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このようにして煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。[[煩悩即菩提]]、[[生死即涅槃]]と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。 | このようにして煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。[[煩悩即菩提]]、[[生死即涅槃]]と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。 | ||
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2023年3月23日 (木) 17:08時点における版
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「令和5年(2023)1月16日発布の「新しい「領解文」『浄土真宗のみ教え』」の一節、私の 煩悩と 仏のさとりは 本来一つゆえ、といふ表現は、生半可な空思想の理解から煩悩も菩提も空であり相即しているから「本来一つ」と云いたいのであろう。
しかし、これこそ煩悩に呻吟している我ら門徒の現実を無視し愚弄する言葉であった。このような一元論の思想はまさに天台本覚法門の思想であるが、梯實圓和上の『法然教学の研究』から天台本覚法門を窺ってみる。
梯實圓和上 著『法然教学の研究』p.426から引用。
第六章 法然教学と本覚法門
第一節 『真如観』と本覚法門
法然聖人の法語を集録した「一百四十五箇条問答」の第三問答に、
- この真如観はし候べき事にて候か。答、これは恵心のと申して候へども、わろき物にて候也。おほかた真如観をば、われら衆生はえせぬ事にて候ぞ、往生のためにもおもはれぬことにて候へば、無益に候[1]。
という問答がある。ここで問題となっている「真如観」とは、伝源信作『真如観』一巻に説かれている観法をさしていたと考えられる [2]。もっとも法然自身は「恵心のと申して候へども、わろき物にて候也」と手きびしい批判をされている。おそらく源信作という伝承に疑いをもっておられるように見うけられるし、内容的にみても良質の思想ではないと判定されているのである。それは一つには仏教本来の真如観と、この書に説かれている本覚法門的な真如観を対比して、この書の真如観はどうもあやしげであるとみなされたからであろう。というのは、本来の真如観は、無分別知によって体達する無相離念の法身観であって、乱想の凡夫にたえられるような行法ではない。それなのにこの書は真如を分別的にとらえ、「タトヒ破戒無慙ナリ共……只且ノ間、我身ノ真如ナリト思計ノ一念ノ心ニ依テ、仏ニ成リ、極楽ニ生ズル」[3]といい、どんな愚劣な凡夫にも可能な即身成仏、往生極楽の行法であるとするところにまやかしを感じられたのであろう。二つには、この書のような真如観が、往生極楽の業因になると説かれた経釈の証文もなし、往生業となるとは考えられないことだから、所詮無益の行であると言い切っていかれたのである。ここに法然の本覚思想に対する基本的な姿勢をみることができよう。
『真如観』が、源信の作ではないというのは今日では定説になっているが、作者を特定することはできない。成立年代についても、田村芳朗氏は、天台本覚思想の文献のなかでは、第三次的形態をとるもので、鎌倉初期から中期(一二〇〇-一二五〇)頃の成立とみなし、『三十四箇事書』(「枕双紙」)と同じころのものとされている[4]。それに対して佐藤哲英氏は、金沢文庫本の『菩提要集』と『真如観』、それに恵心僧都全集所収の『菩提集』とを比較して「十一世紀末葉か十二世紀初頭に、まず『菩提要集』がつくられ、その通俗平易な文体に似せて仮名字をもって『真如観』がつくられる。さらにこれをうけたものが第三の『菩提集』かと思うが、この三書をつらぬくものは真如の思想である」といい、『真如観』の成立を十二世紀の初めごろと推定されている[5]。
