ給ふべきとのみ心えたるは、仏の本願を信ぜず、経の文を心えぬ也。『称讃浄土経』には、「慈悲をもてくわへたすけて、心をしてみだらしめ給はず」ととかれたる也。ただの時よくよく申しおきたる念仏によりて、かならずほとけは来迎し給ふ也。仏のきたりて現じ給へるを見て、正念には住すと申すべき也。それにさきの念仏をばむなしく思ひなして、よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある、ゆゆしき僻胤の事也。
されば、仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終をうたがふ心あるべからず。当時申さん念仏をぞ、いよいよ心をいたして申べき。いつかは仏の本願にも、臨終の時念仏申たらん人をのみ、むかへんとはたて給ひたる。臨終の念仏にて往生すと申事は、もとは往生をもねがはずして、ひとへにつみをつくりたる悪人の、すでに死なんとする時、はじめて善知識のすすめにあひて、念仏して往生すとこそ、『観経』にもとかれたれ。もとより念仏を信ぜん人は、臨終の沙汰をばあながちにすべき様もなき事なり。仏の来迎一定ならば、臨終の正念は、また一定とこそはおもふべきことはりなれ。この心をよくよく心をとどめて、心うべき事也。又「別解・別行の人にやぶられざれ」といは、さとりこと(異)に、おこなひことならん人の、いはん事につきて、念仏をもすて、往生をもうたがふ心なかれといふ事也。 さとりことなる人と申すは、天台・法相等の、八宗の学匠なり。行ことなる人と申すは、真言・止観の一切の行者也。これらは聖道門をならひおこなふ也。浄土門の解行にはことなるがゆへに、別解・別行となづくる也。

又総じておなじく念仏を申す人なれども、弥陀の本願をばたのまづして、自力をはげみて、念仏ばかりにてはいかが往生すべき。異功徳をつくり、こと(なる)仏にもつかへて、ちからをあはせてこそ往生程の大事をばとぐべけれ。ただ阿弥陀仏ばかりにては、かなはじものをなんどうたがひをなし、いひさまたげん人のあらんにも、げにもと思ひて、一念もうたがふ心なくて、いかなることはりをきくとも、往生决定の心をうしなふ事なかれと申す也。
人にいひやぶらるまじきことはりを、善導こまかに釈し給へり。心をとりて申さば、たとひ仏ましまして、十方世界にあまねくみちみちて、光をかがやかし舌をのべて、煩悩罪悪の凡夫、念仏して一定往生すといふ事、ひが事也。信ずべからずとの給ふとも、それによりて、一念もうたがふべからず。
そのゆへは、仏はみな同心に衆生を引導し給に、すなはちまづ、阿弥陀仏、浄土をまうけて、願をおこしての給はく、「十方衆生わが国にむまれんとねがひて、わが名号をとなへんもの、もしむまれずは、正覚をとらじ」(大経巻上意)とちかひ給へるを、釈迦仏この世界にいでて、衆生のためにかの仏の願をとき給へり。六方恒沙の諸仏は、舌相を三千世界におほふて、虚言せぬ相を現じて、釈迦仏の弥陀の本願をほめて、一切衆生をすすめて、かのほとけの名号をとなふれば、さだめて往生すとの給へるは、决定にしてうたがひなき事也。
一切衆生みなこの事を信すべしと証誠し給へり。かくのごとく一切諸仏、一仏ものこらず、同心に一切凡夫念仏して、决定して往生すべきむねをすめめ給へるうへには、いずれの仏の又往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、仏きたりての給ふともおどろくべからずとは申す也。仏なをしかり、いはむや菩薩・声聞・縁覚をや、いかにいはんや凡夫をやと心えつれば、一度この念仏往生を信じてんのちは、いかなる人、とかくいひさまたぐとも、うたがふ心あるべからずと申事なり。これを深心とは申すなり。

三に廻向発願心といは、善導これを釈しての給はく、「過去およひ今生の身口意業に修するところの世出世の善根、および他の身口意業に修するところの世出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもて、ことごとく真実深心の中に廻向して、かのくににむまれんとねがふなり。かるがゆへに廻向発願心となづくる也。 又廻向発願してむまるといは、かならづ决定して、真実心の中に廻向して、むまるゝ事をうる思ひをなづくる也。この心ふかくして、なおし金剛のごとくして、一切の異見・異学・別解・別行の人のために動乱破壊せられざれ」(散善義)といへり。この釈の心は、まづわが身につきて、前世にもつくりとつくりたらん功徳を、みなことごとく極楽に廻向して、往生をねがふ也。 わが身の功徳のみならず、一切凡聖の功徳なり。凡といは、凡夫のつくりたらん功徳をも、聖といは、仏・菩薩のつくり給はん功徳をも、随喜すればわが功徳となるを、みな極楽に廻向して、往生をねがふ也。
詮ずるところ、往生をねがふよりほかに、異事をばねがふまじき也。わが身にも人の身にも、この界の果報をいのり、又おなじく後世の事なれども、極楽ならぬ浄土にむまれんともねがひ、もしは人中・天上にむまれんともねがひ、かくのごとくかれこれに廻向する事なかれと也。
もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに、この土の事をもいのり、あらぬかたへ廻向したらん功徳をもみなとり返して、いまは一すぢに極楽に廻向して往生せんとねがふべき也。 一切の功徳をみな極楽に廻向せよといへばとて、又念仏の外に、わざと功徳をつくりあつめて廻向せよといふにはあらず。ただすぎぬるかたの功徳をも、今は一向に極楽に廻向し、こののちなりとも、おのづからたよりにしたがひて僧をも供養し、人に物をもほどこしあたへたらんをも、つくらんにしたがひて、みな往生のために廻向すべしといふ心也。
この心金剛のごとくして、あらぬさとりの人におしへられて、かれこれに廻向する事なかれといふ也。金剛はいかにもやぶれぬものなれば、たとへにとりて、この心をもて廻向発願してむまると申也。

三心のありさま、あらあらかくのごとし。「この三心を具してかならず往生す。もし一心もかけぬれば、むまるる事をえず」(礼讃)と、善導は釈し給ひたれば、もともこの心を具足すべき也。しかるにかやうに申たつる時は、別々にして事々しきやうなれども、心えとげば やすく具しぬべき心也。詮じては、まことの心ありて、ふかく仏のちかひをたのみて、往生をねがはんずる心なり。深く浅き事こそかはりめありとも、たれも往生をもとむる程の人は、さ程の心なき事やはあるべき。かやうの事は疎く思へば大事におぼえ、とりよりて沙汰すればさすがにやすき事也。
かやうにこまかに沙汰し、しらぬ人も具しぬべく、又よくよくしりたる人もかく(欠)る事ありぬべし。さればこそ、いやしくおろかなるものの中にも往生する事もあれ。いみじくたとげなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあり。 されども、これを具足すべき様をも とくとく心えわけて、わが心に具したりともしり、又かけたりとも思はんをば、かまへてかまへて具足せんとはげむべきことなり。これを安心となづくる也。これぞ往生する心のありさまなる。 これをよくよく心えわくべきなり。

次に起行といは、善導の御心によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす。一には正行、二には雑行也。正行といは、これに又あまたの行あり。読誦正行・観察正行・礼拝正行・称名正行・讃嘆供養正行、これらを五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二行とわかつ時には、六種の正行とも申也。
この正行につきて、ふさねて二とす。「一には一心にもはら弥陀の名号をとなへて、行住坐臥による・ひるわするる事なく、念念にすてざるを、正定の業となづく、かのほとけの願に順するがゆへに」(散善義意)といひて、念仏をもてまさしくさだめたる往生の業にたてて、「もし礼誦等によるをば なづけて助業とす」(散善義)といひて、念仏のほかに阿弥陀仏を礼し、もしは「三部経」をよみ、もしは極楽のありさまを観ずるも、讃嘆供養したてまつる事も、みな称名念仏をたすけんがためなり。
さしくさだめたる往生の業は、ただ念仏ばかりといふ也。この正と助とをのぞきて、ほかの諸行をば、布施をせんも、戒をたもたんも、精進ならんも、禅定ならんも、かくのごとくの六度万行、『法華経』をよみ、真言をおこなひ、もろもろのおこなひをば、ことごとくみな雑行となづく。ただ極楽に往生せんとおもはば、一向に称名の正定業を修すべき也。
これすなはち弥陀本願の行なるがゆへに、われらが自力にて生死をはなれぬべくば、かならずしも本願の行にかぎるべからずといへども、他力によらずば往生をとげがたきかゆへに、弥陀の本願のちからをかりて、一向に名号をとなへよと、善導はすすめ給へる也。自力といは、わがちからをはげみて往生をもとむる也。他力といは、ただ仏のちからをたのみたてまつる也。
このゆへに正行を行するものをば、専修の行者といひ、雑行を行ずるをば、雑修の行者と申也。「正行を修するは、心つねにかの国に親近して憶念ひまなし、雑行を行ずるものは、心つねに間断す。廻向してむまるる事をうべしといへども、疎雑の行となづく」(散善義意)といひて、極楽にうと(疎)き行といへり。又「専修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに。ほかに雑縁なくして正念をうるがゆへに、弥陀の本願と相応するがゆへに、釈迦の教に順ずるがゆへ也。

雑修のものは、百人の中に一・二人むまれ、千人には四・五人むまる。なにをもてのゆへに、弥陀の本願と相応せざるがゆへに、釈迦の教に順ぜさるがゆへに、憶想間断するがゆへに、名利と相応するがゆへに、みづからもさへ人の往生をもさふるがゆへに」(礼讃意)と釈し給ひたれば、善導を信じて浄土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日々の所作に、一万・二万乃至五万・六万・十万をも、器量のたへむにしたがひて、いくらなりともはげみて申すべきなりとこそ心えられたれ。 それにこれをききながら、念仏のほかに余行をくはふる人のおほくあるは、心えられぬ事也。そのゆへは、善導のすすめ給はぬ事をば すこしなりともくはふべき道理、ゆめゆめなき也。すすめ給へる正行をだにも、なをものうき身にて、いまだすすめ給はぬ雑行をくわふべき事は、まことしからぬかたもありぬべし。又つみつくりたる人だにも往生すれば、まして功徳なれば『法華経』なんどをよまんは、なにかはくるしかるべきなんど申す人もあり。 それらはむげにきたなき事也。往生をたすけばこそいみじからめ、さまたげにならぬばかりを、いみじき事とてくわへおこなはん事は、なにかは詮あるべき。 悪をば、されば仏の御心にこのみてつくれとやすすめ給へる、かまへてとどめよとこてそいましめ給へども、凡夫のならひ、当時のまどひにひかれて悪をつくる事はちからをよばぬ事なれば、慈悲をおこしてすて給はぬにてこそあれ。

