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「神祇不拝」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「じんぎ-ふはい  神祇不拝 神祇とは、天地間のすべての神々の意で、不拝とは拝まないといふこと。つまり諸神を礼拝し...」)
 
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じんぎ-ふはい  神祇不拝
 
じんぎ-ふはい  神祇不拝
  
[[神祇]]とは、天地間のすべての神々の意で、不拝とは拝まないといふこと。つまり諸神を礼拝しないといふこと。<br />
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[[神祇]]とは天神と[[地祇]]で、天地間のすべての神々の意、不拝とは拝まないといふこと。つまり諸神を礼拝しないといふこと。<br />
ここでの「神祇不拝」の拝とは、おがむ、おじぎをする、うやまう、といふ意味であり真宗の「五念門」の「礼拝門」とは違うものである。しかし、阿弥陀一仏への帰依を強調し、ご法義を尖鋭化し独善化し他の宗教を否定する立場からは信仰の純粋性として「神祇不拝」を説くのだが、これは独善の危険性を孕んでいる。
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なお、御開山は仏と神の関係を、当時流行していた「[[JDS:本地垂迹|本地垂迹説]]」(日本の神を仏・菩薩の仮の現れとする説)ではなく、インド旧来の「[[JWP:護法善神|護法善神説]]」を採っておられた。いわゆる、[[梵天]]や[[帝釈天]]のように仏法を守護する神を善神とし、反対に人々に危害を加えたり仏道修行の妨げをする神を[[悪鬼神]]であるとされた。そして日本の旧来の神々もその[[gooj:範疇|範疇]]であるとされておられた。<br />
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しかし、阿弥陀一仏への信仰を強調し尖鋭化し他の宗教を否定する立場から「神祇不拝」を説くと、これは独善の危険性を孕んでいるといえよう。
  
このような主張の根拠は「化巻」末で、
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神祇不拝の根拠は「化巻」末で、
 
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[[現代語 化巻#A--82|【82】]] 『涅槃経』(如来性品[[hwiki:大般涅槃経/2#→化巻末経文証引文(82)|*]])にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。{略出}([[化巻末#P--429|化巻 P.429]])
 
[[現代語 化巻#A--82|【82】]] 『涅槃経』(如来性品[[hwiki:大般涅槃経/2#→化巻末経文証引文(82)|*]])にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。{略出}([[化巻末#P--429|化巻 P.429]])
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::みなことごとくおそるなり
 
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とあり、神祇(神々)は念仏の行者を護持する存在であるといわれていた。<br />
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とあり、[[神祇]](神々)は念仏の行者を護持する存在であるといわれていた。<br />
なお、御開山は仏と神の関係を、当時流行していた「本地垂迹説」(日本の神を仏・菩薩の仮の現れとする説)ではなく、インド旧来の「護法善神説」を採っておられた。いわゆる、[[梵天]]や[[帝釈天]]のように仏法を守護する神を善神とし、反対に人々に危害を加えたり仏道修行の妨げをする神を悪鬼神であるとされ、日本の旧来の神々もその範疇であるとし日本の神々にも適用されておられた。<br />
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なお、『御消息』でも、
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仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにもすてられたまはず。
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と、「念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり」と述べておられた。<br />
 
この意味において頑なに「神祇不拝」の語に執着することなく、それぞれの縁に随って「[[神祇]]」との付き合いをなすべきであろう。
 
この意味において頑なに「神祇不拝」の語に執着することなく、それぞれの縁に随って「[[神祇]]」との付き合いをなすべきであろう。
  
 
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2023年2月9日 (木) 13:14時点における版

じんぎ-ふはい  神祇不拝

神祇とは天神と地祇で、天地間のすべての神々の意、不拝とは拝まないといふこと。つまり諸神を礼拝しないといふこと。
なお、御開山は仏と神の関係を、当時流行していた「本地垂迹説」(日本の神を仏・菩薩の仮の現れとする説)ではなく、インド旧来の「護法善神説」を採っておられた。いわゆる、梵天帝釈天のように仏法を守護する神を善神とし、反対に人々に危害を加えたり仏道修行の妨げをする神を悪鬼神であるとされた。そして日本の旧来の神々もその範疇であるとされておられた。
しかし、阿弥陀一仏への信仰を強調し尖鋭化し他の宗教を否定する立場から「神祇不拝」を説くと、これは独善の危険性を孕んでいるといえよう。

神祇不拝の根拠は「化巻」末で、

【82】 『涅槃経』(如来性品*)にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。{略出}(化巻 P.429)

【83】 『般舟三昧経』* にのたまはく、「優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲せんものは、{乃至}みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」となり。{以上}(化巻 P.429)

【84】 またのたまはく(同*)、「優婆夷、三昧を学ばんと欲せば、{乃至}天を拝し神を祠祀することを得ざれ」となり。。{略出}(化巻 P.429)

などとある「外教邪偽の異執を教誡せば」を根拠とするであろう。
しかし「現世利益和讃」では

(105)
南無阿弥陀仏をとなふれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまへにて
まもらんとこそちかひしか
(106)
天神・地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり
(107)
願力不思議の信心は
大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神
みなことごとくおそるなり

とあり、神祇(神々)は念仏の行者を護持する存在であるといわれていた。
なお、『御消息』でも、

仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにもすてられたまはず。

と、「念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり」と述べておられた。
この意味において頑なに「神祇不拝」の語に執着することなく、それぞれの縁に随って「神祇」との付き合いをなすべきであろう。



和光同塵
権社・実社
参照WEB版浄土宗大辞典の「神仏習合」の項目