はじめにあげた「一百四十五箇条問答」が、法然の何歳ごろの法語であるかは不明である。しかし流罪になって京都をはなれられたのが一二〇七年であり、入滅は一二一二年であるから、おそくともこの問答は流罪以前でなければならない。ところで「真如観」についての第三問答と、次の「空観」についての第四問答は、内容的に関連しているが、第四問答には「まして女房なんどの、つやく案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候」[6]といわれている。真如観や空観のごとき理観は、とても女房などの力およばぬことであるといわれているわけだが、これによって質問者は宮廷か貴族に仕えている女房だったことがわかる。すなわちおそくとも十三世紀の初めには、すでに女房たちが読むことができるほど一般化していたのであるから、『真如観』の成立は、田村説よりも、佐藤説のように見る方が妥当で十二世紀の中頃までには成立していたと考へられる。なお『三十四箇事書』も佐藤哲英氏の説のように皇覚(十二世紀前半に活躍)のものとみてよいとおもう[7]。皇覚の弟子に皇円(一一六九寂)がおり、法然の得度の師となったことは有名である。
真如観という観法は「我心即真如ノ理也……我身即真如ナリ……真如ト我ト一ツ物也ト知リヌレバ……成難キ仏ニダニモトク成。況ヤ生ジ易キ極楽ニ生ム事、決定シテ疑ナシ」[8]といわれるように、自身即真如と観じ、我即仏と知ることによって、利根のものは即身成仏し、鈍根のものは決定往生する行法である。但しそのように知ることを観心ともいうが、それは無分別知というより、分別的であると考えられる。
このような真如観を支えている思想は、たてまえとしてはこの書のはじめに一心三観の文と、『摩訶止観』円頓章の「一色一香無非中道、己界及仏界衆生界亦然」[9] という文をあげるように、天台の円頓止観であった。しかし実際はむしろこの書に引用される『大円覚経』[10] の「始知二衆生本来成仏一」という本来成仏説や、特にこの書に二度も引用される「帰二命本覚心法身一、常住二妙法心蓮台一、本来具二足三身徳一、三十七尊住二心城一、普門塵数諸三昧、遠二離因果一法然具、無辺徳海本円満、還我頂二礼心諸仏一」[11] という「本覚讃」(蓮華三昧頌)にあらわされるような台密思想である。この「本覚讃」は、円珍の『講演法華儀』[12]にはじめて「頌云」として出されたもので、安然も『教時問答』[13]に引用して天台密教の法義をあらわす要文とされたものである。それが伝良源作の『註本覚讃』[14]や、伝源信作の『本覚讃釈』[15]等をとおして本覚法門の思想基盤となっていった偈頌である。この『真如観』も、「本覚讃」にあらわされている蓮華三昧の義理によって、一切の衆生は、本来三身の徳を具した仏であると説き、その道理を知り、信ずることによって、本覚心法身が願現して即身成仏すると典型的な本覚法門を展開するのである。
本覚という用語は、おそらく『大乗起信論』ではじめて用いられたものであろう[16]。それによれば真妄和合識である阿梨耶識には、覚と不覚の二面があるが、覚を始覚と本覚とに分ける。そして離念の心体であり、本有の覚性である平等法身を本覚とよんでいる。「本覚義者、対二始覚義一説、以三始覚者即同二本覚一」[17]といわれるように、本覚は始覚に対して名づけたものである。不覚なる存在である衆生が、本来の覚性である真如の内薫、外薫によって、発心修行し、始めて無分別の覚智を発して、真如を証知したときを始覚とよぶ。このように始覚は本覚によって生じ、本覚に合一するのだが、始覚が本覚に融ずれば、唯一真如であってもはや始覚、本覚という相対的な語は消滅する。本覚という名目が心生滅門において語られ、心真如門でいわれない所以である[18]。ともあれ『起信論』では、真如を、始覚の義に対して、本有の覚性という意味で本覚とよんだのである。
