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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | 浄土真宗は、名号を本尊とする特異な本尊論を有している。ただ親鸞聖人は著述の中で本尊という言葉を一切使用していないことに注意しなければならない。生涯一寺も持たなかった親鸞聖人にとっては、いわゆる本尊論の論争は無意味である。<br> | |
− | '''我弥陀 以名接物'''(わが弥陀は名をもつて物を接したまふ)のである。 | + | そもそも「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」[[唯信鈔文意#no4|p.709]]とされた「尽十方無碍光如来」を具象化することは不可能である。このことを忘れて本尊論を論ずるならば御開山親鸞聖人の<kana>意(おこころ)</kana>と違うものが出てくるであろう。親鸞聖人は文字として「帰命尽十方無碍光如来」と記されても紙背に「方便法身尊号」と記し、これは方便であると注意されておられるのであった。この伝統の上で浄土真宗の門徒の仏壇の絵像には「方便法身尊像」とか、南旡阿弥陀仏の名号には「方便法身尊号」と裏書するのが常である。法性法身が具象化した方便法身として、木像、絵像、名号という形態をとって我々に浄土の真実を告げるのである。家のじいさんは、「真実は真実だけでは真実にならん。真実は真実ならざるものを通して真実を顕す。これがほんまもんの真実じゃ」と、常々言っていたが、我々は方便を通して浄土の真実を知るのであった。<br> |
+ | そのような意味に於いては、木像や絵像や名号は浄土の真実を知らせる方便であり、これに拘泥することは、御開山のお示しと違うといっても過言ではなかろう。ましてや勝他の為に本尊論を論ずる派外の輩においておや。<br> | ||
+ | ともあれ蓮師の時代には『観経』華座観の立撮即行の形像本尊よりも文字(言葉)としての名号を重視したのであった。蓮師の言葉を借りれば、「木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」[[一代記#no69|p.1253]]であるが、より正確にいえば凡夫の口先に称えられている、可聞可称の、なんまんだぶこそが我々の本尊といえるであろう。そのことを寺院の木像や門徒の家々の仏壇の絵像、名号に依って知らしめられのであった。<br> | ||
+ | '''我弥陀 以名接物'''(わが弥陀は名をもつて物を接したまふ)のである。<br> | ||
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2016年1月28日 (木) 05:37時点における版
浄土真宗は、名号を本尊とする特異な本尊論を有している。ただ親鸞聖人は著述の中で本尊という言葉を一切使用していないことに注意しなければならない。生涯一寺も持たなかった親鸞聖人にとっては、いわゆる本尊論の論争は無意味である。
そもそも「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」p.709とされた「尽十方無碍光如来」を具象化することは不可能である。このことを忘れて本尊論を論ずるならば御開山親鸞聖人の
そのような意味に於いては、木像や絵像や名号は浄土の真実を知らせる方便であり、これに拘泥することは、御開山のお示しと違うといっても過言ではなかろう。ましてや勝他の為に本尊論を論ずる派外の輩においておや。
ともあれ蓮師の時代には『観経』華座観の立撮即行の形像本尊よりも文字(言葉)としての名号を重視したのであった。蓮師の言葉を借りれば、「木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」p.1253であるが、より正確にいえば凡夫の口先に称えられている、可聞可称の、なんまんだぶこそが我々の本尊といえるであろう。そのことを寺院の木像や門徒の家々の仏壇の絵像、名号に依って知らしめられのであった。
我弥陀 以名接物(わが弥陀は名をもつて物を接したまふ)のである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