まことに悪をつくる人のやうに、余行どものくはへたがらんは、ちからおよばず。ただし経なんどをよまん事を、悪つくるにいひならべて、それもくるしからねば、ましてこれもなんどといはんは不便の事也。ふかき御のりもあしく心うるものにあひぬれば、返りて物ならずあさましくかなしき事也。ただあらぬさとりの人の、ともかくも申さん事をばききいれずして、すすみぬべからん人をばこしらへ(誘)すすむべし。さとりたがひてあらぬさまならん人なんどに、論じあふ事なんどは、ゆめゆめあるまじき事也。ただわが身一人、まづよくよく往生をねがひて、念仏をはげみて、位たかく往生して、いそぎ返りきたりて、人々を引導せんとおもふべき也。

又善導の『往生礼讃』に、「問ていはく、阿弥陀仏を称念礼観するに、現世にいかなる功徳利益かある。こたへていはく、阿弥陀仏をとなふる事一声すれば、すなはち八十億劫の重罪を除滅す。又『十往生経』にいはく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生をねがふものは、かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしはよる、もしはひる、一切の時、一切のところに、悪鬼・悪神をしてそのたよりをえしめ給はずと。 又『観経』にいふごときは、阿弥陀仏を称念して、かのくにゝ往生せんとおもへば、かの仏すなはち无数の化仏、无数の化観音・勢至菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。さきの二十五の菩薩と、百重千重に行者を囲繞して、行住坐臥をとはず、一切の時処に、もしはひるもしはよる、つねに行者をはなれ給はず」と。
又いはく、「弥陀を念じて往生せんとおもふものは、つねに六方恒沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆへに護念経となづく。いますでにこの増上縁の誓願のたのむべきあり、もろもろの仏子等、いかでか心をはげまさざらんや」(礼讃)といへり。かの文の心は、弥陀の本願をふかく信じて、念仏して往生をねがふ人をば、弥陀仏よりはじめたてまつりて、十方の諸仏・菩薩・観音・勢至・無数の菩薩、この人を囲繞して、行住坐臥、よる・ひるをもきらはず、かげのごとくにそひて、もろもろの横悩をなす悪鬼・悪神のたよりをはらひのぞき給ひて、現世にはよこさまなるわづらひなく安穏にして、命終の時は極楽世界へむかへ給ふ也。

されば、念仏を信じて往生をねがふ人は、ことさらに悪魔をはらはんために、よろづのほとけ・かみにいのりをもし、つつしみをもする事は、なじかはあるべき。
いはんや、仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙の鬼神を眷属として、つねにこの人をまぼり[36]給ふといへり。しかれば、かくのごときの諸仏・諸神、囲繞してまぼり給はんうゑは、又いづれの仏・神かありてなやまし、さまたぐる事あらん。
又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけ・かみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。
いはんや、又仏の御ちからは、念仏を信ずるものをば、転重軽受といひて、宿業かぎりありて、おもくうくべきやまひを、かろくうけさせ給ふ。いはんや、非業[37]をはらひ給はん事ましまさざらんや。されば念仏を信ずる人は、たとひいかなるやまひをうくれども、みなこれ宿業也。これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。われらが悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。ましてこのよにいか程ならぬいのちをのべ、やまひをたすくるちからましまさざらんやと申す事也。されば後生をいのり、本願をたのむ心もうすき人は、かくのごとく囲繞にも護念にもあづかる事なしとこそ、善導はの給ひたれ。
おなじく念仏すとも、ふかく信をおこして、穢土をいとひ極楽をねがふべき事也。かまへて心をとゞめて、このことはりをおもひほどきて、一向に信心を至して、つとめさせ給ふべき也。

これらはかやうにこまかに申のべたるは、わたくしのことばおほくして、あやまりやあらんと、あなづりおぼしめす事ゆめゆめあるべからず。ひとへに善導の御ことばをまなび、ふるき文釈の心をぬきいだして申す事也。うたがひをなす心なくて、かまへて心をとどめて御らんじときて、心えさせ給ふべき也。

あなかしこあなかしこ。

この定にこころえて、念仏申さんにすぎたる往生の義はあるまじき事にて候なり。

本にいはく、この書はかまくらの二位の禅尼の請によて、しるし進ぜらるる書也。{云云}
黒谷上人語灯録巻第十二

黒谷上人語灯録第十三

厭欣沙門 了恵 集録

和語第二之三{当巻有四章}

九条殿下の北政所へ進する御返事 第九
鎌倉の二位の禅尼へ進する御返事 第十
要義問答 第十一
大胡太郎へつかはす御返事第 十二

九条殿下の北政所へ進する御返事

九条殿下の北政所へ進ずる御返事

鎌倉の二位の禅尼へ進する御返事

鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事

要義問答

要義問答

大胡太郎實秀へつかはす御返事

大胡の太郎實秀へつかわす御返事

黒谷上人語灯録巻第十四

厭欣沙門 了恵 集録

和語第二之四{当巻有九章}

大胡太郎の妻室へつかはす御返事 第十三
熊谷の入道へつかはす御返事 第十四
津戸三郎へつかはす御返事 第十五
黒田の聖へつかはす御返事 第十六
越中の光明房へつかはす御返事 第十七
正如房へつかはす御文 第十八
禅勝房にしめす御詞 第十九
十二問答 第二十
十二箇条問答 第二十一


大胡太郎實秀が妻室のもとへつかはす御返事

大胡の太郎實秀が妻のもとへつかわす御返事

熊谷の入道へつかはす御返事

熊谷へ遣はす書(九月十六日付)

津戸の三郎入道へつかはす御返事

津戸三郎に答ふる書

黒田の聖人へつかはす御文

黒田の聖人へつかはす御文

越中国光明房へつかはす御返事

越中国光明房へつかはす御返事

正如房へつかはす御文

正如房へつかわす御文

禅勝房にしめす御詞

このご法語は、一念の念仏の無上功徳であることを説き、いのちは刹那刹那の存在であるから、今・いま・今の一声一声の念仏を勧める。また、信に居座れば「信が行をさまたぐる」とし、一声・十声の念仏では不足と思えば「行が信をさまたぐる」と行信不離を説かれる。「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし」である。
禅勝房にしめす御詞 第十九

阿弥陀仏は、一念となふるを一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆへに十念は十度むまるる功徳也。一向専修の念仏者になる日よりして、臨終の時にいたるまで申たる一期の念仏をとりあつめて、一度の往生はかならずする事也。

又云、念仏申す機は、むまれつきのままにて申す也。さきの世のしわざ(業)によりて、今生の身をばうけたる事なれば、この世にてはえな[38]をしあらためぬ事也。たとへば女人の男子にならばやとおもへども、今生のうちには男子にならざるかごとし。 智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばおこしてましませ。

又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信力が行をさまたぐる也。「念念不捨」(散善義)といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととり、行をば一形はげむべし

又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。


十二問答

或人念仏之不審聖人に奉問次第


十二箇条の問答

十二箇条問答 巻二十

この法語は、問答形式で行と信を説く。念仏が易行であるがゆえの疑問と凡夫の悪業に碍えられない本願を説く。さればとて好んで悪を造ることを誡め、「悪を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて、いましむるがことし」と浄土教の倫理観を説く。

問ていはく、念仏すれば往生すべしといふ事、耳なれたるやうにありながら、いかなるゆへともしらず。かやうの五障の身までも、すてられぬ事ならば、こまかにをしへさせ給へ。

答ていはく、およそ生死をいづるおこなひ(行)一つにあらずといへども、まづ極楽に往生せんとねがへ、弥陀を念ぜよといふ事、釈迦一代の教にあまねくすすめ給へり。
そのゆへは、弥陀の本願をおこして、わが名号を念ぜん物、わが浄土にむまれずは正覚とらじとちかひて、すでに正覚をなり給ふゆへに、この名号をとなふるものはかならず往生する也。臨終の時、もろもろの聖衆とゝもにきたりて、かならす迎接し給ふゆへに、悪業としてさふるものなく、魔縁としてさまたぐる事なし。
男女・貴賤をえらばす、善人・悪人をもわかたず、心をいたして弥陀を念ずるに、むまれずといふ事なし。たとへばおもき石をふねにのせつれば、しづむ事なく万里のうみをわたるがごとし。罪業のおもき事は石のごとくなれども、本願のふねにのりぬれば、生死のうみにしづむ事なく、かならず往生する也。ゆめゆめわが身の罪業によりて、本願の不思議をうたがはせ給ふべからず。これを他力の往生とは申也。
自力にて生死をいでんとするには、煩悩悪業を断じつくして、浄土にもまいり菩提にもいたると習ふ。これは歩(かち)よりけはしきみちをゆくがごとし。

問ていはく、罪業おもけれども、智恵の灯をもて、煩悩のやみをはらふ事にて候なれば、かやうの愚痴の身には、つみをつくる事はかさなれども、つぐのふ事はなし、なにをもてこのつみをけすべしともおぼへず候は又はいかん。

答ていはく、ただ仏の御詞を信じてうたかひなければ、仏の御ちからにて往生する也。さきのたとへのごとく、ふねにのりぬれば、目しゐたる物も目あきたる物も、ともにゆくがことし。智恵のまなこある物も、仏を念ぜざれは願力にかなはず、愚痴のやみふかきものも、念仏すれは願力に乗ずるなり。念仏する者をば、弥陀、光明をはなちてつねにてらしてすて給はねば、悪縁にあはずして、かならず臨終に正念をえて往生するなり。さらにわが身の智恵のありなしによりて、往生の定不定をばさだむべからず。ただ信心のふかかるべき也。

問ていはく、世をそむきたる人は[39]、ひとすぢに念仏すれば往生も得やすき事也。かやうの身には、あしたにもゆふべにも、いとなむ事は名聞、昨日も今日もおもふ事は利養也。かやうの身にて申さん念仏は、いかが仏の御心にもかなひ候べきや。