日本天台の本覚法門においても、真如を本有の覚性であるという意味で本覚とよぶわけであるが、真如本覚を理としてではなく本有の事仏とみて「本地無作の三身」[19] といい、あるいは金胎両部の諸尊を法然として具足している心蓮華であるといい、それを本覚心法身とよんでいることは、前掲の「本覚讃」に示される如くである。それだけではなく、「草木瓦礫、山河大地、大海虚空、皆是真如ナレバ仏ニアラザル物ナシ」[20] というように、有情のみならず非情もまた真如であり、本覚であり、仏であるといい、ここから草木国土悉皆成仏という非情成仏説を極成しているのである[21]。
このようにして本覚法門においては、有情といわず、非情といわず、煩悩も、生死も、罪業も、すべてそのままで本覚真如であり、仏であり、涅槃であり、菩提であるとみていく。「今経(法華経)ハ真如理ヲ詮スレバ、此煩悩業苦ノ三道、則法身般若解脱ノ三徳、又是法報応ノ三身也。是ヲ煩悩即菩提、生死即涅槃ノ明ナル心ニ非ヤ」[22]
というように、煩悩即菩提、生死即涅槃、凡聖一如、邪正一如、我即仏と徹底した不二円融を煩悩、生死、凡夫、我の上で談ずるのである。田村芳朗氏が、本覚法門の特長を絶対不二の一元論といわれる所以である[23]。それは『法華経』では、迹門より本門を、教相より観心を、理より事を重視し、さらに顕教より密教へと傾斜していった日本天台の必然の歩みだったといえよう。
第二節 本覚法門と浄土教
このような本覚法門が浄土教と親密な関係をもっていたことは、『真如観』や『三十四箇事書』『妙行心要集』『自行念仏問答』等に明らかなところである。平安浄土教の隆盛期と、本覚法門の成立期とが期を一にしたせいもあろうが、やはり源信が両者の思想的淵源をなしていたからであろう。源信作とするには幾分の疑義があるにせよ、『観心略要集』は、浄土教と本覚思想とを融合させた初期の書として注目すべきである[24]。例えば、
尽二無明住地惑一帰二本覚真如之理一時、只是顕二本有三千一、始非レ得二果位万徳一、爰知、我等一念心性、無始已来、備二三身万徳一也。蓮華三昧経曰、帰二命本覚心法身一、常住二妙法心蓮台一、本来具二足三身徳一、三十七尊住二心城一、普門塵数諸三昧、遠二離因果一法然具、無辺徳海本円満、還我頂二礼心諸仏一云云。「隠/顕」無明住地の惑を尽くし、本覚真如の理に帰する時、ただこれ本有三千を顕す、始め果位万徳を得るに非ず、ここに知んぬ、我等一念の心性、無始よりこのかた、三身万徳を備ふなり。『蓮華三昧経』に曰く、本覚の心 法身に帰命したてまつる、常に妙法が心の蓮台に住す、本来より(法報応の)三身の徳を具足す、(金剛界の)三十七尊が心の城に住す、普門塵数の諸の三味、因果を遠離し法然として具す、無辺の徳の海が本より円満す、(外にするべき頂礼を)我に還(かえ)して心の諸仏を頂礼する。 [25]
といい「本覚真如之理」と、一心の心性に本具している三身万徳とを同視し、このことを「帰命本覚心法身……還我頂礼心諸仏」という「本覚讃」[26]によって証明しているのは明らかに本覚思想をのべたものである。そして、有名な阿弥陀三諦説を展開して[27]、浄土教の弥陀念仏と本覚思想の観心論とを融合していくわけであるが、このような思想は、源信作と伝えられてきた前掲の『三十四箇事書』『妙行心要集』『自行念仏問答』等に共通している。
このような本覚論的浄土教の特色の一つは唯心の弥陀、己心の浄土を強調することであった。『観心略要集』に「我身即弥陀、弥陀即我身、娑婆即極楽、極楽即娑婆……遥過二十万億国土一、不レ可レ求二安養浄刹一……己心見二仏身一、己心見二浄土一」「隠/顕」我身即ち弥陀、弥陀即ち我身、娑婆即ち極楽、極楽即ち娑婆……遥(はるか)に十万億国土を過ぎて安養浄刹を求むべからず。己心に仏身を見、己心に浄土を見る。といい、『妙行心要集』には、
