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「凡夫」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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  梵語プリタグ・ジャナ(pŗthag-jana)の漢訳。<kana>必栗託仡那(ひつりつたきつな)</kana>と音写し、<kana>異生(いしょう)</kana>と直訳する。<kana>凡愚(ぼんぐ)</kana>ともいう。[[四諦]]の真理をさとらず、<kana>貪(とん)</kana>・<kana>瞋(じん)</kana>・<kana>痴(ち)</kana>などの<kana>[[煩悩]](ぼんのう)</kana>に束縛されて、[[六道]]を輪廻するもの。
  
 
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2017年11月12日 (日) 17:28時点における版

ぼんぶ

  梵語プリタグ・ジャナ(pŗthag-jana)の漢訳。必栗託仡那(ひつりつたきつな)と音写し、異生(いしょう)と直訳する。凡愚(ぼんぐ)ともいう。四諦の真理をさとらず、(とん)(じん)()などの煩悩(ぼんのう)に束縛されて、六道を輪廻するもの。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

凡夫を異生とするのは、種々の見解や煩悩によって種々の業を起こし、種々の果を受けて種々の世界に生まれる者だからである。
『一念多念証文』には、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。 (一多 P.693)

とある。

怖畏


オンライン版 仏教辞典より転送

凡夫

pṛthag-jana प्रिथग् जन
 サンスクリット語の「pṛthag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。

 一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。

 この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。

 内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。

 如來は我者有りと説くも則ち我有るに非ず。而も凡夫の人は以って我有りと爲す。〔羅什訳金剛般若経、T8.0752a〕
 憍慢懈怠にして我見を計する者には、此經を説くこと莫れ。凡夫は淺識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能はざればなり。〔法華経第2譬喩品、T9.0015b〕

 聖徳太子は、「十七条憲法」の第十条で、「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」といって、凡夫を「ただびと」といわれ、お互いに許し合って生きてゆく世界の根本をここにもとめられている。

 親鸞は『一念多念証文 』に「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと水火二河のたとへにあらはれたり」と凡夫を煩悩具足としてとらえている。

 サンスクリット語のバーラ(bāla)を毛道(もうどう)と訳し、「毛道凡夫」などという経典があるが、これはbāla बल をvāla वल と読みちがえたものである。