答ていはく、浄摩尼珠といふたま(珠)を、にごれる水に投ぐれば、たまの用力にて、その水きよくなるがごとし。衆生の心はつねに名利にそみて、にごれる事かのみづ(水)のごとくなれども、念仏の摩尼珠を投ぐれば、心のみづおのづからきよくなりて、往生をうる事は念仏のちから也。[40]
わが心をしづめ、このさわりをのぞきて、後念仏せよとにはあらず、ただつねに念仏して、そのつみをは滅すべし。さればむかしより、在家の人おほく往生したるためし、いくばくかおほき。心のしづかならざらんにつけても、よくよく仏力をたのみ、もはら念仏すべし。

問ていはく、念仏は数遍を申せとすすむる人もあり、又さしもなくともなんど申人もあり。いづれにかしたがひ候へき。

答ていはく、さとりもあり、ならふむねもありて申さん事は、その心のうちしりがたけれは、さだめがたし。在家の人の、つねに悪縁にのみしたしまれ、身には数遍を申さずして、いたづらに日をくらし、むなしく夜をあかさん事、荒凉の事にや候はんずらん。凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれば、いかにもいかにもはげむべき事也。 されば処処に、おほく念念相続してわすれざれといへり。 問ていはく、念念にわすれざる程の事こそ、わが身にかなひがたくおほえ候へ。又手には念珠をとれども、心にはそぞろ事をのみ思ふ、この念仏は、往生の業にはかなひがたくや候はんずらん。これをきらはれば、この身の往生は不定なるかたもありぬへし。

答ていはく、念念にすてざれとおしゆる事は、人のほどにしたがひてすすむる事なれば、わが身にとりて心のおよび、身のはげまん程は、心にはからはせ給ふべし。又念仏の時悪業のおもはるる事は、一切の凡夫のくせ也。
さりながらも往生の心ざしありて念仏せば、ゆめゆめさはりとはなるべからず。たとへば親子の約束をなす人、いささかそむく心あれども、さきの約束変改する程の心なければ、おなじ親子なるがごとし。念仏して往生せんと心ざして念仏を行ずるに、凡夫なるがゆへに貪瞋の煩悩おこるといへども、念仏往生の約束をひるがへさざれば、かならず往生する也。 問ていはく、これ程にやすく往生せば、念仏するほどの人はみな往生すべきに、ねがふ物もおほく、念する物もおほき中に、往生する物のまれなるは、なにのゆへとか思ひ候へき。

答ていはく、人の心はほかにあらはるる事なければ、その邪正さだめがたしといへども、『経』(観経意)には「三心を具して往生す」とみえて候めり。 この心を具せざるがゆへに、念仏すれども往生を得ざる也。三心と申は、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心也。
はしめに至誠心といふは、真実心也と釈するは、内外ととのほれる心也。何事をするにも、ま事しき心なくては成ずる事なし。人なみなみの心をもて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、浄土のねがはしからぬをねがふ気色をして、内外ととのほらぬをきらひて、ま事の心ざしをもて、穢土をもいとひ浄土をもねがへとおしふる也。
次に深心といふは、仏の本願を信ずる心也、われは悪業煩悩の身なれども仏の願力にて、かならず往生するなりといふ道理をきき、てふかく信じて、つゆちりばかりもうたがはぬ心也。人おほくさまたげんとして、これをにくみ、これをさへぎれとも、これによりて心のはたらかざるを、ふかき信とは申也。
次に迴向発願心といふは、わが修するところの行を迴向して、極楽にむまれんとねがふ心也。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとはおもはず、ほとけの願力のいみじくおはしますによりて、むまるべくもなき物も生るべしと信じて、いのちおはらば仏かならずきたりてむかへ給へと思ふ心を、金剛の一切の物にやぶられざるかごとく、この心をふかく信じて、臨終までもとほりぬれば、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまるる也。
さればこの心なき物は、仏を念ずれども順次の往生をばとげず、遠縁とはなるべし。この心のおこりたる事は、わが身にしるべし、人はしるべからず。 問ていはく、往生をねがはぬにはあらず、ねがふといふとも、その心勇猛ならず。又念仏をいや(賤)しと思ふにはあらず、行じながらおろそかにしてあかしくらし候へば、かかる身なれば、いかにもこの三心具したりと申べくもなし。さればこのたびの往生をばおもひたえ候べきにや。
答ていはく、浄土をねがへどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなる事をなげくは、往生の心ざしのなきにはあらず。心ざしのなき物は、ゆるなるをもなげかず、はげしからぬをもかなしまず。いそぐみちにはあしのおそきをなげく、いそがざるみちにはこれをなげかざるかごとし。
又このめばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進してかならず往生すべし。日ごろ十悪・五逆をつくれる物も、臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。いはんや、往生をねがひ、念仏を申して、わが心のはげしからぬ事をなげかむ人をば、仏もあはれみ、菩薩もまぼり[36]て、障りをのぞき、知識にあひて、往生をうべき也。

問ていはく、つねに念仏の行者いかやうにかおもひ候べき。

答ていはく、あるときには世間の無常なる事をおもひて、この世のいくほとなき事をしれ。ある時には、仏の本願をおもひて、かならすむかへ給へと申せ。ある時には人身のうけがたきことはりを思ひて、このたびむなしくやまん事をかなしめ。六道をめぐるに、人身をうる事は、梵天より糸をくだして、大海のそこなる針のあなをとおさんがごとしといへり。ある時は、あひがたき仏法にあへり。このたひ出離の業をうゑずは、いつをか期すべきとおもふべき也。ひとたび悪道に堕しぬれば、阿僧祇劫をふれども、三寳の御名をきかず、いかにいはんや、ふかく信ずる事をえんや。
ある時にはわが身の宿善をよろこぶべし。かしこきもいやしきも、人おほしといへども、仏法を信じ浄土をねがふものはまれ也。信ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて悪道の因をのみきざす。しかるにこれを信じこれを貴びて、仏をたのみ往生を心ざす、これひとへに宿善のしからしむる也。ただ今生のはげみにあらす、往生すべき期のいたれる也と、たのもしくよろこぶべし。かやうの事を、おりにしたがひ、事によりておもふべき也。

問ていはく、かやうの愚痴の身には聖教をもみず、悪縁のみおほし。いかなる方法をもてか、わが心をまもり、信心をももよほすべきや。

答ていはく、そのやう一つにあらず。あるひは人の苦にあふをみて、三途の苦をおもひやれ、あるひは人のしぬるを見て、无常のことはりをさとれ、あるひはつねに念仏して、その心をはげませ、あるひはつねによきともにあひて、心をはぢしめられよ。人の心はおほく悪縁によりてあしき心のおこる也。されば悪縁をばさり、善縁にちかづけといへり。これらの方法ひとしなならず、時にしたがひてはからふべし。

問ていはく、念仏のほかの余善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。

答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷属のゆくがごとし。往生の業の中に、念仏は主人也、余の善は眷属也。しかりといひて、余善をきらふまではあるへからず。

問ていはく、本願は悪人をきらはねばとて、このみて悪業をつくる事はしかるべしや。

答ていはく、仏は悪人をすて給はねとも、このみて悪をつくる事、これ仏の弟子にはあらず。一切の仏法に悪を制せずといふ事なし。悪を制するに、かならずしもこれをとどめ得ざるものは、念仏してそのつみを滅せよとすすめたる也。わが身のたへねばとて、仏にとがをかけたてまつらん事は、おほきなるあやまり也。 わが身の悪をとどむるにあたはずは、ほとけ慈悲をすて給はずして、このつみを滅してむかへ給へと申べし。つみをばただつくるへしといふ事は、すべて仏法にいはざるところ也。

たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに、そのなかによき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすといへども、悪を行ずる子をば、目をいからかし、杖をさゝげて、いましむるがことし。仏の慈悲のあまねき事をきゝては、つみをつくれとおぼしめすといふさとりをなさば、仏の慈悲にももれぬべし。悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけては、いよいよ仏の知見をば、はづへし、かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて悪を行ぜんに、その父母よろこぶべしや、なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。仏も又もてかくのごとし

問ていはく、凡夫は心に悪をおもはずといふ事なし。この悪をほかにあらはさざるは、仏をはぢずして、人目をはばかるといふ事あり。これは心のままにふるまふべしや。

答ていはく、人の帰依を得むとおもひて、ほかをかざらんは、とがあるかたもやあらん、悪をしのばんがために、たとひ心におもふとも、ほかまではあらはさじとおもひておさへん事は、すなはち仏に恥る心也。とにもかくにも悪をしのびて、念仏の功をつむべき也。習ひさきよりあらざれは、臨終正念もかたし。常に臨終のおもひをなして、臥(ふ)すごとに十念をとなふべし[41]。されば、ねてもさめてもわするゝ事なかれといへり。おほかたは世間も出世も、道理はたがはぬ事にて候也。心ある人は父母もあはれみ、主君もはぐくむにしたがひて、悪事をばしりぞき、善事をばこのまんと思へり。悪人をもすて給はぬ本願ときかんにも、まして善人をば、いかばかりかよろこび給はんと思ふべき也。
一念・十念をもむかへ給ふときかば、いはんや百念・千念をやとおもひて、心のおよび、身のはげまれん程ははげむべし。さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらず、仏の引接をばうたがふべからず。たとひ七・八十のよはひを期すとも、おもへばゆめのごとし。いはんや、老少不定なれば、いつをかぎりとおもふべからず。さらにのち(後)を期する心あるべからず。ただ一すぢに念仏すべしといふ事、そのいはれ一にあらず。

これを見んおりおりごとにおもひいでて、南無阿弥陀仏とつねにとなへよ。


黒谷上人語灯録巻 第十四

黒谷上人語灯録巻第十五

厭欣沙門 了恵 集録

和語第二之五{当巻有三章}

一百四十五箇条問答 第二十二
上人と明遍との問答 第二十三
諸人伝説の詞 第二十四{御歌附}

一百四十五箇条問答

法然聖人在世の頃の念仏や宗教生活に対する問答。女性からの問いとみられる公家の女房方との問答もある。当時の物忌みにがんじがらめになっていた人々の精神世界に対する逐次的な問いと法然聖人の答え。タブーに対する忌みが宗教だと錯覚している現代人にも通ずる法語である。ちなみに迷信や奇跡を否定するのは、浄土真宗とマルキストとプロテスタントである。
一百四十五箇条問答 第二十二