我心外去二十万億土一非レ有二安養刹諸賢聖一、亦彼仏心外、隔二東方爾所一、非レ有二娑婆界我等一切衆生一、故知極楽 水鳥樹林依正荘厳、我心円備、釈迦如来久遠寿命、弥陀如来無量寿命、唯在二我心刹那中一……無明夢中、娑婆極楽、法性覚前、寂光唯一。[28]「隠/顕」我が心の外に十万億土を去りて安養刹 諸の賢聖あるに非ず、また彼の仏心の外に、東方その所を隔て娑婆界の我等一切衆生あるに非ず、ゆえに知んぬ極楽の水鳥樹林 依正の荘厳、我が心に円備す、釈迦如来久遠の寿命、弥陀如来無量寿の命、ただ我が心の刹那中に在(あ)り、……無明夢中、娑婆極楽、法性覚前、寂光唯一なり。
というものなどがそれである。極楽浄土といっても十万億土をへだてた彼方にあるのではなくて、我が心中に本来円備している徳相であり、阿弥陀仏の無量の寿命も、我が一念心本具の徳に外ならない。娑婆と極楽、浄土と穢土、凡夫と仏を隔歴して説くのは、無明夢中の沙汰であって、覚智にあっては、浄穢不二、仏凡不二で、唯一の常寂光土のほかはないというのである。
『真如観』も同様であって「彼土ノ弥陀如来一切聖衆菩薩モ、皆悉我身中ニ坐マス故ニ、遠ク極楽世界ニ行ズ、サレ共、此土ニ有ナガラ極楽ニ生レリトイヘ共、真如ノ理ヲ知ザレバ、我身弥陀如来ト其体不二也ト知ザレバカヒナシ」[29] と我即真如即弥陀といっている。
真如観とは、我即真如、我即弥陀と知ることによって、現身に往生し、成仏する観心であって、ただ鈍根は来生の往生を期すべしと勧めているのである。
ところで我即仏と知り、煩悩即菩提と体達することは、無量劫の難行苦行によってのみ可能であるというのは権教の所説であって、今この実教(本覚法門)においては、帯をといて臥しながらでも、心中に我即真如と観じ、我即仏と思う一念の観心によって即身成仏するのである[30]。このような速疾成仏が可能であるのは、万法には本来自性なく、心の思いに従ってどうにでもなるからである。『真如観』にはそれを、
万法ニ自性ナシ、亦心ガ思ヒナスニ随テトモカウモ成也。煩悩ヲ菩提ナリト思ヘバ則菩提ナリ、我ヲ真如ト思ヘバ真如ナリ、仏ナリ。[31]
といい、その論拠として『華厳経』の「心造諸如来」の文をあげている。かくて「我モ
もっともここでいう即身成仏は、六即の中では名字即位の成仏であって、究竟即のそれではないという。天台では菩薩の行位を、理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究竟即の六即に分類することは周知の如くであるが、『真如観』には「我等スデニ三諦ノ名字ヲ聞、我則真如ナリト知レリ、六即ノ中ニハ是ヲヲサメバ名字即ノ位ニアタレリ」[33]といっている。本覚法門の特長はこのように名字即位の即身成仏を強調することで、『三十四箇事書』や『漢光類聚』[34]等に同様の思想が述べられている。ただ同じ六即といっても、中国天台のそれよりも即の面に重点をおいており『三十四箇事書』では、「当家一流に習ひあり、名字即の位において知識に遇ひ、頓極の教法を聞き、当座に即ち自身即仏と知って、実に余求なきは、即ち平等大慧に住す。即解、即行、即証にして、一念の頃に証を取ること掌を反すが如し……教に遇ふ時即ち証なり、万行万善は果後の方便なり」(原漢文)[35]といい、名字即位をそのまま究竟即とみなしている。ここに本覚法門の特異性が窺われる。
このようにして煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。
第三節 本覚法門の批判と受容
編集中 気が向けば掲載する。
- ↑ 「一百四十五箇条問答」(『和語灯』五・真聖全四・六四六頁)