一 ふるき堂塔を修理して候はんをは、供養し候べきか。

答。かならず供養すべしといふ事も候はず。又供養して候はんも、あしき事にも候はず。功徳にて候へば、又供養せねばとてつみのえ、あしき事にては候はず。

一 ほとけの開眼と供養とは、一つ事にて候か。

答。開眼と供養とは、別の事にて候べきを、おなじ事にしあひて候也。開眼と申すは、本躰は、仏師がまなこをいれ、ひらきまいらせ候を申候也。これをば、事の開眼と申候也。つぎに僧の仏眼の真言をもて まなこをひらき、大日の真言をもてほとけの一切の功徳を成就し候をば、理の開眼と申候也。つぎに供養といふは、ほとけに、花香・仏供・御あかしなんどをもまいらせ、さらぬたからをもまいらせ候を、供養とは申候也。

一 この真如観は、し候へき事にて候か。

答。これは恵心のと申て候へども、わろき物にて候也。 おほかた真如観をば、われら衆生は、えせぬ事にて候ぞ、往生のためにもおもはれぬことにて候へば、无益に候。

一 又これに計算して候ところは、何事もむなしと観ぜよと申て候。空観と申候は、これにて候な。されは観じ候べきやうは、たとへばこの世のことを執著して思ふまじきとおしへて候と見へて候へば、おほやう御らんのためにまいらせ候。

答。これはみな理観とて、かなはぬ事にて候也。僧のとしごろならひたるだにもえせず、まして女房なんどの つやつや案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候也。御たづねまでも无益に候。

一 この七仏[42]の名号をとなふべき様とて、人のたびて候ままに信じ候へば、つみはうせ候べきか。なに事もそれよりおほせ候御事は、たのもしく候ひて、かやうに申候。

答。これさなくとも候なん。念仏にこれらのつみのうせ候まじくはこそ候はめ。

一 一文の師をもおろかに申候へば、習ひたる物の冥加なしと申候は、ま事にて候か。

答。師の事はおろかならず候。恩の中にふかき事、これにすぎ候はす。

一 心を一つにして、心よくなをり候はずとも、何事をおこなひ候はずとも、念仏ばかりにて浄土へはまいり候べきか。

答。心のみだるるは、これ凡夫の習ひにて、ちからおよばぬ事にて候。ただ心を一にして、よく御念仏せさせ給ひ候はゞ、そのつみを滅して往生せさせ給ふべき也。その妄念よりもおもきつみも、念仏だに申候へば、うせ候也。

一 経の陀羅尼は、灌頂の僧にうけ候べきか。

答。『法花経』のはくるしからず。灌頂の僧のうけさする陀羅尼は別の事、それはおぼしめしよるな。

一 『普賢経』(観普賢経意)に、「ほとけの母を念ずべし」と申候は。

答。いざおぼへず。

一 百日のうちの赤子の不浄かかりたるは、物まうでにはばかりありと申たるは。

答。百日のうちのあか子の不浄くるしからず。なにもきたなき物のつきて候はんは、きたなくこそ候へ。赤子にかぎるまじ。

一 念仏の百万遍、百度申してかならず往生すと申て候に、いのちみじかくてはいかがし候へき。

答。これもひが事に候。百度申ても し候。十念申ても し候。又一念にても し候。

一 『阿弥陀経』十万巻よみ候べしと申て候は、いかに。

答。これもよみつべからんにとりての事に候。ただつとめを たかくつみ候はんれうにて候。

一 日所作は、かならすかずをきはめ候はすとも、かぞへられんにしたがひてかぞへ、念仏も申候へきか。

答。かずをさだめ候はねは、懈怠になり候へは、かずをさだめたるがよき事にて候。

一 にら、き、ひる、しし[43]をくひて、か(香)うせ候はずとも、つねに念仏は申候べきやらん。

答。念仏はなににもさはらぬ事にて候。

一 六斎に、時(斎)をし候はんには、かねて精進をし、いかけ[44]をし、きよき物をきて し候べきか。

答。かならず さ候はずとも候なん。

一 一七日・二七日なんど服薬し候はんに、六斎の日にあたりて候はんをば、いかがし候べき。

答。それちからおよばぬ事にて候。さればとて罪にては候まじ。

一 六斎は一生すべく候か、なんねんすべく候ぞ。

答。それも御心によるべき事にて候。いくらすべしと申事は候はず。

一 念仏をば、日所作にいくらばかりあててか申候へき。

答。念仏のかずは、一万遍をはじめにて、二万・三万・五万・六万、乃至十万まで申候也。このなかに御心にまかせて、おぼしめし候はん程を、申させおはしますべし。

一 『阿弥陀経』をば、一日になん(何)巻ばかりあててかよみ候べき。

答。「『阿弥陀経』は、ちかひて一生中に十万巻をだにもよみまいらせ候ぬれは、决定して往生す」(観念法門意)と、善導和尚のおほせられて候也。毎日に十五巻づつよめば、二十年に十万巻にみち候也。三十巻づつよめば、十年にみち候也。

一 五色のいと[45]は、ほとけには、ひだりにとおほせ候き。わがてには、いづれのかたにていかがひき候へき。

答。左右の手にてひかせ給ふべし。

一 仏の名をもかき、貴き事をもかきて候を、あだにせじとて や(焼)き候は罪のうるに、誦文をしてやくと申候は、いかか候べき。

答。さる反故 やき候はんに、何条の誦文か候べき。おほかたは法文をば うやまふ事にて候へば、もしやかんなんどせられ候はゞ、きよきところにて やかせ給ふべし。

一 戒うけ候時、和尚となり給へ、阿闍梨となり給へと申事の候、心え候はす。なにといふ事にて候そ。

答。和尚と申候は、戒うくる時に法門ならひたる師を申候也。阿闍梨と申候は、まさしく戒を戒をさずくる師にて候也。これをは羯磨阿闍梨と申候也。

一 時(斎)し候は功徳にて候やらん、かならずすへき事にて候やらん。

答。時(斎)は功徳をうる事にて候也。六斎の御時ぞ、さも候ひぬべき。又御大事にて御やまひなんどもおこらせおはしましぬべく候はば、さなくとも、ただ御念仏だにもよくよく候はば、それにて生死をはなれ、浄土にも往生せさせおはしまさんずる事は、これによるべく候。

一 臨終のおり、阿弥陀の定印なとをならひて、ひかへ候やらん。たださ候はずとも、左右の手にひかへ候やらん。

答。かならす定印をむすふべきにても候はず、ただ合掌を本躰にて、その中にひかへられ候へし。

一 ちかくてかならずしも、見まいらせ候はねども、とをらかにて、ひかへ候やらん。

答。とをくも、ちかくも、便宜によるべく候。いかなるもくるしみ候はず。

一 かならす仏を見、糸をひかへ候はずとも、われは申さずとも、人の申さん念仏をききても、死候はば浄土には往生し候べきやらん。

答。かならす糸をひくといふ事候はず。ほとけにむかひまいらせねども、念仏だにもすれば往生し候也。又ききても し候。それはよくよく信心ふかくての事に候。

一 ながく生死をはなれ、三界にむまれじとおもひ候に、極楽の衆生となりても、又その縁つきぬればこの世にむまるると申候は、ま事にて候か。たとひ国王ともなり、天上にもむまれよ、ただ三界をわかれんとおもひ候に、いかにつとめおこなひてか、返り候はざるべき。

答。これもろもろのひが事にて候。極楽へひとたびむまれ候ぬれば、ながくこの世にかへる事候はず、みなほとけになる事にて候也。ただし人をみちびかんためには、ことさらに返る事も候。されども生死にめぐる人にては候はず。三界をはなれ極楽に往生するには、念仏にすぎたる事は候はぬ也。よくよく御念仏の候べき也。

一 女房の聴聞し候に、戒をたもたせ候をやぶり候はんずればとて、たもつとも申候はぬは、いかが候べき。ただ聴聞の塲にわにては、一時もたもつと申候がめでたき事と申候は、ま事にて候か。

答。これはくるしく候はず。たとひのちにやぶれども、その時たもたんとおもふ心にてたもつと申すは、よき事にて候。

一 仏の薄(金箔)ををして、又供養し候か。

答。さ候はずとも。

一 所作をかきて人にし入させ候は、いかか候へき。[46]

答。さなくとも候ひなむ。

一 巻経を草子にたたむは、罪と申候はいかが候べき。

答。つみえぬ事にて候。

一 ほとけに具する経を、とりはなちて人にもたぶはつみにて候か。

答。ひろむるは功徳にて候。

一 一部とある経、一巻づつとりはなちてよまんは、つみにて候か。

答。つみにても候はす。

一 ほとけに厨子をさしてすゑまいらせては、供養すべく候か。

答。一切あるまじ。

一 不軽[47]をおがむ事し候べきか。

答。このごろの人の、え心えぬ事にて候也。

一 七歳の子しにて、いみなしと申候はいかに。

答。仏教にはいみといふ事なし。世俗に申したらんやうに。

一 仏ににかは(膠)を具し候が、きたなく候。いかがし候べき。

答。ま事にきたなけれども、具せではかなふまじければ。

一 尼の服薬し候は、わろく候か。

答。やまひにくふはくるしからず。たゞはあし。 一 父母のさきに死ぬるは、つみと申候はいかに。

答。穢土のならひ、前後ちからなき事にて候。

一 いきてつくり候功徳はよく候か。

答。めでたし。

一 人のまぼり[36]をえて[48]候はんは、供養し候べきか。

答。せずともくるしからす。

一 わわく[49]に物くるるは、つみにて候か。

答。つみにて候。

一 経をして供養せずとも、くるしからず候か。

答。ただよむ。

一 経千部よみては、供養し候べきか。

答。さも候まじ。

一 懺悔の事、幡や花鬘なんどかざり候べきか。

答。さらでも、たゞ一心ぞ大切に候。

一 花香をほとけにまいらせ候事。

答。あか月は供養法にかならずまいらせ候。ただは、はなかめ(花瓶)にさし、ちらしても供養すべし。香はかならずたくべし。便あしくは、なくとも。[50]

一 経をば、僧にうけ候べきか。

答。われとよみつべくは、僧にうけずとも。

一 聴聞・ものまうでは、かならずし候べきか。

答。せずとも。中中わろく候。しづかにたゞ御念仏候へ。

一 神に後世申候事いかむ。

答。仏に申すにはすぐまじ。

一 説経師は、つみふかく候か。又妻にならん物も、つみふかしと申候は、まことにて候か。

答。本躰は功徳うべく候に、末世のは つみえつべし、妻にならんものは、つみ。

一 麝香・丁子をもち候は、つみにて候か。

答。かをあつむるは、つみ。

一 妻、おとこに経ならふ事、いかゞ候べき。

答。くるしからす。

一 還俗のものに目を見あはせずと申候は、ま事にて候か。

答。さまではとかず、ひが事。

一 還俗を心ならずして候はんは、いかに。

答。あさくや。

一 神仏へまいらんに、三日・一日の精進、いづれかよく候。

答。信を本にす。いくかと本説なし、三日こそよく候はめ。

一 歌よむは、つみにて候か。

答。あながちにえ候はじ。ただし罪もえ、功徳にもなる。

一 さけのむは、つみにて候か。

答。ま事にはのむべくもなけれども、この世のならひ。

一 魚・鳥・鹿は、かはり候か。[51]

答。ただおなじ事。

一 尼になりて百日精進は、よく候か。

答。よし。

一 仏つくりて、経はかならす具し候へきか。

答。かならす具すへしとも候はず、又具してもよし。

一 功徳は身のたふるほどど申候は、まことにて候か。

答。沙汰におよび候はず、ちからのたふるほど。

一 経と仏と、かならす一度にすゑ候か。

答。さも候はす、ひとつつゞつも。

一 『錫杖』[52]は、かならず誦すべきか。

答。さなくとも、そのいとまに念仏一遍も申べし。あま法師こそ、ありく時むしのために誦し候へ[53]

一 いみの日、物まうでし候はいかに。

答。くるしからず。本命日も。

一 五逆・十悪、一念・十念にほろび候か。

答。うたがひなく候。

一 臨終に善知識にあひ候はずとも、日ごろの念仏にて往生はし候べきか。

答。善知識にあはずとも、臨終おもふ様ならずとも、念仏申さは往生すべし。

一 誹謗正法は五逆のつみにおほくまさりと申候は、まことにて候か。

答。これはいと人のせぬ事にて候。

一 死て候はんもののかみは、そり候べきか。

答。かならずさるまし。[54]

一 心に妄念のいかにも思はれ候は、いかがし候べき。

答。ただよくよく念仏を申させ給へ。

一 わかれうの、臨終の物の具、まづ人にかし候は、いかゞ候べき。

答。くるしからす。

一 五色のいと、うむ[55]事。

答。おさなきものにうます。

一 節ある楊枝をはつかはず、続帯・青帯・無文の帯するはいむと申候は。[56]

答。くるしからず。

一 服薬のわた(綿?)は、あらひ候はざらんはいかゞ候。

答。くるしからず。

一 よき物をき、わろきところにゐ(居)て、往生ねがひ候はいかゞ候。

答。くるしからず。八斎戒の時こそ、さは候はめ。

一 月のはばかりの時、経よみ候、いかゞ候。

答。くるしみあるべしと見へず候。

一 申候事のかなひ候はぬに仏をうらみ候、いかゞ候。

答。うらむべからず。縁により、信のありなしによりて、利生はあり。この世・のちの世、仏をたのむにはしかず。

一 ひる・ししは、いづれも七日にて候か。又ししのひ(干)たるは、いみふかしと申候はいかに。

答。ひるも香うせなば、はばかりなし。ししのひたる[57]によりて、いみふかしといふ事はひが事。

一 月のはばかりのあひだ、神のれう(料)に、経はくるしく候まじきか。

答。神やはばかるらん。仏法にはいまず。陰陽師にとはせ給へ。

一 子うみて、仏神へまいる事、百日はばかりと申候は、ま事にて候か。

答。それも仏法にはい(忌)まず。

一 『法華経』一品よみさして、魚くはずと申候はいかに。

答。くるしからず。

一 ずず(珠数)・かけおび[58]かけずして、経をうけ候事はいかに。

答。くるしからす。

一 時(斎)に まめ・あづきの御れうくはず[59]と申候は、ま事にて候か。

答。くるしからず。

一 ねてもさめても、口あらはで念仏申候はんは、いかか候べき。

答。くるしからず。

一 信施をうくるは、つみにて候か。

答。つとめしてくふ僧はくるしからず。せねばふかし。

一 神のあたりの物くふは、くちなは(蛇)と申候はいかに。

答。禰宜・神主は、ひとへにその身になるにこそ さらぬが、すこし くはんはおもからじ。

一 僧の物くひ候も、つみにて候か。

答。つみうるも候、えぬも候。仏のもの、奉加結縁の物くふは つみ。

一 大仏・天王寺なとの辺にゐ(居)て、僧の物くひて、後世とらんとし候人は、つみか。

答。念仏だに申さは、くるしからず。

一 斎するあした、御れう[60]あまたにむかふ、いかゞ候。

答。くるしからす。

一 時(斎)のつとめて、みそうつ、いかに。[61]

答。くるしからず。

一 戒をたもちてのち、精進はいくか[62]か し候。

答。いくかも御心。

一 聴聞は功徳をえ候か。

答。功徳をえ候。

一 念仏を行にしたる物が、物まうで[63]はいかに。

答。くるしからす。

一 物まうでして、経を廻向すべきに、経をばよまで念仏を廻向する、くるしからずと申候はいかに。

答。くるしからず。

一 わが心ざさぬ魚は、殺生にては候はぬか。

答。それは殺生ならず。

一 服薬のずずは、あらひ候べきか。

答。あらひあらはず、くるしからず。

一 千手・薬師は、ものいませ給ふと申、いかに。

答。さる事なし。

一 六斎に、にら・ひる、いかに。

答。め(召)さざらんはよく候。

一 時(斎)のくひ物は、きよくし候へきか。

答。れい(例)の定、行水も候まじ。かねて精進も候まじ。ひきれも、たゞのおりのにて候べし。時(斎)の誦文も女房はせずとも、ただ念仏を申させ給へ。さしたる事ありて、時(斎)をか(欠)きたらば、いつの日にてもせさせ給へ。

一 三年おがみの事。し候へきか。

答。さらずとも候なん。

一 時(斎)のさば(生飯)には、あわせ[64]を具し候べきか。時(斎)の散飯をば、屋のうへにうちあげ候べきか。かはらけ[65]にとり候へきか、わがひきいれのさらにとり候へきか。

答。いづれも御心。

一 女のものねたむ事は、つみにて候か。

答。世世に女となる果報にて、ことに心うき事也。

一 出家し候はねども、往生はし候か。

答。在家ながら往生する人おほし。

一 五色の糸を、あまたにきりて人にたばん[66]は、いかが候べき。

答。きるべからず。

一 念仏を申候に、はらのたつ心のさまざまに候、いかがし候へき。

答。散乱の心、よにわろき事にて候、かまへて一心に申させ給へ。

一 かみ(髪)つけながら、おとこ・おんなの死候は、いかに。

答。かみにより候はず、ただ念仏と見えたり。

一 尼の、子うみ、おとこもつ事は、五逆罪ほどと申、まことにて候か。

答。五逆ほどならねども、おもく見えて候。

一 尼法師、かみをおほす(髪をはやす)、つみにて候か。

答。三悪道の業にて候。

一 経・仏なんど うり候は、つみにて候か。

答。つみふかく候。

一 人をうり候も、つみにて候か。

答。それもつみにて候。

一 精進の時、つめきらぬと申、又女にかみそらせぬと申候、いかに。

答。みなひが事。

一 われも人も、さゑもん[67]かく、罪にて候か。

答。すごさざらんには、なにか罪にて候べき。

一 酒のいみ、七日と申候は、まことにて候か。

答。さにて候。されども、やまひには、ゆるされて候。

一 魚鳥くひては、いかけ[44]して、経はよみ候べきか。

答。いかけしてよむ、本躰にて候。せでよむは、功徳と罪とともに候。たゞし いかけせでも、よまぬよりは、よむはよく候。

一 妻・おとこ、一つにて経よみ候はん事、いかけし候べきか。

答。これもおなじ事。本躰はいかけしてよむべく候、念仏はせでもくるしからず、経はいかけしてよみ候べし、毎日によみ候とも。

一 大根・柚は、おこなひ(仏前でのお勤め)に はばかりと申候は、いかに。

答。はばかりなし。

一 尼になりたるかみ、いかがし候へき。

答。経の料紙にす(漉)き、もしは仏の中にこそは こめ候へ。

一 尼法師の、紺のきぬき(着)候はいかに。

答。よに(非常に)罪うる事にて候。

一 物まうでし候はんに、男女かみあらひ、せめては いただきあらふと申候は、まこと候か。

答。いづれもさる事候はず。

一 仏をうらむる事は、あるまじき事にて候な。

答。いかさまにも、仏をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す。信なき物は小罪だにも滅せず、わが信のなき事をはづべし。

一 八専[68]に、物まうでせぬと申は、ま事にて候か。

答。さる事候はず。いつならんからに、仏の耳きかせ給はぬ事の、なじか候べき。

一 灸治の時、物まうでせず、そのおりのき(著)物も すつると申候は。

答。これ又きはめたるひが事にて候。ただ灸治をいたはりて、ありきなんどをせぬ事にてこそ候へ、灸治のいみ、ある事候はず。

一 ひる・ししくひて、三年がうちに死候へば往生せずと申候は、ま事にて候やらむ。

答。これ又きはめたるひが事にて候。臨終に五辛くひたる物をばよせずと申たる事は候へども、三年までいむ事は、おほかた候はぬ也。

一 厄病やみて死ぬる物、子うみて死ぬる物は、つみと申候はいかに。

答。それも念仏申せば往生し候。

一 子の孝養、おやのするはうけずと申候、いかに。

答。ひが事なり。

一 産のいみ、いくかにて候ぞ、又いみもいくかにて候ぞ。

答。仏教には、いみ(忌)といふ事候はず。世間には、産は七日、又三十日と申げに候。いみも五十日と申す。御心に候。

一 没後の仏経しをく事は、一定すへく候か。

答。一定にて候、すへく候。

一 所作かきてしいれ、かねてかかんずるを、まづし候はいかに。[69]