- ↑ 『真如観』は『恵心僧都全集』一(四五一頁)、『天台本覚論』(岩波日本思想大系・一二〇頁)等に集録されているが、今は便宜上後者に依る。以下は頁数のみをあげる。『真如観』の異本としては、金沢文庫に鎌倉時代中期の写本『真如観略抄』(断簡)が伝えられている。佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(二九六頁)參照。
- ↑ 『真如観』(一二三頁)
- ↑ 田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』(四〇三頁)
- ↑ 佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(三〇〇頁)
- ↑ 「一百四十五箇条問答」(『和語灯』五・真聖全四・六四六頁)、尚この第四問答の「空観」の文とは、伝源信作の『空観』(日仏全二四・二七二頁)をさしていたと推察される。
- ↑ 佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(五二三頁)
- ↑ 『真如観』(一二〇頁)
- ↑ 『摩詞止観』第一上(大正蔵四六・一頁)
- ↑ 『大円覚経』(大正蔵一七・九一五頁)
- ↑ 『真如観』(一三九頁・一四七頁)
- ↑ 『講演法華儀』上(日仏全二七・九一四頁)
- ↑ 『教時問答』(日大蔵・台密疏三・二六五頁・二九〇頁)
- ↑ 『註本覚讃』(日仏全二四・三一八頁)
- ↑ 『本覚讃釈』(日仏全二四・三二〇頁)
- ↑ 田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』(三七三頁)
- ↑ 『大乗起信論』(真諦訳・大正蔵三二・五七六頁)
- ↑ 『大乗起信論義記』中本(大正蔵四四・二五六頁)
- ↑ 『三十四箇事書』(枕双紙)(『天台本覚論』、岩波日本思想大系・一七三頁)以下頁数のみをあげる。
- ↑ 『真如観』(一三四頁)
- ↑ 『三十四箇事書』「草木成仏の事」(一六七頁)
- ↑ 『真如観』(一三〇頁)
- ↑ 田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』(四五三頁)
- ↑ 田村芳朗氏は「天台本覚思想概説」(『天台本覚論』・岩波日本思想大系・五二七頁)で、『観心略要集』は、『本覚讃釈』などと同じ第二次的形態で平安末期(一一五〇)-鎌倉初期(一二〇〇)のものと見るが、佐藤哲英氏は『叡山浄土教の研究』(一六九頁)において源信の真選とされている。今は真偽いずれとも決し得ないが、偽選としても十一世紀中頃までのものであろう。
- ↑ 『観心略要集』(恵心全一・二九一頁)
- ↑ 『本覚讃』 本覚の心 法身に帰命したてまつる、常に妙法が心の蓮台に住す、本来より(法報応の)三身の徳を具足す、(金剛界の)三十七尊が心の城に住す、普門塵数の諸の三味、因果を遠離し法然として具す、無辺の徳の海が本より円満す、(外にするべき頂礼を)我に還して心の諸仏を頂礼する。
- ↑ 『観心略要集』(恵心全一・二七七頁)に「念仏名者、其意云何、謂於阿弥陀三字、可観空仮中三諦、彼阿者即空、弥者即仮、陀者即中也、其自性清浄心、凡聖無隔、因果不改」等というものがそれである。◇ 漢文読下: 仏名を念ずとは、その意 云何(いかん)、いわゆる阿弥陀の三字において、空・仮・中の三諦を観ずべし、彼の「阿」は即ち「空」、「弥」は即ち「仮」、「陀」は即ち「中」なり、その自性清浄心、おほよそ聖に隔て無し、因果を改めざる。
- ↑ 『観心略要集』(恵心全一・二八八頁)
- ↑ 『妙行心要集』上之本(恵心全二・二五八頁)
- ↑ 『真如観』(一四三頁)
- ↑ 『真如観』(一四一頁)
- ↑ 『真如観』(一四一頁)
- ↑ 『真如観』(一四六頁)
- ↑ 『漢光類聚』二(日仏全一七・五二頁)
- ↑ 『三十四箇事書』「一念成仏事」(一八〇頁)