答。しいるるはくるしからず、かねては懈怠也。

一 出家は、わかきとおひたると、いづれか功徳にて候。

答。老ては功徳ばかりえ候、わかきは、なをめてたく候。

一 仏に花まいらする誦文、十波羅蜜往生すと申て候。御らんのためにまいらせ候。

答。これせんなし。念仏を申させ給へ。

一 いみの物の、ものへまいり候事は、あしく候か。

答。くるしからず。

一 物まうでして返へさに、わがもとへ返らぬ事はあし。又魚鳥にやがてみだれ候事、いかに。[70]

答。熊野のほかは、くるしからず。

一 斎のおりの誦文は、かく し候べしと申候、御らんのためにまいらせ候。

答。斎のおりも、ただ念仏を申させ給へ、女房は誦文せずとも。

一 女房の物ねたみの事、されはつみふかく候な。

答。ただよくよく一心に念仏を申させ給へ。

一 桐のはい、かみにつくるは、仏神に申事のかなはぬと申候は、まことにて候か。

答。そら事なり。

一 物へまいり候精進、三日といふ日まいり候べきか、四日のつとめてか。

答。三日のつとめてまいる。

一 物こもりして候に、三日とおもひ候はんは四日になしていで、七日とおもひて候はんは八日になしていで候べきか。

答。それは世の人のせんように。

一 ずずには、さくら・くりいむと申候はいかに。

答。さる事候はす。

一 法師のつみは、ことにふかしと申候は。

答。とりわき候はず。

一 現世をいのり候に、しるしの候はぬ人はいかに候ぞ。

答。現世をいのるにしるしなしと申事、仏の御そら事には候はず。わが心の説のごとくせぬによりて、しるしなき事は候也。されば、よくするにはみなしるしは候也。観音を念づるにも、一心にすればしるし候。もし一心なければしるし候はず。むかしの縁あつき人は、定業すらなを転ず。むかしもいまも縁あさき人は、ちりばかりのくるしみにだにも、しるしなしと申て候也。仏をうらみおぼしめすべからず。ただこの世・のち世のために、仏につかへむには、心をいたし、ま事をはげむ事、この世もおもふ事かなひ、のちの世も浄土にむまるる事にて候也。しるしなくは、わが心をはづへし。

建仁元年十二月十四日、けざん(見参)にいりて、とひまいらする事。

一 臨終の時、不浄のものの候には、仏のむかへにわたらせ給ひたるも返らせ給ふと申候は、まことにて候か。

答。仏のむかへにおはしますほどにては、不浄のものありといふとも、なじかは返らせ給べき。仏はきよき・きたなきの沙汰なし。みなされども観ずれば、きたなきもきよく。きよきもきたなくしなす。ただ念仏ぞよかるべき、きよくとも念仏申さざらんには益なし、万事をすてて念仏を申すべし、証拠のみおほかり。

これは御文にてたづね申す。

一 家のうちのものの、したしき・うときをきらはず、往生のためとおもひて、くひ物・き物たばん[71]は、仏に供養せんとおなじ事にて候か。

答。したしき・うときをえらはず。往生のためとおぼしめして、物たびおはしまさん、めでたき功徳にて候。御つかひによくよく申候ぬ。

一 破戒の僧・愚痴の僧、供養せんも功徳にて候か。

答。破戒の僧、愚痴の僧を、すゑの世には仏のごとくたとむべきにて候也。この御つかひに申候ぬ、きこしめし候へ。

この御ことばは、上人のまさしき御手也。『あみた経』のうらにおしたり。見参にいりてうけ給はる事。

一 毎日の所作に、六万・十万の数遍をずずをくりて申候はんと、二万・三万をずずをたしかにひとつづつ申候はんと、いづれかよく候べき。

答。凡夫のならひ、二万・三万あつとも、如法にはかなひがたからん。ただ数遍のおほからんにはすぐべからず、名号を相続せんため也。かならずしもかずを要とするにはあらず、ただつねに念仏せんがため也。かずをさだめぬは懈怠の因縁なれば、数遍をすすむるにて候。

一 真言の阿弥陀の供養法は、正行にて候べきか。

答。仏躰は一つに にたれども、その心不同なり。真言教の弥陀は、これ己心の如来、ほかをたづぬべからず。この教の弥陀は、これ法蔵比丘の成仏也。西方におはしますゆへに、その心おほきにこと(異)なり。

一 つねに悪をとどめ、善をつくるべき事をおもはへて念仏申候はんと、ただ本願をたのむばかりにて念仏を申候はんと、いづれかよく候べき。

答。廃悪修善は、諸仏の通戒なり。しかれども、当世のわれらは、みなそれにはそむきたる身ともなれば、ただひとへに別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智、持戒・破戒をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候なり。御意え候へ。


上人と明遍との問答

明遍僧都が、まったく挨拶なしに、単刀直入に念仏の義を問われたことに対する法然聖人のお答え。末代の衆生が生死を離れる方法、念仏と妄念の関係などの直裁な問答。もちろん帰り際の挨拶もないのだが、まさに禅語における挨拶のようなご法語である。「ただ詮ずるところ、おほらかに念仏を申候が第一の事にて候」に尽きている。
上人と明遍との問答 第二三

明遍 問たてまつりての給はく、末代悪世のわれらがやうなる罪濁の凡夫、いかにしてか生死をはなれ候べき。

上人答ての給はく、南無阿弥陀仏と申して極楽を期するばかりこそ、しえつべき事と存じて候へ。

僧都のいはく、それはかたのやうに、さ候べきかと存じて候。それにとりて、决定をせん料に申つるに候。それに念仏は申候へども心のちるをば、いかがし候べき。

上人答ていはく、それは源空もちからおよび候はず。

僧都のいはく、さてそれをばいかがし候べき。

上人のいはく、ちれども名を称すれば、仏願力に乗じて、往生すべしとこそ心えて候へ。ただ詮ずるところ、おほらかに念仏を申候が第一の事にて候也。

僧都のいはく。かう候、かう候、これうけ給はりにまいりつる候と。{これより前後には、いささかも詞なくていでられにけり。}

上人、又僧都退出ののち、当座のひじりたちにかたりての給はく、欲界散地にむまれたる物は、みな散心あり。たとへば人界の生をうけたる物の、目鼻のあるがごとし。散心をすてて往生せんといはん事、そのことはりしかるべからず。散心ながら念仏申す物が往生すればこそ、めでたき本願にてはあれ。この僧都の、念仏申せども心のちるをばいかがすべきと不審せられつるこそ、いはれずおぼゆれと。{云云}


諸人伝説の詞

諸人伝説の(ことば) 第二四 付御歌

隆寛律師のいはく、法然上人のの給はく、源空も念仏の外に、毎日に『阿弥陀経』を三巻よみ候き、一巻は唐、一巻は吳、一巻は訓なり。しかるを、この『経』に詮ずるところ、ただ念仏申せとこそとかれて候へば、いまは一巻もよみ候はず、一向念仏を申候也と、隆寛{毎日に『阿弥陀経』四十八巻よまれき} すなはち心えて、やがて『阿弥陀経』をさしおきて念仏三万遍を申しきと。{進行集よりいでたり} 云云}

乗願上人のいはく、ある人問ていはく、色相観は『観経』の説也。たとひ称名の行人なりといふとも、これは観ずべく候か、いかん。
上人答ての給はく、源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の称名也と。{授手印决答よりいでたり}

又人目をかざらずして、往生の業を相続すれば、自然に三心は具足する也。
たとへば葦のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげげれども、三心の月はやどる也。 これは故上人のつねにたとへにおほせられし事也と。 {かの二十八問答よりいでたり}

ある時又の給はく、あはれこのたびしおほせばやなと。
その時、乗願申さく、上人だにもかやうに不定げなるおほせの候はんには、ましてその余の人はいかが候べきと。
その時上人、うちわらひての給はく、蓮台にのらんまでは、いかでかこのおもひはたえ候べきと。{閑亭問答集よりいでたり}

信空上人のいはく、ある時上人の給はく、浄土の人師おほしといへども、みな菩提心をすすめて、観察を正とす。ただ善導一師のみ菩提心なくして、観察をもて称名の助業と判ず。

当世の人、善導の心によらずは、たやすく往生をうべからず。曇鸞・道綽・懐感等、みな相承の人師なりといへども、義においては、いまだかならずしも一凖ならず、よくよくこれを分別すべし。このむねをわきまへずは、往生の難易において存知しがたき物也と。

ある時問ていはく、智恵のもし往生の要事となるべくは、正直におほせをかぶりて修学をいとなむべし。又ただ称名不足あるべからずは、そのむねを存ずへく候。ただいまのおほせを如来金言と存ずべく候。

答ていはく、往生の業は、これ称名といふ事、釈文分明也。有智・無智をきらはずといふ事、しかれば、往生のためには称名足ぬとす。学問をこのまんとおもはんよりは、たた一向念仏して往生をとぐへし。弥陀・観音・勢至にあひたてまつらん時、いづれの法文か達せざらん。かのくにの荘厳、昼夜朝暮に甚深の法門をとく也。念仏往生のむねをしらざらん程は、これを学すべし。もしこれをしりなば、いくばくならざる智恵をもとめて、称名のいとまをさまたぐべからず。

ある時問ていはく、人おほく持斎をすすむ、この条いかん。

答ての給はく、尼法師の食の作法は、もともしかるべしといへども、当世は機すでにおとろへたり、食すでに减じたり。この分際をもて一食せば、心ひとへに食事をおもひて念仏しづかならじ。『菩提心経』にいはく、「食菩提をさまたけず、心よく菩提をさまたぐ」といへり。そのうへは自身をあひはからふべきなりと。

ある時問ていはく、往生の業においてはおもひさだめおはりぬ。ただし一期の身のありさまをば、いかやうにか存じ候べき。

答ての給はく、僧の作法は、大小の戒律あり。しかりといへども、末法の僧これにしたがはず。源空これをいましむれども、たれの人かこれにしたがふ。ただ詮するところは、念仏の相続するやうにあひはからふべし。往生のためには、念仏すでに正業也。かるがゆへにこのむねをまぼり[36]て、あひはげむべきなり。

ある人問ていはく、つねに廃悪修善のむねを存じて念仏すると、つねに本願のむねをおもひて念仏すると、いづれかすぐれて候。

答ての給はく、廃悪修善は、これ諸仏の通戒なりといへども、当世のわれら、ことごとく違背せり。もし別意の弘願に乗ぜすは、生死をはなれがたきものか。

ある人問ていはく、称名の時、心をほとけの相好にかけん事、いかやうにか候べき。

答ての給はく、しからず、ただ「若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚、彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」[72]{礼讃}とおもふばかり也。われらが分際をもて、仏の相好を観ずとも、さらに如説の観にはあらじ。ただふかく本願をたのみて、口に名号をとなふる、この一大事のみ仮令ならざる行也。

ある人問ていはく、善導本願の文を釈し給ふに、至心信楽欲生我国の安心を略したまふ事、なに心かあるや。

答ての給はく、衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。

ある人問ていはく、毎日の所作に、六万・十万等の数遍をあてて不法なると、二万三万の数遍をあてて如法なると、いづれをか正とすべき。

答ての給はく、凡夫のならひ二万・三万をあつといふとも、如法の義あるべからず。ただ数遍のおほからんにしかず。詮ずるところ、心をして相続せしめんがため也。かならずしもかずを沙汰するを要とするにはあらず。ただ常念のため也。数遍をさだめざるは懈怠の因縁なるがゆへに、数遍をすすむる也。

ある人問ていはく、上人の御房の申させたまふ御念仏は、念念ごとにほとけの御心にあひかなひ候らんとおぼえ候。智者にてましませば、くはしく名号の功徳をもしろしめし、あきらかに本願のやうをも御心えあるがゆへにと。

答ての給はく、なんぢ本願を信する事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり・くさかり・なつみ・みづくみのたぐひごときのものの内外ともにかけて一文不通なるが、となふればかならずむまれなんと信じて、真実に欣楽して、つねに念仏申を最上の機とす。もし智慧をもて生死をはなるべくは、源空なんぞ聖道門をすててこの浄土門におもむくべき。まさにしるべし、聖道の修行は、智慧をきはめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴に返りて極楽にむまると。{已上信空上人の伝説なり、進行集よりいでたり}

信空上人又いはく、先師法然上人、あさゆふおしへられし事也。念仏申にはまたく様もなし、ただ申せば極楽へむまるとしりて、心をいたして申せばまいる事也。ものをしらぬうゑに、道心もなく、いたづらにそえなき物ののいふ事也。さ いはん口にて、阿弥陀仏を一念・十念にても申せかしと候ひし事也。
又御往生ののち、三井寺の住心房と申す学生、ひじりにゆめのうちに問れても、阿弥陀仏はまたく風情もなく たた申す事也と答へられたりと。大谷の月忌の導師せらるとて、おほくの人の中にて説法にせられ候きと。{白川消息よりいでたり}

弁阿上人のいはく、故上人の給はく、われはこれ烏帽子もきざるおとこ也。十悪の法然房が念仏して往生せんといひてゐたる也。又愚痴の法然房が念仏して往生せんといふ也。安房の介といふ一文不通の陰陽師が申す念仏と、源空が念仏と、またくかはりめなしと。{物語集にいでたり}

ある時問ていはく、上人の御念仏は、智者にてましませば、われらが申す念仏にはまさりてぞおはしまし候らんとおもはれ候は、ひが事にて候やらん。

その時、上人御気色あしくなりておほせられていはく、さばかり申す事を用ゐ給はぬ事よ。もしわれ申す念仏の様、風情ありて申候はば、毎日六万遍のつとめむなしくなりて、三悪道におち候はん。またくさる事候はずと、まさしく御誓言候しかば、それより弁阿は、いよいよ念仏の信心を思ひさだめたりき。{同集}

又人ごとに、上人つねにの給しは、一丈のほりをこへんとおもはん人は、一丈五尺をこへんとはげむべし。往生を期せん人は、决定の信をとりてあひはげむべき也。ゆるくしてはかなふべからずと。{同集}

又上人のの給はく、念仏往生と申す事は、もろこし・わが朝の、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にもあらず。又学問をして念仏の心をさとりとほして申す念仏にもあらず、ただ極楽に往生せんがために南無阿弥陀仏と申て、うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかに別の事なし。ただし三心ぞ四修ぞなんど申す事の候は、みな南無阿弥陀仏は决定して往生するぞとおもふうちにおさまれり。ただ南無阿弥陀仏と申せば、决定して往生する事なりと信じとるべき也。
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく学しきはめたる人なりとも、文字一もしらぬ愚痴鈍根の不覚の身になして、尼入道の无智のともがらにわが身をおなじくなして、智者ふるまひせずして、ただ一向に南無阿弥陀仏と申てぞ かなはんずると。{同集}

又上人のの給はく、源空が目には、三心も南無阿弥陀仏、五念も南無阿弥陀仏、四修も南無阿弥陀仏なりと。{授手印にいでたり}

又上人かたりての給はく、世の人は、みな因縁ありて道心をばおこす也。いはゆる父母・兄弟にわかれ、妻子・朋友にはなるる等也。しかるに源空は、させる因縁もなくして、法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて、法然となづけ給ひし也。
されは出離の心ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す。およそ仏教おほしといへども、詮ずるところ、戒定慧の三学をばすぎず。いはゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定において一もこれをえず。智恵において断惑証果の正智をえず。これによて戒行の人師釈していはく、「尸羅清浄ならざれは、三味現前せず」[73]といへり。又凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし。たとふるに、さるのごとし。ま事に散乱してうごきやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにによりてかおこらんや。
もし无漏の智剣なくは、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。悪業煩悩のきづなをたたずは、なんや生死繫縛の身を解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。
ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつは物にあらず。この三学のほかに、わが心に相応する法門ありや、わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづからみづからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」[74]といふ文を見得てのち、われらがごとくの无智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。そののち恵心の先徳の『往生要集』(巻中)の文をひらくに、「往生之業念仏為本」といひ、又恵心の『妙行業記』の文を見るに、「往生之業念仏為先」といへり。覚超僧都、恵心僧都にとひての給はく、なんじが所行の念仏は、これ事を行ずとやせん、これ理を行ずとやせんと。
恵心僧都こたへての給はく、心万境にさへぎる。ここをもて、われただ称名を行ずる也。往生の業には称名もともたれり。これによて、一生中の念仏、そのかずをかんがへたるに、二十倶胝遍也との給へり。しかればすなわち源空は、大唐の善導和尚のおしへにしたがひ、本朝の恵心の先徳のすすめにまかせて、称名念仏のつとめ、長日六万遍也。死期やうやくちかづくによて、又一万遍をくはへて、長日七万遍の行者なりと。{『徹選択』にいでたり}

禅勝房のいはく、上人おほせられていはく、今度の生に念仏して来迎にあづからんうれしさよとおもひて、踊躍歓喜の心のおこりたらん人は、自然に三心は具足したりとしるべし。 念仏申ながら後世をなげく程の人は、三心不具の人也。もし歓喜する心いまだおこらずは、漸漸によろこびならふべし。又念仏の相続せられん人は、われ三心具したりとしるべし。{念仏問答集にいでたり}

又いはく、往生の得否は、わが心にうらなへ[75]、その占の様は、念仏だにもひまなく申されば、往生は决定としれ。もし疎相にならば、順次の往生ばかなふまじとしれ。この占をしてわが心をはげまし、三心の具すると具せざるとをもしるべし。{同集}

又いはく、たとひ念仏せん物、十人あらんが中に九人は臨終あしくて往生せずとも、われ一人决定して念仏往生せんとおもふべし。{同集}

又いはく、自身の罪悪をうたがひて往生を不定に思はんは、おほきなるあやまり也。さればとて、ふ〔て〕かゝりて わろからんとにはあらず。本願の手ひろく、不思議なる道理を心えんがため也。されば、念仏往生の義をふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。源空が身も、検校・別当どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ[76]。されば、としごろならひあつめたる智恵は、往生のためには要にもたつべからず。されども、ならひたりし かひには、かくのごとくしりたれば、はかりなき事也。{同集}

又いはく、本願の念仏には、ひとりたちを せさせて(すけ)をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。
それに善人は善人なから念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申す也。さりながらも、悪をあらためて善人となりて念仏せん人は、ほとけの御心にかなふべし。かなはぬ物ゆへにと、あらんかゝらんとおもひて、决定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。{同集}

又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのをはそらにのほり、みづはくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。[77]{同集}

又いはく、現世をすぐへき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろづをいとひすてゝ、これをとゞむべし。
いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。()をまうけて申されずは、ひじりにて申すべし。住所にて申されずは、流行して申すべし。流行して申されずは、家にゐて申すべし。自力の衣食にて申されずは、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずは、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずは、同朋とともに申すべし。共行して申されずは、一人籠居して申すべし。衣食住の三は、念仏の助業也。これすなはち、自身を安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業也。
三途へかへるべき事をする身をだにもすてがたければ、かへりみはぐくむぞかし。まして往生程の大事をはげみて、念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし。もし念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。極楽往生の念仏申さんがために自身を貪求するは、往生の助業となるべき也。万事かくのごとしと。{同集}

沙弥道遍[78]かたりていはく、故上人おほせられていはく、往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。ただし念仏往生を信ぜん程は、これを学すべし。{宗要集にいてたり}

御 歌

御歌
阿弥陀仏と いふよりほかは つのくにの
なにはの事も あしかりぬへし


千とせふる こまつのもとを すみかにて
あみだほとけの むかへをぞまつ


いけのみづ 人のこころに にたりけり
にごりすむ事 さだめなければ


むまれては まづおもひてん ふるさとに
ちぐりしともの ふかきまことを


あみだふつと 申ばかりを つとめにて
浄土の荘厳 見るぞうれしき


しばのとに あけくれかかる しらくもを
いつむらさきの いろと見なさん


つゆの身は ここかしこにて きえぬとも
こころはおなじ はなのうてなぞ


阿弥陀仏と 十こゑとなへて まとろまん
なかきねぶりに なりもこそすれ


月かけの いたらぬさとは なけれども
なかむる人の こころにぞすむ


黒谷上人語灯録巻第十五

参照WEB版浄土宗大辞典の「法然上人の和歌」の項目


末註:

  1. 淳仁天皇(733年- 765)
  2. 仏心宗。経論などの文字などによらず、ただちに仏心を悟ることを教える禅宗のこと。
  3. 前仏後仏以心伝心(ぜんぶつ-ごぶつ-いしん-でんしん)。前の仏と後の仏と、心を以て心を伝う。禅宗では悟れば仏であるから先師を仏とするので前仏後仏というのであろう。
  4. 拈華微笑(ねんげ-みしょう)という四事熟語がある。釈迦が説法したとき、蓮華の花の一輪をひねった。弟子たちはその意味がわからなかったが、迦葉だけが意味を理解し、微笑したという。法は言葉ではなく心を以て伝えられるとする。シナで作られた寓話であるが漢訳仏典によって仏教を理解しようとした日本では事実であると受け取られていた。
  5. 『法華経』提婆達多品第12の八歳の竜女が一瞬にして即身成仏のこと。
  6. 「初発心時 便成正覚(初発心の時にすなわち正覚を成ず)。最初に菩提心を発した時に仏の正覚を成じるということ。華厳では、初後円融の理により、十信満位に一切六位を具して初発心の時に便ち正覚を成ずるという。菩薩の階位の十信の満位に成仏するとするので、信満成仏という。御開山によれば浄土真宗の信とは、願作仏心度衆生心の菩提心である。「信巻」で『華厳経』入法界品を引文し「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」とされた所以であった。
  7. 法相宗で、唯識の道理を段階的に五種に区別して示したもの。これらを順次観じて、すべての存在が心の作用にすぎないことを悟るに至るという。
  8. 密教の観法で、如来の身・口・意の三つのはたらきが自分の中にはいりこむと同時に、自分の身・口・意のはたらきが如来の中にはいり込み、両者が一体となること。また、そのように観ずること。
  9. 阿字本不生の観。密教の根本思想の一。一切諸法の本源が不生不滅である、すなわち空であることを、阿字が象徴しているという観。阿字とは、梵語の字母の第一。密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。
  10. うつはもの、器物(うつわ-もの)。容器、入れ物。転じて法の入れ物の器として、人の器量、才能をもつ人を指す。
  11. 徒(かち)。徒歩で行くこと。さかしき(険しい)山道や坂道を徒歩で行くこと。
  12. 目しゐ足なえたらんものは。めしいは盲とも表記し、目が見えないこと。また、その人。足なえは、足萎えと表記し、歩行の不自由な人のこと。仏教では「智目行足」といい、智慧を目に、修行する行を足といふ。ここでは末法の世で「智目行足」欠けた者は易行道である浄土門でさとりを開くべきだといふ。
  13. さらなり。言うも更なり。言うまでもなく。
  14. 尫弱(おうじゃく)。かよわいこと。ひよわいこと。弱々しいこと。
  15. おきつ。取り計らう、計画すること。いふに足らない計(はから)いであること。
  16. うるせき。すぐれている。巧みである。
  17. はう。生う。生じること。生じたまままに。
  18. ここで「のちの信心~はじめの信心」とは疏文の一者決定、二者決定を指しているのであって、機の深信が法の深信の条件と言われているのではない。このことは直前で「はじめにはわが身のほど」とし「つぎには决定往生すべき身」とされていることからも判る。あくまで機・法の二種深信は一具である。このはじめを一とし、のちを二とし、数が一から二へそして三へと至るように「はじめにはわが身のほど」の機の深信から順次展開するプロセスが信心のであると誤解する者がいた。『愚禿鈔』釈下の《第一の深信は、「決定して自身を深信する》と、すなはちこれ自利の信心なり。」の文は機の深信単独では「自利の信心」(自力)ではあるが、その自力の機が阿弥陀仏の「利他の信海」である法の深信に包摂されるのである。
  19. わが名号を称すること下は十声に至るまで若し不生まれずば正覚を取らじ。『礼讃』の文。
  20. おそろしき。 ◇ここでは立派な、大変なという意味。
  21. 『浄土宗全書』では「あまるしきぞかし」と、ある。
  22. 正徳版(義山本)『和語灯録』二所収・「念仏往生要義抄」(法然全・六八二頁の校異)では、以下のようになっている。 答ていはく、凡そ念仏に他力の念仏あり、自力の念仏あり。他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は本より往生の志しにて申念仏にあらざれば、またく往生すべからず。 これは「本より往生の志しにて申念仏にあらざれば」という文を挿入することによって、自力の念仏であっても往生の志があれば往生するとして自力念仏を肯定する立場であり、ここでいう自力・他力の廃立にはなっていない。鎮西義との矛盾をぼかすための義山の改変であったとされる。exp[1]
  23. 一切の仏土みな厳浄なれども、 凡夫の乱想おそらくは生じがたし。
  24. たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。
  25. 多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金(こがね)と成さんがごとくせしむ。
  26. ◇この一文は「略観経」ともよばれ必生彼国の「必」の語が注目された。
  27. 三心を具すれば、かならず往生とを得なり。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。
  28. 足るを喜び、欲小なり。すでに得たもので満足し多くを求めない(小欲)ということ。
  29. 不喜足大欲の貪(すでに得たものでは満足できないでさらに多くのものを求める貪り)とということ。
  30. 目上の人を敬い、目下の人を慈しむこと。
  31. まらうど。客人のこと。◇蓮如上人の『御一代聞書』157に、「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。」とあるのはこの意であろう。
  32. 願はくは弟子等、命終の時に臨みて──心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心もろもろの苦痛なく、身心快楽なること禅定に入れるがごとくして、聖衆現前し、仏の本願に乗じて──阿弥陀仏国に上品往生せん。『礼讃』
  33. 一たび発心して以後、誓ひてこの生を畢るまで退転あることなし。ただ浄土をもつて期となす。{散善義}
  34. 一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。{散善義}
  35. まことしとやか。それらしく。
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 まぼり。まもり(守・護)
  37. ひごう。前世の業因によらないこと。
  38. えな。胞衣。胎児を包む膜と胎盤。生まれ変わることは出来ないといふ意。
  39. 俗世に背き出家した人。遁世。
  40. 『浄土論註』に「たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。」とある。
  41. 法然聖人のお歌に「阿弥陀仏と十こゑとなへてまとろまん なかきねむりになりもこそすれ」がある。就寝する毎に布団の上でなんまんだぶを称えよ、ということ。
  42. 過去七仏のこと。釈尊が世に出るまえに出られた仏、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏をいう。
  43. にら・き・ひる・しし。韮(にら)・葱(ねぎ:きといふ訓読みがある)・葫(ひる:にんにくのこと)・宍(しし:宍は肉を意味する古語で、獣肉の意) 
  44. 44.0 44.1 いかけ。沃懸け。水を注ぎかけて身を清めること。沐浴。
  45. 五色のいと。臨終行儀の一つで、浄土に往生しようと願う者が、臨終に際し、阿彌陀仏像の手から自分の手にかけわたした青、黄、赤、白、黒の糸のこと。なお法然聖人は自らの往生に際してはこれをもちいておられない。『西方指南抄』「法然聖人臨終行儀」
  46. 日課の念仏を欠きながら人に勧めるのはどうでしょう。答。そのように考えなくてもよろしい。
  47. 法華経・常不軽菩薩品に説かれる常不軽菩薩のこと。
  48. 祈祷などによって護ってもらったという意か。
  49. わわく、枉惑。人をたぶらかすような者。
  50. 都合が悪くて出来ない時は、無くとも仕方ありません。
  51. 魚や鳥や鹿を食べることはどうでしょうか。
  52. 錫杖。『錫杖経』ともいわれる偈文を詠唱して,各節の終りに錫杖を振ること。
  53. ありく。歩く。歩く時に虫を踏まないように誦す意か。
  54. 必ずしも、そうするのではありません。
  55. うむ。績む事。糸をよりあわせる事。
  56. 臨終の時、節のある楊枝を用いないことや、続帯や青帯とか無文の帯をするのは忌みを避ける為だということですが。
  57. ひたる。ひたるは干たるで。干したしし(肉)のこと。
  58. かけおび。女子が物忌のしるしとして用いた、赤い帯。赤色の絹をたたみ、胸の前にかけ、背後で結んだもの。
  59. 御れうくはず。『浄土宗全書』には、御れうぐはせず、とある。
  60. 御料、食料のこと。お斎の食料を数多く集めるのはどうでしょうと問いている。
  61. 『浄土宗全書』には、齋をつとめて見そうついかに。とある。
  62. いくか。幾日。何日の意
  63. 物まうで。物詣で。ここでは神社への参詣の意か。
  64. あわせ。菜、おかず、副食のこと。
  65. かわらけ。素焼きの土器。碗や皿形のものを指す。
  66. 人にたばん。人にたまはんの意か。
  67. 祭文。死者をとぶらう時などに哀悼を示す文。
  68. 陰陽道で、壬子の日から癸亥の日までの一二日のうち、丑・辰・午・戌の日を除いた八日をいう。
  69. 毎日しなければならないお念仏を欠いたとき無理(しいて)につとめ、欠くかもしれないお念仏をあらかじめつとめておくのは、どうですか。
  70. 神社に参詣したとき、帰りに来たと同じ道を通らないのは悪いことですか。また、魚や鳥にうつつをぬかしことは、どうですか。
  71. たばん。たまわるの意。
  72. 「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇親鸞聖人が『教行証文類』の後序で法然聖人から書き与えられたこの礼讃の文を感動をもって記されておられる。なお、親鸞聖人は《世》の字を略されるのが常であった。
  73. 尸羅 梵語(śīla)の音写。戒のこと。清浄に戒を保たなければ三昧をうることが出来ないということ。
  74. 一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
  75. うらなへ。自分の心に尋ねなさいということ。卜占の意ではない。
  76. 源空が身も、検校・別当どもが位にてぞ往生はせんずるなら、もとの法然房にてはえしそうらわじ。
  77. 法爾道理。『瑜伽師地論』の、観待道理(相待道理ともいう。真と俗のように相待的に考えられる道理。)、作用道理(因果の関係において存在する作用についての道理)、証成道理(成就道理ともいう。確認するしかたについての道理。)、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理。)の四種道理のうちの法爾道理のこと。南無阿弥陀仏と称えたから救われるのではなく、称えた者を救うという本願があるから救われる。法爾道理→本願力→自然法爾。
  78. 道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣の渋谷荘であったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『西方指南抄』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。 その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいた在阿らと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。嘉禄の法難の際には京都に駆けつけて延暦寺の僧兵から法然の遺骸を警固して無事改葬を行っている。(Wikipedia)